2017年12月31日日曜日

開けては暮れる、この一年

僕の2017年は、愛犬との別れで始まり、会社の引っ越しで終わった。

途中にはさらに色々なことがあった。

我が家の新しい一員となった仔犬との出逢い、親から相続した不動産の売却、仕事のこれまでの繰り返しと来年からの展開につながる新しい出来事、台風でキャンセルになった宮古島行きなどなど。

先代犬の治療のため家で毎朝点滴を打つ習慣が終わり、今は毎朝、犬の散歩が習慣になった。

自画持参やカフェゼミ、MALLなどこれまでの社外活動に加え、ウエブサイエンス研究会や日本認知科学会への参加など来年以降に向けた活動も始めた。

本や論文はあまり読むことが出来なかったけど、気づき、学びが溢れたインタビューやヒアリングを行うことは出来た。

家人のカラーセラピストとしての活動を少しだけアシスト出来たし、ドコノコのSNSを通じて糸井重里さんとちょっとだけ知り合いになれた(糸井さんが知っているのは僕よりも犬だけどね)

2017年が特別な年であったわけではないけど、終わりと始まり、続くこととと新しいことのコントラストが強かった一年だったかもしれない。

で、ね、やはり多くの素敵な人たちと出逢い、一緒に仕事をしたり、話し合ったり、話を聞いたりするのは、もちろん心地よいことだけじゃなくて痛かったり、苦しかったりすることもあるけど、きっと僕にとって楽しいことだね。

よく、年末に漢字一文字で一年を表すというのがあるけど、僕の一年を表す漢字は「僕」だ。

自分と自分の周りの変化をよく見つめていたし、周囲すべてを含めて「僕」を形作る。

「僕」だけが「僕」なのじゃない。

さようなら2017年、こんにちは2018年。


 一体、何枚撮ったのやら・・・






2017年12月30日土曜日

捨てるものがない世界はエコシステムなのだろうか

年末になると掃除しながら不要な物を捨てることが多くなる。

先日、会社の引っ越しがあって、結構廃棄したのだけど、他の人が持って来てしまった不要物も仕事納めを機に廃棄した。

封を切っていない新品などはもったいない感があるけど、この先使わないものは不要物だからね。

さて、社会で大きな問題なのが、フードロスだ。

食べ残しを減らそうとする個人の努力では焼け石に水というくらい、僕たちの社会は多くの食品を廃棄している。

そう、構造的かつシステマティックに食品を廃棄しているのだ。

日本で言えば、食料の生産、輸入、加工、流通、消費、廃棄は食の消費生活におけるエコシステムを構成している。

したがって、「廃棄」のみを問題視することはできない。

食べるものを無駄にすることには後ろめたさが付きまとうけど、食べるものを無駄に生産していることから問題が生まれているとも言えるのではないだろうか。


「捨てる」ことは「作る(創る)」ことの1プロセスだ。

「学び捨てる」ことだって「学ぶ」ことの1プロセスであるように。


自然に帰る扉を開く






意味らしきもの に僕たちはどんな意味を見いだすのか

最近、iphoneの写真アプリやGoogleフォト、それからフォトブックを作るアプリケーションの進化は凄まじい。

類似した写真や、良い印象の写真を時系列で並べる、ピックアップするなど、お願いしていないのに勝手に編集して「作品」を作ってくれる。

それはそれで面白いのだけど、問題は、プログラムは写真の意味など微塵も理解していないことだ。

写真の画像判別から、写っているものはなにか、また、何が多く写っているのかをデータとして蓄積する。

人であれば大切、もしくは身近な関係なである、という人間がインプットした推論モデルに即してデータを並び替えたり抜き出したりしているのであり、それは機械的な操作だ。

要するに人間が最適化するプロセスをプログラム化して、そこに新しい記号を付加された情報を読み込んで、出力している。

2本の手、2本の足、そして胴体があって目と鼻と口があれば人の形をした物体を作り出すことができるように、プログラムは意味らしきものを作り出せる。

しかし、プログラムは意味を微塵も理解していない。

プログラムの正体は生命でも神でもなく複数行に渡る「数式」だ。

プログラムが人形を作り出すことはできても、人間や生命を作り出せないように、意味らしきものに「意味」はない。

でも、僕たちは意味らしきものに「意味」を見いだすことはできる。

それは、「意味らしきもの」としての「意味」であり、「意味あるもの」としての「意味」であってはならないだろう。

なぜなら、「意味らしきもの」はどこまで行っても「らしきもの」だからね。


あれから一年・・・





2017年12月29日金曜日

会社の「公」と「共」と「私」と心の浄化

仕事納めの昨日、掃除から朝が始まった。

引っ越したばかりで全体的にはピッカピカなのだけど、デスクなどは前のオフィスから移動したものなので、若干の汚れがある。

特に、靴がぶつかる場所は、靴墨の跡がついてしまっていて、汚れが洗剤でなかなか取れない。

試しに消しゴムを使ってみたけどこれもだめ。

そこで、家人がよく使っている汚れ落としをドラッグストアで買って清掃してみたら、これがとても汚れがよく落ちる。

特に研磨剤が入ったものは見事に綺麗になる。

おかげで気持ちの良い仕事納めを送れた。


さて、僕はなにかモヤモヤしたり、イライラする時には共有物を意識して片付けてみる。

気分的な浄化(カタルシス)ではなく、清掃を通じてほんとに浄化するわけだ。

一方で、片付けをしないし、汚れが気にならない人もいる。

色々な人がいる会社のような場所では、間違いなくいる。

でもそれらの人も不思議なことに、いろいろな整理が必ず悪いということでもない。

手帳や自分のロッカーは綺麗にしている。

要するに、自分の周り、「私」の整理はするけれど「共」や「公」に関しては手を出さないのだ。

僕の経験から言って、それらの人たちは浄化下手で大概晴れないモヤモヤを常に持っている。

で、愚痴や不平不満を漏らすけどそれで浄化がおきるはずもないし、むしろ、心に澱が溜まっていくよね。

自宅の近くにある会社では、周囲の清掃を行う日が決まっているらしく、社員総出で掃除をしているけど、管理職とおぼしき人は箒をゴルフクラブに見立て振っているなど明らかに掃除をする気がない。

そういう人にとって、会社は社会の公器ではなく、苦労の代わりに生活費を稼ぐ「私的な場所」なのだろうね。


片付けは・・・




2017年12月28日木曜日

「コンテクストを捨て去れ!」るか?

自分の思う自分と、他人の思う自分にはズレがある。

当たり前の話だけど、全く違うのでなく、ズレがない部分もあることは興味深いね。

例えば、仕事の中で、現場に行かなきゃ始まらないことなどはズレが起こりにくい。

実際に現場に行ってそこから展開される、声を掛ける、積極的に支援するなどの行動が出来たのか、出来なかったのかは認識のズレが少ない。

一方、同じ職場にいて、声を掛ける、積極的に支援するなどの行動が出来たのか、出来なかったのかは前者よりも認識にバラつきが生じ易い。

自分は意識して行動したつもりでも、相手にとってはもっと、とか、こうしてとか、期待に沿っていないと出来なかったということになるのだ。

これってきっと、ローコンテクストとハイコンテクストの違いでもあるのでしょう。

自他共にはっきりと見え同じ認識に立てること、自他の間に暗黙の前提があって物言わずとも同じ認識であると思い込んでいること、の違いだね。

コンテクストが共有されるほど、相互理解が難しくなる。

複雑化し先鋭化する社会の中の課題はコンテクストのアンラーニングなのだろう。


昨日も、今日も、そして明日もダメと言う


2017年12月26日火曜日

ぶつ切り文化からひらきの文化へ

僕は人生って魚のようだと思うことがある。

秋刀魚のようにシャープな人生もあるし、鮟鱇のようにどっしりとした人生もある。

鰻のごとくニョロニョロした人生もあれば、真鯛のようにめでたい人生もあるだろう。

さて、僕たちの人生を魚に例えるのなら、社会はまな板で、社会制度は調理のようなものじゃないだろうか。

「舞台」と言えば聞こえがいいけど、逃れられない状況の中で身を委ねている部分もあるからね。

例えば、教育制度などは、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院と切れ目が多くある。

魚の調理で言えばぶつ切り状態だ。

ぶつ切りを乗り越えることによる「成長」もあるけれど、身を委ねている場合はそれまで経験や学びが文脈を失うこともあるだろう。

僕は、経験や学びの文脈を包み込んでいる皮をひらき、身をさらすことには大いなる意味があるのではないかと思う。

なぜなら、経験や学びは成長の「資本」だから、見える状態にあっていつでも使える方が良いからね。


どんな人生?




2017年12月25日月曜日

イライラは、気づきの宝庫

痒い所に手が届くのは本当に気持ちがいい。

どれだけ気持ちがいいかと言えば、10段階のレベル10くらい気持ちいい。

その逆に、痒い所に手が届かないのはとてもイライラする。

拷問に近いイライラだ。

さて、僕たちは自分の痒さは知っているけど、他人の痒さを知ることは出来ない。

痒そうにしていることを気づくだけだから、痒い所に手が届くように行動する人は、「気づく」「応じる」ことができる人である。

逆は、「気づけない」「応じれない」だよね。

僕たちが人間関係でイライラするときは大概、相手が「気づけない」「応じれない」ときだ。

「気づけない」のは認知、感性の問題であり、「応じれない」のは忙しさや反感などの問題だから、イライラを感じている自分と感じさせている他人をよく観察し内省するといろんなことが発見できる。

で、ね。もし、そのうえイライラが解消できる、つまり痒い所に手が届くとこんなに気持ちいいことはないよね。

実は、イライラはチャンスタイムなのだよ。


メリクリ






2017年12月24日日曜日

全社運動で皆スマイル? スマイルアワードを考える

今日、僕は家人とスターウォーズの8作目を見に行った。

映画館は、日本橋のTOHOシネマズだ。

話題作とあって席は満席だったし、僕的には作品も面白かった。

特に、今年の1月に虹の橋を渡って天国に逝った愛犬のルークを思い起こす場面があって、涙が止まらなかったのだ。

さて、TOHOシネマズでは、スマイルアワードと言う投票を行なっているようだ。

スマイルアワードとは・・・
お客様サービスの向上を目指し、笑顔でサービスを提供できている従業員をお客様にご投票いただくイベントです。

ようだ、と書いたのは、今日、僕の対応をしてくれた従業員さんは説明も投票用紙も、そして笑顔もくれなかったからだ。

こうした全社イベントは、そもそも、サービスの質全体を引き上げることを目的としているのだろうけど、結局、やる人はやるし、やらない人はやらない。

利用者として、とても残念だよね。

挙げ句の果てに、従業員さんは紙おしぼりもくれなかった(忘れた)。

もし、投票用紙をもらっていたら、最低点をつけてしまったかも知れない。


全社運動を行うことって簡単じゃない。

運動に協力しない人、運動を自分の目的にすり替えてしまう人など、「そもそも」が成立していないからだ。

で、ね。僕は全社運動に参加するのは好きだけど、実施には懐疑的なのだよね。

なぜなら全社一丸になるくらいハイコンテクストな文化を作るためには、洗脳や信仰レベルの強化が必要で、そんなことしたくないもの。

志を共にするメンバーに洗脳は必要ないけど、組織には志を共にしないメンバーが必ず居るのだから、全社運動でなく、有志の活動にした方が良いように思えるね。


ホワイトクリスマス








自然の前に無力なスマートライフ

新しいオフィスに移って、部屋の向きが西向きから東向きに変わった。

もう一つ変わったのは会議室が窓に面したことだ。

会議室の窓も東向きである。

朝日が燦々と部屋に差し込む幸せを感じながらも、ちょっと困ったことも起きている。

日差しが強くて、プロジェクターの投影やパソコンの画面が見えないのだ。

僕たちのスマートな暮らしは自然に弱い。

全ての生き物が受けている太陽光の強力な恵みを活かせないのだ。

結局、日差しを防ぐ対策を施さなくてはならないのだけど、スマートな生活って何だろうと考えさせられてしまう。

生き物として恵まれた環境ではない場所が適しているのであれば、本来の生命がある場と言うことは出来ないだろう。

そういった場所の繊細さが、生命の力強さを失わせ、少子化などの社会問題に繋がっている、と考えるのは飛躍しすぎだろうか。

暗くて陽の当たらない場所の方が快適な環境であるのは、絵画や書物なども同じだ。

それらも太陽光に当たると退色したり変色してしまう。

スマートさや文化を自然の力から守るのは楽じゃ無いし、僕たちはそこに大きな労力を注いでいるのだ。



朝日のあたるオフィス

2017年12月23日土曜日

クレーマーと働き方改革

犬と一緒に散歩していると不思議に感じることがある。

例えば、他の犬に出会った時、威嚇されるわけでも無いのに逃げ出す場合と、とても友好的に近づく場合とあるのだ。

時には、背中の毛を逆立ててしまうこともある。

最も、犬相手だけでなく、人間相手でも同様なので、おそらく、僕が感じない何かを彼は感じているのだろう。

先日、ある会社の面白い話を聞いた。

働き方改革のために、受注を抑えることを決めたのだけど、その際に、取引規模、効率の他に、取引先担当者の定性面を考慮したのだそうだ。

要するに「クレーマー型」担当者との取引は広げないようにしたらしい。

確かに、無理難題に対応するのは時間も労力も相当だ。

犬であれば、そう言う相手にはきっと背中の毛が逆立つのだろうけど、ビジネス場面では、そうも言っていられないので、逆立つの我慢して相手と向き合うことになる。

なかなか割り切ることの出来ない問題だけど、生産性をあげるために避けて通れない話であるようにも感じた。


綺麗





2017年12月22日金曜日

ローコンテクストに慣れよう

組織の中にもローコンテクストな人とハイコンテクストな人が混在している。

ローコンテクストな人は「些細なことでも言語化し、明文化しなければ伝わらない」。

一方、ハイコンテクストな人は、言わずとも伝わる。

でもひょっとしたら、ハイコンテクストであることは幻想なのかも知れない。

ハイコンテクストであって欲しいと言う思いがズレを覆っているのだ。

そして、ハイコンテクストな人にとってローコンテクストな人は、「空気が読めない」「当たり前ができない」と言うことになる。

さらには「認知が歪んでいる」「企んでいる」ともう、同じ人間とは思え得ないモンスターになっていく。

グローバル化、多様性のテーマを前にして僕たちに必要なのは、ハイコンテクストな共通理解を進めることでなく、黙っていたら決して伝わらないローコンテクストに慣れることかも知れない。


複雑や

2017年12月20日水曜日

マザー・テレサに癒される夜もある

あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。

けり返されるかもしれません。

気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。


「どうすれば人は、偉大な仕事をすることができるのですか?」

「偉大なことなんてできませんよ。大きな愛を込めて、小さなことをやるんです。それだけです。」

大切なのは、どんなスピリットを持って、それを行うかです。その「こと」自体の重要さではありません。


ありがとう、マザー・テレサさん


世界は大きい

2017年12月19日火曜日

学びの場と仕事の場の違いを乗り越える、なの

組織は学習すべし、とピータ・ゼンゲが言った訳だけど、組織が学びのコミュニティなのか、目的によって集うコーポレートなのか整理をつけずに議論されていることは少なくない。

学びのコミュニティであれば、お互いの気づきを生む対話と快適ゾーンを越える拡張や越境がコンテクストとなるけど、コーポレートであれば、契約に則ったルールと役割がコンテクストだ。

学びのコミュニティには学習者としてのハイコンテクストが存在するので、実は、集う人に大きく依存する。

学校教育が直面する問題がそこにあるのだろう。

一方、コーポレートは実はローコンテクストな世界だ。

ルールへの忠誠と自己紹介から始まり、声を上げない人は評価され難い。

それゆえに産業組織は多様性のメリットを享受できるのだ。

僕は、学校教育から産業組織へのジャンプすることの難しさがそこにも潜んでいると考えている。

言い方を変えれば、相互に理解しあえる心地よい世界から、相互に理解し合えないことが前提の居心地の悪い世界への移行だね。

僕たちは常に、集団をどう意味づけるのか問われている。

それは時に「差し迫った問題」であり、時に「なりたい姿への課題」になる。

そう、「シュレーディンガーの猫」のようにね。


ゴロニャーン

「上から言われて仕方なく」に「よりよく生きる」が負けないためにできること

僕たちは多くの情報を視覚から得ている。

確か、僕たちが常時取得している情報の70〜80%が視覚からだったはずだ。

それゆえか、状況や状態を情報化することを「可視化」と言うことが多い。

ただ「可視化」と言うのは、写真を撮る話ではなく、データとして実証的に把握することを指す。

この「可視化」には文脈があって、大きくは「本当にそうなのか」「正しく行われているのか」と監査することが目的の場合と、解決すべき課題の「可視化」つまり能動的な行為行動を引き出すことが目的の場合だ。

監査が目的の場合、「不信」が背景には横たわっているよね。

もしくは、「上から言われて仕方なく」とか「法律の決まり」でというケースが少なくない。

要するに、「可視化」されていなければチェックできないのだ。

行為を引き出す「可視化」は生きる知恵に根ざしている。

「よりよく生きる」ために新しい視点を生み出す役割を果たすのが「可視化」だ。

「可視化」の議論をしていると、「よりよく生きる」と思っていたことが実は「上から言われて仕方なく」に議論がすり替わって行くことが少なくない。

そんな時、僕は「よりよく生きる」ことを諦めたくないと強く思う。

性善説性悪説と言うのがあるけれど、善い悪いの話でなく、生きることを実感し続けるのだ。


よりよく生きる可視化




2017年12月17日日曜日

頑張れ、ベトナム(おそらく)の人

会社の引っ越しで日曜出勤した今日、帰りに新オフィスの近くで軽く食べて帰ることにした。

有名なたこ焼きのチェーン店のその店には4名の店員さんが働いていた。

店員さんは皆、外国籍の方で、印象から東南アジア系、おそらくベトナムの人に見受けられた。

割と席数の多いその店は、僕が入った時は、8名くらいの客が居たのだけど、注文を待っている間に、20名くらいの集団や、外国人などが来て大騒ぎになった。

カードが使えないと知ると帰ってしまう外国人や、メニューがたこ焼きだけになったのを知って帰ってしまう人も居て日曜の夜とは思えない賑わいの中、店員さんは一生懸命オーダーやルーチン(一部メニューのラストオーダー)を捌いて居る。

もうほんとに応援したくなった。

彼等、彼女達がもし、日本の若者のような教育を受けていたら、どうなっているのだろうか。

先日のカフェゼミで教育を受ける機会に恵まれない東南アジアの若者の話を聞いていたので、何となくそんなことを考えてしまう。

もちろん、それは僕の偏見なのかも知れない。


さて、僕たちの日常は、もはや外国籍の若者なしにはあり得ないだろう。

そして、その人たちのために活動をしているNPOと、僕が毎月寄付する日本の若者を支援しているNPO。

僕の選択は間違っているのかも知れない、と思った。


花ひらけ






好きなことを仕事にする、仕事を好きになる、ということ

「店員がおしゃべりをしている飲食店」

これだと何だかイメージが悪いかも知れないけど、

「店員が楽しそうにおしゃべりをしている飲食店」

であれば、少しイメージが良くなる。

そして、

「店員が美味しかったお店のことを楽しそうにおしゃべりしている飲食店」

となると、とてもイメージが良くなるよね。

『あー、この人たちはホントに料理が好きなんだ』とわかるから。

一方で、

「店員に会話が全く無い飲食店」「店員が影でこそこそ話をしている飲食店」「店員がLINEで悪口を言い合っている飲食店」で、料理を食べたいとは思わないから2度と行かない。

好きなことを仕事にする、ということは、その仕事に関わる多くに人々を幸せにする。

仕事を好きになる、ということは、自分も幸せにする。

逆に、とりあえず仕事をする、仕事が好きになれない、ということは、自分だけでなく周囲にも嫌な思いをさせているのだ。


昨日のランチで行った店では、キッチンとフロアが美味しいお店(他店)の話で盛り上がっていた。

もちろん、接客がおろそかになるようなこともない。

料理はさらに美味しく、店員さんがさらに魅力的に感じらたことは改めて説明するまでもないだろう。


素材も魅力的




2017年12月16日土曜日

「良い先輩」「悪い先輩」「普通の先輩」

カフェゼミで聞いた、イーエデュケーションのインターンシップ経験者、武輪さんの話の中で印象に残ったのが「先輩」の話だ。

この「先輩」は武輪さんがフィリピンに行く前に、フィリピンでインターンシップを1年間行っていたのだけど、その時に自分が体験して知っている辛くなるタイミングなどに合わせて、フィリピンを訪れ、武輪さんをサポートしてくれたそうだ。

武輪さんの場合に限らず、企業においても「先輩」とは、「後輩」より一歩先に辛いこと、苦しいこと、そしてそれを克服したことを知っている存在だ。

つまり、最適なタイミングでアドバイスができる存在である。

そして、そのアドバイスが適切であれば「良い先輩」だし、不適切なら「残念な先輩」ということになる。

「良い先輩」は武輪さんの先輩のように、折れかけた心に寄り添って、ゴールに向かう気持ち思い起こさせてくれる。

「残念な先輩」の中でも「悪い先輩」は、折れかけた心を折ってしまう。

「残念な先輩」の中の 「普通の先輩」は自分のことが手一杯で後輩の面倒を見れない。

で、ね。誰でも「良い先輩」「悪い先輩」「普通の先輩」になり得るのだよね。

ちょっとだけ先に経験を積む者であれば、その経験をより良く活かす気持ちが大切なのではないかな。


一足先に終わってる?


2017年12月15日金曜日

ハードボイルドだど これも1つのインターンシップ melcカフェゼミより

多くの日本企業がインターンシップを行うようになったのはこの数年だ。

インターンシップは大学の単位になったり、就活の前哨戦になったりとその姿を巧みに変えるのだけど、昨晩のカフェゼミで聞いた、イーエデュケーションのインターンシップは今まで聞いたことのないようなハードなものだった。

僕も含め「インターンシップ」を語る人にとって驚かされるのは、大学を休学して1年間、渡航費用も含め自腹、そして成果が求められるインターンシップの競争率が3倍!もあるということだろう。

で、ね。その話を聞いて、なぜか日本の未来は明るいと思ったね。

実際にインターンシップを行った武輪さんの話も聞いたのだけど、何もないところから課題を見つけて解決していく姿は、今の多くの就活生に最も足りていないことに思える。

だって、「やりたいこと」でなく「できること」や「やりやすいこと」から仕事を見ているからね。

そして、社会人になって「できないこと」や「やりにくいこと」に直面して、もっと良い場所を探し始めるわけだ。

武輪さんの話が終わり、周囲の人たちと対話を行った後の質問もとても面白かった。

Q:結局何を学びましたか(得たものは何)
何もないところから始めて、新しいことのハードルが下がった なんとかなるという精神が身につきました。

Q:送り出す側(イーエデュケーション)のインターンシップ生に対する思いは?
本当にない。やることのハードルが高いのでずっと筋トレしているようなもので人間力を鍛えてもらっている
やがて日本を代表する人材になってくれれば良い(個人的意見)

社会人基礎力は少しだけ意識しているけど、それよりも一緒に働いくれる仲間を募集していて、現地が良くなったかという成果を強く意識している(勉強してこいよ、と行って送り出しているつもりはない)

Q:成果に対するプレッシャーは
学生が現地に行って何かやっている感じだけど、現地で責任者という自覚は強い

Q:日本では何かやっていたの
何もやっておらず、ドキドキもあったけど頑張る気持ちはあった

Q:決断はすぐ出来たのか?
高校生の時、イーエデュケーションを本を読んで自分にもできるかも知れないと考え大学に入り、上京した後、結局3年迷った。休学には迷いはなかった

Q:日本のインターンシップには参加するのか
就活の一環としてやるつもりだけど、イーエデュケーションのインターンは別物

Q:どうやって現地に溶け込んで課題を見つけた
色々あるけど、簡単なのは現地の言葉で歌う、話す 現地のノリに乗っていく

ローコンテクスト、ハイコンテクストを考える
ローコンテクストな文化を打ち破る
わかってもらえない時に見える場所に立つのがローコンテクスト
異文化の中で学ぶにはローコンテクストが重要

ボツんと座って誰かが声をかけてくれるのを待っているのがハイコンテクスト

Q:インターンシップ生のモチベーションをどうあげるのか

公式には週1回スカイプミーティング メンタリングで気をつけているのはそもそも何でイーエデュケーションに来たのだっけ?と問いかける
倍率3倍で同期が外国にいるので頑張れるのじゃないだろうか

一番モチベーションが上がったのは、1つ先輩の経験で、先輩は辛さを知っているから、そろそろきつくなることを察し、落ち込んだ頃に声を掛けて現地に来てくれた

NPOのインターンで不満(長岡さん)は、プロジェクトになっていないこと(期限)
いい子を拘束するインターンはモチベーションが上がらない
終わりが決まっているから力が出る

別れを前提としていることが重要
一方、ハイコンテクストであると、一度きたらダラダラ続けてしまう

Q:夢破れてそこからどうして立ち上がれたのか

ヒーローになるという空を飛んでいるイメージから地面に降りてきて、理想と現実のギャップを知ることが出来た。
一度地面に落ちたら、1つ1つ階段を登ればいつかは届く、夢が目標に変わった


僕が一番関心があるのは、高校生のとき武輪さんは何でイーエデュケーションの活動に興味を持ったのか、だね。


カフェゼミ

2017年12月14日木曜日

プロジェクトの森に待っているのは学習か苦難か

プロジェクトとは、独自のプロダクト、サービス、所産を創造するために実施する有期性(明確な始まりと終わりがある)のある業務である。


僕の会社で仕事と言えば、間接業務を除いて100%がプロジェクトだ。

だから、全ての業務プロジェクトリーダー(マネジャーではないところがポイント)が居ても一人のリーダーが数多くのプロジェクトを同時に回している。

いつ見てもその働きぶりには頭が下がる。

冒頭の定義をもう少し具体的にすると、プロジェクトとは有期性、独自性の他に、今までに経験を持たぬ新しいチャレンジがある不確実性(リスク)、時間の経過とともに詳細になってくる段階的詳細化がその特徴だ。

要するに始めて見なけりゃわからないけど、納品は必ず待っているのだ。

この対極にあるのが「定常業務」で、決まった手順に沿って仕事をすることだね。

「定常業務」は習熟や仕組みによって効率が上がるから、計画的に生産性を上げたければ、出来るだけ「定常業務」を行うのがよろしい。

さて、この教育にプロジェクトを活かすのがPBL(「課題解決型学習、Project-Based Learning」)だね。

文部科学省は、大学教育改革のためにアクティブ・ラーニングを推奨しており、その一環として課題解決型学習をあげている Wikipediaより

とあるように、数年前から大学でも積極的に取り上げられている。

ただ、最近の大学生は良好な人間関係を築くのは上手いけど、こういった学習があまり上手でないという話も聞く。

僕の会社がプロジェクト100%なのは、定型サービス提供型ではなく、顧客固有の課題解決型であることが大きく影響しているのだろう。

プロジェクトマネジメントを要するような長期、もしくは大規模なプロジェクトではない、小規模なプロジェクトの実施は手際よく走り抜けるのがポイントである。

一方で、プロジェクトが林立して森になっている場合は、走り抜け続けるタフさが必要で人によっては望まない鍛練になる。

「定常業務」が激減するVUCAやAIの時代にあって、残る業務はプロジェクトだ。

そんなプロジェクトの森に飛び込む人に待っているのは、学習だろうか、苦痛だろうか・・・


森の中



2017年12月13日水曜日

紙は縦と横で数えるもの? 数えるのも大変です

僕が社会人になって最初に身につけたスキルはお札を数えることだった。

それまで、数えるほどお札を持ったこともない僕にとって、そもそも100枚の札束は新鮮だ。

もちろん、練習はお札のような大きさの紙から始まったのだけど、実際のお札はだたの紙とは雲泥の差でとても手触りがよく、数えやすかったことを覚えている。

その後、お札が新しくなって普通の紙に近づいてしまったのは残念だったけど、A4とかA3と言った僕たちがよく使う紙の大きさに比べて紙幣の大きさには数えやすさも考慮されているに違いないよね。


今日、僕はひたすらA3のコピー用紙を数えていた。

お札の何倍も大きなA3用紙は、「数える」行為に向いているとは言い難い。

厚さも薄くてツルツルしている割りにくっつき易い。

お札を数える良きは、縦と横で確かめるのだけど、A3の用紙は縦でも横でも数え難いからストレス満点だ。

で、ね。数えなくてなならない「紙」は、大体、お札の大きさにしてくれると有難いなぁなどと考えていたのだけど、それだとメモくらいにしか使えないから、紙としての意味が少なくなってしまうね。

であるので、逆にA4とかA3や名刺サイズ(これも数え難い)の紙は数えないで良い、という世の中になって欲しいものです。


もうすぐクリスマス








僕たちの小さなシンギュラリティ

僕たちの周りに形を変えるものはたくさんある。

例えば、水は、0度で氷、固体になり、100度で沸騰して気体になるよね。

最近、人工知能が進歩して2045年には僕たちの世界が一変する、シンギュラリティが到来すると言われているけど、こういった特異点とか、相転移と言われる様相の一変は、いきなり起こるわけではなく、徐々に進行する変化が、ある一線を越えた瞬間に訪れるものだ。

実は、僕たちも日常的に一線を越えている。

食べ物を口に運ぶとか、座っている状態から立って歩くとか、リーダーシップを発揮するとか、じっと黙っているところから他人に話しかけるとかね。

でも、ずっと一線を越え続けるわけではなく、やがて元の領域に戻ってくる。

それを「落ち着く」という。

静止した状態の自分、があるわけだ。

この一線は人によって違ってその人となりのを表している。

「活発な人」は一線のレベルが低いのだね。

こうした僕たちの小さなシンギュラリティが集団や、社会、文明のレベルで繋がることで大きなシンギュラリティになっていく。

つまり、僕たちの小さなシンギュラリティが無ければ大きなシンギュラリティも無いのだ。

スマホやソーシャルサービスの進化を見ればよくわかることだ。

そのことを考えれば、僕たちが朝起きて、ご飯を食べて、会社に行って仕事をしたり、家事、子育てをしたりすること全ての行為、行動には大きな意味がある。

また、僕たちの小さなシンギュラリティは、僕たちの少し大きなシンギュラリティの呼び水にもなっている。

2045年はまだ先だけど、良い2045年が来るために「いまここ」にある僕の小さなシンギュラリティを大切にしなくちゃね。


なんだろね

2017年12月12日火曜日

発見! 犬にもアクビは感染るのだ

犬がアクビをする時は、緊張を解そうとしているのだ、という話を聞いたことがある。

僕がアクビをするのは、大概、眠い時だ。

犬のアクビの話を聞いて、人と犬は違うものだなぁと思ったのだけど、昨晩、犬と二人で向き合っていた際に、どうも、前述の説は違うかもしれないと思った。

というのも、アクビが感染ったからだ。

昨晩は、犬と遊びながら写真を撮っていたのだけど、彼が大きなアクビをした。

シャッターチャンスを完璧に逃しは僕は、なんとなく、アクビをしてみた。

すると、どうしたことだろうか、犬がまた、アクビをしたのだ。

人と人でアクビが感染ることは誰でも経験があると思う。

僕は専門家ではないのでそのメカニズムを知らないけど、脳にはミラーニューロンというものがあって、相手の行動や感情を理解するのに役立っているらしい。

感染るアクビもつられ笑い、もそんなミラーニューロンの働きなのだろうか。

で、ね。犬にもミラーニューロンがあるとすればアクビも笑いも感染るのだろうし、少なくとも昨晩は、感染ったよね。


僕のアクビはきっとこんな顔




2017年12月10日日曜日

スタートレックとゴジラに見るリーダー像の違い

日本とアメリカのリーダー像は異なる。

当たり前の話だけど、そんなこと考えながら映画を観ているとよくわかることもあるよね。

例えば、有名なアメリカのSF、スタートレック。

キャプテン(船長)は紛れもなくリーダーだ。

このリーダーは常識を越えながらもクルーを守り、危機を乗り越える。

そして、クルーから更なる信頼を得るのだ。

一方、日本の映画、ゴジラではリーダーは全く異なる描き方をされる。

例えば、首相は国のリーダーだけど、映画の途中で亡くなってしまう。

でも、決まりごと的に代わりのリーダーが出現し国を守る。


要するに、アメリカではリーダーとはユニーク(換え難い)な存在であるのに対して、日本ではオルタナティブ(代替可能)な存在なのだ。


さて、リーダー論やリーダーシップ論は様々ある。

だけど、映画でもすぐに気づくほど、リーダー像とは実はとてもハイコンテクストなものであるように思える。

で、ね。機能やあり方、価値信念だけでリーダー像を語るのはね、あまり現実的でないように思えるね。


ハイコンテクストな世界










2017年12月9日土曜日

関東風と関西風 お好みはどっち? 

人形町にはよく知られた老舗、「松浪」と言うお好み焼き屋がある。

ここの人気は、「松浪焼き」と言うあさりと九条ネギのお好みだ。

醤油をかけて食するが、この組み合わせがとても美味しい。

あさりは深川めしでも使われる、下町に馴染みの食材であり、醤油の味付けはやはり江戸の下町ならではのお品だろう。

味覚にしても、色彩にしても、お笑いにしても関東と関西、江戸と上方には違いがあるよね。

この前、大阪に出張した際、ぼてぢゅうでお好み焼きを食べたけど、松浪焼き風のものは見当たらなかった。

逆に、「松浪」には豚玉天、みたいなメニューは無かった。

お好み焼きは、粉を溶いて好きな具を混ぜ、鉄板で焼く料理だから好みが出る。

そんなことだろう。


これが松浪焼きになる


昔の店?

リッチコンテンツな社会で大切なこと

アメリカの映画を見ていると、ストーリー、映像、音の使い方がとても効果的に観客を引き込んでいることに気づく。

日本の映画はストーリーと映像はあるけど、自然音以外、音はあまり使われている印象がない。

僕はその道の専門家ではないので、アメリカと日本の映画の歴史、背景、特徴などを語ることは出来ないけど、「わび・さび」と言う豊かさと対照的な日本の美意識が影響しているのかもしれない。

最近、僕はあまり聞かなくなったけど「リッチコンテンツ」と呼ばれる、直感的に伝わるけどデータ量は莫大、と言う方向性は日常生活にすでに根付いていてあとは、テイストとしてゴージャスなのかシンプルなのかの違いである、ともいえそうだね。

例えば、ナチュラル、オーガニック、エシカルなども、高速なインターネットや無線通信、物流・流通網やのインフラの上に展開されている。

無人島生活ではないのだ。

要するに僕たちはどう足掻いてもリッチコンテンツな社会の一員なのである。

もちろん、貧困も格差もある。

でも、リッチコンテンツな社会だからこそ出来ることも増えた。

で、ね。気づきいたのは、一番大切なのは目先のテイストに踊らされないことだね。

例えば、仕事選びでも働きやすそう、とか、楽しそうみたいな職場の雰囲気を大切にする人が多いけど、それは、テイストでしかない。

リッチコンテンツな社会で暮らす以上、自然と、仕事は膨大になって、働きにくく、辛くなる方向に向かうよね。

だから改革が必要になる訳で、もっと社会の本質的変化に目を向けていく必要があるのだと思うよ。


自然はもともとリッチ





2017年12月7日木曜日

仕事で誰かにふわっとした話を投げていませんか?

僕たちが働くのは「傍を楽にする」ことだ、と言う人も居るけど、僕たちの仕事は必ず誰かの仕事と繋がっている。

傍を楽にできるかどうかは置いておいて、少なくとも次の人がし易いようにするのが仕事の流儀だろう。

例えば、以前調査した結果では、仕事で高い成果を出していると考えて居る人は自分の役割よりも上の役割の仕事をして居る自覚を持っていた。

つまり、平社員であれば管理職の、管理職であれば役員の仕事をも執り行っていると考えているわけだね。

自意識過剰傾向も多少あるとは思うけど、色々な会社を見て本当に高いパフォーマンスで出世している人は概ね自分の仕事を限定していないように思う。

それは、上役の仕事を上手にサポートするだけでなく、同僚や部下の仕事も上手にサポートすることも意味している。

一方で、サポートしないどころか、仕事の繋がりを切ったり、他者に余計な手間を掛けさせる人もいる。

そして、それらの人の話は大概、ふわっとしている。

以降、全ての仕事がふわっと繋がっていくのであれば問題ないかもしれないけど、どこかでキチンとせねばならぬ時、他者が必死に整理する羽目に陥るのだ。

「傍を楽にする」でなく「傍を苦にする」、つなり誰かと「傍楽(働く)」でなく、誰かを「傍苦(叩く)」のだね。

で、ね。一人仕事が得意な人はね、案外、「傍楽」でなく「傍苦」に陥り易い。

僕は、ふわっとした話をする人が嫌いじゃないけど、ふわっとした話を受け取るのはあまり好きじゃない。


ふわっと乗せると落ちるよね









2017年12月6日水曜日

平成残業合戦ぽんぽこ Silent Night, MALL Night

今日は経営学習研究所(MALL)のイベントに参加した。

テーマは「≪働く個人≫による残業の主張 平成×昭和で語る」だ。

僕のブログとしては珍しく、結論から言ってしまうと「平成残業合戦ぽんぽこ」だ。

スタジオジブリの作品をオマージュしちゃった訳だけど、実は僕はオマージュ元の作品にあまり興味がない。

それでいてオマージュというのもなんだけど、平成という世代に、化け狸のごとく昭和世代が作り上げた残業という化け物を巡って合戦をするようなイメージだったからなのだ。

イベントレポート風に書くと、
平成の主張は三人。
人材紹介の営業の社会人3年目で「残業は自身の生産性を測るバロメーター」
もうちょっと短く出来なかったのか日々振り返る、仕事は人生を豊かにする一つのツールという女性と、社会人9年目で「残業は解釈の質」として日々考えることをテーマにする男性、そして「残業は変えていかなくてはならないもの」として、どうやったら人が辞めない、職場が変えられるかを考える3年目の女性が話をした。

一方、昭和の主張も三人だけど、こちらは手練手管のスキルを身につけている。
「残業は離職へのカウントダウンスイッチ」というカウントダウンTVに、「残業は孵化器だった」と言い切る職場は我が心のジョージア、そして「残業は一人前になれた証し ただしあの頃は・・・ね」とバブルストーリー・テラーだ。

参加者の対話の後に「チェンジワーキング」の著者から「心地よい残業の罠に陥らない」「個人の力でできるシェイプアップ」という話を聞いた。

今回のテーマが≪働く個人≫だからだ。

イニシアティブをとるためのシェイプアップポイントは、
外部要因(会社)と内部要因(自分)の切り分け
外部要因には「異議申し立て」「悲鳴をあげること」
内部要因には「抱え込み型」と「手際に問題」型がある
「抱え込み型」にはダイエットのハピネスに気づく
「手際に問題型」にはInとOutを見直す
マネジャーの役割はシェイプアップ・コーチ
だそうである。


で、ね。僕は、残業は「他人ゴト」だと思ったね。

自分ゴトであるとき、実はあまり残業=悪とは思っていない。
これは平成の主張でもそう。

今日の登壇者は、皆、自分ゴトなのであまり残業=悪、の感覚が無い。
むしろ、自ら向き合うテーマとしている。

一方、残業文化を作り上げた昭和の主張はまさに「合戦」、戦いそのものなのだ。

ひょっとしたら、今日、僕が聞きたかったのは「自分ゴト」のBefore and Afterではなく、「他人ゴト」x「自分ゴト」だったのかもしれない。


化けてる?

仕事の報酬は仕事、はブラックそれともホワイト?

僕は、「仕事の報酬は仕事」は条件付きで「そうだよね」と思う。

報酬でなく、仕事自体に動機を持つ働き方については、経済成長期の生産性と効率化競争の中から盛んに取り上げられるようになった。

もちろん、それまでの働き方の中にもそういう人は居て、おそらく孤高とか至高のスタンスで仕事に向き合っていた。

経済成長が止まり、生産性と効率性だけではなく、創造性まで仕事に求められるようになると、自然と「仕事の報酬は仕事」な状況になるのだけど、案外、旧来の生産性、効率性時代の仕事観が根強く残っているようにも感じる。

自らの仕事に対して、割りが合わない、犠牲にしている、という感覚だね。

この感覚、若い世代でも決して少なくないのだろう。

では、このような仕事観は誰が伝承しているのだろうか。

本来ホワイトカラー、ナレッジワーカーにとって「仕事の報酬は仕事」は受け入れやすい仕事観であるはずなのに、「割りの良い仕事」「能力が活かせて犠牲を払わない(低コスト)仕事」が蔓延していく背景にはひょっとしたら、アルバイト選びの視点が影響しているのかもしれない。

僕が冒頭で条件付き、と言ったのは、「仕事の報酬は仕事」はやはり、誰かに言われることでなく、当人が体現する中で気づくことだと思うからだ。

割りに合わないと思ったり、何かを犠牲にしていると思っても、やはりこの仕事が好きだと思えるか思えないかは結局、本人次第だけど、僕は幸福感を持って仕事をしたいから、やはりこの仕事が好きだと感じるよ。


走るのが好き

2017年12月5日火曜日

アバウターに気をつけよう

かつて大ヒットした映画「アバター」。

人間の分身キャラが異世界で活躍し、世界を救う物語だった。

さて、ヴァーチャルな世界では自分の分身を活躍させることはもはや当たり前だね。

最近は全く触らなくなったけど、アメーバーピグなどはアバター文化の最たるものだった。

さて、アバターみたいな分身キャラよりも僕たちの日常生活に大きな影響を与えるのが「アバウター」だと思う。

人となり、と言ってしまえばそれまでなのだけど、結構、困ったことになる。

じゃあ、「アバウター」ってなに?となるよね。

それは、自分に甘く、他人に厳しい人のことです。

僕なんかは自慢じゃないけど「超アバウター」だ。

だからね、脱アバウターのために努力している。

具体的には「求めすぎない」そして「とにかく奉仕する」ことに内的な充実感を得ることを意識づけをしている。

また、「アバウター」を見たら、それは自分の姿と思って接するように心がけている。


映っているのは自分


2017年12月3日日曜日

鋭い嗅覚 嗅ぎつける力

今日の昼間、僕は犬とドッグランに行った。

天気は良いし、家人は出かけて居ないし、午後はこれという予定もなかったので、先日行ったドッグランを再訪したのである。

家からちょっと遠いところにあるそこに行くには、自転車がちょうど良い。

スリングという肩掛けに犬を入れシティサイクルで出かけた。

彼は、大人しく乗っていたものの酔って吐いた前回と違い、かなり暴れて飛び出そうとしたけど今回は酔わずに現地に辿り着けた。

片道30分弱である。

彼もドッグランに慣れ、好きに走って遊んで、脱走を企てていた。

さて、少し、躾もしようと左手におやつを持って彼を呼び戻すトレーニング(戻ってくる確率は低い)をしたり、お座りをさせたりしていたのだけど、気がつくと彼ではない他の犬たちが僕の周りに集まってきた。

滅茶苦茶かわいいその子たちは決まって僕の左手に興味を持っていたから、おやつに関心があったことは間違いないだろう。

話には聞くけど、犬の嗅覚はすごいね。

で、ね。その時頭に思い浮かんだのは、人にも様々な嗅覚があるね。

金儲けを嗅ぎつける人、危険を嗅ぎつける人、人の弱みを嗅ぎつける人などなど、普通の人には気づけないことを平気で気づいてしまう。

以前、本人よりも早く知り合いが妊娠したことを嗅ぎつける人から話を聞いたこともある。

でもそれらは、言葉で説明できる能力ではなく、何だかわかってしまうことなのだろう。

また、パーソナリティ特性という態度のバイアスではなく、先天的で特殊な力だ。

そして犬は種として人よりも嗅覚の能力がかなり高い。

ところで僕な何を嗅ぎつけることができるのだろうか。

今晩、寝るまでに考えてみることとしよう。


嗅がれていルイ



2017年12月2日土曜日

「シュウカン」を考えるがちゃトーク

昨晩の自画持参ナイトは今年最後で新しいシステムでの2回目だった。

新しいシステムは、貸切でない普通にカフェ営業する中でのがちゃトークで、僕にとっては初めてだ。

さて、新たな参加者はいなかったけど、カフェケイティのマスターを含め6名で「シュウカン」について対話を行った。

僕にとって習慣にしているのは、このブログだけど、がちゃトークで「シュウカン」を考える時、敢えてそのことには考えないようにした。

もう少し、普通の習慣を考えたかったからね。

久しぶりにトークに当選した時に僕が考えていたのは、参加者の一人が話していた、若い子がテレビをあまり見ないのは、決まった時間にテレビの前に座って番組を視聴する習慣を持つことが苦手と言うことだった。

むしろ、見たいときにYoutubeを見る、という「非習慣的行動」が主流との話は、僕もどこかで聞いた記憶がある。

そして、小学生が将来なりたい職業が「Youtuber」である。

僕たちの世代にとって、シュウカンは「習慣」でもあり「週刊」でもある。

つまり、決まった日時場所において一定の間隔で繰り返す行動なのだけど、今は、特定の場所や間隔という概念が薄い、いやむしろ苦痛であるようだ。

ドラッガーは「成果をあげるのは才能ではなく習慣である。」と言った。

僕はこれは名言だと思うけど、「シュウカン」が苦手な人たちにとって仕事も苦手であるのかは、とても強い関心がある。

まずは思考を変え、納得したうえで、行動を変える、そのサイクルを繰り返すうちに、頭で考えなくても無意識に行動できるようになる、それが「習慣化」された状態であり、その先には新たな思考の芽生えとともに「脱習慣化」の新たな世界が待っている。

実は僕がこのブログを続けているのは、その世界を見たいからなのだ。


がちゃトークとスパークリングワイン






同じ本から異なる魅力を引き出す人ら

同じ本を読んでもそこからどう意味を見出すかは人によって違う。

一方、同じ本に惹かれる共通性はどこかにあって、似ているけど違うね、となるのだ。

例えば、リベラルな主張が込められいる本を読んで、日常に新しい視点を見出そうとする人と、日常を否定し自己の正義を翳そうとする。

もちろん、その先にある行動は大きく異なることになる。

一見、当たり前なことだけど、少し時系列的に考えると新たな視座が生まれるよね。

昔は、現状否定していたけど、その後の様々な経験を経て新たな視点を見出すようになる、といった心理変化は珍しいことじゃない。

でも、その両方を知っていることには大きな意味がある。

自己や他者の視点、自分の成長の両方を俯瞰しているからだ。

僕は、この意味づけの違いが、その人の懐の深さや魅力になっているように思う。


魅力的



2017年11月30日木曜日

仕事人の宝の山のありかに気づく

僕の勤める会社が間も無く引越しをする。

そこでこのところ身の回りの整理をしているけど、基本、要らない書類の廃棄に追われている。

そもそも、今のオフィスに来た時は、ペーパーレスを目指していたのだけど、やはり、報告書類やナレッジに関わる捨てがたい資料もあって、そんなものが徐々に蓄積していくのだ。

ところでその時はまた役立ちそうで捨てがたい物も、後から見返してやはり捨てられない物ともう捨てられる物に分けられるようになる。

では、やはり捨てられない物が「宝」なのか、と言うとそうでもないだろう。

僕には、捨てる、捨てないの見分けがつくことの方が「宝」であるように思える。

なぜなら、かつて「宝」と思ったその時の苦労や感動を含めて今一度意味づけすることができるからだ。

あの時世話になったあの人、考え抜いて作った資料、思ったようには進まなかった苦い思い出などなど、具体的な過去を構造化し、捨てるもの、捨てないものに分けることは、リフレクションそのものであり、それにとってメタ思考が進むからね。

大切に保管してきた仕事の書類は、消費の残滓ではなく、仕事人として価値を生み出した苦しみの記憶だから、何だかときめくものを残す片付けとは異なる。

しかし、過去の経験とそれを整理し新たな活動に繋げるプロセスには未来へのときめきがあるよね。


過去を整理する、と、過去で整理する の違い




動機と行動の一体感

以前、若手コンサルタント職の統計分析を行った時、高収入に動機をもつ人材は、成果を出すのは早いけど、その後伸び悩み、一方やりがいや顧客の満足に動機をもつ人材は、最初成果が出ないものの、成長し続け、一定期間を経ると確実に成果を積み上げるようになることがわかった。

分析はあくまでもこれまでの結果であって、これからもそうであるかは不明だ。

また、個人別に見れば、収入に動機を持ち、高いレベルの成長をし続ける人も間違いなく居る。

しかし、どのような動機を持って仕事をするかは成長に何らかの影響を与えていることは間違いないだろう。

本人にとって一番達成と満足感があるのは、達成と満足が連鎖する成長をし続ける動機を持つことだろう。

一方で、達成と満足感だけが大事なことでもない。

達成に向けて自らを鍛錬することに意味を見出す人もいる。

僕はそう言うストイックな人が好きだ。

で、ね。僕は人の動機と行動の繋がりに目がいく。

自然か不自然か、が気になるのだ。

そして、仕事も行動の一部だ。


覗きたい?









2017年11月28日火曜日

僕らの「ら」

先日、初めてドッグランに行った。

僕の犬も初めてなら、僕も初めてだ。

行く前は、芝生の広場に放されて、犬が元気に走り回ったり、他の犬と戯れたりするイメージがあったのだけど、実際はちょっと違った。

内弁慶な僕の犬は、時に他の小さな犬に追いかけ回されるくらいであまり走り回らず、隅の方でネットの向こうの人や他の犬の飼い主に愛想をふっていた。

そう、犬社会よりも人間社会への適応が進んでいるのだ。

でもそれは僕の犬だけじゃなく、他の犬もそうかも知れない。

と言うのも遠くで犬を見守る僕のところにたくさんの子が挨拶に来たからね。

そもそも、ドッグランで社会を「人」と「犬」に分ける必要はないのだろう。

でも、レストランでは大概一緒にいられない。


場所によって僕「ら」は隔っていたり一緒だったりするけど「ら」が一緒の方が心地いいな。


あら「ら」・・・

2017年11月26日日曜日

この地球(ほし)に生まれて

僕が今ここにいるのは偶然だ。

この地球(ほし)も偶然だし、僕も偶然だし、この場所も偶然なのだ。

でも、学べるし、気づけるし、何よりも生きている。

それは偶然では無い。

生きていることで悩みも迷いもあるけれど、明日に続く今日がある。

たまには先日付のブログがあっても良いのかも知れないね。


この地球(ほし)に生まれて


糸井重里と宮崎駿の共通点 走らずにはいられない人になろう

「君たちはどう生きるか」の漫画がヒットしているらしい。

実は僕も買った。

小学生のとき、受験のために読んで以来、44年ぶりに読みたいと思ったけど、すぐに手に入るのはKindle版しかなかったからだ。

きっかけは宮崎駿さんなので、やはり、宮崎駿さんは人の心を動かしてしまう人なのだろう。

さて、人の心を動かす人の中に、糸井重里さんがいる。

コピーライターとして「おいしい生活」「くう ねる あそぶ」など数知れない名コピーを生み出した人だ。

でも、最近思うのは、コピーが秀逸なのではなく、糸井さんが秀逸なのだ。

そう、宮崎駿さんと同じ。

ラピュタ、ナウシカ、もののけ姫とヒットした作品が秀逸のように思われるけど、秀逸なのはやはり宮崎駿さんだ。

で、ね。糸井重里さん。

先日、大盛況だった「生活たのしみ展」でほぼ日のアースボールを精一杯セールスしていた糸井さんに、家人が「ドコノコ」(ほぼ日の動物SNS)で糸井さんが気にかけてくれた僕のうちのルイくんのことを話しかけたらとても優しく応えてくれたそうだ。

そして、今日のほぼ日で糸井さんはルイくんをまた取り上げてくれた


宮崎駿さん、糸井重里さんの人的魅力を僕は語りようが無い。

実存でしか語れない。

でも、共通するのは、「君たちはどう生きるのか」でコペル君が最後に走り出す、その姿だ。

引退宣言を撤回して長編を手がける、著名人であるのに70歳を目前にして会社を上場する。

朝令暮改?理解不能?


走らずにはいられない人に僕は、僕たちは心から惹かれるのだよ。


走る人


走る犬


そして夢みること



どんどん辞める、全く辞めない 2つの組織に共通することは?

組織論にもだいぶ複雑系の考え方が浸透してきたように思う。

特にアメリカでは事象を共通の問題と捉えず、その状況に応じてい起きる個別の問題の類似性として捉えるのが主流になっていると聞いたことがある。

例えば、定着率の悪さも、数字で表現すれば、共通の事象と捉えられるけど、その背景をは全て異なる。

マネジメントの不味さ、仕事の厳しさ、やりたいこととのミスマッチ、などなど具体的に誰のどのマネジメントが嫌われ、仕事のどこの部分で厳しさを感じ、そもそもやりたいことわかってたの?みたいな理解も含めると、世の中に同じ問題は2つとない。

課題としては、いかに定着率の良い組織を作るか、なのだけど問題解決からのアプローチでは正直、限界があるように考えている。

僕の会社でも過去から現在に到るまで多くの人が離職している。

新入社員から社長まで、入社3日目から10年まで本当に幅広い。

そしてそれぞれの離職にはそれぞれの理由がある。

その人の立場に立てば理解できないものはない。

それに対して、顧客の中には本当に離職が少ない会社もある。

その会社だって決して順風満帆な訳ではなく、事業の根幹が何回も変わる試練を受けている。

この違いを端的に言うと、離職しやすい風土と離職し難い風土がある、と言うことだろう。

一方で、辞めてもらうのに苦労する組織と、辞められないことで苦労する組織がある、とも言える。

前述の離職率の低い組織の問題は、辞めないローパーフォーマーが行き着く部署の活性化だったりする。

僕の会社の課題は、事業主体者としてモチベーションをあげる育成だ。

そう、結局、個人のモチベーションをどう上げるかに問題を抱えているのだ。

でも、その背景は全く異なる。

で、ね。複雑系の考え方では、初期条件と疎通ネットワークによって結果は変化する。

つまり、入社時のほんのちょっとした違い、パーソナリティのほんのちょっとした違いが入社後にどんな心的ネットワークを構築するかに大きく関わりその後の結果に影響を与える。

やってみなければわからない世界だけど、このことを理解して自分の行動を変えられる人が多い組織は、離散せずに自己組織化し続けることができるのだろう。


複雑だよ

2017年11月25日土曜日

自説の檻を開く実証と実存の世界

僕たちは誰でも自説を持っている。

というより、僕たちはそれぞの自説の世界に生きているのだ。

「こうするとこうなる」とか「こうなったのはきっと・・・」といった意識、無意識で起こる因果、帰納、演繹の意味づけは、性格特性による傾斜(バイアス)や過去の経験から学習し、固定され、その人らしさを形作る基盤となる。

しかし、それゆえに自説の世界は歪んだ認知と経験の限定性に彩られている。

科学や学問は、実証、実存の視座から自らの自説の世界を俯瞰し越える手伝いをしてくれるものであるはずだ。

しかし、実証、実存の方法論だけを学び、世界を知った気になってしまうのもの自説の世界の歪みと限界である。

学歴は高くても高い視点から物事を見て判断出来ない人は世の中に溢れている。

それらの人々は、例えば、世の中的に素晴らしい仕事をしていても目の前の作業に捕らわれてしまう。

つまり、自分の周りにある大きな世界と繋がるのではなく、自分の中のあるべき姿、自己正当化の倫理観、借り物のアカデミズムといった小さな世界に居座り続けるのだ。

しかも小さな世界同盟を組みながら。


僕たちは自説を広げる(自己の歪みに挑む、より多くの経験を積む)ことにしっかり挑んだ後、実証、実存の道に踏み込むべきなのだろう。


己と向き合い、世界と繋がる







2017年11月24日金曜日

消費者同士が搾取しあう時代の人材不足

世の中的に人材不足が増している。

正社員不足、過去最高の49.1%に上昇

中でも情報サービスは7割超と深刻だ。

産業全体の情報化、サービス化が進展するのに世の中が追いついていないと言えるだろう。

さて、産業が発展してきた歴史を振り返ると、第一次産業から第二次産業、第三次産業へと労働力のシフトが起こり、現在は第4次産業に向けて第3次産業でも特に情報サービスへの負荷が高まっている。

一方で、情報サービスは、24時間365日のネットワークを基盤とするので、働き方も楽じゃない。

残念ながら情報はそれだけでは意味を持たないので使えるようにするには知恵も体力も必要なのだ。

やがてAIが社会課題を解決してくれる、というけど、そのAIをつくるのは人間である。

一方、人間は、24時間365日働き続けることはできない。

むしろ働き方改革だったり、ワークライフバランスなど、いかに人間的な生活リズムを実現するのかが盛んに議論されているけど、情報サービスでのハイパフォーマーの働き方は、「普通」の人たちからは忌み嫌われるものだ。


誰かの人間的な生活を疎外してより高度なサービスを受けているのに、自分の人間的な生活は守ろうと声を大きく主張する。

僕たちはすでに資本家が労働者から搾取するのでなく、消費者同士が搾取しあう第4次産業革命のパラドクスに陥っているのではないだろうか。


乾きを癒す


2017年11月22日水曜日

愛なき組織変革って有り得るの?

どんな組織にも自分のやりたいようにしたがる人は居るだろう。

それは日本相撲協会のように伝統的なしきたりを大切にする組織でもそうだ。

最近の騒動を見て居ると、現横綱にしても元横綱にしても、利他的というより利己的な姿に見えてしまう。

要するに誰かのため、じゃなく自分のため、なのだろうとね。


さて、組織には自律的に構造化と最適化が進む傾向が内在している。

そもそも何がしかの「求心力」があるから組織化が起こるわけで、組織を維持させる方に向かうのは自然な流れでもある。

そこで組織を変革するためには「組み替え」が必要になるのだけど、惹き込まれていない人を組織に取り込むことはその時は大きな刺激になるけど、後に組織から排出されてしまう。

こうした「薬」のような存在にはなり得るけど、新たな「求心力」となるためには、僕は組織や組織が機能を発揮するための仕事への「愛」が必要だと思う。

他者を許し分かち合う気持ちが無い人に誰も惹き込まれないよね。

一緒に仕事をしていてもなんだか薄寒くなってくる冷え感からは、冷めた関係しか生まれない。

熱すぎるのも奇妙だけど、冷めた関係で組織を変えられるとはとても思えない。

進むとしても変革ではなく、部分に参画し、自己の正当性主張と他者の無駄を糾弾する、機能化、合理化、最適化なのでしょう。


王者のようだけど冷たい存在





2017年11月21日火曜日

「物語る組織を創る」のは誰ですか?

「物語を変える」

この文には主語がない。

しかし、主語を「自分の」とするか「皆の」とするかには大きな違いがある。

「自分の」「物語りを変える」には強さではなく「弱さ」が意味を持つ。
「皆の」「物語りを変える」には演説、雑談、対話、議論の物語法マトリックスが有効である。

今日、僕が参加した「物語る組織を創ろう ~共創し学習する、フォロワーシップによる新しい組織」というイベントの中で僕が気になったポイントだけど、前者は埼玉大学大学院・宇田川元一准教授、後者は立教大学大学院・梅本達夫特任教授の話である。

共に経営と組織の観点ではあったもののナラティブという個人の物語へのアプローチと、ストーリーという集団の物語のアプローチの違いは僕には異質なものに感じられた。

イベントに参加した人5人と話したところ、大学病院の精神科で医師をされている方は前者、他の4人(コンサル、人事、経営)の方は後者に関心をお持ちだった。

今日のイベントの主催、非営利型株式会社Polarisは、『ちゃんと』から自由になり「物語る」組織となりたいと、どちらかと言えば個人の物語からはたらきかたをつくる方向性が出ていたように思えた。

僕はイベントがもやもやした感じで終わることに肯定的なのだけど、今日のもやもやはややネガなもやもやだ。

なぜなら「寄りそう」と「盛り上げる」の、本来は使い分けるべきものを妙に一体化して場を作っているように感じた(違いへの言及がなかった)からだ。

反論、反証があまりに少なかった。

最後の質問セッションで宇田川さんの「人間は皆違ってわかりあえないものという前提で良いのではないか」という一言が、このイベントの前提であり、そして結論であるのなら、物語法マトリックスで「そもそも」(起)「でも」(承)「いやそれなら」(転)「要はこうだ」(結)のうち、僕は「でも」(承)「いやそれなら」(転)のないことを気にしているのかもしれない。



反論、反証には時間が足りないね





2017年11月20日月曜日

自分についた嘘は自分に帰ってくる 仕事選びもね

今の僕にとって学びたいことと仕事にしたいことが一致している。

でも、ここに至るまでに大きく迂回してきたなぁ、と思う。


そもそも、僕の大学と就職は不連続だった。

自慢じゃないけど、卒業するから就職したのだ。

大学で「プロフェッショナル」とか「X理論・Y理論」などを勉強たことを思い起こすとまるでお笑いの就職活動だったよね。

でも、その当時は、皆が就職するから就職するのであって、金融業界に人気が集まっていたので銀行に潜り込んだわけである。

仕事は「皆がするもの」だった。

なので、4年経って研修で外の世界をみたとき、改めて「仕事」を考える羽目に陥り、そして転職した。

次の仕事は、家業だった。

今から振り返れば、銀行の仕事から離れた後のその仕事は「きっと僕がするべきもの」であって「なぜか僕が惹かれるもの」ではなかったのだと思う。

もし家業が書店なら本屋さんになっていたのだろうからね。

そして、その仕事は「きっと僕がするべきではないもの」になって離れた。


そこからもう一度、「どんなことを仕事にしたかったのか」と考えたとき1年かけて行き着いたのが今の仕事である。

僕にとって、大学の時学びたいと思ったことと仕事にしたいと思ったことは結局一緒だった。


で、ね。「皆もそうだから」とか「するべきだから」と仕事を選ぶと「皆となんだかちょっと違う」「本当にするべきことであると思えない」と考えて仕事を辞めることになるのではないかな。

厳しい環境になればなるほど自分が自分についた嘘に気づかされてしまうのです。

退職理由の本音ランキングは、1位:上司・経営者の仕事の仕方が気に入らなかった(23%)、2位:労働時間・環境が不満だった(14%)、3位:同僚・先輩・後輩とうまくいかなかった(13%)(リクナビNEXT)だそうだけど、僕の経験から言えば、そもそも自分に嘘をついていることを認められない(認めたくない)時に言いそうなこと(言っていたこと)だなと感じる。


自分は自分を覆えない


2017年11月19日日曜日

物語を作ろうとしない人は自らの成長を疑うべき

僕が暗闇に放った矢をライトを使って探していたら、どこからか
「ちょっと待て」と聞き覚えのない声が掛かった。

「お前の探しているものは平地にはなく大きな木にあるのだ」
その声はこう続いた。
そこで僕は周りをぐるっと見回したけど、どこにも大きな木は見当たらない。
僕が立っているのは暗闇の中だ。

そこで目の前を飛ぶハチにも聞いてみる。
「この近くに大きな木はありませんか?」
ハチは一瞬、僕を見て空中でホバリングをしたのち、応えることなく飛んで行ってしまった。

仕方なく僕は探すのはやめて、この世の最も強い磁石を使って鏃の鉄を引き寄せることにした。
少し時間が掛かりそうだから、この携帯電話であの方に連絡を入れておこう。


この並び

Amazon知育・学習玩具大賞2017は「ローリーズストーリーキューブス 冒険」だったそうだ。

僕はこのシリーズの一つをだいぶ前に手に入れていた。

冒頭の物語は、キューブを振って出た目を繋げて作ったものだ。

1つ1つの要素の並びで物語が生まれるわけで、偶然の並びから物語を作るのは楽しい知育である。

このキューブを手に入れた経緯は、仕事である会社が定義した6つのバリューの浸透を図るツール作りの参考のためであった。

そして、バリューのピクトグラムとサイコロが自作できるキットを制作したのだけど、日の目を見ることはなかった。


僕たちは、身の回りの要素を並べていくらでも自分ならではの物語を作り出すことが出来る。

しかし、誰かの物語の一要素となって、その物語に不満を並べる人は少なくない。

僕にはこのおもちゃが実は社会人向きであるように思えるのだ。


ストーリーを生み出す



2017年11月18日土曜日

「ほぼ日のアースボール」を買ったよ

糸井重里さんが社長を務めるほぼ日が、六本木ヒルズで「生活のたのしみ展」を開催している。

今日、妻と行って来たのだけど、小雨ぱらつく寒い日にも関わらず会場は多くの来場者で賑わっていた。

その賑わいの中でも最も人が集まっている場所の中心には、糸井重里さん本人が居た。

ただ居たのではない。

マイクも使わず、多くの人に向かって「ほぼ日のアースボール」を丁寧に説明し、そして売っているのだ。

価格がちょっと高いことも、もちろん「ほぼ日のアースボール」を企画した社員の奮闘ぶりを伝えることも忘れない。

糸井さんの知名度を持ってすればもう少し楽な売り方もあるのだろうけど、先頭に立って楽しそうに商品説明をする糸井さんの姿には深い感銘を受けた。


会社を率いる仕事って何だろう。

ビジョンやルールを作ることか、事業戦略を決めることか、難しい決断をすることか、人事権を行使することだろうか。

もちろんそれらもあるのだろうけど、自分が先頭に立って、活き活きとひょっとしたら新米がやらされるような仕事をすることも会社を率いる仕事だよね。

そんなことを糸井さんの姿は語っているように感じた。


中心に居る人は


この人です