2017年11月22日水曜日

愛なき組織変革って有り得るの?

どんな組織にも自分のやりたいようにしたがる人は居るだろう。

それは日本相撲協会のように伝統的なしきたりを大切にする組織でもそうだ。

最近の騒動を見て居ると、現横綱にしても元横綱にしても、利他的というより利己的な姿に見えてしまう。

要するに誰かのため、じゃなく自分のため、なのだろうとね。


さて、組織には自律的に構造化と最適化が進む傾向が内在している。

そもそも何がしかの「求心力」があるから組織化が起こるわけで、組織を維持させる方に向かうのは自然な流れでもある。

そこで組織を変革するためには「組み替え」が必要になるのだけど、惹き込まれていない人を組織に取り込むことはその時は大きな刺激になるけど、後に組織から排出されてしまう。

こうした「薬」のような存在にはなり得るけど、新たな「求心力」となるためには、僕は組織や組織が機能を発揮するための仕事への「愛」が必要だと思う。

他者を許し分かち合う気持ちが無い人に誰も惹き込まれないよね。

一緒に仕事をしていてもなんだか薄寒くなってくる冷え感からは、冷めた関係しか生まれない。

熱すぎるのも奇妙だけど、冷めた関係で組織を変えられるとはとても思えない。

進むとしても変革ではなく、部分に参画し、自己の正当性主張と他者の無駄を糾弾する、機能化、合理化、最適化なのでしょう。


王者のようだけど冷たい存在





2017年11月21日火曜日

「物語る組織を創る」のは誰ですか?

「物語を変える」

この文には主語がない。

しかし、主語を「自分の」とするか「皆の」とするかには大きな違いがある。

「自分の」「物語りを変える」には強さではなく「弱さ」が意味を持つ。
「皆の」「物語りを変える」には演説、雑談、対話、議論の物語法マトリックスが有効である。

今日、僕が参加した「物語る組織を創ろう ~共創し学習する、フォロワーシップによる新しい組織」というイベントの中で僕が気になったポイントだけど、前者は埼玉大学大学院・宇田川元一准教授、後者は立教大学大学院・梅本達夫特任教授の話である。

共に経営と組織の観点ではあったもののナラティブという個人の物語へのアプローチと、ストーリーという集団の物語のアプローチの違いは僕には異質なものに感じられた。

イベントに参加した人5人と話したところ、大学病院の精神科で医師をされている方は前者、他の4人(コンサル、人事、経営)の方は後者に関心をお持ちだった。

今日のイベントの主催、非営利型株式会社Polarisは、『ちゃんと』から自由になり「物語る」組織となりたいと、どちらかと言えば個人の物語からはたらきかたをつくる方向性が出ていたように思えた。

僕はイベントがもやもやした感じで終わることに肯定的なのだけど、今日のもやもやはややネガなもやもやだ。

なぜなら「寄りそう」と「盛り上げる」の、本来は使い分けるべきものを妙に一体化して場を作っているように感じた(違いへの言及がなかった)からだ。

反論、反証があまりに少なかった。

最後の質問セッションで宇田川さんの「人間は皆違ってわかりあえないものという前提で良いのではないか」という一言が、このイベントの前提であり、そして結論であるのなら、物語法マトリックスで「そもそも」(起)「でも」(承)「いやそれなら」(転)「要はこうだ」(結)のうち、僕は「でも」(承)「いやそれなら」(転)のないことを気にしているのかもしれない。



反論、反証には時間が足りないね





2017年11月20日月曜日

自分についた嘘は自分に帰ってくる 仕事選びもね

今の僕にとって学びたいことと仕事にしたいことが一致している。

でも、ここに至るまでに大きく迂回してきたなぁ、と思う。


そもそも、僕の大学と就職は不連続だった。

自慢じゃないけど、卒業するから就職したのだ。

大学で「プロフェッショナル」とか「X理論・Y理論」などを勉強たことを思い起こすとまるでお笑いの就職活動だったよね。

でも、その当時は、皆が就職するから就職するのであって、金融業界に人気が集まっていたので銀行に潜り込んだわけである。

仕事は「皆がするもの」だった。

なので、4年経って研修で外の世界をみたとき、改めて「仕事」を考える羽目に陥り、そして転職した。

次の仕事は、家業だった。

今から振り返れば、銀行の仕事から離れた後のその仕事は「きっと僕がするべきもの」であって「なぜか僕が惹かれるもの」ではなかったのだと思う。

もし家業が書店なら本屋さんになっていたのだろうからね。

そして、その仕事は「きっと僕がするべきではないもの」になって離れた。


そこからもう一度、「どんなことを仕事にしたかったのか」と考えたとき1年かけて行き着いたのが今の仕事である。

僕にとって、大学の時学びたいと思ったことと仕事にしたいと思ったことは結局一緒だった。


で、ね。「皆もそうだから」とか「するべきだから」と仕事を選ぶと「皆となんだかちょっと違う」「本当にするべきことであると思えない」と考えて仕事を辞めることになるのではないかな。

厳しい環境になればなるほど自分が自分についた嘘に気づかされてしまうのです。

退職理由の本音ランキングは、1位:上司・経営者の仕事の仕方が気に入らなかった(23%)、2位:労働時間・環境が不満だった(14%)、3位:同僚・先輩・後輩とうまくいかなかった(13%)(リクナビNEXT)だそうだけど、僕の経験から言えば、そもそも自分に嘘をついていることを認められない(認めたくない)時に言いそうなこと(言っていたこと)だなと感じる。


自分は自分を覆えない


2017年11月19日日曜日

物語を作ろうとしない人は自らの成長を疑うべき

僕が暗闇に放った矢をライトを使って探していたら、どこからか
「ちょっと待て」と聞き覚えのない声が掛かった。

「お前の探しているものは平地にはなく大きな木にあるのだ」
その声はこう続いた。
そこで僕は周りをぐるっと見回したけど、どこにも大きな木は見当たらない。
僕が立っているのは暗闇の中だ。

そこで目の前を飛ぶハチにも聞いてみる。
「この近くに大きな木はありませんか?」
ハチは一瞬、僕を見て空中でホバリングをしたのち、応えることなく飛んで行ってしまった。

仕方なく僕は探すのはやめて、この世の最も強い磁石を使って鏃の鉄を引き寄せることにした。
少し時間が掛かりそうだから、この携帯電話であの方に連絡を入れておこう。


この並び

Amazon知育・学習玩具大賞2017は「ローリーズストーリーキューブス 冒険」だったそうだ。

僕はこのシリーズの一つをだいぶ前に手に入れていた。

冒頭の物語は、キューブを振って出た目を繋げて作ったものだ。

1つ1つの要素の並びで物語が生まれるわけで、偶然の並びから物語を作るのは楽しい知育である。

このキューブを手に入れた経緯は、仕事である会社が定義した6つのバリューの浸透を図るツール作りの参考のためであった。

そして、バリューのピクトグラムとサイコロが自作できるキットを制作したのだけど、日の目を見ることはなかった。


僕たちは、身の回りの要素を並べていくらでも自分ならではの物語を作り出すことが出来る。

しかし、誰かの物語の一要素となって、その物語に不満を並べる人は少なくない。

僕にはこのおもちゃが実は社会人向きであるように思えるのだ。


ストーリーを生み出す



2017年11月18日土曜日

「ほぼ日のアースボール」を買ったよ

糸井重里さんが社長を務めるほぼ日が、六本木ヒルズで「生活のたのしみ展」を開催している。

今日、妻と行って来たのだけど、小雨ぱらつく寒い日にも関わらず会場は多くの来場者で賑わっていた。

その賑わいの中でも最も人が集まっている場所の中心には、糸井重里さん本人が居た。

ただ居たのではない。

マイクも使わず、多くの人に向かって「ほぼ日のアースボール」を丁寧に説明し、そして売っているのだ。

価格がちょっと高いことも、もちろん「ほぼ日のアースボール」を企画した社員の奮闘ぶりを伝えることも忘れない。

糸井さんの知名度を持ってすればもう少し楽な売り方もあるのだろうけど、先頭に立って楽しそうに商品説明をする糸井さんの姿には深い感銘を受けた。


会社を率いる仕事って何だろう。

ビジョンやルールを作ることか、事業戦略を決めることか、難しい決断をすることか、人事権を行使することだろうか。

もちろんそれらもあるのだろうけど、自分が先頭に立って、活き活きとひょっとしたら新米がやらされるような仕事をすることも会社を率いる仕事だよね。

そんなことを糸井さんの姿は語っているように感じた。


中心に居る人は


この人です






仕事の、楽しくやろうぜモードとちゃんとしようぜモード

360度評価というマネジメント評価(主に)手法がある。

この評価の結果には色々な人間関係が含まれてしまう。

例えば、やたら低い評価を連発する人は評価というより明らかに反撃である。

もちろんそのような評価を受ける理由はあるのかもしれないけど、他の人の評価が低くない場合、個人的感情である可能性が高いよね。

逆に低い評価がない人は、評価する周囲の人が気遣っているケースも少なくない。

アンケートに投影されるのは、評価だけでなく人間模様だ。


人が集まると、共感、反感、感謝、嫉妬など様々な感情が入り乱れ、共生、共存、従属、隷属、敵対など様々な関係性が生まれる。

こう言った問題、課題を乗り越えて行くのが組織マネジメントだ。

しかしちょっと考えれば組織マネジメントは、組織に集う人それぞれが協働のセルフマネジメントが前提になっていることがわかる。

コミュニティとオーガニゼーションの違いは、偶発的な創発と協働の連鎖にある。

僕は創発志向なので場の化学反応を期待する楽しくやろうぜモードだけど、ちゃんと仕事しようぜモードのときは協働主義だ。

でも、組織を混乱させるのは、僕のようなどっちも派や、逆張り派(ちゃんと仕事の時にも化学反応好き)なのかもしれないね。

どっちも派は、気をつけないと逆張りをしていることが少なくない。


一方で、大概、組織にはちゃんと仕事しよーぜモードの協働嫌いという問題児も居る。

人の働き方を否定して自己流に仕事を進める人たちでそもそも協働に向いていない(=組織に合っていない)。

僕は、協働のセルフマネジメントは、単にチームワークやリーダーシップを発揮することではなく、2つのモードを状況に合わせて適切に切り替えることだと思う。


どっちも、はTPOが大切









2017年11月17日金曜日

答えを見つける力を身につけるために必要なこと

”これがこうなら、あれはそうなるだろう”

「推論」は僕たちの生活を創造的にしたり、効率的にしたりすることに大きく役立っている。

1つの知識によって対応できる事象が増えること、「一を聞いて十を知る」は賢さの現れである。

時に「忖度」など、行き過ぎてしまうこともあるけど、全てのケースを記述しなくても判断が下せることで社会がよりうまく回ったり、他者よりも活躍する人出てきたりするのだ。

さて、「推論」は、抽象度が高まるほど適応範囲が広がる。

また、概念的であるほど、持ち運びしやすくなる。

コルブの経験学習では、学習プロセスにおいて「抽象的概念化」(Formation abstract concepts and generalizations)と表されるステップがあるのだけど、いろんなことに活かせる知恵を獲得することは、人生を変える原動力にもなる。

38歳、元阪神投手の公認会計士が悟った真実

一方で、僕たちはいきなり高度な「推論」が行えるわけではないだろう。

赤ちゃんがなんでも口に入れて食べられるもの、食べられないものを見分ける力をつけていくように、僕たちには常に意識、無意識の試行錯誤が必要だ。

僕たちが生活を豊かにするために必要なことは、「正解を知っていること」ではなく「正解を導く力を身に付けること」だ。

「推論」はその力を獲得するために誰にも備わっていて、「経験学習」を見てもわかる通り、グレードアップすることが出来る能力だ。

意識的試行錯誤からは「直感」が、無意識的試行錯誤からは「ひらめき」が生まれるとも言われるように、「直感」や「ひらめき」の多い人は「推論」をグレードアップしている可能性がかなり高い。

どうやら、試行錯誤という回り道なしに、答えを見つける力を身につけることはできないようだ。


生き物は「推論」する








2017年11月15日水曜日

データが予測した未来に確かめること

今日の昼、法政大学石山教授を訪問した。

ご多忙の中、お時間を調整頂き大変ありがたい次第です。


さて、目的は情報交換だけど、そのうちの一つは昨年調査協力した組織風土・個人学習調査の結果についてだった。


先日、新井紀子教授もセミナーで話していたけど、統計データとは全て過去データである。

最近流行りの機械学習も全て過去データ分析だ。

ある一定期間に調査を行い、その結果をまとめて解釈を行うもので、厳密に言えば、調査時点から状況は変わっている。

例えば、社員の退職などもそうだ。

調査時点で在籍していた社員が離職すれば当然、現状とデータには乖離が生じている。

調査結果には多かれ少なかれこうした乖離が見られる。

以前、酷かったケースでは、組織分析を行って報告をした時には次の組織改編が決まっていてあまり意味のない報告になってしまったこともあった。

そういった問題はあったとしてもデータからは多くの有用な気づきが得られる。

それは、少し間を置いてからでも同様だ。

むしろ、間を置いた方が新たな気づきがある、というのが今日のポイントだったかもしれない。

データは決して未来を予見しないけど、人がデータから想定する未来と現実の比較を行えるからだ。

で、ね。昨年の調査には現状を予見する結果が見られていた。

この結果だと現実こうなる、という形で。

こういった結果の検証を行うことでデータの理解はさらに進み、僕たちはデータから確かな未来を予見するようになる。

最新のデータばかりでなく、以前のデータもしっかり活かしましょう。


いいかに?



2017年11月14日火曜日

34年後の「社会の発展と勤労意欲」

僕が大学生の時に書いた卒論の題名が「社会の発展と勤労意欲」だった。

ダニエル・ベルの『脱工業化社会』、J.K.ガルブレイスの『新しい産業国家』、アルビン・トフラーの『第三の波』など、情報化社会の夜明け前、既存産業が成熟期を迎えた後、社会的にどのような働き方が求められるのかを考察したものだった。

そこにはプロフェッショナルとして成熟した仕事観、職業意識の基でより高い価値を生み出すために協働する組織のイメージがあったのだけど、今、振り返ると、それは『2001年宇宙の旅』みたいなフィクションの未来図だったのかもしれない。

もちろん、プロフェッショナリズムと自発的協働意欲は新たな情報産業を中心に、オープンイノベーションという形で実現しているのだけど、雇用の二極化、管理職になりたがらない若手など社会全体ではまだら模様で社会の発展に影を落としている。

そして、このまだら模様は、寒流と暖流のように接しても混ざって均質化するものではないようだ。

「心の豊かさ」に焦点を当てれば、別に誰もがプロフェッショナル化する必要はないし、むしろ、自らの立場を守る必要のないアマチュアの方が心豊かに過ごせる場合も少なくないだろう。

でも、間違ってはいけないのが、アマチュアリズムは現状容認を指すものではない。

自発的協働意欲だって、やらされ感のある人達から見ればサービス労働となってしまう。

なんだか34年間かけて社会は本当に発展したのだろうかと疑いたくなって来た。

まあ、人の意識や価値観はそんなに簡単に変わるものではないし未来予想は外れる方がはるかに多いのだから嘆く必要はないでしょう。

でも、ここから34年後にはまだら模様でも光と影でなく、カラフルなまだら模様になっていて欲しいと思う。

資源を消費することで大多数の豊かさを実現した時代から、資本によって創造される価値が二極化を生みだす時代となり、「社会の発展」の定義も変わってしまったけど、この先また色々と変わるだろうしね。


光あれ







我慢と遠慮の狭間? 社会性を考える

「我慢」が社会性の基本(「拡張する脳」藤井直敬)

僕たちは誰かと一緒にいるとき、無意識に相手に合わせた行動を取ろうとする。

例えば、幼児は友達におもちゃを貸してあげたりする。

しかし、思春期になると利他的行動は「恥ずかしい」「格好悪い」と抑制される(同 藤井直敬)らしい。

確かに、僕も自意識の芽生えと共にそれまでと行動が変わった記憶がなんとなくある。


さて、セミナーなどで質問を受け付けてもなかなか手が上がらないことは少なくない。

これは、質問を「我慢する」というよりは、「こんなこと質問してもいいのだろうか?」と「遠慮する」利己的行動なのだろう。

皆で議論している時は発言を求められてもあまり話をしないのも、皆のためという利他的行動より利己的行動を優先しているからだね。

厄介なのは、我慢か遠慮かは内面の違いが主で、状況によっては外からわかりにくいことだ。

「尊敬」という利他的意識、「貢献」という利他的行動のためにまず必要なのは自意識という利己的意識からの解放である。


自分への眼、他者への眼


2017年11月12日日曜日

視点の高さと視座の高さの違いを考える

僕は、
視点はView(眺め)、視座はPosition(立ち位置)
だと思う。

他人の視点を代理体験するのは難しくないけど、他人の視座を代理体験することは出来ない。

僕は、
視点は場(置かれた世界)、視座は場所(内面に作り出される世界)
だと思う。

ぐるっと周囲を見まわせば見える世界と、その人の中にあって決して他人からは見えない世界だ。

僕は、
視点は穴埋め、視座は論文
だと思う。

誰でも同じ結論に至る問いと、皆の違いが際立つ問いだ。


例えば、目の前のゴミに気づくことは誰でも出来るけど、ゴミを拾い上げてゴミ箱に捨てる人は限られる。

皆が成長したいというけれど、成長のために自分の壁を破ろうとする人は限られる。

誰でも社会や会社の問題を指摘するけれど、社会や会社の問題を解決するために自らの行動を変える人は限られている。

さて、
視点を持てば、視座が生まれるものではない。
視点が狭ければ視座も狭い、わけでもない。

そして、重要なのは、自らの視点と視座をちゃんと理解し、自分や他者と関わることだよね。


点か、座か





2017年11月11日土曜日

産業組織の限界性

地縁、血縁のコミュニティ上に成り立つ組織は、儀礼や信仰、風習や慣習に縛られ排他的で閉じた傾向を持つ。

産業革命により、組織が地縁、血縁から解放された後も、禁欲的勤勉さが産業組織の発展に大きく寄与した、と言うのがマックス・ウエーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の考察だった。

つまり、地縁、血縁からは解放されたけど、組織の発展、成長には倫理観が必要だったのだ。

さて、産業革命から250年ほど経った今日においても、組織が機能するためには、何かしら組織を束ねる心的要素が必要だ。

就業規則はもちろんだけど、組織の活動目的や行動規範など、契約を超えたコミットメント無しに組織が効果的に機能することは無い。

様々な価値観を取り込めることになった一方で組織が機能するためには共通の価値観を必要としている。

成長期には覆い隠される多様性の影は、不確実で予測不能な社会の到来により避けることが出来ない組織運営の問題になった。

要するに前提の無い組織(拘束条件の無い組織)なんて有り得ないと言うことだ。

これは歴史的にも証明されている。

だから僕たちは、地縁、血縁のコミュニティにある原始的組織の本質に立ち返る必要があるのだろう。

それ無しに困難な時代を乗り越えることは出来ないと思う。


コミュニティを考える


ハプニングを楽しめる? プレゼンテーションの醍醐味

一昨日、100名くらいの前でトークセッションを行った。

その際、セッション前の時間が長引くき開始時間が遅れる一方で、終わりの時間は決まっている、そう、なんとかしなければならない状況になった。

僕は案外こう言った状況が好きだ。

慌てずに「どうやって状況を打開するか」に集中して行動力を発揮する、格好良く言えばそんな感じだけど、追い込まれた状況と言うのは、打ち手が限られているから余計なことを考えずに実行すれば良い。

例えば、時間が足りなければ、何かをカットするだけだ。

で、何をカットするのかは、最後には自ずと決まってくるわけだけど、その時役に立つのは事前に計画した時間配分だよね。

大まかな構成と時間割を作っていれば、内容を落とさずに必要な時間を捻り出すことはさほど難しくない。

よく、セミナーやラーニングイベントでいくつかのプレゼンテーションを順番に行われる時、最初の方で時間超過して、結局、エンディングがグダグダになったり、部分(パワポ)を飛ばして内容がよくわからなくなったり、終わりの時間が伸びてしまうことがあるけど、そんな時、僕はちょっと残念に感じてしまう。

おそらく皆、全て伝えたいことなのだろうけど、例えば時間が半分になったらどうするか、と想定するだけで気持ちの良いプレゼンになのではないだろうか。

よく計画立てられ、きっちり進行するプレゼンテーションも良いのだけど、僕は多少のハプニングがあったほうがその場が活き活きすると思う。

そして、ハプニングにどう対応するのかで、その活き活き感が良くも悪くもなってしまうのです。


こっそり置いてある



2017年11月9日木曜日

あなたのフィードバックはヘルプフルになっていますか?

今日、会社主催のセミナーで登壇し、終了後に多くの方から感想を頂いた。

おそらく僕のことを気遣って良い感想を述べてくれたように思う。

さて、ヘルプフルネス(支援)と言う観点で考えると、実は僕が欲しかったのは、僕の話が理解できたか、わかり易く真意が伝わったかだ。

一方、皆さんが感想としてくれるのは、「総じてどうだった」で、主観的なエバリュエーション(評価)である。

では、エバリューエーションとヘルプフルネスの違いは何か、と言うと、エバリュエーションから改善を行うためには、何が良くて、何が悪かったのか自分で考えなければならないし、また、それが的を射ているとは限らない一方、ヘルプフルネスでは、何を変えれば良いか具体的に理解が進むことである。

エバリューエーションは自ら問いを起こす力を育てるけど、効果的な成長、変化に向けて多くの試行錯誤を要するし、場合によっては、間違った理解を導いてしまう。

例えば、「気遣った評価」は改善点を覆い隠してしまうのだ。

ヘルプフルネスでは、直接的に変えるべき行動に言及することで効果性が高いけど、信頼関係や支援の要諦の理解が無いと相互の誤解や衝突につながりかねない。

で、ね。僕はヘルプフルネスを得るためには事前に信頼関係、支援関係を築く必要があるのだ。

そして、まずは、ヘルプフルネス、エバリュエーション、フィードバックの違いを皆が知るところから始まる のだと思う。


おお、ダイレクト

2017年11月8日水曜日

変革あれこれ ざっくり議論の危険性

不確実で予測困難な時代において、いち早く状況に適応する力やむしろ自ら環境を作り出す力が無いことは致命的だ。

だから、個人においても組織、企業においても、変化を叶えたり、生み出したりする行動により大きな期待が掛かっている。

明日、会社主催のセミナーでそのテーマに触れるのだけど、「変革」「革新」「刷新」といった言葉は魅力的である一方で、議論の核心を見えなくする危険性があると思う。

例えば、「変革」と言ったって、対象を考えれば「社会」であったり「組織」であったりと、その指し示すところは1つじゃ無い。

「社会の変革」をするならソーシャルな活動が必要だし、「組織の変革」をするなら適切なリーダーシップが欠かせない。

だから、「変革」を言う場合は、「変革後に目指す姿」をセットで言わなければならないはずだ。

とにかく現状を変えたい、と言うざっくり議論は、変えることの前提も、変えることも、変えた後も見えなくする。

逆に、「こうなりたい」があれば、そこに向けて取り組むことは自然と決まって来るものだよね。


自ずと決まる

2017年11月7日火曜日

学びは確率じゃなく文脈

僕たちは経験から学ぶけど、どのような経験からも学べるかと言えばそうでもない。

大概は、学ばなくて済む経験を選んでいるからだ。

例えば、ランチとかショッピングなど、行きつけの店やお決まりのメニュー、定番を持つことも学ばない選択だ。

一方、とても学びの多い経験もある。

しかし、僕が学ぶとき、他の人も同じように学んでいるかというとそうでもない。

僕と似た人であれば、同じように学ぶかもしれないけど、僕とは違うタイプの人であれば、学びがあったとしても異なる学びだろうし、時には、まったく学べないかもしれない。

学びが起こるのは確率じゃなくて文脈からだからだろう。


学びが違う

「像」の死角を観る

人材像とは人物像とか犯人像とか、僕たちは見知らぬ人のイメージを語るとき「像」という言葉を使う。

「像」は銅像みたいにカチカチで動かないものや、映像みたいにある視点から行動や状況を記録するものなど、様々な場面で使われるけど、視覚的な情報であることが多い。

そして冒頭の人材像、人物像、犯人像なども言葉を通じて人となりを頭に描くわけだ。

さて、駄洒落ではないけど、視覚には必ず死角がある。

つまり、像を結ぶことによって見えなくなる部分が必ず生まれるということだよね。

そのことを忘れて「像」が全てみたいに思ってはいけないだろう。

で、ね。見えないところは「像」を描く人々が自分で作るしかないから、事実を確かめる方法や、様々な可能性を想定して寛容になる方法を決めなくてはいけなよね。


見えないところ



2017年11月5日日曜日

「君」への問いと「僕」への問い 「君たちはどう生きるか

宮崎駿監督が引退を撤回し、長編の制作に入っているそうだ。

そしてそのタイトルが「君たちはどう生きるか」になるらしい。

「君たちはどう生きるか」は80年前に出版された吉野源三郎さんの名著である。

僕は、この本に思い出がある。

といってもあまりポジティブな思い出ではない。

あまり出来の良くなかった僕が中学受験に際して、とある受験校でテストに出る確率が高いので読んでおくよう言われた本だったのだ。

本と言えば漫画本で、江戸川乱歩ぐらいしか熱心に読まなかった僕にとって、この本はなかなか読み進めなく読み切るのに苦労した。

リフレクションなんて言葉もまったく知らない小学生にとって、経験→省察→本質への気づきという、新たな選択に向けた成長を理解することは容易くないだろう。

一方、この本の凄さは小学生にも刺さるタイトルにあると思う。

年齢に関係なく人生の様々な局面で必ず問われることだからだ。

さて、アニメと言えば、昨年大ヒットのが「君の名は」だ。

「君たちはどう生きるか」が本質への問いであるのに対して「君の名は」は関係性が生じる際の最初の問いだね。

超常的な出来事を通じて、関係が生まれて消えてまた生まれる、本質というより運命や宿命に向き合う物語の中で「問い」は重要な役割を果たしているが、本質に踏み込まない軽快さがあるように感じる。


物事の本質に目を向け自らを変えようとするとき、僕たちは大概、苦しみを感じる。

軽快なノリのある日々を大切にするのか、苦しみを抱え日々本質に向き合うのか、どちらか一方を選ぶことでもないけど、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」はこの対比への期待を持っていようと思う。


どう生きるか








2017年11月4日土曜日

街を更新すると仕事はどう更新されるのだろうか

このところ大手町界隈の変化が激しい。

以前から大企業のオフィスビルが立ち並ぶ地域だけど、築年数、耐震構造、特例による容積率の購入などなど、様々な理由からか、一斉に再開発が進んでいる。

多くのビルが開業したものの、解体が済みこれから建築が進むビルも少なくない。

皇居から見る大手町は、立ち並んだビル群が壁のようだ。

この一帯には設けられたガイドラインに沿って更新都心と再編都心があり、大手町は更新都心として、積極的に機能更新を図っているのだ。

以前は、皇居への配慮から高さ制限(スカイライン)が100mとなっていたものの、その後150m、200mと引き上げられている。

その結果、壁が出現するわけだ。

僕が個人的に気になるのは、こういう形でビル容積が増えたら、どこかの地域の入居率が下がるのではないかということと、皇居への風の通りが悪くならないといいなぁという望みだね。


さて、オフィスは、仕事をする場所だ。

オフィスによって仕事の仕方が決められてくる。

そして、その場所生かしてそこで働くイメージが作り出される。

大手町やその周辺の再開発は新しいイメージを作り出すことが目的とされた訳だけど、実際にどんな働くイメージが作り出されたのか気になるね。


狭まる空



神の数式と数式は数式 意味はどう生まれるのだろうか

この世は何でできているのか。宇宙はなぜ始まったのか。究極の謎を解き明かす「神の数式」に迫る! 

これは、2013年にNHKが放送した「神の数式」の主旨だ。

とても見応えのある番組だった。

僕たちの世界を数式で説明しようとする研究者たちの戦いを追っているのだけど、かなりいいところまで来ているようだ。


さて、数式は何がしかの意味を理解しているだろうか。

数学者新井紀子さんの話を聞くまでもなく、答えはNoだ。

数式に意味を見いだすのは人間である。

数式を「神」と位置づけるのは人であり、数式は自分を神だとは思えない。

この対比は、「意味」を考える上で重要だ。

例えば、アプリケーションにしてもゲームにしてもディープラーニングにしても全て数式で記述されているから、「意味」を理解していない。

たとえ脳の働きを模したアルゴリズムであっても同様だ。

しかし、それらを使う人は必ず意味を見つけ出そうとする。

アプリケーションであれば便利な道具、ゲームであれば問題解決と達成感、ディープラーニングであれば高精度な見分け能力などと「意味」をつける。

要するに人に「無意味」なものを「意味」化して生きる力を引き出しているのだ。

だから社会にとって正しく「意味」をつけられる人は社会に適応できるし、身勝手な「意味」つける人は様々な問題を引き起こす。

神の数式が見つかることと、社会で人々が平和、幸せに暮らせることとは別問題、と言うことだね。


「意味」とは








2017年11月3日金曜日

「意味がわからない」人に問題は解けない

昨日のリーディングスキルフォーラムで面白かったのは、改革しようとしている人達と、改革が必要な現場のギャップが大きいと言う指摘だった。

例えば、教育改革を推進する文科省の官僚たちは、リーディングスキルが高いので自然に自ら勉強が出来てしまう。

リーディングスキルは、係り受け、照応認識、同義文判定、推論、イメージ、具体例で測定されているので、文章を正しく理解したり、「あ、これとそれは同じことだ」と気づいたりする上で必要不可欠なのだ。

しかし、リーディングスキルが低いと「意味がわからない」ので自習が出来ない。

常に塾などにいって支援を受けながら意味がわからなくても点数が取れる穴埋め的な学習をすることになるのだ。

もう少し平たく言うと、教科書を見ても意味がわからないから問題が解けない。

リーディングスキルが高くて成績が良い人たちにとっては反転学習、アクティブラーニング、MOOKなどは学習を高める良い方法だけど、低い人には役立たない。

そもそも「意味がわからない」のだから「意味がわかった上での学習」なんてナンセンスである。

さて、この「意味がわからない」人が会社に入るとどんなことが起きるのだろうか。

例えば方針を説明する、資料を共有することが通用しない。

だから、方針を理解して、仕事の指針にし、仕事の仕方を改善することが出来ない、と言うことになる。

要するに会社や事業や部門の問題を解くことなど出来ないのだ。


お米屋さんの共起ネットワーク?マインドマップ?



2017年11月2日木曜日

なぜ人工無能に人は凌駕されるのか

僕は日本認知科学会という学会に属している。

属人的なHRという業界で仕事をしていると、「科学的」なことが有り難がられてしまう傾向があって、その最たるものがAI(人工知能)だ。

これまでデータを扱う仕事をしてきたけど、僕は、自分の仕事領域がブーム的な傾向を見せ始めたら基礎に立ち返ることを信条としているので、「科学的」なことではなく、「科学」に向き合うため学会に属したのだ。

さて、学会に属して有り難いのは色々なセミナーなど啓発の場に関する案内をもらえることだね。

そして、今日は案内を頂いた「リーディングスキルフォーラム」に参加した。

フォーラムの主催者、新井紀子教授は、数学者でありながらリーディングスキルの向上に向けた取り組みを精力的に進めれいる。

東大にロボットは合格するのか、という取り組みが有名な新井さんが起こされた問いが、
「人工無能(←間違いではありません)になぜ人は凌駕されるのか」であった。

ちゃんと理解している人であれば、新井さんがAIの実態は数学でしかないこと、データ検索であって東大にも入れないし、未来を予測するのでなく、事後を分析するものでしか無いことの説明が「当たり前」に感じられただろう。

一方、誤解している人にあるのは、AIは未来に起こることの予測ができるという願望との混同であるとの指摘、もっとも過ぎて安心感がある。

で、ね。今日のフォーラムのポイントは、「なぜ人工無能に人は凌駕されるのか」だ。

東ロボの取り組みで、ロボットの偏差値は57を越え、関関同立クラスの大学に合格できると有名進学ゼミの模試で結果が出てしまった。

つまり、学生の上位20%を越えることは出来ないけど、それ以下の学生は東ロボに凌駕されてしまったのだ。

フォーラムの中では、「で、どうする」が続くのだけど、この問いは、HRで最近導入が増えている、AIを使った採用選考にも当てはまるだろう。

つまり、「事業に必要な人材」であったり、「組織における人材の活躍」が意味することをわからない数学の結論(AI)に採用の一部を委ねることに無能感、無意味感を持たない「科学的なこと信奉」の誤りだ。

また、そういう人こそが人工無能に凌駕されるのだろう。

結論的には、やはり一見科学的に見えるブームやツール(手法)に飛びつくのはよろしくない。


リーディングスキル x グラレコ









2017年11月1日水曜日

生け花の基本から本質を生み出す方法

以前習った生け花の基本は「真・副・控」と3つの役割を持った枝花で二等辺三角形を作り空間を美しく演出することであった。

空間とは、僕たちが生きている場所であり、それを切り取ることは、自分の場所を俯瞰するメタ認知に繋がる行為だ。

そして、生け花の基本はメタ認知を自動的に促しているのではないだろうか。

さて、僕は3つの点が描き出す空間には気づきが溢れていると思う。

生け花でも、基本を押さえただけで美しさが生まれる。

枝花のもつ美しさという本質を空間が引き出しているのだ。

空間が物事の本質を引き出すのは、生け花に限ったことではないだろう。

例えば、「公・共・私」の空間は、社会における人間関係の本質を見せてくれる。

「社会・組織・個人」の空間は仕事の本質だね。

「思考・感情・欲求」の空間は「自分」の本質だ。

「飲む・打つ・買う」の空間は不埒な昭和男児の本質か?

そして、独自の3つの点を使って空間を描くことで誰も気づいていない本質に出会えるかもしれない。


基本を押さえて本質に気づくレゴの花

2017年10月30日月曜日

対話をする時に相手をピン留めしないこと

僕たちの行動は思っているほど自由ではない。

大体、住まいや職場を中心として80%以上が同じエリアの中を回遊しているのだ。

例えば、昼食やコンビニはその生活圏内で済まされる確率が高い。

だからその人のエリアと行動パターンを把握することはマーケティングを自動化する上で鍵となる。

僕たちは、生活圏だけでなく様々な空間を保持している。

それは具体的な空間だけでなく、抽象的な空間、つまり、何か気になる、何故か気が合うということもある。

無意識のうちにそういった複数の空間を構成しながらその内側を徘徊しているのが僕たちの実態なのかもしれないね。

で、ね。時に僕たちは他者のことを点や線でイメージして決めつけたがる。

住所、電話番号、会社の肩書きなどは人を点で固定する象徴だ。

逆に、住所不定無職のように固定できない人に対して良いイメージを持たない。

固定しないときっと不安になるのだろうね。

だから僕たちは誰かと向き合う、例えば対話を行う時、相手をピン留めすることなく、その人の豊かな空間に想いを馳せるべきだ。


締付を解除せよ









2017年10月29日日曜日

リーダーを選んだ後に向き合うこと

先日、衆議院選挙があった。

僕は、政治には日本の現状、そして未来の姿が反映されてると思う。

では何が反映されているのかといえば課題に向き合う姿勢だ。

不確実で混迷した状況の中で、僕たちは何を課題とし、どう向き合えばう良いのだろうか。

社会経験が少ない若い世代にその矛先が向かうことが多いのだけど、今回の選挙結果に対して分別があるはずの政治家が選挙結果に対してリーダーの責任を追求したのが印象出来だった。

リーダーを選んだのは誰なのだろうか?


さて、こう言った問題は、もちろん政治家だけの話ではない。

就職活動における会社選びもそうだ。

会社のトップとして職に就くのでない限り、会社に属するということは会社を引率するリーダーを選ぶことでもある。

そもそも、多くの人はなぜリーダー選ぶのだろうか。

それは社会という枠組みの中で、自分のためであると同時に自分だけでは果たせない価値を生み出すためでもある。

リーダーを選ぶことは社会における自らのリーダーシップなのだ。

で、ね。リーダーには結果責任があるけど、リーダーを選んだリーダーシップにも社会的責任がある。

責任を負わずに利益のみを享受しようとする姿は社会の価値を毀損する行為だ。

リーダーだけに責任があるような風潮は、ホント、良くない兆候だよね。


 日本



2017年10月28日土曜日

ソーシャルであることと、ソーシャルっぽいことの違い

昨日、地元の神社で参拝の行列に並んでいたとき、個人的にちょっと気になる場面に遭遇した。

約30メートル、およそ50人くらいだっただろうか、一般道に並んだ列の先方から一人の女性が募金を募って近づいて来たのだ。

初めて聞く名前の団体だったけど、テレビでたまに目にする外国で貧しい子供が車列でドライバーに物売りするのとなんだか同じような印象を受けた。

良い活動であるかの如き団体の名称にも違和感があり、その場でスマホを使って調べたら、募金活動をするNPOとのこと、まずは「募金ありき」であることがわかった。

僕が受けた印象はあくまでも個人的なもので、他人の行動についてどう感じるかは人それぞれである。

実際に募金箱にお金を入れている人も居た。

僕は応じなかったけど、そのときふと考えたのはソーシャル、パブリック、プライベートの関係性だった。


NPOはソーシャルな活動をしているらしい。

活動を行ったのはパブリックな場所だ。

そしてプライベートな人たちにアクセスした。


もし僕がNPOの活動に共感があれば、募金に違和感を持たなかっただろう。

実際、少額だけど毎月支援しているNPOもある。

で、ね。僕はソーシャルとプライベートは理解と共感で繋がるものだと思う。

その絆が無い中、パブリックな場所でプリベートにアクセスする行動はソーシャルな活動ではなく、活動と実際が分離したソーシャルっぽい活動だよね。

もっと厳しい言い方をすると「ソーシャル(的)なことは良いことなのだから許されるのだ」という思い違いがあるのではないだろうか。

NPOの人がやるべきことは、募金箱を首からぶら下げずに、活動の趣旨を記したチラシを配り、希望者が足を運ぶ別の場所で募金を受けつけることだった。


先日、「ソーシャルをビジネスにする」ワークシフトについて学ぶ機会があった。

発展途上国の刺繍の技術を世界に広め、立場の底上げを行うというソーシャルなテーマはビジネスのフィロソフィーであってビジネスの全てではない、むしろ、ソーシャルを意識しない顧客の人生の一部となるような服作りをしたいという話に強く共感した。

あたり前の前提をソーシャルであることに変えるけど、ソーシャルであるからと言ってあたり前のことから目を逸らして良いわけではない。

僕は行列から離れようとしないNPOの人を見ながらそんなことを感じていたのだろう。


前には居ないけど後ろに居るよ









2017年10月27日金曜日

強すぎる個性 社会不適応でも社会的価値は莫大 

草間彌生さんの美術館が人気で年内は予約が取れないそうだ。

僕の美術に関する知識は、アート好きの人たちの中でおそらく下から何番目だろうけど草間彌生さんの作品はどんな特徴があるのかぐらいは知っている。

さて、草間さんは強迫神経症や統合失調症の持病があることが知られている。

僕にはご本人が日頃、どう感じられているのかわからないけど、見知らぬ人とはなるべく合わないようにされているそうなので僕のような社会生活を送るには何らかの支障があるのかもしれない。

芸術の世界では社会への適応性と生み出す社会的価値とあまり関係がない。

むしろ、常識的であることよりも異彩を放っている方が価値であることが多い。

草間さんはその典型だね。

一般的に会社では組織という狭い社会への適応と組織行動が求められるので、草間さんにとっては大変居心地の悪い場所になるのではないだろうか。

そして、草間さんとタイプは異なるかもしれないけど、高いビジネスの才能を持ちながら、組織や組織行動への適応性が高くない人がいる。

言っていることはもっとも(というより論理的で的確)だし、行動力もあるのだけど、いかんせん、攻撃性が高く他者を平気で傷つけてしまう。

能力が高いだけに、組織として扱いに困る人たちだ。

さらには成果を出すので、上級職に登用されるケースも少なくなく、当然のようにハラスメントが発生する。

ビジネスシーンで各人は事業の観点で価値を生み出す才能だけではダメで、組織の観点において適応、高い社会性を欠かすことはできない。

ビジネスもそれなりに難しいものだよね。


水玉







2017年10月26日木曜日

性格の光と影 強がりに潜む「弱み」

僕だけに限らず、「性格」について語る時に「強み」「弱み」と表現することがある。

また、「得手」「不得手」とか言ったりする。

その結果、生まれる概念が「適性」だよね。

組織の人材戦略を考える際、構成員の「強み」で編成を行うべきで、「弱み」にフォーカスすることは間違っているから、「適性」は非常に大きな意味を持ってくる。

非戦略型(要するに手数的な)な人材活用では、「性格」よりも指先が器用とか応答が早いと言った「基礎能力」の方が重要だけど、戦略型の人材活用では、複雑な仕事を効率的、効果的に行ううえで「性格」の占めるウエイトが高くなるようだ。

例えば、管理職では問題解決能力が求められるけど、本質探索力、論理力、対人能力などの基礎能力は主体性、前向きさ、安定性など「性格」によってドライブされる。

管理職が他責、消極、衝動的では解決するどころかきっと問題を量産してしまう。

つまり、適性のある人材が適正な能力を発揮することが求められる。

逆にどんなに能力が高くても、管理職の人材が自分本位、興味本位、気分次第では人材戦略に「弱み」を配することになる。

では、「性格」ありきなのか、というとそこでちょっと話が怪しくなってくる。

そもそも「性格」の位置づけは、決定論的生来変わらないもの派と学習成長的変わるもの派、その中間派があり定まらない。

仮に「性格」が変わらないとしても、人は「経験」を通じて新たな能力を獲得するし、能力発揮の仕方も変える。

じゃあ、「性格」から来る「強み」とか「弱み」って何なんだ?

僕が色々な人のインタビューを通じてわかったのは、真の「強み」を語るときは影がなく、「弱み」を語るときはどこかに影がある、ということだ。

「強み」の如く強い光を放っていてもどこかに影がある場合などは、「あるべき姿」や「弱みを見せない」など正面からの輝きではない。

むしろ、「強がり」といった方が適しているだろう。

真の「強み」とは周りの人にとっては環境光みたいなものじゃないかな。


性格の光と影




2017年10月25日水曜日

サカキdeマツワ 京橋界隈ランチ行列の出来る店

会社の近くに2つのランチ行列が出来る店がある。

1つは洋食のレストラン・サカキだ。

このお店、開店前はもちろん、開店後も行列が店の外まで並ぶことが多く、行列が無いことは奇跡に近い。

ハンバーグ、エビフライ、カツカレーなどボリュームたっぷりの洋食王道メニューが並ぶ。

僕が好きな目玉焼きがのっているハンバーグは、妥協のないクオリティでランチプライスがありがたい。

メニューが豊富なので周りの人が何を食べているのかとても気になるし、食べてみたくなるよね。

特定の人気メニューというより、それぞれがお気に入りを食べている感じだ。

もう1つは、ランチがアジフライのみの京ばし松輪という店だ。

松輪のわさびと大根おろしで食べる肉厚のアジフライはサクッとしながらも食べ応え十分、素材のよさと調理の技をランチで手頃に食べられるのは幸せを感じる。

開店前からの行列はもちろん、売り切れごめんなので、空いたら食べよう、は基本なし。

サカキも人気メニューは早々と終わってしまうのでいずれの店でも食べたい人は並ぶしか無い。

会社の近くに名店が2つもある、というのは恵まれた環境だね。

さて、サカキは近所の会社員や常連さんが多い印象であるのに対して、松輪は観光客も散見される。

この2つの店、メニューのコンセプトが「多様性」対「単一性」であるのに対して行列もよく観ると違いがあって「単一性」対「多様性」の様相が伺えて面白い。


もういいかな?




2017年10月24日火曜日

AI時代の足跡 いかに残すか考えよう

今日、僕たちの日常的な行動はなんらかの形で記録されている。

例えば、お得な気がして使っているポイントカード。

コンビニでおにぎり一個買っても個人特定され、ある消費クラスタにグルーピングされるのだ。

ちなみに、僕は基本、コンビニでお弁当類は買わない。

したがって、僕は「コンビニでお菓子は買うけどお昼や飲料を買わない健康が気になる中年男性」に分類されているのではないかな。

一方、たまに行くファミレスでも同じポイントカードを使っているので、「月に2〜3回来店し、ご飯と一緒にビールやワインを飲む中年夫婦」である。

さらに、このポイントカードが使えるカメラ店でもたまにカメラを買うので「メジャーブランドは買わないマイノリティなカメラ趣味を持つ中年男性」でもある。

そしてこのポイントカードと連携しているWEBサービスではきっと「ニュース好きでオークション下手な中年オヤジ」だ。

このような像は間違いなく僕の一面だ。

しかし、このブログを書き溜めているグーグルにおける僕の像は全く異なっているかもしれない。

ブログだけでなく、グーグルフォトに写真もバックアップしているので、「日頃、あれやこれや考え毎日ブログを書き、ワークショップとかに行く犬好きのおっさん」、と言ったところだろうか。


マーケティングで描かれる僕の一面を僕はなんだか好きになれない。

それは僕の知らないところで描かれ、使われる僕のある姿だからだ。

実はその姿はネットワークの中にしかなくて人が観ることはできない。

人が観ることになるのは、自動的にレコメンドされたプロモーションに反応して「ああ、買っちゃった」となる僕の姿だ。

僕はネットワークの中ではなく、実存する人間だから購買履歴やライフログと言った垢観たいなデータが僕であって欲しくない。


学びのために書き始めたブログだけど、リアルな僕の足跡を残す一つの手段になっていることに気づいた朝なのでした。


リアルな足跡




2017年10月23日月曜日

また「かもめ食堂」を観る

僕はあまり日本映画を繰り返し観ることはないのだけど、「かもめ食堂」は好きで何度も観てしまう。

映画の間合いはとても日本的でハリウッドのエンターテーメント作品と全く異なった趣きの、そう、演劇を映画にしたような淡々とした印象だ。

出演者の掛け合いでスーッと場面が流れ、ジョーズの登場みたいな『来るぞ、来るぞ、来るぞ、来たぁ〜』的な過剰な音や音楽の演出もない。

主演は小林聡美さん、片桐はいりさん、もたいまさこさんで、日本の女性が海外で生活しながら食堂を営んで活躍する、まさに、グローバル&女性活躍モデルである。

この3人の個性的な外観と独特なキャラクターは「役」と言うより「素」に近いように思える。

おそらく他の3人、例えば、綾瀬はるかさん、長澤まさみさん、夏帆さん等が主役をやったら全く別の映画になってしまうだろう。

ペルソナでなく、キャラが良い映画の典型かもしれないね。

さて、「かもめ食堂」の良さは、異質性と現場感にある。

見た目も精神性も極めて日本的な3人の女性が外国で活き活きと、そしてしなやかに生きている。

よく考えるとかなり異質な状況だけどフィンランドの民族性と日本の民族性が良いバランスで配合されていて、日常をしっかりと観察した上で描写していることが伺える。

過剰でなく淡々と、ペルソナでなくキャラで活躍する女性、民族性の対峙とほどよい混ぜ合わせの描写。

フィクションの世界とは言えなんだか示唆深い映画なのだ。


かもめ







2017年10月22日日曜日

謎を考えるのは面白い

僕の想像力なんかよりも世界はもっともっと凄い。

そんなこと、言わずもがなだけど、当たり前の日々を過ごしていると知らずのうちに僕の想像力の方が世界を凌駕しているように思っているようだ。

“死の水”にすむ謎の微生物 生きる仕組みは全く不明 日本の研究者が発見

息をして、食べ物からエネルギーを作り出し、いびきをかいて寝て、トイレに行き、恋をする。

これは生命の当たり前、ではないらしい。

呼吸もせず、エネルギーも作り出さないけど行きているとしたら、生命の範囲はうんと広がるだろう。

例えば、僕が今使っているパソコン。

これも呼吸もしないし、エネルギーも作り出さない。

でも、エネルギーを外部から与えれば動き出して僕の求めに応えてくれる。

僕たちの身の回りにあって、僕たちが相棒と認めるものは全て本当は生命なのかもしれない。

例えば、今、地球上の動植物が絶滅したとして、数千年後に、知的存在が地球を訪れ、パソコンに電気を流すとそこにはいろんな情報が表示される。

そこにはこの書き続けているブログもある。

現在のロゼッタ・ストーンは、グーグルやアマゾンなどのストレージに日々蓄積されて行くのだ。

ところで、謎の微生物だけど、DNAがあることが生命であることの証である。

その基準で見れば家犬にはたっぷりあるDNAがパソコンにDNAはない。

残念ながら謎の生物にはなれないようだ。


エアプランツも謎っぽい




2017年10月21日土曜日

日本的現場主義の落とし穴? 現場の視座を高めよう

以前、キャメル・山本さんに日本企業のグローバル化というテーマで話を聞いたことがある。

山本さんが日本的と評したのは、「現場」主義であり、はじめに人ありき、企業特有のスキル、そしてすり合せがその特徴だ。

この日本的が大きな岐路に立っているように思える。

最近、ニュースを賑わしている神戸製鋼がそれだ。

現場を信じ、現場に任せ、現場がイニシアティブをとって仕事を進めた結果だとしたら、山本さんの指摘が裏目に出てしまったケースと言えるのかもしれない。

現場をうまく回すことが会社にとっては利益を最大化する手段であったのに、うまく回すことで事業の基盤である社会からの信頼を損ねてしまう。

良いか悪いかで言えば、悪いのだけど、悪いことが正されずに続いてしまうところに日本的の課題があるのだろう。

では、グローバル的では常に規範的で問題が生じないかと言えばそんなことは全くないのでガバナンスの実現は企業経営における共通の課題ととらえた方が良い。

しかしながら、現場判断が負に働くのはやはり日本的の特徴だ。

日本的であるが故に社会から信頼を得て、日本的であったが故に社会から信用を失おうとしている。

他山の石以て玉を攻むべし。

日本的にとって、現場が現場としてこれからも活躍するためには、現場の成長が最重要課題である。


日本的




2017年10月20日金曜日

「場の力」はどう学びを変えるのだろうか

昨晩のカフェゼミはこれまで僕が参加した場合と雰囲気が違った。

何が違うのかといえば、集う場所と集う人であっただろう。

集ったのは「DNPプラザ」という、天井も高く広々とした綺麗な場所で、いつもより多めの人が集まったがそれでもかなり余裕があった。

設備で言えば、舞台があることが大きな違いだったかもしれない。

やはり壇上からの発信は、受け手に自然と聴く状況を作り出す。

他方、話し手と聞き手が同じ高さに居ると、話し手をよく見ようとすることで聞き手側には主体的に聴く姿勢が芽生えてくる。

聴きやすいのはありがたいけど、見易さへの配慮は相手の無意識の努力を損ねるのかもしれない。

また、人数以上に広いスペースは、小さなコロニーを生み出し小集団化していたようにも感じられた。

参加者全員を動かすことに長岡先生もちょっと苦労されたのではないかな。

集う人で言えば、今回のカフェゼミが丸善雄松堂さんのバックアップを受けた「知と学びの講座」の一環という位置づけだったせいか、オブザーバー風に見える人も居た。

これはいつもと違う。

また、学生に比べて社会人が目立った(気がした)のもいつもと違うと感じた原因かもしれない。

要するに、僕にとっては、仕事関連のセミナーに行くと見かける風景にやや近かったのだ。


では、こういった場の印象の違いが学びにどう影響を与えたのだろうか。

対話を行なったゼミ3年生、中国の大学に留学している学外生、そして今回のカフェゼミを企画したゼミ4年生の話を聞くにそれぞれに確かな学び(気づきとモヤモヤ)が起きていることがわかった。

結局、場の目的と学びがしっかりデザインされ、良質な投げかけと問いかけがあり、主たる参加者が自分事として向き合う限り、雰囲気はたいした問題でないようだ。

逆にいつもと雰囲気の違う場所は、学びの本質に向き合う機会を与えてくれる、そういう事なのだろう。


ステキな椅子

2017年10月19日木曜日

「エシカルはファッション」と「エシカルとファッション」 カフェゼミ@DNPプラザより

今晩は法政大学長岡ゼミのカフェゼミに参加した。

長岡先生、ゼミ生のみなさん、そして参加した社会人のみなさん、いつもありがとうございます。

さて、カフェゼミにはいつも色々な気づきや刺激があるのだけど、今回のテーマは「私たち世代のWORK SHIFT」で、イトバナシの伊達文香さんが「ソーシャルをビジネスにする」とはどう言うことなのか、ご自身の体験をもとに話を聞かせて頂いた。

冒頭で「エシカルファッション」の話が出たが、僕は以前にも「エシカルファッション」に関する講演を聞いたことがある。

エシカルファッションでおしゃれ、クリエイティブなライフスタイルを?

その時は、ソーシャルなテーマを軽く扱っている印象を受けた。

「エシカルファッション」って結局はトレンドワードなのかもしれない、とも考えたものだ。

一方、伊達さんの話は、途上国の職人が持つ素晴らしい刺繍の技術を世界に広めたい、職人の働くコミュニティの底上げをしたいと言うミッションと、お客様の人生の一部になれるような服作りと言うミッションを、社会を変えるシナリオと自分のシナリオを描きながら果たしていこうとしている。

そこには、何を誰にどう届けるのか具体的で、エシカルに内在される「ソーシャルであること」もこだわりを発信するためではなく、自分たちの行動原則としている姿からは軽さは微塵も感じられなかった。

だから、長岡先生の鋭いツッコミにも全く動揺することなく応えられるのだろう。


「ソーシャルをビジネスにする」と言う際に「ビジネス」も多様だから、軽いからダメで具体的なものはOKなのではない。

ファションにおいても、トレンドを重視するビジネススタイルがあれば、ソーシャルを意識したビジネススタイルもある。

このビジネススタイルの違いによって「エシカル」はいかようにも用いられるのだろう。

そして、「ソーシャル」自体、「エシカル」同様、ときにトレンドワードとして用いられているということを気づかせてくれたのが今日のカフェゼミだった。


グラレコ と あっちにルイ





勝手に納得と沸き立つ疑問 どっちがお得か

以前、会社が浅草にあった時、「どうして浅草に会社があるのですか?」という質問をたまに受けた。

会社の事業がおもちゃ問屋であれば、そのような質問は出ないのだろうけど、仕事内容と観光地、浅草というロケーションのミスマッチが問いを起こしたのだろう。

一方、会社が京橋に移ってからは、そのような質問を受けることはなくなった。

逆に、『あ、そうなんだ』的に納得感を持つ人も少なくない。

つまり、仕事内容は浅草的よりも京橋的なのだろう。

僕としては、「浅草」と言った時の相手の反応を観るのが好きだったのだけど、仕事をする上で京橋はこの上なく快適である。

もう浅草に戻りたくはない。

ところで、「学び」という観点に立った時、「そうだよね」という納得よりも「どうして?」という疑問の方が有益だ。

仕事の目的としては、浅草の方が叶っているのかもしれないね。

かつて一緒に仕事をした某有名企業を定年退職した方は、僕が「浅草」と言った時、嫌な顔をして、後から「格好良くないから言わない方がいい」とアドバイスをくれたことがあったけど、やはりその方とは仕事の中で大切にする価値観が異なっていた。

「学び」よりも「品格」を重んじる、そういう方には「納得感」の方が優先されるのだろう。

会社の場所を聞いて相手がどう感じているのかチェックして見るのも面白いよね。



浅草 懐かしい


2017年10月17日火曜日

知識発見と気づき どちらも大事なこと

僕たちは、新しい知識を発見することに忙しい。

最近は何でもデータとして集まるようになったのでデータから宝を探し出すことが大流行りだよね。

そしてデータから何かを作り出せるという、まるで錬金術のような空想を描く人も増えてしまった。

でもデータから探しだせるのはどこまでいってもデータだ。

欲しい宝があるのなら、宝たるデータを作らなくてはならない。

今、機械学習(巷ではAI、人工知能と呼ばれることが多いけど)で一番問題なのはどんなデータを学習させるかであって、機械が錬金術でないことは明らかだよね。

さて、何れにしてもビックデータと宝探しから日々、新しい知識が発見されている。

知識は、誰もがその利益を享受することができるものだ。

その一方で人によって活かせたり、活かせなかったりするものもある。

例えば与えられた知識や、自らの行動を通して得られた経験においても気づきのある人とそうでない人がいる。

なぜならば、気づきには、前提、タイミング、文脈が必要、とてもパーソナルで、しかも偶有性が高いからだ。


知識が皆の行動を導くものだとしたら、気づきはその人のみの行動を変えるチャンスだ。

そして、僕たちには知識も気づきも両方必要なんだよね。


みんなのもの、ぼくのもの






僕の中の孤立集落の活性化について考える

忘れてしまっているようなことをたまに思い出す。

今回思い出したのは、大学生の時のアルバイト経験だ。

詳しい経緯、時期はよく覚えていないのだけど、僕が大学生だったある時期、渋谷東急プラザのスポーツ用品売り場でシューズ類の販売をしたことがあった。

不思議なのは売った記憶が全くないのに、売り場に立っている記憶がなんとなくある。

この記憶に意味があるかと言えば何もない。

唯一、売り場の店員さんに仕事と関係ない話で声を掛けてもらったことが思い出なのだけど、売り場は暇でモチベーションも上がらなかったなぁ。


僕がこの記憶を呼び起こす引き金になったのは、先日、渋谷を訪れた時、東急プラザが跡形も無くなっていたのを見たことかもしれない。

おそらく僕の脳みそのシナプス結合の中で、シューズ販売アルバイトの記憶は孤立集落みたいにネットワークから切り離された部分でひっそりと生きているのだろう。

最近は、犬の写真ばかりになってしまい、あまり日々の写真が撮れていないけど、写真で日常を撮り溜めてパラパラ漫画のように再生すると、本流から切り離された記憶が鮮やかに蘇る。

そこでFBやインスタを考えて見ると今まで以上に日常が撮り溜められていることに気がつく。

それらが記憶を呼び起こす装置であると考えると脳内孤立集落の活性化が進みそうだ。

これからなんだか面白いことになりそうな気がするね。


これも撮り溜め

2017年10月15日日曜日

僕たちの物語り、あなたは「あれ?」という音を聴きましたか?

昔々、あるところで僕たちは物語りを描き始めた。
そして、生涯を閉じる時、その物語りは幕を下ろす。


僕たちが暮らす日々はあまりにも現実的過ぎて時に過酷で時に退屈だ。

そんな日々を思い返すときそこに物語が生まれる。

僕たちが描く僕たちの過去は事実じゃない。

その時に感じた欲求も感覚も思考も身体感覚も全て作り直したモノゴトになる。

ナラティブとは創作なのだ。

でも、この物語りは書き方次第で僕たちに新しい道や力を与えてくれる。

そして、物語りは日々、書き換えられていく。

昨日までの悲劇が喜劇に書き換えられた時、僕たちは大きな気づきと大きな学びを得る。

チャップリンは、「人生はクローズアップで見れば悲劇 ロングショットで見れば喜劇」と言ったけど、クローズアップしか見ていない人に気づきも学びもない。

それこそが悲劇だよね。

学習論で言えば、ロングショット=ダブルループ学習、認知科学ではメタ認知ということになるのだろうけど、シングルループ学習、単純な認知でいる限りそれは悲劇だ。

先日インタビューした人は、この転換を「あれ?」という感覚で表現していた。

それまでのちょっとした被害者意識が自分の問題なのだと気づく瞬間が「あれ?」。

この音が鳴った瞬間、僕たちは物語を書き換える。

生かされている存在から生きている存在へ、悲劇の主人公から喜劇の演出家へと自らの立場を変えて物語りを描き始めるのだ。

あなたは自分の人生を生きていますか?

「あれ?」という声を、音を、聞きましたか?


物語りを書き換えろ!

Rewrite your story!




2017年10月14日土曜日

こうすりゃいいんだ!的なハウツーには気をつけよう

僕には犬と暮らすうえで彼にこうなって欲しいとかこれはやめてくれないかなぁと思うことが少なくない。

家犬はまだ幼いこともあって遊びたい盛り、手や足にじゃれついてくる。

それは可愛いのだけど甘噛みは痛いのだ。

さらに興奮すると、甘噛みは本気噛みになってもっと痛い。

さて、どうしたものかと思案投首するのだけど、このような問題に対して世の中にはたくさんの解決本がある。

あまり、あてにはしていないものの本屋によるとついつい手にとってしまう。

人とはかくも弱いものだよね。

先日手にした本は、漫画が多く用いられていてハウツー本と言うよりは読み物的な、センスの良いものだった。

表紙に犬の写真が配されているようなベタなハウツー本はほとんど手に取らないけど、読み物的なものにはちと心が揺さぶられる。

その本の中には、「犬は予測が苦手だけど記憶力は高い」と書いてあった。

犬は因果主義ではなく事実主義だ、ということだね。

その理屈で、何をすると叱られるのか察することができないけど、手を噛まないと褒められることはしっかり記憶するらしい。

でも家犬の行動を見ていて全て事実主義とも思えない。

彼はもっと柔軟に行動しているようだ。

例えば、手を噛むとケージに入れられる、という事実を記憶しても甘噛みでじゃれついてくる。

その際に、その度合いを測る印象が伝わってくるのだ。

遊びたいというコントロールし難い衝動と、どのぐらいが限界なのだろうかという探索行動が混ざり合って、距離感と反応を常に気にする。

事実主義であれば、このようなしなやかな行動は取れないだろう。

自身の体験や経験しか信頼できない人と同様、経験と結論がワンセットになるとこうなるかも、というイマジネーションが狭くなり、行動は単純化されて融通が効かなくなる。

家犬は、経験と衝動と予測から行動を引き出していて、それは、僕にとって痛い経験になったりするのだけど、予測が苦手で記憶が得意といった単純な行動モデルではないだろう。

「ハウツー」的なものはわかりやすさを追求する反面、簡単な結論を導くことで過剰に曖昧さ排除してしまい、結局、ハウツーになっていないことが多い。

「こうすりゃいいんだ」には気をつけましょう。


がぶ、に気をつけて!









2017年10月13日金曜日

第一世代を越えていけ イノベーションの本編

僕たちが出会うイノベーションとは、ある瞬間の前後というより、連鎖によってそれまでの当たり前が徹底的に塗り替えられていくことであることが多い。

例えば、楽曲の販売。

ずっとレコードがその中心だったけど、CDが登場した。

これがイノベーションの序章だとすると本編は、iPodなどのソリッド化、そして、ネットワークによるDLと物に固定された楽曲というデータが、物から解放されインターネットで流通することだ。

CDが第一世代だとすると、それ以降の第二世代は第一世代と越えた衝撃を起こし、ビジネスモデルを変えてしまった。

さて、この手のことは楽曲販売だけじゃない。

今日、法政大学教授の長岡さんから聞いたのだけど、NPO法人でも第一世代、第二世代があるらしい。

簡単に言うと営利組織の限界に挑んだのがNPOの第一世代だとすると、NPOの限界性に挑むのが第二世代なのだと僕は理解した。

そこには一個人と一組織の関係を越える世界が広がっていくようであった。


CDの例に照らし合わせて考えるに、まずは組織の定義を変え、次に個人の観念を変え、僕たちは本当のイノベーションに出会うのだろうね。

第一世代を担うのも良いけど、それを越える第2世代以降を目指すのはもっと良さそうだ。


復活してました






2017年10月12日木曜日

「変わらない」は疑え 僕たちは止まらない

いやはや、なんとも面白い研究結果が出ている。

後天的に獲得された形質は、次の世代へと遺伝する──「エピジェネティクス」の謎を独科学者らが解明

何が面白いかと言えば、遺伝子は生涯を通じて変わらないという世界観の存在だ。

この世界観は、事象を固定するうえで便利である。

「遺伝だから○○なんだ」的な説明は一見、もっともだからね。

だから、「遺伝子は変わらないものである」という不文律がまかり通ることになる。

でもこういう前提は疑わなくちゃいけない。

不文律があるところには必ず都合がある。

例えば、「遺伝子は変わらない」だから「性格は持って生まれた変わらないものである」とした方がハッピーな人たちが居るのだ。

これから僕たちが向き合うのが遺伝子レベルのダイナミズム(動的変化)であるとなると、ハッピーな人たちがアンハッピーになろうとも、前提を固定に置いている様々な考え方が変わってくるのだろう。


と願う人たちがいるけどね・・・





2017年10月11日水曜日

姿勢の大転換 自称劣等生の色川さんが語る学びのパラダイム

今にして思うと、高校生ぐらいまでの学校というものは、知識を身につけるところというより、物事を教わる癖、物事を覚えるという癖、そういう癖を身につけて行くところなんだろうな。

〜中略〜

ところが、そのあとで、なるべく早い折に、専門課程に進んでからか、あるいは実社会に出てからか、姿勢の大転換をはかる必要がある。

「うらおもて人生録」色川武大 より


僕大学生のアルバイト話を聞くたびに皆、真面目に働いてえらいなぁ、と関心する。

もちろん、働かなくてはならない理由もあるわけで遊びの延長じゃない。

真偽はわからないけど、社員よりも真剣に仕事に向き合っていたという話も聞く。

そこで、色川さんが言うところの大転換をはかるタイミングでのアルバイトについて考えてみた。

僕が仕事をしていて常々思うのは「せねばならぬ」と「したい」の違いだ。

この差は大きい。

まず、「せねばならぬ」で力が出るときが間違いなくある。

使命感であったり責任感であったりするのだろうけど、僕たちが子供の頃に憧れた正義のヒーローが活躍するときは皆、「せねばならぬ」だったよね。

でも正義のヒーローは週一、さらに3分間と、瞬間的に力を発揮する人(?)たちだ。

一方、使命感、責任感を果たし続けるのは困難で、周りを見ていても、息切れを起こしてその人の癖が噴き出してくる。

つまり、「したい」ことを始め「したくない」ことを避けるようになるのだ。

「したい」ことがないと「したくない」ことだらけになる。

一方、「したい」は力が自然と湧き出してくる。高い集中力とモチベーションを持続的に維持することが可能だ。

そして僕には、「せねばならぬ」を身につけて、「したい」に一気に切り替えるのが色川さんの言う大転換ではないか思えた。


さて、最初から「したい」ことをしようとする人(子供の頃の色川さんはそのようであったみたい)はわかり易いけど、「せねばならぬ」を身につけている人がいつ息切れを起こすのか予測するのが難しい。

自分をよくモニタリングしている必要がある。

「せねばならぬ」も「したい」も中途半端が一番よろしくない。

何事も続かない一方で、やりたいこともない状態だからだ。

で、ね。大転換を迎えている大学生のアルバイトは、「せねばならぬ」と「したい」、どっちのモードなのかよく考えるべきじゃないかな。

「せねばならぬ」だけなのに長続きしていたとすると、高い使命感、責任感を伴っていない可能性があってそれでは「せねばならぬ」は身につかないだろう。

「せねばならぬ」で高い使命感、責任感を果たす癖をつけるのか、勉学を通して身につけた癖を活かし、「したい」ことに大転換するのかまさに向き合えるタイミングだからね。

もちろん、選択肢は2つだけじゃないし、答えがあるわけでもないのだけど。


大転換の先にある姿





2017年10月10日火曜日

わかりやすそうでわかりにく「根ざす」こと

僕たちが慣れ親しんでいる多くの植物には「根」がある。

幹や茎、そこから伸びる枝、葉など目に見える部分とは異なり、地中にあって見えない部分だ。

この目に見えない部分の役割は、地中から水分や養分を取り込み枝、葉、茎そして花や種にそれらを送る役目と、植物が風など環境から圧を受けても倒れない物理的な支えとなる役目を担っている。

僕たちは、土壌、根、幹、枝葉、花、果実、種などを日常的な活動の比喩に使うことが多いけど、具体的でないものも多いだろう。

「根ざす」はその一つだと思う。

植物が育つ環境となる土壌に根を張って、活き活きと育っている状況が「根ざす」ことだけど、動き回る動物は「根っこ」を持たない。

そもそも「根」が無いのだから「根ざす」ことは物理的にできない。

僕たちに「根っこ」が生えてしまったら不自由このうえない。

でも、「根ざす」や「根無し草」のように心や活動が定まる(定まらない)状態に「根」を使うのは、僕たちが常に何らかの拠り所を求めているからではないか。

拠り所を持たないことが動物の強みである一方で拠り所を必要とするのは生き物として「生きる」前提なのかもしれない。

思想、信念、信条、家族、友人、仕事、学問、地域等、生きるうえでの拠り所は僕たちを強くしてくれる。

「根ざす」ということは、単なる拠り所だけでなく、そこから生きる力が湧き出してくる所であることも忘れてはならないだろう。


根っこがあったら飛べない



2017年10月9日月曜日

師に出会う、人々と出会う、自分と出会う 大学時代の出会いとは

僕たちが大学生だった頃も、今の大学生達も違わないなぁと感じるのが「出会い」だ。

「出会い」と言ってもその後の人生に大きく影響する「出会い」である。

ではどんな「出会い」があるのか、と言えば大きく三つじゃないだろうか。

1つ目は、「師」との出会い。

「師」とはその後の人生の指針を与えてくれる存在や、能力発揮のパラダイムを変えてくれる指導者だ。

ある大学生は就職し社会人になった後(!)にインターンシップを行なっていたがAとBの選択肢がある時にCの選択肢を選べという「師」の教えが影響を与えていたように思う。

また、高いレベルの能力、スキル、感性などなどに触れることは、指導という枠組みを越えて人を刮目させる。弱小チームの選手が、強豪チームの戦略、戦術に触れる出会いは衝撃を与える。

2つ目は、「人々」との出会い。

生活者の生きる姿や知恵、そしてその場所にある課題などを通じて新しい世界の有り様に触れる。それは、それまで毎日描き続けてきた世界と異なる世界だ。井の中の蛙であることを教えてくれるのは、井の外の生活者である。

フィールドワーク、越境、そして本格的な留学と自らの場所を変えて生活者と出会うことはもはや単なる経験と片付けることはできない。

3つ目は、「自分」との出会い。

何かに打ち込む、自分の弱さや矛盾に向き合う、それによって自分のこれまでといまを知る。そこから生まれるのが、「これからの自分」である。

例えば、スポーツに打ち込んでいたけど怪我をして挫折する、そして、自分のためではなく、チームメートやサークルのメンバーのために力を尽くすことを決めることがこれに当たる。

新しいこれからに目を向け、歩を進めるうえで、「これまで」と「いま」を欠かすことができない。

で、ね。全てに出会う必要もないけど、1つは出会いたいね。


自然との出会い


2017年10月8日日曜日

行き違う思いと結果 ああ、残念なお店

僕が家人と休日のランチによく行く韓国料理店がある。

大きな商業施設内のお店なのだけど、どちらかというとオフィス街の立地で休日はそれほど混んでおらずゆっくりできる「ちゃんとした」ところがお気に入りだ。

バチジミが美味しく、石焼ビビンバのランチセットを生ビールと一緒に頂くのがこのところの定番である。

さて、今日、店に行ったところ最初からちょっと残念だったことがあった。

以前は、二人で行って、何も言わず四人席に案内してくれたのに、今回はお願いしても二人席にしか通してくれなかった。

店は大概空いていて四人席が埋まることはこれまでなかったし、今日もそうだった。

そして二人席は狭いだけじゃ無く、天井も低くて僕にはあまりリラックスできる空間じゃない。

とは言っても、客をどの席に通すかは店の判断なので仕方がない。

次に、いつもの通りのオーダーをと思ったら、ランチ向けセットメニューのみとなり、その中から石焼ビビンバとバチジミのセットは無くなっていた。

また、これまでは箸やスプーンが一人分づつセットされたけど、今日は、プラスチックのトレーに最初から入っている、ファミレスのような方式変わっていることにも気がついた。

満席を想定した誘導、メニューの削減、セットアップの簡略化、これらのことを鑑みるに、顧客の回転をあげて利益を出す方針を強化したようだ。


で、ね。結果、僕たちの満足度は下がり、お勘定した金額は減っていたし、お店を出るときはガラガラだった。

こういうことって少なくないように思う。

経営戦略でオペレーションを変え、結果、顧客が離れ、単価も下がる。

某ハンバーガーチェーンでもかつて同じような出来事があったように記憶している。

ではなぜこのようなことが起こるのといえば、顧客の感性を二の次にした戦略とオペレーションに尽きるだろう。

お店にとって都合よく顧客を扱おうとした瞬間、顧客は離反する。

そんなに都合よく顧客は理解してくれない。


ところで自宅近くのファミレスは、ファミレスでありながら効率よりも顧客の印象を大切にしているらしい。

例えば、順番待ちの客は平等に扱い、順番で一人あっても四人席に通される。

店の都合よりも顧客が優先されている印象は、案外そんなところから伝わるものだ。


経営戦略で最適化すべきものは何?

2017年10月7日土曜日

5つの異なるテーマのインクルージョンもしくはインテグレーション

今日のブログで書きたいテーマが5つある。

そんな日は珍しい。

1つ目は犬との暮らし
2つ目は「生きる」こと
3つ目は「対話」について 
4つ目は呆れた外国人観光客
5つ目はマインドシェア

明日以降のテーマにしようかとも思ったけど、えーい、全部書いてみる。

犬との暮らしは、糸井重里さんが愛犬ブイヨンと添い寝していることに思いだしたことだ。先代犬は高齢となり、夜中、不規則にトイレに行くようになると寝ている側にトコトコ来た。冬だったのでコートを着せて抱えて外に連れ出すのだけど自分の寝ている側に来ることがこの上なく愛おしかった。生き物が攻撃ではなくて自らにすり寄って来る姿に多くの人が好意を抱くけどそこにはやはり絆が感じられるよね。

「生きる」、はランチを食べたCafe Katyに備えている「生きる わたしたちの思い」という谷川俊太郎さんの本に言葉として記されたものだ。「生きる」言葉と、言葉は「生きる」こと。本には当然ながら色々な言葉が綴られていたけれど、表紙に記された「生きる」を超えるものはないと僕は思った。それ以外の言葉は「生きる」を飾り立てるものでしかないのだ。もちろんそれは言葉だけではない。

さて、昨晩参加できなかった自画持参、がちゃトークのテーマは「対話」だったそうだ。僕が「対話」的であると感じるはテレビのチャンネル決め場面である。僕はそっちが観たい、でも君はこれが観たい、じゃあ、これを観よう、みたいに選択肢を広げることで、それによって新たな番組に出会う機会を得ることだ。どちらかが一方的な自己主張をすると出会いの機会は無くなる。いいよ、自分は観ないから、と妥協することでもない。そのためには、選択肢が広がることは良いことなのだという信念と寛容さを持つことが重要だよね。

ところで、Katyでランチを食べている時、二人して高級カメラをぶら下げた欧米系外国人のカップルが入店して来た。おそらく観光客だろう。入店後、すぐにトイレに行った女性が席に戻ると、驚いたことにそのまま出て行ってしまった。トイレを使いたかっただけなのだ。お店は公共施設ではないし、日本社会の規範に沿っていない嫌な出来事だ。しかも出て行くときに「Thank you」の一言もない。旅行なのだとしたら、現地の人と触れ合うことのできない旅行をする人って心が貧しく感じられるし居住者だとしたら言語道断だね。

そして、僕たちは日常生活を仕事、家事、余暇など配分にしているけど、それが心の中にある想い、マインドシェアと一致しているとは限らない。この不一致は、欲求不満に繋がり思わぬところでイライラしたり落ち込んだりしてしまう。例えば、ある一人の女性が担う3つの役割、妻として、共同事業者として、個人として使っている時間と本当に大切にしたいこととの間にズレがある(やりたいことがあるのに他のことで時間が取れない)場合、その感情に蓋をしないほうがいい。

で、ね。以上の全てをまとめると「生きる」こととは言葉が無くとも誰かに寄り添い寄り添われ、我慢ではない対話を通じて他者と触れ合い信頼と選択肢を増やして行くことなんだよね。


まとまった!