2017年6月30日金曜日

マイナーな学びは魅力がいっぱい

僕はどこかマイナーな学びが好きなのだと思う。

他では見かけない場やテーマに向き合った方がどうも気づきが多いのだ。

一方、メジャー化した学びは、トレンド性が強くてテーマも学ぶ人もみんな似ている気がする。

例えば、「AIの活用」みたいなテーマよりも、「生命とAI」といったテーマの方が好きだ。

そしてこれまでの経験だと、前者のテーマで学ぶと場に集う人の気づきが一様であるのに対して、後者のテーマだと学ぶ人のバックグランドに応じて実に多様な気づきがあって、対話が尽きることがない。

マイナーな学びには総じて外的報酬(学んだことを仕事に活かす)が少なく、趣味的(内在する報酬に依存する)でプライベートなのだけど、それゆえなのか、学びの場には他者の気づきに共鳴して自らの気づきを掘り起こす、学びの共同体が生まれる実感があるのだ。

実利性、トレンド性も大切だけど、やはり僕には創発性が一番みたいです。


共同体




指先に世界、が、指先の世界、に

依存症っていう病的な症状がある。

買い物依存症やギャンブル依存症など、執着の度が過ぎてその人の社会生活に良くない影響を及ぼす状態だね。

そして、今、僕たちはスマホ依存症になっている。

駅で、電車で、昼食を食べるお店で顔をあげて周囲を見渡せば多くの人がスマホを弄っているのが目に入る。

顔をあげる前は僕もスマホを弄っている。

では、スマホ依存症の実態とは何なのだろうか。

スマホが普及する前で、ガラケーに勢いがあった時、色々なところで「ユビキタス」と言う言葉が聞かれた。

"Information at your fingertips."  

そこでは「指先に全ての情報を」的なスローガンが未来の姿として描かれたのだ。

iPhoneの登場が「未来」を加速したのだけど、最初に飛びついたのは、新しい物好きや対人関係を避けたがる人たちだった。

その後、Google、Twitter、Facebook、Instagram、パズドラなど人々をスマホに釘付けにするアプリが満載され、僕たちはスマホ依存症になったのだ。

おかげで、洋服や漫画など店頭で多くのものが売れなくなった。

さらには自分を取り戻すためにヨガやマインドフルネスなどまで脚光を浴びているのではないだろうか。

どうも僕たちは、「指先に世界」のつもりが「指先の世界」に生きるようになったのだ。


世界はどこ?

2017年6月28日水曜日

「正義と悪者」を背後で操るものは・・・

身近な人々の求めには喜んで応じるものの、多くの人々の求めに気づけない人は少なくない。

また、喜んで応じると言いつつも、実は、心の中では喜んでいなかったりする。

それらの人は承認欲求が強い。

求めに応じたことで自分や自分の行為を認めて欲しいのだろう。

また、身近な人に焦点が合ってしまうためそれ以外の人への焦点がボケてしまう。

それゆえなのか、組織がどのように成長して、良き組織として法令を遵守しながら社会貢献していくか、といった高い視座から物事を観るのが苦手であるように思える。

僕は、人間関係と欲求と視座の間には生育環境、特に、親の関わりが大きく影響してパーソナリティを作り上げていると考えている。

例えば、過剰に親の顔色を伺ってきた子供は身近な人の様子に敏感に反応する。

そして承認欲求が満たされなかった(褒めてもらえなかった)場合、潜在的な不満に反応し、周囲に投影するようになる。

自分だけの小さな正義と倒すべき悪者が誕生するのだ。

菊池省三さんの徹底した承認「ほめ言葉のシャワー」による学級崩壊立て直しは有名だけど、潜在不満から生じる正義と悪者の問題解決において鍵となるのは「納得」ではなく「承認」なのかもしれない。


承認しよう、そうしよう





2017年6月27日火曜日

雨の日と月曜日と仕事 Rainy Days and Mondays and Workdays

Rainy Days and Mondays always get me down.

カーペンターズの名曲「Rainy Days and Mondays(邦題「雨の日と月曜日は」)に出てくるこの歌詞は、曲の中で何回も繰り返され、最後に力強く歌い上げられる。

声高に「雨の日と月曜日は気が滅入るぜ!」と聴く人に強く伝えているのだ。

僕が思うにこれに共感する人は少なく無いだろう。

雨の日はどこか憂鬱だし、月曜日は億劫だ。

特にブルーマンデーと呼ばれるように、月曜日はメンタルにとって試練の日なのだ。

そして、仕事は常にストレスフルだ。

だから、雨が降る月曜日を休日にしてしまうのは良い試みかもしれない。

でも、月曜が休みになれば火曜が月曜になる。

火曜も休みになれば水曜が月曜になる。

そう、問題は「月曜日」じゃなく、再始動することなんだよね。

昔の車は冬の寒い日はエンジンのかかりが悪くて暖機運転と言うのをしたものだけど、再始動しにくいのであればそれに備えるのは社会が求める賢さだ。

もちろん、なんらかの病を持っている人は無理をしてはいけない。

無理をしない賢さも社会は求めている。

エンジンが温まっていないのにいきなりアクセルを踏み込むのはNGだ。

で、ね。大切なのは慎重に再始動に備える手段を持つことなのだと思う。

冒頭のカーペンターズの歌を口ずさみ、滅入る気持ちを認めるてしまうのも良い方法だよね。


上やら下やら








2017年6月26日月曜日

30年ぶりの29連勝と機械学習の深淵

今日のニュースは、中学生プロ棋士藤井四段が30年ぶりに連勝記録を書き換えたことだ。

世の中で中学生といえば、まだまだ保護される対象なのだけど、強豪をバッタバッタと負かす姿は爽快で日本の未来が明るくなる気がする。

しかし、目を転じれば、電王戦と言う将棋ソフト対名人の対局は将棋ソフトの完勝だった。

藤井四段と将棋ソフト、どちらが強いのかも気になるけど、将棋だけでなく、囲碁でも同じで、もはや戦いは人対人、機械学習対機械学習のもので、人対機械学習の戦いに一喜一憂する時代は終わっているのだろう。

人に残されているのは、機械学習との戦いにならない領域での人との戦いか、機械学習対機械学習の戦いに貢献することのいずれかだ。

そして、人対機械学習の間には、人が生み出したデータは処理するけど人を理解しない機械学習と、機械学習の出した答えを理解できない人の相互不理解が深く広がっていく。

一番良いのは、人が解決できない問題を機械学習で解決し、人対人が豊かな社会を実現することだけど、機械学習にそもそも「豊かな社会」と言う価値観は存在しない。

機械学習が「豊かな社会」を学習できるかは、実存する「豊かな社会」の教師データがあるか否かに掛っているので、結局は機械学習に貢献する人の価値観次第と言えるのだろう。

で、ね。多くの争いごとの「なぜ」を考えれば、そこには人対人の戦いがある訳で、人の心の光と闇が機械学習を使って繰り広げられ、僕たちはそれを目の当たりにすることになるのだろうね。


人が豊かさを学ぶこと



2017年6月25日日曜日

組織の風通しのホントを考えよう

東京駅の改築が行われ、八重洲通りに面するビルが撤去されたのは、東京湾から皇居に向かう通り沿いの風通しを良くするためだと聞いたことがある。

京都の町家は涼しさのために風通しが良くなるように工夫されているそうだ。

真偽は知らないけど、風通しを良くするためには、障壁が無いことだけでなく、良い風がなくては始まらない。

以前、グラフィックファシリテーションのセミナーを聞きに言った時、講演者が職場や仕事を改善するファシリテーションにおいて、蓋をすると腐るネガな感情を拾い上げことから始めるのだけど、事前の計画と慎重な準備が必要だと話していた。

この場合、ネガな感情は組織の風通しを悪くしている「壁」だ。

そして、「壁」を取り外せば自然と良い風が吹き始めると言うことであって、ネガな感情を通すことでは無いことを忘れちゃいけないよね。

僕は、この風通氏は、人の心の中にあると思っている。

ポジティブな感情の吹き抜けを悪くするネガティブな感情である。

そして、経験から言っても、組織の風通しを良くするには、この個人の中にある風通しの悪さを改善しなくちゃ始まらないのだと思う。

結局、組織の風通しが悪い場合、組織を構成する一人一人が自分の内面と向き合いネガティブな壁を取り払うことで風通しが良くできるのだ。

ネガティブな感情は仕事の場面だけでは無い。

むしろ仕事以外に場面を引きずっていることが多い。

プライベートも含めて自分の気持ちに向き合い、風通しの良い心を保って行きましょう。


風通しのよい心と良い風を




2017年6月24日土曜日

ゆらぐ人の光と影

変革が求められる時代に、「ゆらぐ人」は貴重だ。

予定調和な人たちや、反予定調和な人たちいずれにも不安と与えそこから新たな気づきを与えるからね。

「不安」には、得体のしれない不安を感じる「不安症」や、悲観的な展望からくる「不安」があるけど、「ゆらぐ人」は両方のメンタリティを備えている傾向が強いように思える。

本当に大丈夫なのか、これでいいのかと常に問わずに居られないのだ。

内省的なのだけど、本質への気づきにも疑いがあるので新たな行為の選択もゆらいでしまう。

ゆらぐ人は意図せず周囲の人に気づきを与える光と不安心理による心地悪さと言う影があるのだ。


気づいたよ

2017年6月23日金曜日

「顧客満足」は経営方針から? 気になるスタバの今後

僕がスターバックスに行くのはおそらく人並み以下だと思うけど、先日、ちょっと気になる記事が配信されていた。

スターバックス、「顧客満足」ランク外に

カフェと言えばスタバ、な感じが少し薄れてきているのかもしれない。

一体スタバに何があったのだろうか。

思い浮かぶのは、コメダ珈琲店など競合の台頭と完全子会社化、上場廃止である。

カフェを巡る競争の中で事業がより戦略化することに想像に難くない。

アメリカ本社による完全子会社化は戦略化に一掃の拍車をかけるかもしれない。

経営の方針が店舗の運営に、そして顧客の満足に影響を与えた例としては、マクドナルドのカウンターメニュー撤去があったけど、スタバにもそのような出来事があったのだろうか?

真相はわからないけど気になるのだ。


気になる




2017年6月22日木曜日

専門家が気づく”致命的欠陥”と誰でも気づく専門家の”致命的欠陥”

インターネットの時代は、マイノリティがメジャーであり、ロングテールが主役であることを忘れちゃいけない。

急成長するビジネスは個人対個人を対象としたものが多い一方で、企業対個人のビジネスでは苦戦している。

そして、個人が「炎上」を引き起こす。

さて、今日、面白い記事を見た。

人気「うんこ漢字ドリル」の"致命的欠陥"

この記事、掲載元のPRESIDENT Onlineで読むより、リンク先のYahooニュースで読んだ方が圧倒的に面白い。

と言うもの記事の内容が面白いのでなく、コメントが行けてるのだ。

「机に向かっただけで大成功なちびっ子の親の気持ちが分かってないなぁ。」

「鉛筆を持って問題に向かう・・・という事が苦手な子供たちのためのものじゃないの?
大げさに、なーにが「致命的」だ。」

「うん、的外れ。」

(以上、Yahooニュースのコメントより転載)

さらっと記事の不的確さを指摘していて溜飲が下がる。


記事の著者は、専門家の立場から教育の目的と効果において”致命的欠陥がある”とぶち上げてしまったのだろうけど、違和感が拭えない主張となってしまった。

自転車に乗れたことを喜ぶ子供とその親にその乗り方では競輪選手に成れないとは誰も言わないよね。

専門家はこう言った間違いを結構やってしまう。

自分の興味関心事で、現象を解釈してしまい間違うのだ。

でも、その間違いは多くの人にすぐ気づかれて個人に暴かれる。

結局、専門家に必要なのは、実は専門家でない人たちの感受性なのだろう。


出会ったことだけで嬉しいのだ



2017年6月21日水曜日

データと機械学習を使って見えないモノとは

今やデータを使った分析は当たり前の話になったけど、ちょっと前まではマニアックな世界だった。

もっとも、今日でも先端にいる人たちは超マニアックだと思う。

イメージとしては、データ分析大陸が隆起したようなものだ。

さて、先日、その先端寄りの話を聞いたのだけど、データの量と質が変わり、新しい分析手法が次々に生まれる中でも見えない世界はやはり見えなくて、それをどう考えるべきなのか議論が尽きなかった。

データは基本的に、何らかの結果として生成されるものだから、他方、なぜそのデータが生じたのか謎が残ってしまう。

恐竜の化石や足跡から恐竜を再現することはできないのと一緒だね。

再現はできなくても情報がたくさん集まれば、恐竜はどんな生き物だったのかはかなり正確に知ることができる。

それでも、やっぱり僕たちは恐竜をリアルに見ることはできない。


いま僕たちが恐竜を見るということは、生命を見ることと同じ意味を持つらしい。

恐竜を見るためにあと何のデータが必要なのか探し求めることも大切だけど、生命はやはり見ることができない。

僕はそんな風に考える方が好きみたいだ。


見えるもの、見えないもの







2017年6月20日火曜日

誰でも自分の人間性を確かめたい欲求を持っている

人間性の基準とは、自己認識と複合感情を理解する能力と共感する力である。

この、映画「テッド2」の中で引用されたドーン・ヒューズの言葉に照らし合わせると、映画の中のCGキャラ、テッドに限らず、多くの生き物に人間性を見いだすことが出来るよね。

つまり、人間だけが特別な認知能力を持った存在ではないとも考えられるのだ。

確かに、我が家のジャックラッセルテリア、ルイは僕たちの感情を理解し共感したり反発するので人間性を感じることも少なくない。


なぜ、人は人間以外にも人間性を感じるのだろうか。


僕は、人が人や人以外の生き物に「人間性」を見いだすのは、生命の一部として常に「人間性」を感知しようとするセンサーが働いているからなのだと思う。

そして、対象に人間性を見出すと僕たちの警戒レベルは著しく低下するので、おそらくこの無意識のセンサーは「生存」に大きく関わっている。

さて、「人」におけるこのセンサーは、神秘的なことに惹かれる欲求、より深く理解しようとする探究の欲求、状況を常に把握していたい欲求によってドライブされているのだろう。

知らない自分と出会い、知っている自分をもっとよく知り、自分を客観視する。

そうやって自分自身の人間性を知ることも含めてね。



夕暮れ



2017年6月19日月曜日

大人になりたい人が考えるべきこと

脳科学の領域で、自由意志は行動を止める時にしか存在しない。

と言うのも、脳の中で起きている電位の変化を見ると、行動を起こす時は、意識よりも前に準備が始まっていることが確認されていて、一方、その準備が確認できなかったのが行動を止める時だけだったからだ。

わかりやすく例えれば、目の前の鉛筆を取り上げる時、取り上げようとする意識の前にすでに手には指令が行っている。

一方、取り上げるの止める時は、意識と連動して手に指令が届くと言うことなんだ。

この研究結果を当てはめると、例えば、大人になることは意識よりも前に決まっている、つまり自由意志ではないけど、大人にならないと決めることは自由意志だ。

さて、大人になりたいと思った時、考えるべきことがあるだろう。

それは、物事の結果を誰かの責任にするのではなく、自分にとっての意味に変えることができているか、だ。

これは、他罰だけでなく内罰も一緒だよね。

意味化しないのは子供の特権ではあるけど、大人ではありえない。

なぜなら、全ての出来事を自分の糧にする力は大人に与えられる力だからだ。

相手が悪い、環境が悪い、と考えているうちは大人の力を発揮できていない。

もし、大人の力を発揮したいと思うなら、他罰、内罰する自分の姿を知り、自分からどう変えるか考えなくてはならないのだろう。


大人にならないのは自由意志

_

2017年6月18日日曜日

未来を変えるツボ? ウルトラCの共鳴掘り起こし

先週は木曜日にカフェゼミと金曜日にウェブサイエンス研究会に参加した。

公園を劇場に変える取り組みと、実務における機械学習と全くテーマは異なる。

しかし、何故か僕は場の核心には相通じるものがあるのを感じていた。

今一度振り返るに、それはいずれも合目的的なことからの解放であり、多様性への取り組みであったのだと思う。

つまり、目的性を強め、単一化する社会への危惧が背景に潜んでいるのだ。

取り組み方は全く異なる。

カフェゼミでは、事例を通じて自らの行動を開く問いであり、ウェブサイエンス研究会は、生命など普遍的核心テーマに向き合い新たな探求の扉を開く啓示だ。

短く言い換えると「さあ、君はどうするのだ」か、「さあ、君が真理を探のだ」か、だ。

現状に課題を生み、未来に向けて行動をいま変える。

言葉にするのは簡単だけど、自らの快適空間を脱出すること、考える力を強く鍛錬することはそんなに容易じゃない。

何が容易じゃないのかと言えば、当人に内在する報酬を掘り起こすことだ。

どちらも他人から言われたら出来ることではないからね。


苦味と甘み さあ、どっち?

2017年6月17日土曜日

パーソナライズに気をつけなはれやっ!

昨晩の研究会でも話題に出たエコーチェンバーとフィルターバブルは、情報化社会が尖鋭化させる問題だ。

気の合う友達とばかり付き合って入れば世界は狭くなるし、好きな情報にだけ触れていれば視野が狭まる。

今更なにを、と思うかも知れないけど、社会全体がそれらを助長する環境に変化し続けている。

駅や電車、カフェでも人は常にスマホを手に持ち、見ていて周囲に目が向けられていない。

そして幅広い情報に触れる場であった本屋や百貨店は減っていく。

世の中で何が起きているのかは、ビッグデータを握った人が知り、次に何を起こすのかデータサイエンティストが手を尽くす。


パーソナリティという固有の凹凸が歪みへと育ち、なめらかだった社会が針のむしろのような居心地に変わらないようにするためにできることを考えるのだ。


パーソナライズ



人工知能を語る前に「酋長の踊り」を考えよう

今日、初めてウェブサイエンス研究会に参加した。

この研究会は、人工生命学会と人工知能学会の中間に位置し、新しい科学領域を拓く研究会だそうだ。

2つほど企業の取り組みを聞いたのだけど、いずれもMachine Learning、Deep Learningをビジネスでの用い方の共有で、とても専門性が高かった。(さすが、専門家は具体的な取り組みの中でAIと言う言葉は使わない。僕は、AIを連呼するの人は実はよく理解できていない人だと考えている。)

それぞれの取り組みは素晴らしいものだったけど、それらの話にコメントをつけた東京大学池上高志教授の視点はさらに素晴らしかった。

池上さんが引き合いに出したのは、マイケル・ダメットが「酋長の踊り」と呼ぶものだ。

「酋長の踊り」
ある村では、大人になるためにはライオンを狩ってこなければならない。若者は、村から一日かかる狩場に行ってライオンを狩り、また一日かけて戻ってくる。このとき、幸運を祈るなら、一日目だけ祈ればいい。二日目は、すでに結果は決まって、若者は戻ってくる最中だろうから、祈っても意味はない。しかしこの村の酋長は、二日目も祈りの踊りをおどりつづける。どうしてこのようなことをするのだろうか?
(Yahoo知恵袋の回答より転載)

若者が無事に帰って来ることと酋長が踊ることには関係が無いにも関わらず、酋長が踊ると若者が無事に帰って来たと言う「因果」がそこに生まれてしまう。

そして酋長は二日目も踊り続ける。


例えば、Machine Learning、Deep Learningを使ってマーケティングを行えば、商品が売れると言う考え方は、「酋長の踊り」探しなのではないか。

僕は池上さんの話をそう理解した。

データ分析者が陥りがちな「変数をうまく取得すればMachine Learning、Deep Learningでマーケティングの精度が飛躍的に上がる」と言う仮定によりも「世の中には隠れた変数を入れても因果律で説明出来ないことがある」との言葉の方が納得し、腹落ちする金曜日の夜だった。


踊る?

2017年6月16日金曜日

日常と非日常に隠されていること

昨晩は、法政大学長岡ゼミのカフェゼミにお邪魔した。

知らない世界を知る意味をいつも原点に帰って気づかせてくれるとても有難い場です。

さて、昨日は「都会の中に日常が劇場化する公園を作る」宮田サラさんのプレゼンを聞くことが出来た。

公園を、人が通り過ぎるだけの場所にしない、人が佇む場所にする取り組みであり、「日常と非日常(の境界)を曖昧にしたい」という言葉が強く印象に残っている。

話を聴きながら僕は、そもそも日常と非日常の間に境界はあるか疑問が浮かんだ。

宮田さんたちの取り組みは、共感をうみ、「みんな」ではなく、そこに自分が居る「自分たち」の輪を広げるもので、「禁止する」を工夫と面倒くさがらないコミュニケーションで「応援してもらう」に変える、とてもシンプルでかつ効果のあるものだった。

そう、日常と非日常の境界は工夫と丁寧さがあれば消すことが出来るのだ。

では、なぜ、このシンプルで効果的な習慣を僕たちは「日常」から消し去ってしまったのだろうか。

もしかしたら、僕たちは、「日常」を「超日常」化し、「非日常」を「超非日常」化しているのかもしれない。


個人的意見だけど、塩辛いものばかり食べていると繊細な味がわからなくなってしまうように、過剰な認知によって自然な状態の日常と非日常を見失っているのだと思う。

写真はコントラストをあげすぎるとどれも同じようになってしまう。

「0」「1」化は、画像のパターン認識においては重要な技術だけど、僕たちの日常は「記号化」することが目的ではない。

手段を目的とせず、世界の中庸さ、寛容さを忘れてはいけないのだろう。


境界はどこ?



2017年6月15日木曜日

すごいの?こわいの? 主観が描く未来の世界

僕たちは一つの世界の中でそれぞれの世界に生きている。

今現在だけでなく、未来も、そして過去においても一人ひとり、オリジナルの世界だ。

そして、それぞれの世界を交換しながら時に通じ合い、反発しあっている。

僕たちが誰かの世界に惹かれると、世界に光が生まれる。

人だけでなく、生き物、自然たち万物のオリジナルな世界への好奇心が未来の扉を開いてきた。

でも、僕たちが誰かの世界に恐れを抱くと、世界に暗黒が生まれ未来の扉を閉じるのだ。


頭の中でチャンスとリスクを感じる部位は同じらしい。

誰かの世界をチャンスと感じるか、リスクと感じるかは偶然に支配されているってこと。


でも、僕たちにはその偶然に向き合う「問う」知恵が与えらている。

誰かの世界に触れた時何を感じているのか、なぜ感じているのか「問う」ことで未来を変えることが出来るんだ。


好奇心

2017年6月13日火曜日

「責任」という壁

他人のしたことにまで責任を取ろうと思えるか。

これは、僕が今日行った色々なMTGの中でも大きな気づきがあった問いだ。

「責任感」であるけど、どこまでを自分の責任と認知しているかは、実は自分の壁の表象だからだ。

壁は様々なもの姿を変えて現れる。

合理性であったり、自己限定性であったりと、多くの場合は当人も気づいていない。

この見えない壁、実は周囲からはよく見えていたりする。

不安、慢心、回避、やる気などなど、改善して欲しいリストができるくらいにだ。

まあ、周囲の期待にどう応えるから当人次第ではあるのだけど、無意識の壁を意識化することで納得感を持って何かを変えることが出来るのだと思う。

さて、昨今の経営不祥事や官僚、政治家の泥仕合を見ていると、「責任の壁」が狭いことに驚かされる。

他方、他人の「責任の壁」を声高に攻撃して当たり前と考える風潮にもうんざりさせられる。

見えないが故の無自覚と、見えるが故の他責性。

いずれもどうにかしたいものだ。


壁の手入れ




愛より実の方がいい なぜかと言えば・・・

愛より実の方がいい。

とは言っても昨晩NHKで放送していた「ニッポンの家族が非常事態!? 第2集 妻が夫にキレる本当のワケ」で語られる愛ではなくAI(artificial intelligence)のことだ。

そして実とはMI(machine intelligenceの略)のことです。

欧米ではAIでなく主にMIと呼ばれるらしいけど、日本人はやはりAIの語呂が好きなのだろうね。

さて、現在の人工知能はまさしく機械知能、つまり金属類と電気から生み出され、データ保持と演算処理で人の能力のごく一部を代替するものだ。

だから、分解しても血も涙もでない。

電気が無ければ使えない。

パソコンを分解したことがある人は知っているけど、中は「愛」とは程遠い。

こうした擬人化は僕たちの認知にバイアスをかける常套手段だから僕にはやっぱり「実」の方がいい。


馬に見えたって水蒸気



2017年6月11日日曜日

モチベーションと引退 ビジネスパーソンはどうするの?

世の中に「あいちゃん」と呼ばれる著名人はたくさんいるけど、最近話題の「あいちゃん」はプロゴルファーの宮里藍選手だ。

宮里選手は、まだ31歳ながら国内外で素晴らしい実績を挙げて来た。

最近でこそ、あまり名前を聞かなくなったけど、久しぶりに聞いたと思ったら、なんと引退するのだそうだ。

引退で言えば、ちょっと前にフィギュアスケートの浅田真央選手も引退を表明しているけど、スポーツ選手では若いうちに引退する選手が少なく無い。

体力と競技での成績に強い相関があることは想像に難く無い。

ところが、今回の宮里選手の引退理由は「モチベーションが維持できない」と言うものだった。

心技体と言うように人は「心」無くして何かに取り組むことができない生き物だ。(愛犬の様子を見ていると「人」だけでは無いと思うけどね)

宮里選手は自分を知り、自分に正直な人なのだろうね。

さて、スポーツ選手と違い、ビジネスパーソンの引退は個人の判断よりも社会的枠組みとして準備されている。

定年だ。

心技体が充実していても、制度上は定年、引退が待っているのだ。

そこにモチベーションは関係ない。

最も、高齢化社会の到来で、引退自体が無くなる可能性も出て来た。

一方、スポーツ選手であれば、モチベーションの低下による引退は仕方がないことだけど、ビジネスパーソンは引退のなくなる(かも知れない)世界で高いモチベーションの維持が求められる。

維持できない人には不名誉な「ぶら下がり」の称号が待っている。


モチベーションの維持ができなくなったとして引退する宮里選手を羨ましく思うのか、50歳でもモチベーション高く、プロの最前線で戦う三浦知良選手を見習うのか、ビジネスパーソンの悩みは尽きないよね。


モチベーション高い

個人の成長、企業の成長を支えるもの

僕は、予測不能な複雑化する状況下で、「成長」はシンプルに語られる傾向が強まると考えている。

「成長」の具体的な姿は多様化するけど、より戦略性(ここでは「勝ち負け」)が求められるからだ。

言い方を変えるなら、プロセスが見えにくくなるので結果に重きがおかれる。

さて、戦略的成果から見たとき、産業社会における個人の成長とは、社会的側面と経済的側面、いずれかもしくは両方の向上である。

居場所と稼ぎだね。

一方で企業の成長は、色々な指標があるけれど、要はCSR(企業の社会的責任)とROA(総資本利益率)のいずれかもしくは両方の向上と言うことなのかも知れない。

社会的地位と事業の優秀さだ。

でも、それらがいずれも社会全体の成長に根ざしていることを忘れてはいけないと思う。

個人にあってはその内面の成長だし、企業においてはステークスホルダーの成長だ。

社会全体の成長は複雑で見えにくいものだけど、見えにくいからといって放置すると取り返しがつかなくなる問題だよね。


成長中





2017年6月10日土曜日

理不尽さに勝る賢さを身につけよう

先日、サッカーの試合で乱闘騒ぎがあった。

その騒ぎに対する処分が発表されたのだけど、それがまた騒動になっているらしい。

要するに「理不尽だ」との主張があるようだ。

さて、世の中には理不尽なことが溢れている。

そして、自分の欲求を満たすうえでは理不尽さと自分の正義をアピールし、自分「が」満足できる有利な結論へ導くことが大事だけど、人の役に立つ仕事をするには理不尽さを受け止め、その上で相手と自分の「双方にとって」良い結論を導くことが求められる。

それが、社会性における「賢さ」だ。

一番良いのは当事者同士が「賢さ」を持って臨むことだけど、そうでない場合はどうしたら良いのだろうか。

実は、「賢さ」はどのような場面でも活かせる、弱者が強者に勝る戦略でもある。

この戦略を自然に使うのが兄弟の中で末っ子だ。多くの場合、末っ子は弱者だからだ。

逆に、自分は強者だと考える者には使えない戦略だ。

サッカーの乱闘だけでなく、この観点で世の中を眺めると色々と面白いだろう。

強者の意識と賢さの欠如はとてもシンプルに繋がって見えるからね。

一方、強者であっても、自分は強者では無いと謙虚に思う人の賢さは半端無いのだ。


賢いのは誰?





2017年6月9日金曜日

職場であなたを待っている?3つのドラマ

先日の自画持参「がちゃトーク」では「ドラマチック」がテーマだったけど、職場はドラマに溢れている。

チャップリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だけど、ロングショットで見れば喜劇だ」と言ったように、職場には当事者の悲劇、外から見れば喜劇みたいなことがたくさんある。

そこで、職場で起きるドラマチックなことを大きく3種類に分けてみよう。

1.仲間とのやりとり
採用応募者が就職で大切にしたいこととしてよく口にするのが「職場の雰囲気」だ。良い仲間と一緒に働きたいと言う欲求を人は持っているけど、人によって「良い仲間」は異なる。多くの場合、自分に都合の良い仲間だけの職場は存在しない。摩擦や軋轢があって悲劇が生まれる。

2.上司との付き合い
経営者で無い限り職場には上司が居る。仲間同様、「良い上司」も人それぞれだ。しかも上司は働き方に強く干渉する権限を持っている厄介な存在だ。勢い、気持ちよく働けない原因は上司が悪いからだ、となる。上司は悲劇の源泉なのだ。

3.仕事の向き不向き
仕事でパフォーマンスを発揮するためには、努力が必要だけど、人によって必要とされる努力の量に違いがある。働く人はできるだけ少ない努力で成果を出したいけど、実際は、多くの努力をしても成果は十分じゃ無い。仕事には悲劇が埋め込まれいてる。

以上が職場で没入することになる3つの場面だ。

これらはいずれも長い目で見ればなんだか笑えることが多い。

もちろん、笑えないこともあるけどね。


職場に向かう人

2017年6月7日水曜日

意識に勝る「備える能力」と「不意打ちに備える能力」

今日で梅雨入りだそうだ。

変な話だけど、僕は梅雨入り頃になると、昔、仕事で傘を扱った時の売り上げをふと思い出す。

それは、多くの人は、梅雨に傘が一番売れると思っているけど、傘がよく売れたのは梅雨よりもその前の時期だった。

最近の事情は全く知らないけど、当時は2月、4月に雨が続くと梅雨以上に売れていた。

逆に梅雨の時期は、皆、備えているので雨の日には期待するほど売れなかった記憶がある。

そこで「備える能力」について考えてみる。


生き物は「備える能力」を皆、持っている。それも高いレベルで。

一方で、その能力が発揮できない場面ではパニックが起こることは珍しくない。

古い話では、オイルショックの時のトイレットペーパー騒動もそうだろう。

2月、4月に傘が売れたのも同じことなのかもしれない。


さて、脳科学は「備える能力」が僕たちの内面で意識よりも素早く起動されることを明らかにした。

この解明は、僕たちには自由意志はないのではないかという問いを起こした。(最近の研究では、ちょっとだけ自由意志があることが認められている)

「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果

実際、自然でなめらかな振る舞いのためには、意識をしてから行動を起こすのでは間に合わない。

このように「備える能力」は生きていく上で基本的かつとても重要な能力なのだ。

そして「備える能力」にはこのような「意識前」だけでなく「意識後」もある。

「不意打ちに備える能力」だ。

想定外のことが起きてもパニックに陥らずに対処するには、何が起きてもおかしくないという心構えと、意識を一点に集中させず自然体でリラックスした姿勢が必要なのだけど、それを常に心掛けることで「不意に備える能力」は格段に高まるのだ。

どんなことが起きても落ち着いて受け止め最善の道を選ぶためには、日頃の心掛けが不可欠である。


人は無意識によって「なめらかに」生きる能力を、意識によって「しなやかに強く」生きる能力を発揮していると言えるのだろう。


梅雨といえば紫陽花








ニュースをネタにするのか ネタをニュースにするのか

ワイドナショーと言う番組で謝罪があった。

放送で宮崎駿監督に関する第三者に作り話を事実として取り上げ、論評してしまったらしい。

このことを知ったとき、僕は、そもそもニュースをネタにしようと言うところから問題をはらんでいたのではないかと思った。

井戸端会議を全国放送するようなものだ。

番組では、スタッフがしっかり調べてくれないとどうにもならない・・・と出演者の言葉もあったけど、他人から得た情報を元に話術を披露することの危険性から目を背けてしまったのは残念だった。

いずれにしても欠席裁判みたいなことにはどこかに気持ち悪さが残るよね。

結局、話ネタがニュースになってしまい、お粗末さばかりが目立ってしまったのだ。


お粗末さま



2017年6月5日月曜日

僕たちは常に複雑さを見失う

世の中は複雑さに溢れている。

そして一層の複雑化に向かっていく。

僕たちも十分複雑なのだけど、複雑なものを複雑なまま理解するのは難しい。

なぜなら、僕たちの目的は大抵、シンプルだからだ。

例えば、お店で美味しいものを食べたいと考えたとする。

料理店を選ぶ時、地域、料理のカテゴリー、メニュー、料金、混雑具合、口コミなどなど、組み合わせは無限だし、それらを踏まえたうえで美味しいものを定義することはさらに複雑だ。

この複雑さに向き合うために僕らは「消去」する能力を持っている。

全ての情報を処理するのでなく、必要な情報が自然と目に入る認知の仕組みがあるのだ。

地域一帯の料理店に関する情報を持たなくても、多くの人が行列している店は「美味しい」。

この「消去」能力のおかげで僕たちは混乱せず滑らかに社会生活をおくれるのだけど、一方で、複雑なものを複雑なまま理解することは苦手だ。

最近は、IT、AIなどの力を借りて複雑なことを複雑なまま扱うことが出来る様になってきたけど答えを欲しがることに違いは無い。

そして答えが見えない複雑なものには「消去」される運命が待っているのだ。


複雑さ





2017年6月4日日曜日

アメリカのアニメにあって日本のアニメにないもの?

ここ数年、「アナと雪の女王」「ズートピア」「モアナと伝説の海」など矢継ぎ早にアメリカのアニメ映画が公開され勢いがある。

日本のアニメ映画も「君の名は」「この世界の片隅に」などが大ヒットをしたけど、ヒット常連のジブリ作品が無いのはやはり寂しいね。

さて、アメリカのアニメ映画をみているとストーリー展開の中で気づくことがある。

それは、アニメ映画の中で観衆に伝えたいテーマが映画の最後で言語化されることだ。

もう少しわかりやすく言うと、「まとめ」があるってことだね。

一方、日本のアニメ映画は、雰囲気と余韻を大切いしていると思う。

こちらもわかりやすく言うと、「景色」だ。

理解を通じて映画体験を締めくくるのか、視野を通じて映画体験を締めくくるのかは、やはり共通理解の多少によるバックグランドに影響を受けているのだろうね。

故に、研修で使うなら圧倒的にアメリカのアニメ映画の方が使いやすく、仲間で語り合うなら日本のアニメ映画の方が盛り上がるのでしょう。


日本はこっち



働き方に必要なこと

日本人の働き方に関して、何かが必要であることは間違いないようだ。

グローバル化する経済の中で、企業は苦戦し、社員は生産性が低いと言われ、若者が減り、高齢者が増え、企業経営で活躍する女性が少ない。

問題は多岐に渡るけど、課題は、時代の変化に応じて国全体で働き方を変える必要があるということだね。

そして、課題の本質にあるのが「生き方への問い」であり、個々の価値観に向き合わなくてはならないとも言えるだろう。

これから僕たちはどう生きて行きたいのか、だね。

そこで考えたいのは「有り様、ご縁、舞台」の3つ。

言い方を変えると、「自分を知ること、他人と繋がること、社会で活躍すること」だ。

3つの中で「働き方」は「舞台」に該当するけど、「有り様」と「ご縁」無くして「舞台」は無いことを忘れてはいけないよね。


有り様とご縁と舞台





2017年6月3日土曜日

ドラマチックな小道具3点を考える

僕たちはドラマチックな世界に生きている。

しかしそれは社会への同調によって作り出された記憶である可能性が高い。

Our 9/11 tales are almost certainly better – more entertaining, more dramatic, more reflective of that awful day – but those improvements have come at the expense of the truth. Stories make sense. Life usually doesn’t.

HOW FRIENDS RUIN MEMORY: THE SOCIAL CONFORMITY EFFECT 

昨晩の自画持参がちゃトークのテーマは、ドラマチックだった。

その中に「ドラマチックな小道具3点を挙げてください」という引き当てられなかったお題があった。

研究結果に基づけば「ドラマチックな小道具」とは、社会での同調圧力の象徴と考えられだろう。

僕が社会への同調圧力として思い浮かべるのは、「人、食、時」だ。

「人」は言うまでも無いだけど、僕らが僕らに合わせるのが社会だ。

「食」は僕たちから行動を引き出すキーアイテムである。

そして僕らは結局「時」の囚われ人なのだ。

こうして僕はドラマチックな小道具3点として、「本、器、時計」にたどり着いたのだった。


ドラマチックやなぁ〜




2017年6月1日木曜日

効率が失わせるもの 経験、内省、意味化、試行は効率が良いとは言えない

人材の育成に関して現場には様々な考え方があるけど、その場固有の事情ではなく一般化された理論からは多くの学びがある。

アカデミックな研究が現場に与えてくれる知識や知恵はまさに宝物だと思う。

数多くの理論の中でもコルブの経験学習サイクル(経験→内省→意味化→試行)は現場の理解と育成の施策を考えるうえでとても役立つ。

経験が学習に変わる時に人の内面で起きていることを構造化し、そこからどのようなプロセスを経れば経験から学習が進み新たな行動が生まれるのか説いた理論であり、学習が日必要な場面でどうすれば良いのかまで示唆を与えてくれるからだ。

さて、経験からの学習は社会人に限った話では無い。

人はあらゆる場面で経験から何かしら学んでいるものだ。

僕は、アカデミックな研究が産業組織に大きく貢献する一方で、アカデミックの場、大学で学生はどのような経験学習をしているのか関心がある。

大学での学習という具体的経験を学生本人はどう観察し内省が行われ、気づきと次の選択に結びつくのか、ということだね。


学生の「次の選択」に関すれば、卒業における選択で何が起きているのか見ることができるけど、理系のように専門性を持った仕事の選択に比べ文系の学生の仕事の選択は何だかわかりにくい。

選択というより作業に近い印象があるからだ。

僕たちが考えなくてはならないのは、大学から社会への移行を作業にさせないことだろう。

その観点からは、倫理憲章、一括採用、リクルートスーツ、ナビシステムといった同調圧力や作業化(効率化)ツールはあまり関心できない仕組みだ。

規制する側も、採用する側も、応募する側も、サービスする側も皆で揃って効率を求めていくのはどう考えてもおかしい。

落語の弟子入りじゃないけど、募集のない企業の玄関を数ヶ月間ひたすら掃除をして入社を切望するくらいの選択が普通にあってもいいだろうね。


効率が良い?