2017年5月31日水曜日

ニュースとバラエティの差を「伝わるもの」から考える

必要な情報を的確に伝える。

そんな方法に最適化されたのがニュースだよね。

無駄が無く、誰でも間違いなく正しく理解できることに主眼をおいているため、アナウンサーはトレーニングを行い、ちょっとでも間違いがあればすぐに訂正が行われる。

これに対して、バラエティ番組では楽しい雰囲気や熱量を伝えることに主眼が置かれている。

ボケ、ツッコミといった、コミュニケーションギャップなどの面白さもその一部で、間違い(?)があるとSNSで炎上が起こったりするよね。

この間違い(?)とは、情報が正しく伝わらなかったことでは無く、聴き手を不愉快な気分にさせてしまったことだ。

さて、プレゼンテーションを考えると、このニュースの要素とバラエティの要素、両方が求められていることが少なく無い。

つまり、聴き手は端的に理解でき、かつ面白さを伝えて欲しいのだ。

テレビであればワイドショーと呼ばれるニュースと雰囲気を両方伝える番組が近いかもしれない。


何れにしても、誰かに何かを伝えるためには、事前にしっかりと文面と構成を準備する入念さと、場で発揮できる即興性の両面を備えて置くと良い。


街角の紫陽花咲く



2017年5月30日火曜日

仕事選びゲームに勝つのはだれなのか


ゲームの考え方やデザイン・メカニクスなどの要素を、ゲーム以外の社会的な活動やサービスに利用するものをゲーミフィケーションと言うけど、”プレイヤーはゲームからモンダイを解決せよ命令される” (山本貴光氏)との観点に立てば、問題解決、課題解決指向にはゲームの要素が潜んでいることになるよね。

ゲームの要素とは、
  1. モンダイが明確であること
  2. プレイヤーが何かしたくなるようにしむける
  3. 試行錯誤が楽しめる(ゲームらしさの部分)
  4. 必勝法が存在しない(正解がわかったら作業)
  5. 遊ぶたびに違う状況がうまれる(何回やっても面白い)
  6. 最後まで決着がわからずハラハラする
  7. しかし解決に向けて手応えが感じられる
  8. それまでの結果が累積して行く(達成感をいっそう感じられる)
  9. 未解決感がいつも残っている(プレイヤーが嵌る)
の9つ(山本氏)であり、例えば就職活動、転職活動、起業など仕事選びに置き換えると意外とフィットしてしまうのが面白い。
  1. モンダイは自分に適したより良い仕事に就くすること
  2. ナビや人材紹介、起業支援など、社会にある各種サービス
  3. 仕事選びは本人の自由
  4. チート(ズル)は別として「こうすれば必ず」はない
  5. 状況は都度、逐次変わる
  6. 決着は最後までもわからない
  7. キャリアを築く手応えが感んじられる
  8. 経験、キャリアが積み重なる
  9. この仕事で良いのか(良かったのか)と誰でも感じる
さて、仕事選びのゲーム化では不良設定問題に気をつけたい。

どこかに仕事選びの正解があるはずと探し続けることだ。

選んだ先の仕事には正解は無く、意味づけるものなのだからね。


ゲームとその先にあるもの









2017年5月29日月曜日

約束を守れないことが指し示すもう一つの傾向性

グローバル人材を対象としてパーソナリティデータを分析するためには、日本人のみで分析する場合と異なったアプローチが必要になる。

パーソナリティとロケーションには相互干渉的(コヒーレント)な関係があるからだ。

さて、あるアプローチからデータを整理し分析した結果見えて来たのは「結果として約束が守れない傾向」の有る無しが、パーソナリティにおいて高い説明率になることだった。

一方、この対極に出てくるのが「どんな状況でも諦めない困難に立ち向かう傾向」である。

この軸を解釈すると、「約束を守れない傾向」をもつ人は「困難に立ち向かう傾向」が低い(その逆も)と言える。


最近、約束を反故にする国際ニュースが少なくない。

それがパーソナリティから来るものだとしたら、目の前の困難に立ち向かうことを期待するべきではないのかもしれない。


東京オリンピックの写真



2017年5月28日日曜日

「高くても良いもの」はなぜ売れなくなったのか

ずっと前に、百貨店はより良いものを求める顧客に応えるために品揃えをしていると聞いたことがある。

「他にはどんな商品があるの?』
「もっと良いもの無いの?」

と顧客から質問が出た時に、

「こちらの商品は少しお値段は高くなりますが・・・」

と応じるのが百貨店だ、と言うことだね。

最も、質問もしていないのに高い商品を勧められると、僕は何だか店員の焦りを感じてしまう。


さて、かつてあった、価格が高くでも少しでも良いもの購入する消費行動は、現在では勢いが無いように思える。

逆に、価格を比較して安く購入する消費行動が強まったことは間違い無いだろう。

景気低迷や可処分所得の伸び悩みが背景にあるのだろうけど、価格や品質に関する情報が入手し易くなったことも大きく影響しているのだと思う。

今、NHKの朝の連続ドラマでは昭和30年代、茨城から集団就職で東京に出てきた女性の話を放送している。

その女性は、レストランで「いつかはメニューで最も高いビーフシチューを食べたい」と想い続け、一番安いメニューから毎月食べていくのだけど、今時、そんなウブな消費者はいないだろう。

現在は誰もが情報過多の耳年増なのだ。

経験から学ぶのでなく、情報を評価して正解(得する消費)を探す、そんな時代の店頭販売はどうあると良いのか。

僕はやはり経験から学ぶことの愉しさ、素晴らしさに気づいてもらうことだと思う。

となると、販売員に必要なのはセールススキルではなく、ファシリテーションスキルだし、店頭は売り場からワークショップに変わる必要があるのかもしれない。

売ることと売り続けることがゴールではなく、売ることをきっかけとして気づきを与え続けることがゴールになるのだね。


紀伊國屋 文左衛門の碑


2017年5月27日土曜日

#0107 THE BEATLES ? 50年目のサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

銀座6丁目の再開発にともなう複合商業施設、GINZA SIXに#0107 PLAZAと言う店がある。

店頭には、クーガーと言う短波が聴ける古いラジオやソニーの時間がパタパタ変わる時計、タイプライター、アップルのMacintosh SEなど、1970年代から80年代にかけての製品がディスプレイとして展示されていた。

 #0107 は「おとな」と読ませたいようで、輸入生活雑貨を扱うPLAZAが年齢高めのターゲットに向けて打ち出した新店舗らしい。

昔、それほど関心は無くても見慣れた製品を見ると懐かしさや安心感が沸き起こるよね。

ただ、おとな=懐古的、の図式はいささかステレオタイプな気がする。

若者でレトロなアンティークに興味を持つ人も数多く居るわけだし、僕としてはもう少し工夫が欲しかった。

さて、ビートルズのサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドと言うLPが発売50周年を迎えて、記念の限定版が発売された。

かつての若者、今のいい大人にとって、とても気になる販売だね。

しかし、よく考えてみれば50年前の熱さも空気も今は無いわけで、記録や記憶ではあっても、目新しさは感じられない。

スマホ、クラウド全盛の今日に、#0107 PLAZAで展示されていた短波も聴ける高性能ラジオ、クーガーを売ることと何が違うのだろうか。

ファンの心理は別として、いい歳をした大人の僕としては、多少、理解が難しくても若いミュージシャンから何かを学び、応援したくあるのだ。


”今”、に目を向ける


2017年5月26日金曜日

僕の中に「ぼうぼう燃える職人魂」はあるか

仕事観についての問いかけがある。

○課題解決には、期間・費用・要員のそれぞれについて制限があるものであり、限られた条件の中での成果こそ本当のものである
○働きがいとは成就させることであり、結果そのものは必ずしも求めない(結果さえ良ければよしではない)
○すべての課題とは、自分の能力における挑戦課題であると考え、自分自身の能力に対する努力を惜しまない

○与えられた作業やプロジェクトに対し、全力をぶつけてこれに当る 

もし、これらの問いにビビッときたら、それは心の中の職人魂が疼いている証拠だ。


先日、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で数寄屋大工の匠、升田志郎さんを取り上げていた。

そこで知ったのが、江戸時代に書かれた大工の技術書に棟梁の模範として記された「五意達者」だ。

「五意」とは

設計図を読み解き的確に墨付けができる技術、①式尺、墨がね
金勘定と緻密な計算力、②算合
削りや加工のあらゆる、③手仕事
デザイン性の優れた内装を自ら作り上げる力、④絵用 ⑤彫物

で、「一人前の棟梁はこれら全てに熟達するために昼夜不怠で努力をしなければならない」と書いてあるらしい。

さらに、升田さんは師匠、中村外二さんから「建物は作って半分」「後の面倒で半分(育てて半分)」と教えを受けたそうである。

様々な条件や困難の中で自らの手を使い素晴らしい建物を作り、建てた後も手入れを行って完成させていく姿は、まさに大工という職人が目指す到達点なのだ。

僕は商人に家に生まれ育ったので、職人の一途さに比べずっと臨機応変だと思う。

昼夜不怠で五意に熟達するより、時流(トレンド)を読んで儲けを出そうとする指向があり、無意識に商売においては敵味方や強者弱者を嗅ぎ分けている。

やはり商人気質が強いのだろう。

一方、番組に感銘を受ける自分を知るに、職人に対しての憧れがあることは間違いないので、多少職人の血が流れているのかもしれない。(実家がかつて製造卸を営んでいたので職人の部分もあったのだろう)


ぷかぷか



2017年5月25日木曜日

業務の達人と料理の鉄人の共通点?

先日、WOWOWで観た映画の解説が印象に残っている。

それは、料理人を扱う映画の限界、についてだ。

味の評価はどうしても主観的でスポーツのようなわかりやすい結果が無い。
そして、最後に皆で料理を作る価値に目覚めるという陳腐なゴールになりがちだと言うのだ。

ひょっとしたら映画を観る人の好みが反映されているのかもしれないけど、確かに、これまで僕が観た料理人をテーマにした洋画の多くは、才能→低評価→孤独→衝突→葛藤→気づき→協調(めでたし、めでたし)というパターンだ。

陳腐と言うかどうかは別としてお決まりの展開なのかもしれない。

さて、職場において、営業部門のように数値で結果が出る仕事に対して、スタッフ部門のように数値評価が出来ない仕事がある。

それらの仕事は目標設定やその成果の評価がやはり難しく、姿勢・態度など、どうしても主観的な評価の比重が高くなってしまうし、評価に差が生じ難い。

そしてそのような仕事で求められるのもやはり「協調」だ。

料理も、数値評価が出来ない仕事も工夫や創造性が求められるのだから、誰かの主観に左右され結局協調だよね、といったお決まりでない良いシナリオが欲しいところだ。


良いお味



2017年5月24日水曜日

サービスからおもてなしへの転換点は戦略性


最近、あまり盛り上がる話を聞かない東京五輪だけど、招致に成功したときは滝川クリステルさんがプレゼンした際に用いた「おもてなし」が注目された。

「おもてなし」については以前ブログでも取り上げたけど、僕は「したく」「しつらえ」「しかけ」と3要素と主客一体での関係性で説明するのが好きだ。

わかりやすく言い換えれば「もてなす際の料理などの準備をしっかりとして、季節感ある趣向を凝らした飾り付けを行い、意外性のある演出で客の心を強く惹きつけることであり、その際、主人と客人の関係性は対等にある」となるだろう。

主人が上でも無ければ下でも無いし、客人が下でも無ければ上でも無い、というのは単に友達的であるということだけではなく、向き合って対等に闘うライバルの要素もあるのだろう。

さて、「おもてなし」は「サービス」と何が違うのかという疑問が湧くけど、僕は勝負の駆け引きじゃないかと思う。

相手に役立ちたい、喜ばせたいという動機に立脚しながらも明確な成果、成長指向があると感じるからだ。

だから、僕は「おもてなし」を過剰サービスの話ではなくあらゆる客の心を掴み果実を得るための戦略であると理解したい。


料理、箸置き、お品書き




2017年5月23日火曜日

他人に架ける橋 Bridge over troubled one.

僕が大好きな曲にサイモンとガーファンクルの”Bridge over troubled water”(邦題「明日に架ける橋」)がある。

サビの歌詞はこうだ。

Like a bridge over troubled water
I will lay me down

君が辛い時は僕が必ず支えるよ、と言ったニュアンスだろうか。


さて、個性を考えた時、自分と他人の間には必ず溝がある。

この溝は埋めることができないのかもしれない。なぜなら、僕たちの脳の中にあるシナプスも他のシナプスとの間にも隙間があるからだ。

一方で、脳も社会も、シナプスもしくは人が単独で存在することは無い。

他と繋がって初めて持続的な存在となるのだ。

では、どうやって折り合いをつけるのかといえば、溝に橋を架けることでネットワークを構成している。

要するに、溝は埋めるものでなく溝を越えるために相互に橋架けが必要なのである。


困難な水?

社会を窒息させるダメダメ攻撃

音楽教室レッスンで楽曲を使うと著作権料が徴収される。

著作権管理団体の JASRACが打ち出したこの方針が波紋を呼んでいる。

僕はこのような行き過ぎた権利の主張が結果として社会を窒息させる行為になっているのではないかと思う。

例えば、裏道で行われる一時停止違反の取り締まりもそうなのだけど、ちょっとしたやり過ぎの影響ってその後のことを考えると結構深刻だろう。

丁度、小さい子供の行動に親が過干渉するとその後のパーソナリティに影響が出るように、人の行動をじわじわ変えて行くので、あとで気づいたらすっかり寂れてしまったということにならないと良いのだけどね。

音楽教室がレッスンごとに著作権料を払うとなると、レッスン料が高くなり、音楽を学ぶ敷居が高くなる。

学びは音楽だけじゃないから、音楽から遠ざかる人も出てくるでしょう。

交通違反だって、取り締まりが厳しくなれば、必要な時しか車を使わないようになる。

大都市では公共交通機関が発達していて車無しでも不自由しないからね。

確かに主張、規制する権利はあるのだけど、権利者は「できる」と「やる」の間にどんな世界を実現したいと考えているのだろうか。

是非、聞いてみたいことである。


境目の世界

2017年5月22日月曜日

「相性」にはマネジメントの本質が隠れている?

僕は、子犬のしつけ教室に通う中で知ったことがある。

子犬のしつけが「マネジメント」として語られるということだ。

確かに、「“異質な相手と 上手く関わり目的地に たどり着くこと”」に違いはない。

そして子犬は本当に異質だ。

その子犬と楽しい生活を実現するためにどう関わるのかが「しつけ」のポイントなのだけど、例えば、甘噛みする子犬に対して行うのが「噛まれないマネジメント」だ。

この話には「犬は噛む生き物です」という大前提がある。

つまり、噛む生き物に噛まれないための関わり方が必要で、結論から言ってしまえば、「噛ませない」ことがポイントになる。

噛みそうになったら、おやつやおもちゃで気をそらしたり、場を去ってしまうことで噛ませないのが関わり方なのだそうだ。

噛んだら叱る、諭すといった外圧での解決(負の行動の矯正)でなく、それまでの楽しい時間(正の行動)が失われることを知ることで問題行動を取らなくなるという内圧での解決を期待する。

地道なのだけど、どうやらそれが正解みたいである。

というのも、外圧での解決は、ある人の場合は効いても他の人では効かなかったり、下手をすると噛むとかまってくれると勘違いし問題行動が強化される場合もあるのだそうだ。


さて、会社でのマネジメントは、ポジティブなフィードバックだけでなく、ネガティブなフィードバックも行われる。

いや、ネガディブなフィードバックだけでなく、ポジティブなフィードバックも行われる、という表現が正しいのかもしれない。

しかし、「相性」が合う人からは、自然とポジティブなフィードバックが多くなる。(だから相性がいいということでもあるけど・・・)

そこで気づくのだけど、マネジメントとは「相性」を良くする取組みであるとも言えるのではないだろうか。

確かに、我が家の子犬のしつけが目指しているのは、服従させることではなく、楽しく暮らすパートナーになることであり、そのために関わり方を学んでいる。

マネジメントとは何か。「相性」にその本質が隠れているのかもしれない。


主役だよ










2017年5月21日日曜日

「創造性」が超生産性である理由 残業=非効率と言う誤解の本質

「カルノーサイクル」と言う温度とエントロピーの関係から考えられた永久機関がある。

ある条件の下で「断熱圧縮」「等温吸熱、膨張」「断熱膨張」「等温放熱、圧縮」の4つのプロセスが連続すると考えられたものだ。

このカルノーサイクルは熱を仕事に転換するうえで最も効率が高い(考え方)だ。

言い換えれば、仕事の資源(リソース)は熱100%である。


さて、僕たちが仕事をする時、使う資源は多岐に渡るよね。

経営の観点では、どんな仕事でも、人、物、金、情報を使っている。

一方、個人に視点に立てば金と時間が交換され、人脈、道具(環境含む)、時間、情報となる。

理屈としては、カルノーサイクルのようにこれらの資源を100%仕事に転換することができれば効率が最も高くなるはずなのだけど、期待される仕事のレベルが高くなると資源を追加投入しなければならなくなる。

要するに、効率を上げ回り続ける仕組みよりも高いレベルの仕事が求められているのだ。

となれば、時間を多く投入するか、仕事以外の時間で、人脈、道具(環境含む)、情報を自腹で貯めるか、原理はシンプルだ。

しかし、その原理を超えて有るのが人の「創造性」ではないだろうか。

「創造性」にはそれまで個人の資源が再帰的に投入されているので、仕事のレベルは必然的に高い。

しかも、仕事のために新たに資源を投入しなくても良いのだ。

「創造性」は、会社が求めている仕事と必ずしも一致しないものだけど、会社が人の「創造性」を使えば生産性は超高いと言えるよね。

また「創造性」は常にイノベーションの種だ。

逆に、社員の「創造性」を活かせない会社は生産性が超低いのだ。


だから僕は、論理的、合理的に仕事の仕方や学び方までも細かく定めており、一方で高いレベルの仕事を求めながら、残業時間が多い(生産性が低い)という会社、イノベーションが起きない、変革人材が欲しいと思う会社は、今いる社員の「創造性」を活かすために何をすべきか急ぎ考える必要がある会社なのだと思う。


創造性を遮らない

2017年5月20日土曜日

「子犬の教育」を事業として考える

子犬を飼い始めてパピークラスなるものへ通い始めた。

珍しいらしいけど、獣医の先生が主催しているパピークラスだ。

全6回のクラスは、子犬同士が遊び合うパーティタイムだけでなく、色々な躾の仕方とポイントを教えてくれてとても有難い。

本やインターネットで得る情報にはやはりどこかが我流になり、間違っているのではないかと不安になるからだ。

さて、クラスでは躾における疑問の解消だけでなく、大切な知識を与えてくれる場でもある。

専門家が重要視している知識を学ぶことはとても意義深いことだ。

そこには数多くの経験も積み重なっているからね。

一方で、新しい知識は新たなサービスのニーズを掘り起こすことにもなる。

例えば、子犬の避妊・去勢といった知識は、新たな医療行為に繋がるものだ。


このように、教育には教育そのものが事業としての価値を持つことと教育から生まれる新たな事業の価値が内在されている。

時に、後者のために教育が行われることもある。

何れにしても、良い悪いの話ではなくて、教育には2つの事業的側面があることと両方の提供価値の和で評価されるってことなのだろうね。


おすわりの方法



2017年5月18日木曜日

僕たちは目的のために生きるのではない

そして、生きていくなかで目的を発見し気づくのだ。


今日は、法政大学長岡ゼミのカフェゼミに参加した。

大学のゼミが街中に出て、社会人も参加する形で行われる、まあ、レアケースだと思う。

そして、今日は慶應大学加藤文俊教授が主催する「カレーキャラバン」の話を聞き、皆で対話をして発見、気づきを得る「場」であった。

実は、カフェゼミで加藤先生の「カレーキャラバン」を聞くのは2回目だった。

前回は4年前で、先日のブログにもちょっと書いたけどゼミは放送事故的な状況に陥ってしまった。

それから数年経った今日、加藤先生の話の冒頭でその出来事が語られたのは正直、ちょっと驚いた。

しかし、その出来事とカレーキャラバンが年を経て熟成していることには更に驚いた。

それは、以前「カレーキャラバン」は、プロジェクトであり、赤字モデルの目的的な意味づけだったけど、5年の月日を経て、趣味であり、喜びを得るためのものと意味づけされ、それ故に5年続いているという話に強く惹かれたからだ。

僕は、今年のテーマを「趣味」と言う、内在する報酬から生じる行動習慣に置いているのだけど、まさにそこに行き着いたのだ。

また、月に一度くらいのリズムが「上達しない仕組み」となり「下手な自分をキープする」ので、いつも新鮮で、無料で配るカレーが大量に残ってしまってもあまり凹まずに長続きしているらしい。

僕にとってこの話はものすごく新鮮だった。

考えてみれば、「上手くなる」こともある一面では目的的だし、そこに価値観を持つと「上手くならない」と嫌気がさしてしまう。続かない趣味でよくある話だ。


以前のカフェゼミのように、目的的に説明出来なくはないけど本質ではないそうです。

ラップアップでは長岡先生が、「合目的的な発想から解放されること」「Because I like it.」「自作自演」「脱予定調和(異化)」「脱専門主義(アマチュアリズム)」「Name the World(世界を名付ける)(流通可能な外化←加藤先生)」と見事な問いを起こして本日のカフェゼミは終わった。


まだまだ、まだまだつながるね、きっと



勝ち負けと時間の関係

プロレスではたまに時間無制限一本勝負と言うのがある。

初期のプロレスはこれがデフォルトだったそうだ。

要するに決着がつくまで闘い続けるのだけど、今日のスポーツで時間に制限が無いものってあまり聞いた記憶がない。

ゴルフは、特に時間制限はないけどスロープレイにはペナルティが科せられる。

大相撲の立ち合いも今では制限時間が設けられている。

決められた時間内で勝ち負けを決めるのがデフォルトになっているわけだね。

これにはおそらく2つ理由があるのではないだろうか。

一つは、延々と闘い続けることは「生きる」うえで非合理的であることだ。

闘う人も、関わる人にも勝負以外の生活があるわけでいつまでも終わらない闘いを望んでいない。


僕が考えるもう一つの理由は、今日のスポーツが戦略優位であるからだ。

アメリカンフットボールのように戦略性を前面に押し出しているスポーツなどは時間をいかに効果的に使うかが勝敗の決め手になる。

戦略の本質は「勝つこと」であり、勝ちにこだわると「時間」がポイントに、つまり、時間を上手に使うことは必然となるのだ。

「勝ち」と言う明確な成果を出すことにこだわる→戦略優位になる→時間との戦いに勝つことが目的なる、と考えるのだ。

逆に言うと戦略性が無いものほど時間にも無頓着なのかもしれない。


無頓着?

2017年5月17日水曜日

時間を区切って使うことが必要な理由

チクセントミハイの言う「フロー(忘我の境地)」では時間感覚が歪む、つまり、時を忘れて物に集中することができる。

この感覚は誰にでも経験があるのでは無いだろうか。

楽しい時間は一瞬であることは疑いようが無いが、何事でも楽しいからと言って無制限に時間を投下して良いことにはならないだろう。

たまに、子育て中の親が子供のゲームの時間を決めさせている話を聞く。昔はゲームでなくテレビだった。

客観的に見れば、何かに没入してそれ以外に注意が払えなくなる状態はとても危険に見えるのだ。

これは、当たり前の話だ。

自然界において、何かに惹きつけられ夢中になっている瞬間が一番無防備で天敵から狙われる。

リスクマネジメントの対象なのだ。

同様に、仕事への没入による長時間労働、残業は外への眼を閉じさせ無防備な状態を生み出す。

しかし、どうもこと仕事に関して人はこの感覚を失うらしい。

そうやって僕たち日本は、追い込まれてしまっていやしないだろうか。


リスクマネジメントを忘れてはいけない



2017年5月16日火曜日

働き方こもごも 事務的に働くのか、享楽的に働くのか

和辻哲郎さんの「古寺巡礼」の中には「東西風呂のこと」という一節がある。

その中では風呂に関する西洋と日本の違いに触れ、西洋は事務的、日本は享楽的と記されている。

確かに、洋風ホテルの風呂は、体を洗う機能がとてもシンプルである。

一方、日本の旅館は風呂に趣向を凝らして旅館の顔にしているところも珍しくない。

さて、和辻さんのエッセイを読んでいて頭をふとよぎったのが働き方だった。

昨日、会社で若手リーダー二人が働き方改革のワークショップを開催したことも少なからず影響しているのだけど、いわゆる事務の時間と企画の時間では働き方が違う。

こと時間管理という観点では、いわゆる事務では無駄を減らし、企画では時間を区切ることで時間を効果的に使っていこうという結論に至ったチームがあったが、目の前の仕事をどう、位置付けるかで向き合い方が変わってくる。

それは、「風呂」との向き合い方に相通じる部分も有りそうだ。

風呂の時間を体を洗う時間と捉えるのか、癒しと愉しみの時間と捉えるのかで意味が全く変わってしまうのと仕事も変わりがない。

また、風呂と同じように、西洋では仕事は事務的で、日本では享楽的となると西洋に比べて日本の残業が多いことも説明がつくのかもしれない。


ヒノキの香り









2017年5月15日月曜日

強みの良し悪しが使い分けられるのは不器用だから?

人には誰でも場面によって良くも悪くも現れる個性がある。

挑戦心が溢れる人は時に無謀だし、執念を持つ人は時に頑固だ。

社会性の高い人はそ場面に合わせて、自分の良い面をコントロールするけど、その本質は「我慢」じゃないかな。

時に、挑戦心を抑え、柔軟に考える。

それは本来、不得意なことだ。

もし、器用にコントロールすることができるのだとしたら、それはその人の最たる強みではないのではないだろうか。

強みがアダとなる場面であっても、強みを抑えることは決して楽にできることではないだろう。

むしろ、苦しみが伴うように思えるよね。

きっと周囲には、グッと堪えて我慢しているように映ることでしょう。

逆に、苦しむことなく強みを発揮しているのだとしたら一度自分の有りようを振り返って見た方が良いのかもしれないね。

我慢しているのは周囲かもしれないからね。


サーキットの狼だぞー



2017年5月14日日曜日

社会人の「経験」をデザインするのは誰?

僕は、例えば研修を実施する時、いつも2つの命題が頭を過ぎる。

1つは、もちろん研修を通じて受講者に何を伝えるのか、伝えることができるのかという「研修」という経験のデザインだ。

そしてもう一つは、社会人が自身で取り組む経験のデザインである。

前者は研修の場を創る立場だけど、この「研修」のデザインをしていると研修参加者の学びと実践の主体性に向き合わざるを得なくなる。

要するに、「その気に」させる働きかけが不可欠なのだけど、僕は、受け身の姿勢が強いことが想定される時は自発性を引き出すためにより多くの仕掛けを考えてるようにしている。

少しでも、研修の場を意味のある時間にしたいからだ。

研修のデザイン次第では、参加者のやる気を削いでしまうことも少なく無い。

盛り込みすぎ、難解あるいは易しすぎる内容、伝え下手や不手際などなど気をつけなくてはならない点は少なく無いし、研修を終えた後には常に多くの反省がある。

一方で、場づくりに必要なのは講師の力だけではない。

受講者が研修を意味ある経験にするために、「教えてもらう」ということではやはり態度が足りていないのではないかとも思うのだ。

そして、これは研修のことだけじゃない。


場における「経験」だけでなく、「経験」のための「場作り」というメタな学びを考えると、時に割り切れない思いが残るのは僕だけなのだろうか・・・。


より高く






2017年5月13日土曜日

「伝え方」の本質とは

人は誰でも誰かに何かを伝えている。

要は、「誰が」「誰に」「何を」「どう伝える」かだ。

実は、これがかなり厄介なのだ。

変数が4つもあるし、その4つはそれぞれに複雑である。

複雑の4乗なんて考えていたら日常生活は送れないし、そもそも、人は複雑なことなんて考えずになめらかにしなやかに生きている。

でも一方では、「伝わらない」ことに悩むのだ。

で、ね。伝わらないことを伝えるためにはどうするか考えなくちゃいけない。

それもできるだけ複雑さを取り除いてね。

結局、「伝え方」の本質とは、4つの複雑さとの向き合いってことなのだ。


北京の蝶?

2017年5月12日金曜日

「自分を知る」こと について

自分を見つめ、自分を知り、
自分を変えることから
全ては始まるのです 

それは私から、私たちみんなから始まる

ジュデイ @ズートピア

僕にとって「自分を知る」って結構難しいことだ。

というのも、無意識の自分を知らなくてはならないからだ。

例えば、夜寝ている時の寝相を僕は知らない。

1日6時間程度、僕は謎だ。

起きている時はもう少しましだけど、容姿のみならず、心理、態度、意識を知るためには、「鏡」とそれをみる「眼」が必要で、それが無い時は睡眠中とあまり変わらない。

そもそも、「鏡」ばかり見ていたらそれ以外のことができない。

日常にはそれ以外のやりたいこと、やらなくちゃならないことが溢れている。

無意識の自分は結構上手く周囲と折り合いをつけてくれて、「鏡」を見なくてもあれやこれや忙しくて楽しいのだ。

だから、「自分を知る」ためには覚悟してそれ以外を切り離す時間が必要なのだね。


自分の姿


2017年5月11日木曜日

質問への答え方が周囲に伝えること

先日、とある人の話を聞く機会があったのだけど、その人は質問に質問で返し、なんだか印象が悪かった。

ひょっとしたら、当人同士は知り合いだったのかもしれないけど、「なんで、そう聞こうと思ったの?」的な質問返しは周囲の人に良い印象を与えるものではない。

以前、茂木健一郎さんがトークイベントで聴衆からの質問にブチ切れるのを目の当たりにし嫌な気分になったことがあるけど、質問に質問で返すやり方は、質問者に責任を転化するものだ。

一方、質問を受けたら、その質問を自らに問い直し、そしてその自らの質問へ答えるようにすると賢く見えるのだそうだけど、要は、質問へのコミットメントが印象に繋がるのでしょう。


問いを問う質問返しは、気づきがあるのも事実だけど、その効果は、質問者への支援が明白な時に限られる。

要するに、質問を通じて「真摯に人に向き合おうとしているのか」と言う態度は、非常に周囲に伝わり易いのです。


質問?



2017年5月9日火曜日

組織にとっての「個人の強み、弱み」を考えて見よう

僕たちにはパーソナリティ特性と言われるいかなる状況でも再現される一貫性があって、状況や環境によって強みになったり弱みになったりする。

例えば、緻密性の高い人は、細かいミスが許されない場面では強みを持つけど、アバウトに進める場面では弱みになり易い。

組織マネジメントとは、メンバーの強みを編集することとも言われるけど、現実的には弱みに向き合わざるを得ない。

なぜなら、弱みは組織内に攻防を生じさせるからだ。

お互いの弱みをフォローしあう信頼関係が足りないとき、と言うか、多くの組織ではその信頼関係を築くことに労力を払っている訳だけど、攻撃性のある組織メンバーは他のメンバーの弱みを攻め始める。

パワハラ、セクハラなどはその一例だけど、組織内のゴタゴタの多くは誰かの弱みを軸に複雑化していく。

だから、組織構成員は、強みを活かすだけでなく弱みに向き合うことが自然と求められるのだ。

この求めは、フィードバックや評価を通して行われるけど、他者からのフィードバックには攻撃性も内在しているから厄介だよね。

結局、自分の強み、弱みには自ら向き合うのが一番良い。

と言うことになる。


弱みに向き合う理由


サービスや商品コンセプトの適正なスコープとは

新しいサービスや商品を考える時、やりたいことを含めていくと自然と大きなスキーム、多機能になって行ってしまう。

しかし、大きなスキームだから便利で世の中から広く受け入れられるかと言えばそれは全くの別物。

以前、雑貨を扱う商売をしていた時、小さい扱いで売れないものは、扱いを大きくしてもやはり売れないことを何度も経験したけど、売れるサービスがあって初めてその周辺も含めた展開に意味が生まれるのだ。

最近、よく聞く「売れすぎて販売中止」みたいなやつは、マーケティング戦略と言うより、過去の失敗から学習している作り手の用心深さの現れなのだと個人的には思う。

で、ね。上手にコンセプトを作る人は割り切りが優れている。

例えば、最近上場した「ほぼ日」。

売上の多くを「ほぼ日手帳」が占めているそうだけど、1日1ページのライフログとスケジュール管理と言う、シンプルなコンセプトがあってそれを遊び心でコーティングしている感じが心地よい。

FacebookだってLINEだって最初はとてもシンプルだった。

逆にシンプルなことを複雑な仕組みにしてしまったものって、あまり使い易いと思えない。

「これ、どう使うの?」みたいな疑問=使いづらいってことだよね。

シンプルな機能をシンプルに実現する。

サービスや商品コンセプトのスコープはまずはそこからだ。


路地裏と言うコンセプト







2017年5月8日月曜日

「現場の理論」を有用にするために必要な事

僕が仕事をする「人と組織」に関しては様々な理論がある。

時に、星の数よりも多いかもしれない、と思うくらいだ。

そして、それを実践に適応する、もしくは、実践的な現場の理論の数は指数関数的に増える。

ハイパフォーマーのコンピテンシー(行動特性)などは、実際は部門、チームごとに異なるよね。

また、キャリア研究で有名なクランボルツの計画的偶発性(プランドハップンスタンス)理論も、一人一人、全て固有の状況や経験ということになる。

要するに、個人、チーム、部門というより具体的な人と組織を対象とした時には実践的な理論が必要となるのだ。

この実践的な理論は、研究から生み出されるものではなく、暗黙知として現場に蓄積している事が多い。

一方で、決めつけ、思い込みなど、事実に基づかないものも少なくない。

その結果、パフォーマンスや成果は上司などによって容易く変化する属人的なものになってしまうのだ。

現場の理論とは、人に寄らない仕組み作りに他ないだろう。

その理解を持って事実から理論の構築に取り組む必要があるのだ。


理論が見える?


2017年5月7日日曜日

仕事におけるカルノーサイクル?を身につける

5月の連休も終わり明日から多くの人に仕事に向き合う日々が戻ってくる。

今年は土曜日に祝日が多く連休が少ないらしいから、僕も思い切って9連休をとってみたけど、連休をラップアップするために「仕事に向き合うこと」を考えて見たい。

さて、唐突だけど、仕事に向き合う時に一番大切なのは、目標や目的に対するコミットメントではないのだと思う。

もちろん、目標や目的のレベルにもよるのだけど、今日、企業で求められる目標、目的はそんなに簡単に達成できるものではない。

だから、目標、目的に向かって努力し続ける態度が要る。

そこには、カルノーサイクルのような回る構造を持った心的エンジンが不可欠だ。

バケツの水を高いところから落とすようなエネルギーの使い方では息切れするのは必至だからね。

もう少し優しく言い換えれば「息継ぎ」がちゃんと出来ないと息が詰まって溺れちゃうのだ。

吸って吐くって普通にやってるじゃん、と思うだろうけど、負荷の掛かった状態で安定した呼吸をすることは思っているほど簡単じゃない。

そしてどんな仕事でも負荷が掛かる。

ということで、GW最終日の夜は、正しい呼吸で就寝しようと思う。


吸って吐く、聞いて話す、考えて行動する




2017年5月6日土曜日

銀座の免税フロアはこれからどうなるのだろうか

銀座界隈の再開発が急だよね。

2020年の東京オリンピックに向けて古い建物が壊され、大型商業施設の開業が相次いでいる。

この連休中もすごい人出だったのだ。

それら大型商業施設の特徴は、外国人旅行客目当ての免税フロアだ。

例えば、東急プラザ銀座は、8階、9階の2フロアが丸ごと免税店という力の入れ具合。

では、思惑通り、外国人旅行客が来ているかと言うと、他のフロアが賑わう中、客が全く無く店員の暇そうにしている光景が印象的だった。

おそらく、中国人旅行客の爆買いを目当てに、また、2020年のオリンピックまで見込んでのことなのだろうけど、このままで大丈夫なのか他人事ながら心配になってしまうよね。


さて、消費行動は不可逆的なのだと思う。

中国人旅行客だけでなく、かつて日本も大量消費時代を超えて、モノからコトへ消費行動を変えている。

新商品へ次々と買い換えることから、商品の賢い使い方、そして環境に優しい消費へと行動を変化させ、現在は、シェアやリサイクルが当たり前の循環型社会だ。

消費行動も学習によって環境が書換えれら、新しい学習が始まるわけだね。

もちろん、消費税とか、爆買い禁止令みたいな法制度も大きな役割を果たしている。

それを思うと商売のタイミングって本当に難しい。

ちょっと早くても、ちょっと遅くてもダメなのだ。

さらに、未来においては過去の経験が生きない可能性が高いし、変化のスピードはとても早くなっている。

そうなると選択肢は2つだ。

予測不能なことに向き合う方法を生み出すか、予測可能なことを探すか、だね。

いずれにしても、向き合ったり探したりするのは「人と組織」なので、商業施設はフロア開発だけでなく人材開発と組織開発を並行しなければならないでしょう。


ここ





2017年5月5日金曜日

偽ニュースは社会を変える触媒なのかも知れない

フランスの大統領選挙が大詰めだね。

マクロン氏とルペン氏の一騎打ちになっているのだけど、どうも形勢はマクロン氏が有利らしい。

そんな状況で流れて来たのが、「ルペン氏、偽ニュースも利用=挽回に必死―仏大統領選」という本当のニュースだ。

トランプ氏が大統領選で偽ニュース("Fake news")を乱発して、結果勝ってしまったことから自分に都合の悪いことをなんでも偽ニュースにしてしまったり、相手を陥れいるために偽ニュースを用いる勢いは衰えることを知らない。

さて、かつては偽の情報を見分けるリテラシーが大切だと考えられているけど、今日の状況を鑑みると、偽の情報よりも、偽の情報が都合よく使われる場面を正しく判断することの方が重要であるようだ。

でも、ひょっとしたらこれは正しいことなのかも知れない。

これまで、報道されるニュースは正しいものと盲目的に信じることで、多くの冤罪や歴史の歪曲が生み出されてきたからだ。

情報は基本的に「本当かどうかわからない」ものであり、その情報により誰が得して誰が損するのか、ゲーム理論のように利得関係を頭の中で整理して判断する。

それは、誰かが作った世界でなく、自分が作る世界だ。

ただ、人は自分だけの世界で生きていくことはできない、社会的な存在だからネットワークを築いていく必要がある。

これから求められるのはネットワークに参加するのでなく、自らネットワークを作ることだ。

結果として、偽ニュースは、これまでの社会関係を主体的ネットワークへの転換を促進する触媒みたいな働きをするのかも知れない。


世界を再構築する

2017年5月4日木曜日

エンドロールが果たす役割

僕は映画を観るときいつも2つの疑問を持っている。

1つは予告や宣伝の長さだ。

本編が始まる前に封切りの予告や宣伝を行うことは上映に向けて観客の準備を整える、論理的解決策だと思う。

暗い館内で我先に着席を急げば思わぬ事故も起きるだろう。

観客が落ち着いて映画を観るためには一定の長さのリードタイムが必要なことは疑いないのだけど、一方で、一定の長さが多様な観衆にとって合理的に定まっているかは甚だ疑問だ。

少なくとも僕には長すぎる。

さて、もう一つの疑問がエンドロールと呼ばれる終幕後のセレモニーである。

スクリーン下から上へとロールアップする役割と名前、BGM音楽によって構成されるこのセレモニーは作品作りに関わった人々への敬意を表しているのかもしれない。

多くの人の力で成り立つ映画という娯楽作品の象徴とも言えるのだろう。

しかし、今日、バリューチェーンが当たり前になり、社会全体がネットワーク化され商品やサービスが多くの人の手を通じて持続的に供給される中で重要なのはトレーザビリティ、つまり追跡可能性だ。

それは、知りたい人、知る必要のある人がしっかりと情報を確認できれば良いのであって、全ての情報を添付することじゃない。

要するに、僕たちは貢献に関する情報も自由に選択したいのだ。

でもね。これからも長い予告とエンドロールに付き合い、ポップコーンを食べながら大勢で観るのが映画館で映画を楽しむスタイルなのだ、と言われるのであれば大人しく座っています。


座ってるよ




2017年5月3日水曜日

インプットとアウトプットを考えるGW

伊賀泰代さん(『生産性』マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの)が言うに、日本人の生産性が低いのは、アウトプットを増やすためにインプットがさらに増えるからだそうだ。

もし、それがスタイルでなく特性だとしたらどうだろうか。

実は、日本人の多くは、アウトプットするよりもインプットする方が得意だ。

これにはおそらく学校教育も影響を与えていると思われる。

しかし、勤勉さや寡黙さが美徳とされてきた文化的背景を鑑みるに、多くの日本人のDNAに記されているようにも思われる。

さて、ついインプットを増やしてしまうのが僕たちの国民的癖だとしたら、癖を弱みと捉えるよりも強みとして活かすべきではないだろうか。

そのために必要なのはインプットに連動してアウトプットする機会の創出だよね。

例えば、企業では様々な研修を行うけど、研修でインプットした内容が職場ですぐに生かされているかと言うと必ずしもそうではない。

業務スキルのようにすぐ使えるものもあるけど、仕事の仕方を変革するようなものはなかなか業務適応できない。

仕事の仕方を改革するためには現場のコミットメントが必要だから、階層別や選抜方式の研修でなく、現場丸ごとで主体的に研修を受けると良いかも知れない。

このように、アウトプットへの連動を意識すると、結局、インプットするプロセスの質を変えるしかない事に気づく。

逆説的に聞こえるかも知れないけど、より価値の高い時間の使い方や人材の活躍を実現するためには、産業組織的プロフェッショナリズムではなく、予断を持たず新しい事にチャレンジし試行錯誤するコミュニティ的アマチュアリズムの方が向いているのかも知れない。


アマチュアが活躍する場を






2017年5月2日火曜日

パーソナリティ特性をわかりやすく理解しよう

パーソナリティ特性は、異なる場面でも行動を予測可能たらしめる人の内面の一貫性だ。

これが生まれ持った不変のものなのか、後天的で可塑性のあるものなのか議論は尽きない。

僕の理解は、後者に近い。

生まれ持ったものと環境(生育環境での刷り込み、環境への適応、環境での適合、環境との格闘で得られる自己確立)の間の駆け引きによってグミのように認識される一貫した形はあるものの変形するものだと考えているのだ。

もう少しわかりやすく言うと、足の裏に例える事ができるだろう。

人は二本の足で大地に立つけど、体重がかかっている場所は人それぞれである。

両足にバランスよくかかっている人もいれば、片足に偏っている人もいる。

つま先にかかっている人もいれば、踵にかかっている人もいる。

内側にかかっている人もいれば、外側にかかっている人もいる。

さらに、地形に応じて体重の掛け方を調整する。

バレエダンサーがつま先で立てるように訓練によって特殊な体重の掛け方をもにつける事もできる。


さて、自分の重心がどこにあるのかを知れば、凸凹の地形を乗り越える強みと弱みが見えてくる。

パーソナリティ特性とは、自分の型を定めるためのものでなく、自分の可塑性に向き合うためのものなのだ。


重心のかかる場所





2017年5月1日月曜日

地毛証明書の本質を考えてみる

最近ニュースで知ったのだけど、都立高校の6割が毛髪の先天的な特徴に関する証明書を提出させているらしい。

まず、公立の学校で、見た目で人を判断する事がまかり通っていることに愕然とした。

学校という組織の規律を守る為に行っているのだろうけど、生まれ持った個性を教師が疑っているのだと知ったとき生徒はどう感じるのだろうか。

教師、学校への反感もあるだろうし、規律を守れない生徒に対する悪い感情もあるだろう。

また、何も感じない生徒もいるだろう。

さて、この問題の本質は、社会には人を見た目で判断するバイアスが広く受け入れられていることにあると思う。

要するに「有り得ること」なのだ。

認知バイアスは、生き物が情報を素早く判断し、行動を正もしくは負の方向に強化するうえで重要な役割を果たしている。

そして、脳は環境と行動を中継ぎすると共に、意識を生み出すことで新たな行動の選択肢を増やす役割を果たしている。

生き物として見た目で判断することは変えられないけど、判断する内容は変えられる可能性があるのだ。

この観点で地毛証明書の問題を見ると、良識と学習に長けていると思われる都立高校において6割のマジョリティーが見た目の判断を正の方向に強化している、それは、学校だけでなくおそらく、生徒とその保護者も含めてのマジョリティーである事に注目したくなる。

つまり社会性という同調圧力は意識の力を借りて選択肢を増やさない方向に機能しているんじゃないのかな。

思考を停止させることよりもさらに踏み込んで選択肢を増やさない思考(積極的同調)を促しているとも言えるかもしれない。

僕は、教育が人の視界を広げ、内面を深め、より良い選択肢を増やすものであって欲しい。

もちろん結果として間違いや失敗もあって良い。

で、ね。地毛証明書といった個性への偏見を強化する方向とは違う選択肢が増えてくれると嬉しいね。


選択肢が増える世界