2017年4月30日日曜日

ロジカルに会話をする方法とは

ビジネスパーソンにとってロジカルに考え話す事は大切だね。

社内外の相手から「何を言っているのかわからない」とか「筋が通っていない」と思われてしまうことはパフォーマンスの低さに直結するのだ。

もちろん、情緒的な会話が必要な場面や、ひらめきの瞬間、対話を行う場合では別。

要はTPOなのだけど、ロジカルに会話をするにはどうしたら良いのだろうか。

方法を整理してみよう。

1.まず問題を明らかにする
ロジカルに伝える必要がある場面の多くは問題解決の状況だ。その問題が誰の問題なのか、なぜ問題なのか等、問題を定義する必要もあるのだけれど、とにかく「○○についてですが」と問題にフォーカスをあてている事を相手に伝える必要がある。

質問から会話が始まっている場合は、相手の質問を繰り返したり、言い換えたりする事で問題の輪郭を明らかにすると良い。

一方、NGは問題を感じない鈍感さがあり、延々と状況説明を展開し、自分の感情を織り込んだ会話だ。

聞いている方は、問題意識の欠如や事実なのか思考なのか気分なのかわからず問題を前にしてモヤモヤ、イライラする。

2.問題の原因、理由を分解して抜け漏れのない構造にする

ロジカルシンキングでは、原因、理由に抜け漏れがない(MECE)ことが重要だけど、会話の中で瞬時にMECEに構造化することは困難だ。だから、会話を通じて抜け漏れを無くす必要がある。その際、相手の力も借りる謙虚さが大事だ。

NGは、原因、理由の断定だ。

「ちょっと待て、それは君の見方だろ?」と言われるのがオチだ。

3.目的とセットで解決策を提示する

ドイツ語には行為だけでなく目的も一緒に描写する特徴があるらしいが、問題を解決するという行為は1つだけじゃない。なぜ、その解決策を選んだのか目的とセットにして話す事で聞き手は問題解決にフォーカスする事ができる。

NGは、目的を違えた飛躍した解決策でロジックを壊す事だ。

せっかくのロジカルな会話でも「何のために解決するのか」が抜けた瞬間に迷走が始まる。一方、の目的が違うことに気づくのがこの瞬間である事も多い。

4.説得の場面では態度と話の構成に気をつける

誰かを説得するときは、事前に十分検討と計画をたて、ロジカルに話を展開する必要があるが、それだけでは不十分だ。聞き手に話し手の自信や公正さ、話の明確さ、妥当性、信頼性を的確に伝えなくてはならない。

NGは、話の中身を疑わせるような素ぶりを話し手が見せる事だ。

ロジカルに伝える話し方は、ロジカルな人の話し方を真似る事が早道である事も少なくないが問われるのは話し手と話の内容の両方である事を忘れてはいけない。


ロジックで武装する

2017年4月29日土曜日

社会化クッキーとは?

新入社員の五月病が気になる季節がやった来た。

妙に混んでいた電車が空き始めてくるのは、入社後の新人研修がひと段落し、本社から各拠点に散っていくかららしい。

新人研修とは組織社会化、要するに会社の色に染められる通過儀礼でもあるから、染まれない人たちにとっては大きな壁とも言えるよね。

組織社会化の壁にぶち当たって、うつや適応障害になるのが五月病だけど、新卒者の3年以内早期離職も時期は異なれど、実は五月病と似たようなものなのかもしれない。

さて、子犬のトレーニングで「社会化クッキー」という言葉に出会った。

もともと群れで暮らす習性を持つ犬が、人や他の犬と折り合いをつけるためには一緒に生活する人間や他の犬との間の社会性を獲得する必要がある。

そのトレーニングに使うのが「社会化クッキー」だ。

要は、おやつを持ち歩き、見知らぬ人に食べさせてもらう訓練なのだけど、見知らぬ人から食べ物をもらって行儀よく食べることが社会化プロセスの一環だとは知らなかった。

というのも、年頭に亡くなった老犬と散歩している時、たまにどこかのおばさんが勝手に持ち歩いている犬のおやつを食べさせてしまう事があり、犬とはそんなものなのだろうと思っていたのだ。


確かに、人においても、社会化は済んでいる人から見れば当たり前のことでしかない。

でも、新社会人にとっては未知の事ばかりだね。

名刺交換もその一つだから、新社会人の行う名刺交換は「社会化名刺交換」ということなのでしょう。


社会化クッキーと五月の風


2017年4月28日金曜日

一生かわらないコトってホントにあるの?

僕は生まれた時から「僕」で「君」じゃない。

これは多分一生かわらない。

でも、君からみた「僕」がずっと僕であるかはわからない。

もっとわからないのは僕からみた「僕」なんだ。


「僕」はいつもここに居る。

そして、昨日よりも少し何かを学んでいる。

だから昨日と違う「僕」になっているように感じる。

それはたぶん悪いコトじゃない。


僕がどこから来た何者なのか。

これもきっとかわらないけど、明日になれば今日の分だけかわっているはず。

今日を大事にしなくちゃね。



ひょっとしたらどこかにかわらない「僕」もいるのかもしれない。

で、ね。僕は今日もかわらない「僕」を探すんだ。


かわるよ



2017年4月27日木曜日

趣味に飽きる時 あなたの理由は何ですか?

「趣味」は、内在する報酬に動機をもつ行動習慣と考えているのだけど、永遠に続くわけでもない。

人それぞれだけど、すぐ飽きてしまう人もいる。

「飽きやすさ」は何も趣味に限った話じゃないけど、持続的な行動習慣が変わる事は興味深いです。

僕の定義で「趣味」を分けて考えると「内在する報酬」(要するにウキウキ)、「動機」(やらずにはいられない)、「行動習慣」(またやる)の3パートになるから、「趣味に飽きる」とはウキウキしなくなる、やる気が起きない、もうやれないのどれか1つか、もしくは組み合わせだ。

具体的には気持ちが冷めたり、時間的余裕や金銭的余裕や体力が無くなるのだ。

でね、時間、金銭、体力があるのであれば、気持ちの問題でこれは、パーソナリティ特性が大きく関わっていると思う。

「飽きる」とは、別の見方をすると新しい可能性を探す事だ。

一方で、続けることによってで何かを築き上げるのを放棄する事でもある。

結局、「趣味」も先天的、後天的に保有する生存戦略に大きく影響されているって事なんだと思う。


飽きないねぇ

2017年4月26日水曜日

学びが全て? 全てが学び?

僕たちは小さい頃から教育を受けてきた。

世界を見回せば、教育機関のおける学習機会がしっかりと整備されているという状況はとても幸せな事なのだと思う。

ところが、「勉強」は「良し悪し」でなく「好き嫌い」で捉えられる事が少なくないよね。

心理学の「態度」で言えば、価値信念要素でなく感情要素で反応している事になる。

いづれにしても、僕たちは最初に「学び」を与えられる機会として意識するのだ。


さて、僕たちが行なっているのは、教育、勉強といった狭義の学びだけではない。

むしろ、学びたくなくても日々多くの事を学んでいる。

「学ぶ」という事を意識すれば、全てが学びであるとも言えるのでしょう。

僕は「学びが全て」と「全てが学び」の違いを脳が環境と身体が繋がりを支配していると見るのか、環境と身体の繋がりに脳が介在していると見るのかの違いであると考えている。

わかりやすく言えば、脳はボス(支配者)なのかサーバント(召使い)なのかということだけど、昨日ロングインタビューをしながら、どちらか一方の立場に偏ることが一番良くないのだろうね、と考えていた。


電車の「学び」


2017年4月24日月曜日

ライナスの毛布と心地よさの報酬

僕たちの愛犬が寝起きするベッドがいささか暑苦しく見えてきた。

そこで妻が新しいベッドを買ってきたのだけど彼はどうも気に入らないらしい。

ベットを置いてあるクレートから引っ張り出して、引っ掻き糸屑を食べている。

そこで元のベットに戻し見ると居心地良さそうに寛いでいるから、やはり新しいベッドは彼とアンマッチなのだ。

その様子はまるでスヌーピーにでてくるライナスと彼の毛布だ。

こうした物への愛着のは犬の世界によくある。

そして、犬と人間の違いを考えるに、生き物が持つ物への愛着がどこから生まれてくるのか非常に興味深い。

今年考えている「趣味」も同様だ。

まあ、穿った見方をすれば、「ライナスの毛布」にも「趣味」にも「愛着心」が隠れている。

心理学的で「安全基地」と言われる「愛着行動」は、成長に大きな影響を与えるが、「安全基地」の実態は人によって大きく異なっている。

一度、自分の「安全基地」を探して見るのも面白いかもしれない。



基地問題で揺れる











2017年4月23日日曜日

世界にたったひとつだけの花が咲く場所

僕たちは唯一無二の存在だ。

たとえ一卵性双生児のようにDNAを分かち合っていたとしてもそれぞれは異なる存在だ。

出発点が一緒でも、その後のちょっとした事で違いが生まれる。

環境の影響は大きいよね。

僕たちが言語を獲得するプロセスで重要なのは、自分の脳の力じゃなく環境の力だっていう研究もある。

例えば、赤ちゃんは「water」という言葉を一番多く使われる台所で覚えるという。

この場合「玄関」でなく「台所」が果たす役割は大きい。

大人にとっての「職場」も一緒だ。

偏りのあっても業務、職務スキルや社会性はその場所の力だ。


さて、キャラクターと呼ばれる「変わらない性格」が概念上のものなのか、事実なのかは別として同じ種でも環境から異なる力を引き出し違う花を咲かせる。

そして僕たちも環境の一部なのだ。


相互に影響し合う



2017年4月22日土曜日

頭の使い方、気持ちの使い方、心の使い方 むずかしいことをやさしくしてみよう

僕は犬や猫や馬や豚などになった事が無いのでそれらの生き物が自分をどう捉えているのかわからないけど、自分に関しては若干の知識を持っている。

あるがままの自分も大事なのだけど、一方、社会で見知らぬ人たちと折り合いをつけるためには自分をコントロールする自分も大事だね。

さて、個人的には自分をコントロールするためにはリフレクションの技法がマインドフルネスやゲシュタルトなどよりもとっつき易いと思う。

リフレクションでは心のエレベーターとして思考、感情、欲求で自分を客体視するのでイメージ化し易いのがその理由なのだ。

さて、もう少し自分なりに考え方を整理すると、思考、感情、欲求の客体視とは、頭の使い方、気持ちの使い方、心の使い方となる。

頭の使い方は、思考の癖からの解放だ。要するに最初に頭に浮かぶ考えは癖なので囚われて無いってこと。

気持ちの使い方は、好き嫌いのコントロールだね。対象の良いところを探して「嫌いじゃないかも」って思えればOKだ。

そして、心の使い方が一番難しい。

心って、満たされない想いに支配されるものだから、心の使い方って満たされない想いを扱うことでもあるのだよ。

誰かが満たしてくれたらそれで済む場合もあるけど、大概、誰も満たしてくれないから満たされない自分、つまり子供の自分と向き合う修行になる。

やっかいだね。

まとめると、最初に頭に浮かんだ考えを見直し、嫌いな相手の好きになれるところを探し、常に欲求不満な自分の中の子供を成長させていくってことだよ。

どう?
やさしくなったかな?


やさしい季節





2017年4月21日金曜日

同じものを観て、同じように感じろというのは無理難題

経験から学ぶことは大切さだけど経験から何を感じるかは人それぞれだよね。

でも、企業が行う研修でゴールとして描かれるのは「同じように感じ、考え、行動する」ことだ。

それは、研修などの教育場面だけでなく懇親イベントなどでも同じ考え方が潜んでいるのでは無いかな。

例えばリーダーになる人はしっかりした目標や目的を持つことが多いけど、メンバーが持つのはリーダーと異なる目標や目的だったりする。

もっとはっきり言うと、リーダーが皆を楽しませる為に企画したイベントをメンバーが鬱陶しく感じているのは当たり前なのだ。

これは、経験をデザインするときに考えなくてはいけないテーマだね。

例えば、昨日聞いたコミュニティマネジャーの話では「参加のデザイン」と言っていたけど、参加まではマネジメント出来るとして、そこから何が生まれるかは創発であり、化学変化だ。

だから、「こうやったら爆発する」と言うリスクヘッジはある程度想定出来るけど、好ましい反応が得られるか否かは結果を評価するしかない。

要するに経験のデザインって、結果のレビューに掛かっているってことだよ。

だからリフレクションが大切なのでしょう。


同じ絵を観ていても何を感じたか深く対話を行えばお互いの違うことがわかってくる。

「なぜ同じように感じないのか」と腹が立った時は、肝心なプロセスを等閑にしてしまったことに気づかなくちゃいけないのだ。


感じ方は人それぞれ





2017年4月20日木曜日

コミュニティと放送事故の関係と意味を考える

今日の夜、久しぶりに法政大学長岡ゼミのカフェゼミに参加した。

社会人が参加できる学生のゼミって貴重だ。

さて、本日はコワークングスペースのコミュニティマネジャーの話を聞き、対話する場であった。

そもそも、コワークングスペース=レンタルデスク的な認識しかしていなかった自分を恥じながらやはり、ずっと考えていたのは「コミュニティ」のことだ。

僕はコミュニティ(共同体)抜きに組織のことを考えることができない。

これはマッキーバーのコミュニティ論に影響を受けているのだけど、コミュニティから目的性が高まってアソシエーションに移行する段階と、コミュニティが持っている創造性の高さはアソシエーションへの移行で失われるとの仮説を持っているからなんだ。

で、ね。長岡教授のカフェゼミは学び自体を問う、「学びの共同体」なのだと思う。

合目的的であることや予定調和を疑う態度の呈示はとても印象深い。

さて、カフェゼミ終了後にゼミの卒業生とかつてのカフェゼミの出来事を笑いながら思い出していたのだけど、その時は参加者が基調講演をした人に場を壊すぐらい喰ってかかった。

それは放送事故レベルだったように思う。

でも、創造性とはまさに事故なのだよね。

多くの人は、コミュニティは日常的に事故も起こりうる場だけど、会社は事故を起こしてはいけない場だ。

要するにコミュニティには事故を当たり前と受け止める寛容さがあるけど組織にはそれが無いってこと。

改めてその大切さに気づけた夜でした。


カフェゼミ!






2017年4月19日水曜日

親分と子分という共依存関係

酒井穣さんのリーダーシップ論では、孤独なリーダーシップが語られている。

でも、親分、子分の関係では孤独なリーダーシップは成立しないよね。

要するに、親分は子分を必要とし、子分は親分を必要とするのだ。

そんな、共依存関係の苦労もあるので、親分同士、子分同士の間には不思議な親近感があったりして、仲が良い。

また、子分上手はどんな親分からも好かれるし、逆もしかりだね。

でも、ね。共依存関係であることに違いはない。

可愛さ余って憎さ百倍、の世界がその先に待っている。

上下間での補完関係が拗れるとややこしいのも同じ構図なのではないだろうか。


浮くのは自らの力?河の力?

2017年4月18日火曜日

理念浸透と学びの促し アジとファシリ、勝つのはどっち?

組織が些細なことでも一丸となれるために日頃必要なことは何だろう。

「一丸になろう!」という理念を強く浸透させることだろうか。

それとも構成員が一丸とならない現状から何かを学び取り、自ら慣性軌道を修正することだろうか。

「浸透させる」ことには少なからず強制力が働いている。

浸透させたい人がよく行うのがアジテーションだ。

みんなと同じことをしなさいという同調圧力だって「外圧」だ。

で、人は「外圧」が掛かると普通反発する。

反発を防ぐためには、「認知」「理解」「共感」の段階的醸成が必要らしいけど、「理解」と「共感」の間には深い溝が横たわっているよね。

では、「我々はなぜ一丸となれないのか?」という問いを起こすのはどうだろうか。

「認知」ではなく、「認知的不協和」に目を向けてみるのだ。

そこから内省が進み、「本質への問い」が起き、「新たな意味化」によって「選択肢の拡大」、つまり一丸となるためのそれぞれの行動変化が起きることを期待するのだ。

内省を支援するためにファシリテーションが行われるけど期待通りの答えに到達するかはわからない。


どちらも組織の状態や、やり方次第なのだと思うけど、些細なことに向いてるのはどちらかしらん。


上下どっち?


2017年4月17日月曜日

体の強さと心の強さ

人は見た目で他人を判断するバイアスを持っている。

だから、体格のガッシリしたスポーツ選手などは心も強いと考えがちだね。

でも、某野球選手などを見ていると決してそうではないことに気づくのだ。

また、サッカーでもFIFPro(国際プロサッカー選手協会)は「現役サッカー選手の26%、引退した選手の39%が精神疾患で苦しんでいる」との調査結果を2014年に発表している。

もちろん、精神疾患=心が強くない、ことではないけど、見た目と内面は必ずしも一致しないことを意識する必要がありそうだ。

もちろんその逆で、見た目は弱々しいのだけど、とても心が強い人も居る。

そう、人を見た目で判断してはいけないのです。


可愛いけど攻撃的
攻撃的だけど気は弱い



2017年4月16日日曜日

崩れない石垣に学ぶ組織の作り方

明治神宮に清正井という井戸があって清らかな水が湧き出している。

清正とは築城の名人、加藤清正のことだ。

その清正が築城した代表的な城、熊本城が震災によって大きな被害を受けたのが丁度一年前。

今日、NHKスペシャルで熊本城を取り上げていた。

震災ポルノと呼ばれる報道映えするテーマなのではあるけど、「サムライの英知」としたその内容はとても示唆に富んでいた。

ポイントは、築城当時とその直後の地震を経て行われた築城の素晴らしさと明治の改修の比較、さらには素晴らしい技術にも改善の余地があることだった。

まず、地面に対してい水平でなく勾配に対して垂直、さらに武者返しと呼ばれる反り返った石の積み方が震災に夜崩落の有無に大きく関わったという考察である。

それは慶長伏見地震により、伏見城の全壊を経験した清正が、同じく地震を経験した石積み職人と試行錯誤を繰り返した結果らしく、それは正しい理論に到達する道だった。

また、揺れを吸収する「ぐり石」という石垣内部の丸石が繰り返す余震で沈み込み、石垣が膨らみ崩壊する、そしてその対策が施されていたという番組内の解説にも唸らされた。


組織をある規模以上の負荷に耐えられる階層構造にしようとすると、縦割りに成らざるを得ない。

そして多くの場合、等級や職階で水平に積み上げる。

石垣を積みようなものだ。

しかし、それは脆い構造になる。東芝を見てもよくわかる。

そこで、CFT(クロスファンクションチーム)やマトリクス組織の導入、メンバーのマルチタスク化などたすき掛けを行う。

まさに、それは環境という勾配に対して垂直に構造を組むことであり、武者返しという反りは、経営者、役員といった上部の構造に圧力を分散する関係性が大事であることと同じであるように思える。

一方、CFT、マトリクス組織、マルチタスクはメンバーに負荷をかける。

丁度、ぐり石が余震で沈み込むようなものだ。

今後の熊本城の改修では、沈み込みを防ぐ特殊マットの導入が検討されているらしいけど、組織においては同期の絆がそれに当たるのではないだろうか。

で、ね。崩れない石垣に学ぶ組織の作り方とは、

1.組織は環境の圧力に対して有効な役割や職務をベースに積み上げる。つまり、ある部分ではリーダーだけど、ある部分ではフォロワーになるといったスタイル。
2.上位者ほど横にも下にも関係性を重要視する役割を担う。
3.メンバーに横連携が生まれるようしっかりと取り組む。

ということになる。

さて、如何だろうか。


英知


2017年4月15日土曜日

趣味の癒しを考える

「定年退職」が死語になるのもそう遠くないかもしれない。

一生懸命働いて、余生を楽しむライフスタイルが当たり前でなくなるとすると、今の働き方に何が起きるのだろうか。

さて、今年のテーマは「趣味」という、「内在する報酬による行動習慣」だけど、趣味の無い人人にとって定年は悪夢かもしれない。

企業によっては、定年後に備えて趣味の獲得を奨励していたりする。

ところで「趣味」だけど、内在する報酬だけでなく傷ついた心を癒す効果もありそうだ。

昨日のブログで、自らの癖が自分を傷つけていくことを考えたけど、そうやってついた傷を癒しているのが実は「趣味」なのかもしれないのだ。

なぜかというと「趣味」は「自己承認」と言えるからだ。

内在する報酬は習慣によって強化される、つまり自分に「ご褒美」が与えられ続けるのである。


「癖」には自己否定が内在するのに対し、「趣味」には自己承認が発生する。

いづれも自分らしさなのだけど、否定と承認のバランスが存在する。

こう考えると、「癖」と「趣味」の関係が浮かび上がってくるのではないだろうか。


OUTとIN



癖は知らずに自分を傷つけている

僕は映画「シービスケット(Seabiscuit)」で以下のセリフに痛く感動する。

”You don't throw a whole life away just cause he's banged up a little. ”
(ちょっとのケガで命まで奪う必要はない)

録画した映画(しかも途中から・・・)を何回も見るのは、このセリフを聞きたいからなんだ。

そして今朝も観ている。


僕には、兎角、白黒をつけたがる癖がある。

だから気になることがあると、それが良いか悪いかを決めてしまう。

癖だから仕方ない、とは思うけどそれではいけないとも思う。

で、ね。時に優柔不断でモノゴトを決められないのだけど、それはとてもストレスが溜まる状況だ。

つまり、自分の癖が自分を傷つけてしまうのだ。

そうやって僕の中の白黒スイッチは強化され、知らないうちに僕の傷は深くなっていく。


実は冒頭の映画のセリフは僕にとって他者に向いた言葉じゃなく、僕自身に刺さる言葉なのだと思う。

ちょっとの怪我を大怪我にする僕の心の”自動処理”を救ってくれる言葉としてね。。

だから今朝も観ているのだ、きっと。


奥にある







2017年4月13日木曜日

頭の使い方あれこれ

いろんな仕事によって頭の使い方って全く違う、そんなことを今日は強く感じた。


今日、午前中はプログラミング、午後は社内研修の講師、事業に関する打ち合わせ、データ分析、そしてシステムに関する打ち合わせを行った。

それぞれを説明すると、

1.プログラミング:浅い呼吸で眉間の間に意識を集中し頭の中でPCと会話する感じ
2.研修講師:説明と問い掛けを繰り返しながら受講者の関心と集中力と引き出す
3.事業の打ち合わせ:状況と構想を説明しながら異なる視点の意見を引き出す
4.データ分析:手順の沿ってデータを作成、分析しその結果を評価する
5.システム打ち合わせ:相手の要望を聞きだしながら要件を整理し方向性を示す

と言った感じだった。

さて、相手が人なのか機械なのか、その違いがあるけど対話を通じてゴールを目指すプロセスは基本的に一緒。

でも使っている脳の場所で行くと、前頭部、側頭部、中心部、後頭部、頭頂部みたいにバラバラな印象がある。

実際にどうかはわからないけどね。

要するに対話もテーマや相手によって思考が変わると言うことなのだけど同じことだけを使い続けるとなんとなく良くない気がする。

金属疲労みたいなことになりそうだ。

もっとも今頭のどこを使っているのか考えながら対話をするのも不気味だよね。


今日を振り返ってみて向き合う相手(対象)を色々変えることは頭の健康にとって良いことなんじゃないかな。

同じことをずっと続けた一日より疲労感が少ないし達成感もある。

男性が仕事から帰って家事や育児を行う。女性が子育てをしながら働く。

頭の使い方にとってはとても良いことに思えるね。


月が綺麗





人は変わらない、と言うことを証明することは出来ない

久しぶりに同級生に逢って「やっぱり、こいつ変わらないなぁ〜」と思うことは珍しくないよね。

でも、それは自分にとってラベリングし易いところだけ切りだしているからなのだと思う。

認知の歪み(バイアス)は過去の経験と言う色眼鏡を通して人が変わらないと言う間違った確証を人に与えるとも言い換えられるね。

さて、人は変わらないことを証明するとしよう。

例えば、20年ぶりの同級生であれば、その20年間に変わらなかったことをどう証明すれば良いのだろうか。

変わらなかったことを証明するためには、前後だけでなく、途中の客観的情報も無くてはならない。

人に関する客観的情報と言えば、身長、体重があるけど、20年間、一分一秒たりとも身長、体重が変わらないことなど有り得ない。

つまり証明自体が現実的じゃない。

で、ね。統計学の確率論では帰無仮説っていう、逆説的な検証の考え方があるけど、人は変わらないことを確かめられないとすると人は変わると言う対立仮説の信頼度が上がるわけだね。

要するに冷静に考えれば「人は変わる」という結論の方が信頼性が高いのだ。

そうは言っても、「人は変わらない」と言う主張が世の中で広く受け入れられるのは、認知バイアスだけでなく、心の中に価値の固定化、例えば「神」や「仏」と言った絶対的存在を持つ働きも関係しているのかもしれないね。


日々成長




2017年4月12日水曜日

ファシリテーションで大切なこと

会社の内部で社員は常にマネジメントの対象だ。

マネジメントからの要請が常にあり、それに的確に応じることが求められている。

でも、「人」はそもそも自律した複雑な存在だから常に応じられるわけじゃ無い。

マネジメントの事情よりも現場や個人の事情が優先されることは珍しくない。

そんな状況のもと、ファシリテーションは、「マネジメントのからの要請に応じさせる働きかけ」だ。

さて、ファシリテーションを行う人のアプローチは大きく2つあるように思う。

1つは、ロジカルに詰めるスタイル。

プロセスだけでなく、人の心の複雑さも含め「制御」する、そのために手法を駆使すると言うスタイルで、要するに変革をゴリゴリやるスタイルだね。

ゴリゴリやるにはエネルギーも必要だから、強いパッションが求められる。

そういったインテリマッチョが行うファシリテーションに対して、もう一つのスタイルは、グラフィック・ファシリテーションのように、自然と内省が進むための関わり、支援を行うスタイルだ。

意外なことに、経営会議、役員会などで用いられるケースが多いらしい。

経営者や役員は、そもそもエネルギッシュなインテリなのでその人たち相手にインテリマッチョは逆効果なのだろうね。

で、ね。大切なことは、内部の要請でなく、組織の外で起きる変化に応じる働きかけ、じゃないかな。

内向きになれば必然的にお互いの目線が交差して現場や個人の事情が際立つからね。


際立つ


2017年4月10日月曜日

リーダーシップは子供の心に宿るもの?

「あそこにあるボールを取っておくと後で役に立つよ。」

そんな予言があったとする。

ある人は、「そうだね、取っておこう」と納得し、ある人は、「何で?いらない」と拒むとした時、その両者の違いは先のイメージが有る無しに寄るところが大きい。

この喩え、会社の中で未来思考と現実思考、創造性と模倣性の食い違いを表してみたつもりだ。

未来思考で創造性のある人は、未来に価値を生む他には無いものを目指すけど、現実思考で模倣性のある人は、今皆が重んじる価値を目指す。

この違いは「やること」と「やらないこと」を決めているとも言える。

そう、「戦略」だ。

で、ね。「戦略」は場面によって結果が異なるものだから、正解は無い。

ボールは取っても取らなくても間違っていない。

しかし、サッカーをするならボールが無ければ始まらない。

例え今サッカーをしていなくても、将来、サッカーをしたいなら今、ボールを取らないといけないのだ。

将来何をしたいのかが「ビジョン」でリーダーには欠かせない。

だって、先を示し導く役割=リーダーだからね。

結局、リーダーには未来思考と創造性が欠かせないってことなのだけど、この2つって子供の専売特許みたいなものだ。

そんなことを考えると、リーダーシップはそもそも子供の心の中にあるのじゃないかなって思えてきた。

そして僕たちは大人になり足元ばかりを見ることでリーダーシップを失っていくのかもしれないね。


リーダーだどー







2017年4月9日日曜日

なぜ手法では組織を改革出来ないのだろうか

多くの組織では組織の問題や課題を解決する為に多くの労力を注いでいる。

構成員に様々な形で圧力をかけて解決を図ることもあれば、教育を通じて解決を図ることもある。

組織をより機能させる為に用いられる手法はそれこそ何でもあり、だ。

逆に、効果を発揮したアプローチが一番良い手法ということになる。

それは、生じている問題や課題は固有性や特殊性が強いし、要因や原因も複雑であるからやってみないとわからないからだろう。

大切なことはまず複雑なコトを複雑なまま理解することだ。

そして時には「解決」という方向性自体も結果の一つであり、選択肢の一つだと認める勇気も必要だ。

さて、手法の多くは還元主義的に構成されている。

要するに問題の真因を特定し、それを解決することで全体が良くなるという姿勢だね。

もちろん、このアプローチが有効に働くケースもある。

ただそれは、決定論的な予測された出来事でなく、偶然であるかもしれないのだ。


先日、法政大学長岡教授にインタビューを行った時、組織人はマーケットを対象にする時と、組織内部を対象にした時で前提が全く異なっているという重要な指摘をされていた。

その指摘をもとに考えると「組織は改革できる」という暗黙の前提に間違いがあると言える。


桜を召し上がれ


2017年4月8日土曜日

「出会い」とはきっかけ?それとも気づき?

昨晩の自画持参、がちゃトークはテーマが「出会い」だった。

時節柄のテーマだね。

いつものように色々な対話があったのだけど、僕が印象に残ったのは、「出会い」とはその時でなく後で気づくものじゃないかという考え方だ。

その場合、知らないヒトやモノへの初期接触は「出会い」ではなく、単なる経験だ。

出会った時には、それが出会いだとはわからず、「出会い系」とかは本来、意味としておかしいのかもしれない、という意見は、「出会い」の意味を深める良い問いになったね。

確かに、「出会い」というと初期接触を思い浮かべるけど、数限りない初期接触の中で「出会い」は極少数である。

そして僕たちが全くの前提なしに瞬間的に「出会い」を見極めているのかというと、自分の経験を振り返って、そうであると言い切れないのだ。

で、ね。2つのパターンがあるように思う。

一つは内省を通じて経験を意味づけし、新たな行為(関係性)が芽生える経験学習のプロセスとしての「出会い」だ。

もう一つは、経験学習を通じて行われた意味づけから生じる選択的初期接触としての「出会い」だね。

わかりやすくすると、「あれは出会いだった」と「出会うべくして出会った」という2パターンだ。

結局、どちらのパターンでも「出会い」には経験学習が隠れている。

そして意味づけの背後に本質が隠れている。

その本質を探って見て、「出会い」って「余白への気づき」なのだと思ったね。

要するに「それまでや、その時に無いもの、足りないものに気づく」ことが「出会い」だと考えるのだ。

まあ、もっともそれを思いついたのはグラフィック・レコーディングで出来た大きな余白を見たからなのだけど・・・。


余白発見!



引き受け上手な人の悩み

昨日、相手が喜ぶ姿が嬉しくてついあれこれ引き受けるので、仕事が膨らんで終わらなくなってしまうという話を聞いた。

このままでいいのだろうか、とちょっと悩んでいるとの事でもあった。

僕は、こういう人たちが世の中には少なくない事を知っている。

なぜなら、一緒にいてとても助かる引き受け上手な人たちだからなのだ。

何かお願いをされた時に気持ちよく引き受けてくれる人は、相手の喜ぶ顔が仕事のやりがいになっている。

とても感受性が高い人たちだ。

また、そこには具体的な達成感(役立ち感、自分の成長感)もあって、合理性よりも感受性がエネルギーになる。

また、多くの場合は引き受け疲れもしていて、そんな自分に「このままでいいのだろうか」と不安感も持っている。

この疲労感と不安感によるストレスが増すと、普段は見せない顔が出てくる。

拒絶と回避だ。

引き受けることを拒み、相手の悲しむ顔にも反応しなくなる。

そして、一度この状態に入ると休みを取って回復することよりも、自分の生活スタイルに疑問を持ちそれを変えようと考え始める。

それくらいの覚悟が必要だ、と結論づけるのだろうね。


僕の実感だけど引き受け上手な人が引き受け嫌いになることはない。

引き受けられなくなっている時はあっても、それは、前述のようにストレスによる拒絶と回避の結果なのだから、その予兆を感じた時は休息を取らなくてはならないのだと思う。

しかし、そもそも休息をとる事が苦手であるところが悩ましい。

だから自分の中の我がままな子供っぽい感情に目を向け、拒絶、回避、疑問の兆しをモニタリングできると疲労、不安の存在を早期に認められるようになる。

「認める」=心の掃除だから、こまめに認められるときっといいよね。


「認める」こと




2017年4月6日木曜日

意味、の後先

「意味」は成長のキーワードだ。

でも、脳科学では行為の後だし、心理学では行為の先にある。

もっとも、心理学でも説明しきれなくて、「無意識」が出てくるね。

禅やマインドフルネスでは「無意味化」することで「意味」と向き合おうとする。

要するに、「意味」って何だ?、ということだね。

僕が思うに、「意味」とは、次の行為の道標なのだ。

例えば、我が家の幼犬が噛みつくのは本能だけど、「噛む」→「無視される」というオペラント条件付けを行ったところ、噛みつく傾向が明らかに減っている。

つまり、「噛みつく」ことの「意味」が変わったことによって、次の行為も変化したのだね。

だから、僕は「意味」を操れる人は無敵だと思うし、「意味」に囚われる人に夜明けは来ないのではと感じる。

他者を敵と意味づける人に夜明けは来ないのだ。

それは、国レベルでも、個人レベルでもそうだと考えるのだけどいかがでしょうか。


意味あり?



入社三日目、会社行きたくない

今日も新入社員について考えるつもりはなかったのだけど、たまたま見ているテレビで、もう会社を辞めたいと言っている新社会人の話題を取り上げているので考えてみる。

そもそも、テレビで取り上げるほどの話題でもないように思うけど、一方で、合宿研修で「上司に叱られる練習」があると聞いてちょっと複雑な気分になった。

企業は新社会人の組織社会化を迅速、かつ着実に推し進める必要があり、「叱られる」こともその一環であることは理解できなくない。

しかし、研修という場で一律に行うテーマなのかと言えば違うと思う。

まず、「叱られる」ことの経験や耐性は個人ごとに大きく異なっている。

そして、本来、新人研修は、仕事についていけるか不安を持っている新入社員に対して適切な支援を行い不安の払拭と仕事や組織へのコミットメントを形成することが目的であるが、一律に「叱られる練習」は適切な支援となっていない。

支援関係における7つの原則(「人を助けるとはどういうことか」エドガー・H・シャイン著 金井真弓訳)が以下のように提示されているけど、新人研修を支援という観点から眺めるとおかしなことも少なくない。

1.与える側も受け入れる側も用意ができているとき、効果的な支援が生じる
2.支援関係が公平なものだと見なされたとき、効果的な支援が生まれる
3.支援者が適切な支援の役割を果たしているとき、支援は効果的に行われる
4.あなたの言動すべてが、人間関係の将来を決定づける介入である
5.効果的な支援は純粋な問いかけとともに始まる
6.問題を抱えている当事者はクライアントである
7.すべての答を得ることはできない

やはり新人研修は、社会化を支援するというより社会化を推進(強化)する側面が強いのではないかな。

そして変化を強制する外圧が、3つのF(Fight:歯向かう,Flight:逃げ出す,Freeze:固まる)につながる、即ち「辞めたくなる」のでしょう。

変化を強制する外圧は「叱られる練習」だけじゃない。

社会人にとって当たり前の、規則正しい生活、業務時間での集中も外圧だし、休みの日のボウリング大会なんていうレクリエーションも外圧なんだろうね。

それらが外圧と感じなくなる=社会化が進んだ状態でもあるので、組織人の立場からは「頑張れ、新社会人」ということになるけど、「それはちょっとね・・・」と違和感のある研修メニューは減って欲しいものだ。


 Flight? , Freeze?



2017年4月5日水曜日

何となく「新入社員」ネタを考えてみた

新年度を迎えると、学校を卒業した新社会人が誕生する。

「新入社員」が大量に生まれるわけだね。

この時期はそういった話題が増えるので僕もちょっと考えてみた。

僕が「新入社員」に気がついたのは月曜日の朝、地下鉄に乗る時だった。

目新しいスーツを着た10人くらいの一団が不安げな表情で電車を待っていたのだけど、遠目に見ても明らかに異質な集団なので、「ああ、今日が入社式なんだな」と気づいた。

あの新入社員たちはその後どうなっているのかな。

さて、かつての新入社員たちが世の中にはたくさんいる。

というより、誰でも皆、新入社員だった時期があるわけ。

では新入社員から「新入」が取れるのはいつ頃なのだろうか。

僕が思うに6つくらいのタイミングがある。

1.2回目の出社から
2.最初の一週間を終えた時
3.三ヶ月くらいして新人研修が何となく一区切りついた時
4.丸一年経過して二年目を迎えた時
5.次の新入社員が入社した時
6.新入社員として紹介されなくなった時

「新入」というラベルを貼るのも剥がすのも周囲であり本人だ。

ただ「社員」というラベルまでも剥がさずに頑張って欲しいよね。


サクラサク









2017年4月4日火曜日

汎用と専用の違い、考えたことありますか?

知識にはいろんな場面で活かせる汎用的な知識と特定の状況で威力を発揮する専門知識があるよね。

汎用的な知識は、今すぐ役立つわけじゃないけど引き出しとして持っていることが望ましい。

知識の獲得は短時間で行われ、保有はリラックスした状況で持続的に行われるという傾向があると思う。

そして、知識の活用は「閃く瞬間」、アハ体験で行われることが多い。

「あ、これは!」みたいな感じ。

これに対して専門知識の獲得は長時間かけて高い集中の元で行われ、すぐに必要とされ実践の場で繰り返し使われる傾向があるんじゃないかな。

活用というより「鍛錬」のイメージが強い。

人工知能には特化人工知能と汎用人工知能があって、特化型はビッグデータと機械学習でまさに鍛える知能だ。

一方で、特化人工知能の欠点は、汎用性が無いこと。

IBM Chef Watsonは、料理のレシビを創造するけど、花の名前は全くわからない。

汎用人工知能はまだ無いけれど、実現した時は、いろんな情報を取り込んで場面に応じて自律的に引き出してくれるリラックスした存在になるのではないだろうか。

さて、汎用と専用を考える時、大切なのは用いる場面とその効果への期待を明確にすることだけど、もっと大事なことはそれぞれの限界性を知ることだと思う。

これは、道具であっても、知識であっても、人工知能であっても同じではないだろうか。


これは汎用になった(笑)




2017年4月2日日曜日

強みの質に向き合う態度を

日本人の取り柄は勤勉さだと言われるよね。

責任を自覚して物事に真面目に取り組む姿勢は、程度の違いこそあれ日本人が生れてその後、身につける気質であるということなのでしょう。

理由として四季があるから、とか、農耕民族だから、とか、遥か遠い地からずーっと移住してきた民だからとか言われるけど真偽は定かじゃない。

そもそも、本当に総じて勤勉なのかも定かじゃない。

さて、明日から新年度が始まる。

そこで、新年度に適した「勤勉さ」という強みを4つ考えてみよう。

1.生産性を高める・・・労働時間を減らしアウトプットを増やす努力を続ける
2.世界を広げる・・・・興味のないことに取り組む努力を続ける
3.発見する・・・・・・積極的に経験を積み、その意味づけを行う
4.心を広げる・・・・・他者への関与と寛容であることに取り組む

この4つから言えることは、量よりも質に対する「勤勉」な態度が重要ってことなんだ。

それがイノベーションの源泉なのだと思うのです。


イノベーションを起こす






2017年4月1日土曜日

修羅場を良しとする世代特性を刷新する

僕たちの世代にとって修羅場は勲章だ。

修羅場を越えて成長を遂げたという自負があるからね。

だから、現在、組織人の学びの主流になっている?経験学習の観点でも修羅場をくぐることがより価値のある経験と考えがちだよね。

でも、僕たちが修羅場の先に光明の見出したのは、僕たちの力じゃなくて、時代の潮流だったのかもしれない。

だとすると、アゲインストの今の若者に修羅場を潜れっていうのは間違っている。

光明のない修羅場、をイメージすれば救いがないことがわかるよね。

要するに、経験学習って修羅場がデフォルトじゃないんだ。

もっと日常的なことからだっていくらでも学べる。

意味づけよりも経験自体を格付けするのは既得権益的な階級意識の表れってことなのだろうね。

で、ね。僕たちは修羅場を神格化しちゃいけないのだ。

だって、これからの時代の主役は僕たちじゃないのだもの。


STEP UP!

3月31日を考える

締め後ブログを書き始めようとPCを開くとFBには転進の報告がいっぱい上がっていた。

個人的な印象だけど、多くの企業が期末を迎えるこの日を節目とするのは長年組織に貢献してきた人が多いように感じる。

4月から新しいことが始まるというリズムは、桜が満開になり空気も温むという、視覚的、体感的な変化もあるし、なんだか日本人を感じるよね。

社会人になるまでは、3月31日は慣れ親しんだ環境や状況最後の日ということで新たな緊張が始まる前のリラックスするタイミングだった気がするけど社会人になってからはあまりそういった感覚はない。

また終わって、また始まる、という感じなのだ。

もちろん、節目ではあるのだけど時期的なことよりもっと大きな変節点が日常に点在しているからかもしれないね。

例えば、僕にとってある日に何か素敵なことや大切なことに気づいたとしたらそれは年度末の一日よりも意味がある。

去年も今年もそんな意味のある一日はたくさんあった。

でも、やっぱり3月31日はやっぱり特別な一日だと思う。

僕が日本人であることを必ず思い出す一日だからかもしれない。


美味しい3月31日