2017年7月22日土曜日

グランパな日 僕は生まれ変わっているのかもしれない

記憶や意識を辿るといつでも20代に戻れる。

その頃の感情を再現することもできる。

ただ、鏡を通して現実を見れば間違いなく年相応になっている。

思えば遠くへ来たものだ。

僕の歴史には輝きもあれば影もある。

誰でもそうだろう。

そして僕の歴史は、新たな歴史を生み出している。

本当に有難いことだ。

会社で部下の成長を見守るもの至福の想いだけど、自分の子供が親になっている姿を見ると別の感慨が湧き出してくることに気づいた。

もう、世界は僕のものじゃない。

君たちのものだ。

で、ね。想像するよりもグランパになることは難しくない。

今を受け入れることだけだ。

で、ね。とても元気になった。

明日から新たな僕の歴史を刻むよ。


龍雲 そして My Road


2017年7月21日金曜日

君は超社交的なパートナーだわん

世の中には面白い研究があるものだ。

例えば、犬はなんでそんなに友好的なの?という研究などもその一つである。

犬と一緒に暮らす僕にとって、尻尾を振りながら顔をペロペロ舐められるのは普通の出来事だけど、確かによく考えればちょっと不思議だ。

しかも僕の犬、ルイだけじゃなく、糸井重里さんのところのブイヨンちゃんもKenakoさんのところの小次郎くんもたいそう友好的だ。

たまに、人や他の動物を襲い怪我させる凶暴な犬もいるけれどごく少数だから一般論として犬は人のよきパートナーになっている。

さて、犬は、遺伝子レベルで超社交的な人と共通性が認められるというのが研究の知見である。

超社交的、というのは社会不適応に至る発達障害のレベルで「超」らしい。

つまり、もし犬が変身したとしたらあまりに社交的で困ってしまう人間になってしまう。

犬が人のパートナーとして成立するのは、彼らが犬だから、なのだ。

確かに、ルイは「がぶ」(甘噛み)するけど超社交的なのだと理解すれば納得がいく。

彼にとって「がぶ」は僕と交わるための行為なのだ。

ということで、僕は今日もルイに尻尾を振られ、顔を舐められ、がぶされて一緒に過ごすのである。


超社交的?



2017年7月20日木曜日

今日、僕はランチに挑戦された

僕はランチのお店選びであまり開拓をしない。

ジョブズやザッカーバーグ、アインシュタインがワンパターンの服装で決断の数を減らすのと同じで、不要な決断はしないからだ。

かといって同じ店に毎日通うほどロイヤルティを持っていないので、いくつかのお気に入り店をローテーションする。

行きつけの店は、中華、とんかつ、唐揚げ、寿司、カレー、うどんなどバリエーションを持って被らないようにしているのだけど、必ずそれらの決まった店に行けるとも限らない。

そう、「ランチの挑戦」は勝手に僕を待っている。

今日はその「挑戦」の日だった。

用事で外出し、ちょうど昼の時間帯になったため、歩きながらお店を探し、そして入った店は路地裏のとんかつ屋だった。

実は、様子を探ろうと店の前を行ったり来たりしてみたのだけど、中は全く見えなかった。

意を決してお店の戸を開けると、おそらく80歳くらいの老夫婦がそこに居る。

正しくは、ただ座っていた。

即座に『このお店、お客は来るのだろうか』と感じたけれど、他に誰ひとり客がいない店を後にするのはあまりにも感じが悪いし、お年寄りに悲しい想いはさせたくない。

無言で入店すると、お婆さんはカウンター4席とテーブル席10席の店内でテーブル席の真ん中に僕を通してくれた。

そして、僕の印象は確信に変わった。

『おそらくこの店、僕が食べている間に他の客は来ない。』

店内を見渡すと座った席の前にビールを冷やすケースがあるが、電源は入っていない。

年季の入った木造の店に不似合いな大きなクーラーからは不気味な匂いが漂ってくる。

木造の古い家で漂う例の臭いなのか、それ以外の臭いなのかはわからなかったが、食欲は即座に失せた。

僕は、あまり空気を吸い込まないように無言で料理を待ち、出てきたヒレカツランチ定食を一気に平らげ店を後にした。

ヒレカツランチ定食は不味くなかったように思うけど正直、食べながら味はどうでも良いと思った時、僕はランチから挑まれた戦いに勝つことができなかったのだ。


世に中には、素敵な雰囲気でにぎわっている店もあれば、絶対にインスタに投稿されないような手強い店も世の中にはたくさんある。

やはり僕はランチファイターにはなれそうもない。


これはうまうま

2017年7月19日水曜日

炎上させてる? ロングテールの噛みつき注意

かつてサイレントマジョリティと呼ばれた人たちは、インターネットとソーシャルネットワークの普及でもはやサイレントな存在ではなくなった。

マジョリティはロングテールに姿を変えたのだ。

インターネットビジネスはロングテールを消費者や参加者にすることだから全ての個人で発信力が増すのは必然だ。

そうした発信力の高まりを受けて増えているのが”炎上”だね。

ネットが”炎上”する多くの場合、他責な発言が引き金になることが多い。

その発言も最近は”炎上”を意識したものが少なくないように思う。

「ブースト」と呼ばれるランキングの上昇やフォロワー、視聴回数の上昇を狙って人の怒りを買うような投稿を行うものである。

昨日も議員の”炎上”がニュースを賑わしていたけど誰かを犯罪者にしてしまうような行為を正当化することはできないでしょう。

愉快犯、確信犯、故意犯は立派な犯罪だよね。


ネット社会において匿名性や発言力を前提とした倫理観が求められている。

一方、倫理観には「身勝手な正義」という行き過ぎの厄介な問題もあり単純ではない。

これからも「噛みつき」を意識して発信すること、発信を受けて発信することとを考えていきたいと思う。


噛みつき攻撃



2017年7月18日火曜日

得意なことと苦手でないこと 適性はどっち?

「さて、何を食べようか?」

お昼ご飯で食べたいものがあればいいけど、食べたいものがない時は困るよね。

そんな場合、食べたくないものを考えると案外素早く絞り込めたりする。

今日はカレーなないな、とか、魚はやめておこうなど、Don'tによってDoが決まるわけ。

実はこれ、戦略的な考え方でもある。

正解がないなかで、決断をする場合、都合よく「直感」や「閃き」が降りてきてくれれば良いけど、そんなに都合よく行かない時もある。

また、論理的に考えるにはミッシーな状態となるだけの情報、つまり、選択肢を網羅し階層化が必要だ。

さて、ここまで「食べ物」で考えてきたけど、同じようなことが「仕事」にも言えるだろう。

どんな仕事をしたいか、クリアじゃないことだって普通にある。

最初はそれほど関心がなかったのに、いざ初めてみたら妙に仕事にフィットすることだって珍しくないだろう。

手を挙げ研修で達成度が高いのは、元気よく手を挙げたかでなく、経験の意味づけを通じて自分の殻を破った人だ。


人は無意識に「得意なこと」を選択する傾向も持っているから、わざわざ「得意なこと」を選んで、自分の成長の幅を狭くするよりも、「苦手でないこと」とで自分の幅を広げる方がメタに捉えて「適性」のある状態であるのかもしれないね。


苦手ではない柄の首輪




2017年7月17日月曜日

カラーセラピーでリフレクションする休日

僕が子供のころ「海の日」という休日は無かった。

海に行くでもなく、海の近くに住んでいるわけでもない僕にとって、「海の日」はいまひとつピンとこない休日だ。

とはいっても、人並みに休みを楽しんでいるので「海」に感謝しないわけにいかない。

僕が「海」で思い浮かべるのは蜷川幸雄さんが演出した舞台「海辺のカフカ」なのだけど、「海」のシーンは思い出せないから「海の日」の「海」もきっとそんなものなのだろう。

さて、僕は今、家の近くのカフェでカラーセラピーを受けている。

セラピストは妻だ。

リフレクソロジー、アロマテラピーアドバイザーなどの資格を持っている彼女は、最近アドバンスカラーセラピーの資格も取ったので今日、はじめて受けたのだ。

セラピーがカウンセリングと学術的な定義においてどう違うのか知らないけど、カラーセラピーを受けながらクライアントに気づきが生まれるよう、しっかりと考えられて作られているなぁと感心した。

日常的な社会生活を送るうえで心理に大きな問題を抱える人にはそれに対応するスキルが必要だから奥さんのようなセラピーには向いていないと思うけど、ちょっと元気を無くしたり、悩んでいたりする人には良い気づきを与えてくれるのではないだろうか。

というのも、クライアント中心でカール・ロジャースのノンディレクティブなアプローチをちゃんと実践しているからだ。

僕はこのディレクティブ、ノンディレクティブというのは人の心理に関わる態度で大きな分岐だと思う。

ディレクティブなものは結論に導くもので選択肢を人に与える行為で、ノンディレクティブは自ら選択肢を見つける支援だからね。


今日の妻のカラーセラピーで僕の選択肢が見えたと思う。

新たな選択肢の出現というより、選択肢の顕在化によるものだ。

おかげで充実した休日になりました。


カラフル!



多様性で求められる一人一人のリーダーシップとは

色々な価値観、信念、文化的背景、生活背景を持った人々が組織に集まっていることを組織における多様性と言うけど、多様な人々が1つの組織目的に集うことは、もともと資本主義の原点であり発展の源泉であった。

ただそこに共通の主義信条や倫理観が息づいていたのも忘れてはいけない。

そして組織の最適化が進み、組織風土が生まれ、組織社会化のプロセスが強化されるに連れ、組織では徐々に画一性が高まる一方で、異なる主義信条、倫理観だけでなく、異なる働き方までも組織が取り込む時代が来ている。

階層構造を前提とした画一的な官僚型組織では、権限が上位に位置して、トップダウンや権限移譲がわかりやすい。

そしてリーダーシップは権限とセットだ。

さて、多様性を前提とすると権限は相対的に弱くなる。

経営の都合から、働き手の都合に少しだけど重心が移るからだ。

仕事に120%コミットメントしろ、という素直だけど乱暴なマネジメントは社会的に通用しない。

かつて労働組合の出現でこうした行き過ぎた人材マネジメントは修正されたけど、高度なスキル、経験、態度を持った人材とイノベーションを必要とする今日の企業では世の中にタレントを組織の懐を深くしてどれだけ集められるかが経営課題なんだよね。

とはいっても、タレントが輝くのは、目的に向かってその能力が活かされる時だけだから、「想い合い」が欠かせない。

で、ね。多様性が受け入れられる組織の中で自分のタレントを活かしたければ各自が「想い合うリーダーシップ」を発揮するってことだ。

「想い合う」のは事業、同僚、上司、部下、経営、株主、顧客などステークスホルダーと呼ばれる多くの人たちや仕事そのものだ。

ジョブホッピングや雇われ意識って、実は自分の多様性やタレントを放棄していることなのかもしれないね。


想いをブリッジ

2017年7月16日日曜日

消費のクリエイティブを甘く見たらいけません

糸井重里さんのほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」に「消費のクリエイティブ」と言う言葉が載っていた。

糸井さんはクリエイティブと言う言葉は、「生産(制作)」側に都合よく使われているけど、今や消費におけるクリエイティブは当たり前になったと書いている。

糸井さんはだいぶ前から「消費のクリエイティブ」「休みのクリエイティブ」と言って来たらしい。

人の作ったものを有難がって消費するだけでなく、工夫をして消費する、消費しながら工夫をする、それが市場を活性化させている一方で、生産側は生産一辺倒で在庫をつくっていると言う指摘は現状をとてもよく言い表しているように思える。

在庫をつくっている人たちの恨み節は、スマホやスマホアプリのメルカリなどに向かうけど、本当は消費者の工夫であるクリエイティブと向き合う必要があるのだ。

他人のクリエイティブを消費するだけでなく、誰もがクリエイティブになっていくことはフェイスブックやインスタグラムなどを見ていても自然な流れである。

かつてのカリスマやモデルは特別な人だったけど、今では、普通の主婦や読者がカリスマやモデルになる時代だ。

だから、クリエイティブとは限られたクリエーターのものであるとする考え方にむしろ驕りがあるのだろう。

今日、街中に出ると、クリエーターの制作物と、クリエートを支援する制作物が溢れているけど、どちらかというと後者の方が賑わっているように感じられたのは、クリエートする活力が感じられるからかもしれないね。


消費のクリエイティブ

2017年7月15日土曜日

戦略化することと戦略を持つことの違い

言葉には、言葉によって受けとられ方の色々な幅がある。

「青空」と言えば、晴れて青く広がる空を誰でも思い浮かべ問題は生じないけど、「青」だけだとスカイブルー、マリンブルー、ピーコックブルーなど多様な青があって、例えば洋服や印刷などで行き違いがあると問題になる。

この言葉の幅に関して昨日の議論の中で気づいたのが「戦略」という言葉だ。

「戦略」を立てる場合、そもそも何をゴールとするのか目的、目標があってそれを達成するためのプロセスを定め取捨選択を行う。

一方、すでにあるプロセスの精度を上げるために「戦略」を用いる場合もある。

同じ「戦略」だけど指しているものは違うのだ。

既存のプロセスに「戦略」を用いる場合、KPI(Key Performance Indicator:
重要業績評価指標)などを設定しプロセスと成果の関係を明確にすることが行われる。

本来、「戦略」は大きな目的に紐づくものであり、上位、下位そして横の「戦略」と連動するものだ。

しかし全体の「戦略」から切り離されたプロセスに「戦略」を用いるとプロセスの目的の「戦略」にな理、その目的は小さい。

ただ、戦略思考やシステム思考とは、大きな目的と連動するものだから小さな目的でも「戦略」を考え始めると、そもそも何が目的なのかという問いが自然発生するのだね。

結局、昨日の会議もそこに行き着いた。


また食べたい

2017年7月14日金曜日

保護色化させない社会を作ろう

あまり目立たない存在で、人に近づくのは得意だけど一定の距離をとって、効率的に成果を手にしようとする。

これは最近の若者の話、ではなく、これどこでも観察できる鳩の生態です。

中国では広場などに居ないらしいけど日本ではよく見かける鳩は、都会の景色に溶け込んだ灰色とか白が多い。

保護色であるように思える。


自然界に置いて目立つ色はリスクでもある。

天敵に見つかったり、逆に捕食の対象が気づいて逃げられてしまうと一大事だものね。

だから派手な色でメスの気を引くオスの鳥はひょっとして命がけなのかもしれない。

リスクよりも種の保存のチャンスにかけているのだろう。


さて、動物は身を守るために保護色になるのでなく、目立つ個体の生存可能性が低くなることで保護色の個体が生き残るケースもあるようだ。

環境が動物を選択的に淘汰しているわけ。

これはおそらく社会や組織でも同じだね。

それで思うのは、僕たちは「目立つことがリスクでなくチャンスになる」、そんな環境を作っていくべきなのだろう。


溶け込む戦略?







2017年7月13日木曜日

仕事が難しくなるってどういうこと? 

有効求人倍率が高まり、売り手市場を言われるこの頃だけど、就職を目指す学生にはやはり大きな覚悟が必要であるようだ。

とある上場企業の採用担当の方からお話を聞いたのだけど、採用する職種は営業といった単純な仕事ではなく、開発PJのマネジメント(PM)を行う仕事とのこと。

驚くのはその仕事を入社1年目でこなす人材を採用するのだそうだ。

そこには専門性も求められるし、社外の専門家をコントロールする難易度の高いヒューマンマネジメントスキルが欠かせない。

ITの世界でPMを担うとすると、5年から10年の経験が必要であると数年前に聞いたけど業界こそ違うもののそれが今や1年目のほぼ新人の仕事とは恐れ入った。

PMには強い目的志向、先回り行動の一方でリスクマネジメント、ステークスホルダーマネジメントも必要になる。

この相反するタスク環境を、専門知識とマネジメント手法と機転を効かせた判断、折れない心で乗り切るのだ。

それも入社1年目で。

もちろんそんなハードな仕事ばかりではないと思うけど、全体的に仕事の難易度は確実に上がってきているように感じたのだった。


伸びなさい


2017年7月12日水曜日

負けず嫌いの行動力 根負けする人たちの優しさと戦略

スノーボードの竹内智香選手は生まれながらにして大の負けず嫌いだったそうだ。

幼稚園生の時、トランプでよく遊んだ近所の友達のお母さんは、負けるともう一回、もう一回とキリがない竹内智香さんの様子に、負けてあげていたという。

また、負けてあげないと遊びが終わらないという事情もあったようだ。

そう言えば僕にも小さい時、負けを認めようとしない友達が居て、そういう友達と遊ぶことは大変だった記憶がある。

負けず嫌いというのは生来の資質なのだろう。そして本人にその責はない。

負けず嫌いの人は執念がある一方で、自分の言い分ややり方を貫く姿勢が強い。

だから周囲の人の中には負けてあげる人が出てくるのだけど、前述の友達のお母さんのようにそれらの人には優しさと戦略が混在しているように思う。

相手の負けず嫌いに合わせてあげるのだけどどこかで相手をコントロールしているのだ。

負けず嫌いな人もこのコントロールを受け入れることで社会性を発揮していて、受け入れない人には”わがまま”というレッテルが貼られる。

「負けるが勝ち」という言葉もあるけど、勝ち負けよりも持ちつ持たれつの関係であることを見逃してはいけないのだろう。


負けないゾ







2017年7月11日火曜日

採用したい”よい人”を科学?する

会社で人を採用するとき、”よい人”を採用したいと思う。

”よい人”をもう少し詳しく考えると、仕事が出来る人、仲間とうまく付き合える人、会社の想いに共感をしてさらに大切にしてくれる人だ。

さて、科学的(あくまでも「的」)に考えるなら、活躍する人材の法則を兼ね備えた人ということになるのだろう。

人の数ほど「個性」があるので法則があれば楽だよね。

法則の良いところは人に寄らず再現性のある答えがでることだ。

それは活躍が科学によって保証される!?かもしれないし、誰の意見が正しいの?などと迷わずに済む。

じゃあ、科学が会社を混乱から救うのかといえばそうでもない。

会社に入るのが人ならば、迎い入れるのも人、なのだ。

入る人が良くても、待っている人が良くなければそれは科学の保証外だし、日々移ろう経済状況、経営環境などを考えればなおさらだ。

だから”よい人”とは想い、くらいに考えた方が良い。

そして「科学的」とは想いの強さを表すラベルの一つで、別に「科学」じゃなく、飲み食いしても、社員全員が会ってもてもよい。

採用したい「”よい人”を科学する」のと同じようにそのほかにも色々な想いを持った方が良いのだろう。

結局、(人工知能を含め)科学のみによってではなく、想いを強くすることが”良い人”を採用することなのかもなどと当たり前のことを採用を行いながら思う今日この頃である。


四万六千日の想い




2017年7月10日月曜日

人工知能が教えてくれること

僕は、機械学習を人工知能とは考えない。

文脈理解や、自律的な情報収集、取捨選択を行わないからだ。

ところが自分たちの日常に目を向けると、文脈を理解せず、与えられた情報だけで色んな意見を持ったり判断してしまったりしていることに気がつく。

機械学習を人工知能と考えてしまうのは、僕たちの日常が機械学習的になっているからではないだろうか。

AIに飛びつく人、売りにする人たちが機械学習的な日々を送っているのだとするとそれはそれでかなり怖い。


なんだか怖い



2017年7月9日日曜日

沈んだ後の浮力の魅力

人生に浮き沈みはつきもの、ではないだろうか。

一日の中で巡る小さな浮き沈みもあれば、数年単位で巡る大きな浮き沈みもある。

浮き沈みと言えば振幅のように聞こえてしまうけど、調子の良い時悪い時さらには大きな喜びと深い苦しみの最中にあっては、当人にはいつまでもその時間が続くように感じられる。

傍目からもそういった様子、心もようはよく見える。

最近はそういった内容を構成したテレビ番組もあるけど、その人のこれまでをじっくり聴くと気づくことがある。

それは、浮き上がる時の「やさしさ」だ。

誰かに対しての「やさしさ」だけでなく、自分自身に対する「やさしさ」であったり、時には抽象的なモノやコト、考え方などへの「やさしさ」である。

さて、「やさしさ」とは「優しさ」と「易しさ」の2つが意味されている。

「優しさ」は全てを飲み込む包容力と言っても良いかも知れない。

「易しさ」はシンプルに捉えることだ。

複雑に絡みあった感情や状況を自分の中で整理することと言い換えられるだろう。

要するに状況を受け入れるシンプルに考えることで浮力を得ている。

けっこう沈んで浮かび上がってきた人が魅力的に感じられるのはそんな浮力を持っているからじゃないかな。


夏ですね




2017年7月8日土曜日

合わせるのかハマるのか 出向は越境じゃない?

会社員にとって「出向」を経験する機会は案外多いものなのかも知れない。

「出向」とは要するにホームグランドでなくアウェイで仕事をすることだ。

だからアウェイの洗礼を受けることになる。

洗礼とはそれまでの仕事のある部分を捨て去り、その代わりになるものを新たに学ぶことだ。

ところがこれは、アウェイに合わせる方法だよね。

だが、時に、ホームよりもアウェイの水が合うことがある。

合わせるのが「適応」、水が合うのが「適合」だ。

さて、自発的に組織の枠を越えるものが越境学習だとすると、出向は会社から命令されるもので自発的とは言いにくいから越境学習ではない、ということになるだろう。

でも「出向」でも学習は起こっている訳で、キャリア論で有名な計画的偶発性理論からすれば自発性の有無はあまり問題でないのかも知れない。

むしろ大切なのはどのような機会であっても積極的に意味付けすること、つまり、自ら学ぶ機会に変えることなのでしょう。

そう考えれば、「適応」であっても「適合」であっても自らも、そしてアウェイ先の組織にも「成長」が実感できるのではないだろうか。

僕は「出向」している人をそんな目線で見ているらしい。


出航 じゃないか・・・






2017年7月7日金曜日

生き抜く戦略 × 関わる戦略 = 人の器

我が家の犬は、ジャックラッセルテリアという、狩猟のために作られた犬種だ。

もはや狩猟はしないけど、子犬ながら狩猟的な行動をたまに見せる。

そして、狩猟的なもののスイッチがオンになると手に負えないくらい攻撃的になる。

その時はちょっとしたホラーだ。

ただ、犬のしつけの本を読んだら一番噛み付く犬はチワワと書いてあったので、色眼鏡で見ているだけなのかもしれない。

犬はそもそも狼がルーツらしいから基本的にはどの犬種であっても狩猟の血が流れている。

狩猟タイプの動物なのだ。

さて、動物だと狩猟タイプや他のタイプなど、特徴がわかりやすい。

生存戦略がライフスタイルそのものだからだ。

一方、人間にもタイプがあるけど非常にわかりにくい。

社会性や社会的役割によって覆いがかけられているからだ。

したがって、普段は礼儀正しい人が、急に狩猟タイプの猛獣になったりすると皆がびっくりする。

でもその人の本質タイプが猛獣であることを知っていれば運転者をハンガーで殴っても誰も驚かない。

むしろ、ライオンの檻に入る人間に非があると考えるものだ。


社会性の覆いを取り外すことができたとして人を観察するとおそらく動物の生存戦略と同じようなタイプが良く見えてくるのだろう。

例えば大きく4つに分けると、狩猟タイプに対して大きな群れの中で生きる群生タイプ、目立たぬよう隙間に身を隠しながら生きる隙間タイプ、他の動物の弱みを強みにする逆転タイプなどだね。

で、ね。自らの生存戦略と社会性の戦略(利己、利他と革新、保守)を掛け合わせたものが人の基本的なタイプなんじゃないかな。

もちろん、生存戦略と社会性戦略のベースには関連があるだろうから、狩猟タイプはやはり利己、革新傾向だ。

逆に生存戦略と対極に位置する社会性戦略を纏っていると懐の深さを感じる。

狩猟タイプなのに保守、利他傾向だと「みんなを引っ張り頼れるリーダー」だね。


ジャックとぬいぐるみ




2017年7月5日水曜日

「時間」に追われてる時に考えたこと

僕たちはいつも「時間」と付き合いながら生きている。

仕事のアポイントや納期は「時間」が僕たちの行動を監視しているし、家庭の起床や就寝は僕たちが「時間」を監視している。

「時間」が主語の場合は「時は金なり」だし、僕たちが主語の場合は「ワークライフバランス」のように限られた持分をどう配分するか考えるよね。

「時間」はどんな事情があっても融通を利かせてくれない、付き合うには実に頑固で厄介なやつだ。

人身事故で電車が運行停止しても、勘違いでアポイントの時間を間違えても「時間」は待ってくれない。

僕がお金を失うことには無頓着だ。

朝、どんなに眠くても止まってくれないし、夜、気がつけば日にちが変わっている。

僕が配分し損なうことにも無頓着だ。

でも、世の中がそんなに厄介なことにならないのは、僕たちは「時間」を使って誰かと繋がっているからなのだろう。

電車が止まればタクシーの運転手さんと繋がるし、アポイントを間違えても相手が許してくれれば救われる。

それって、どうしようもない頑固親父のもとで家族が協力し合うようなものなのかもしれない。

そうなると、怖いのは「時間」の頑固さよりも、繋がれる人がいない社会なのだろう。


時間の機械

2017年7月4日火曜日

良い仕事ができない理由 作り手と受け手の溝

僕たちが仕事と呼んでいるものは、有形無形問わず何かを誰かから誰かへ受け渡す。

受け手にとって価値があれば、それは良い仕事だ。

そして何かを作る人は、受け手にとっての価値を生み出すために知恵や工夫を凝らしている。

誰もが良い仕事をしたいのだろうけど、正直、価値が感じられない仕事もある。

今日、作り手の側に居ながら、受け手になる場面があった。

顧客へのプレゼンをぶっつけ本番で聞いたのだけど、その際、どう受け取れば良いのか戸惑う不思議な感覚を持った。

データの並べ方というとても単純な加工なのだけど、なぜその並べ方をしたのか、データを準備した作り手の意図を事前に知らなかったので価値を感じられなかったのだよね。

本来「データの並び」は作り手が考えている以上に受け手に大きなメッセージを与えてしまうから用心深く扱わなくてはならないのだ。

そしてコミュニケーションによってメッセージを正しく理解してもらえると仕事に価値が生まれる。

でも、受け手はそのメッセージを理解できない場合、価値を感じることができない。

実は、こうした作り手から受け手へのメッセージはデータの並びだけでなく、有りとあらゆるものに内在されている。

もちろん、具体的に記述された「メッセージ」もあるけど、多くの場合は記述以外の形で表現されている。

この表現を間違うと仕事は価値を失う。

上手な作り手はこのバランスが絶妙で、機能やデザイン、イラストに無言のメッセージを外化する。

下手な作り手はそもそもメッセージを持たないか、自分の頭の中でメッセージをこねくり回しているだけでそれらは外化されない。

結局、良い仕事とは、何を作るかよりも何を伝えるのかなのでしょう。


僕たちはメッセージを探してしまう











人はなぜ余計なお世話をしたくなるのか

僕たちは色々な情報に晒される中で知らないうちに「余計なお世話」に鈍感になっている。

ステークスホルダー(利害関係者)じゃないのに、あーだのこーだの言いたがるのだ。

社会の一員として、社会で起きている出来事に無関心にならないことは大事なことだけど、事によってはあえて無関心になることも大切な社会的な知性だよね。

最近では妻を亡くした歌舞伎役者の報道などが良い例だけど、そっとしておいて上げることができないのはなぜだろうか?

その原因の一つは野次馬根性だ。

おそらく多くの人が野次馬根性を備えていて、もちろん僕も人並み以上の野次馬根性がある。

僕たちは常に新たな刺激を求めているのだ。

原因の2つ目は刺激がお金になることだろう。

 Googleからプライバシー設定について診断するように表示が出たので(広告を止めるAdblockを入れていると診断のページが開かないのは笑える)確認したところオプトインと呼ばれる、広告が出る仕組みをたくさん承諾しているのがわかった。

僕に身に覚えはないのだけど、なんで多くの会社が僕にオプトインしているのかといえば、ビジネスだからでしょう。

そして3つ目の原因は社会のサービス化だ。

人は、利己的な行動より利他的な行動をとることで、複雑化する社会をカオス化させない知恵を持っている。

社会が複雑化の度を増すと、「お世話」は良いことだという社会的同調圧力が徐々に増していくのだ。

で、ね。本能、お金、善行の3つそれぞれに「余計」があって「余計なお世話」がどうにも止まらない。

でも、無関心、情報統制、悪行と比べてどっちが良いのかと問われると「余計なお世話」でも良いように思えてくる。

結局、あえて無関心、あえてプロモーションを無視する、あえて善行に抗うという一人一人の意識が大切なのだろうね。


余計なお世話よりも・・・

2017年7月2日日曜日

ほぼ日の上場で思い出し感じること

糸井重里さんが社長を務める「ほぼ日」が今年春に上場した。

個人事務所から始まり社名にもなった『ほぼ日刊イトイ新聞』の創刊から19年経ってからの上場だ。

昨今、スピード上場がもてはやされる中、19年目の上場は珍しいのじゃないだろうか。

スローライフならぬスロー上場だよね。

「ほぼ日」の売上の多くは「ほぼ日手帳」という手帳らしいけど、この手帳の歴史を最近読む機会があった。

手帳が試行錯誤、失敗を繰り返しながら徐々に支持を得てきた過程がわかって面白い。

その中でも、2005年にロフトのオープンバイイングという公募で手帳が店頭に並んだことは驚きだった。

実は僕も、傘の商売をしていた時、オープンバイイングではないけどロフトに商品を新規で取り上げてもらったことがある。

開発した新商品をギフトショーに持ち込んだところ興味を持ってくれたのだ。

日本では多くの小売店で仕入れといっても返品条件付きであることが多く、実際に店頭に並んだ商品が売れなければならないが、そもそも店頭に並ばなければ始まらない。

これまでに無い商品を作るとき売れると信じる反面大きな不安もある。

そういう意味で店頭に置いてもらえることで大きな勇気をもらったことを今でもはっきり覚えている。

東急ハンズもギフトショーで展示品を観てくれたけど、あまり興味を引かないようだった。

印象的だったのはロフトのバイヤーは若くて好奇心があり、行動力だけでなく、新しいことに積極的に取り組む姿勢が強いことだった。

さて、「ほぼ日」がロフトのオープンバイイングに応募したのも、ロフトが「ほぼ日手帳」を仕入れたのも僕は自然な出来事であったように思える。

そして、そこから12年経って「ほぼ日」が上場に至ったことはなんだかいろんな意味で嬉しくなった。


壊すのでなく育てる





2017年7月1日土曜日

雪山での遭難 飛行機が落ちたときあなたはどうする?

先日受けた研修で、飛行機が墜落し雪山で遭難した場合の対応に関するワークがあった。

この手のワーク、実は色々な研修で用いられている。

NASAのメソッドと言われたり、実例や映画を元にしたものだったり様々だけど、基本的なパターンは絶体絶命の時にどう考えるかが問われるのだ。

もちろん、研修は絶体絶命じゃやない。

これは全ての研修に通じることだけど、現実に課題と向き合っている訳じゃないから、その場での解決策は気楽なものだ。

研修で良い点を取ることでなく、研修後の絶体絶命で生き延びることが真の目的だ。

さて、今日、WOWOWを見て居たらおそらく研修のワークの元ネタとなった事故を題材にした映画を放送していた。

映画では、食べるものがなくなり、いよいよ何を食べるかと言った究極のシーンが描かれていたけど、研修のワークではやはりそこは扱っていなかった。

現実は、怪我をした人、救出されるまでに亡くなる人など映画で描かれた以上の過酷さがあっただろうことは想像に難くない。

そう思うと、研修の場で行ったシミュレーションの意味が180度変わってくる。

問われるのは合理的な判断でなく、人間観、死生観での葛藤だ。

ただ、自分の生死と倫理観の葛藤を思い描くのは簡単ではないだろう。

僕だったらどうするのか、この休みに考えて見よう。


世界は想定ではない



2017年6月30日金曜日

マイナーな学びは魅力がいっぱい

僕はどこかマイナーな学びが好きなのだと思う。

他では見かけない場やテーマに向き合った方がどうも気づきが多いのだ。

一方、メジャー化した学びは、トレンド性が強くてテーマも学ぶ人もみんな似ている気がする。

例えば、「AIの活用」みたいなテーマよりも、「生命とAI」といったテーマの方が好きだ。

そしてこれまでの経験だと、前者のテーマで学ぶと場に集う人の気づきが一様であるのに対して、後者のテーマだと学ぶ人のバックグランドに応じて実に多様な気づきがあって、対話が尽きることがない。

マイナーな学びには総じて外的報酬(学んだことを仕事に活かす)が少なく、趣味的(内在する報酬に依存する)でプライベートなのだけど、それゆえなのか、学びの場には他者の気づきに共鳴して自らの気づきを掘り起こす、学びの共同体が生まれる実感があるのだ。

実利性、トレンド性も大切だけど、やはり僕には創発性が一番みたいです。


共同体




指先に世界、が、指先の世界、に

依存症っていう病的な症状がある。

買い物依存症やギャンブル依存症など、執着の度が過ぎてその人の社会生活に良くない影響を及ぼす状態だね。

そして、今、僕たちはスマホ依存症になっている。

駅で、電車で、昼食を食べるお店で顔をあげて周囲を見渡せば多くの人がスマホを弄っているのが目に入る。

顔をあげる前は僕もスマホを弄っている。

では、スマホ依存症の実態とは何なのだろうか。

スマホが普及する前で、ガラケーに勢いがあった時、色々なところで「ユビキタス」と言う言葉が聞かれた。

"Information at your fingertips."  

そこでは「指先に全ての情報を」的なスローガンが未来の姿として描かれたのだ。

iPhoneの登場が「未来」を加速したのだけど、最初に飛びついたのは、新しい物好きや対人関係を避けたがる人たちだった。

その後、Google、Twitter、Facebook、Instagram、パズドラなど人々をスマホに釘付けにするアプリが満載され、僕たちはスマホ依存症になったのだ。

おかげで、洋服や漫画など店頭で多くのものが売れなくなった。

さらには自分を取り戻すためにヨガやマインドフルネスなどまで脚光を浴びているのではないだろうか。

どうも僕たちは、「指先に世界」のつもりが「指先の世界」に生きるようになったのだ。


世界はどこ?

2017年6月28日水曜日

「正義と悪者」を背後で操るものは・・・

身近な人々の求めには喜んで応じるものの、多くの人々の求めに気づけない人は少なくない。

また、喜んで応じると言いつつも、実は、心の中では喜んでいなかったりする。

それらの人は承認欲求が強い。

求めに応じたことで自分や自分の行為を認めて欲しいのだろう。

また、身近な人に焦点が合ってしまうためそれ以外の人への焦点がボケてしまう。

それゆえなのか、組織がどのように成長して、良き組織として法令を遵守しながら社会貢献していくか、といった高い視座から物事を観るのが苦手であるように思える。

僕は、人間関係と欲求と視座の間には生育環境、特に、親の関わりが大きく影響してパーソナリティを作り上げていると考えている。

例えば、過剰に親の顔色を伺ってきた子供は身近な人の様子に敏感に反応する。

そして承認欲求が満たされなかった(褒めてもらえなかった)場合、潜在的な不満に反応し、周囲に投影するようになる。

自分だけの小さな正義と倒すべき悪者が誕生するのだ。

菊池省三さんの徹底した承認「ほめ言葉のシャワー」による学級崩壊立て直しは有名だけど、潜在不満から生じる正義と悪者の問題解決において鍵となるのは「納得」ではなく「承認」なのかもしれない。


承認しよう、そうしよう





2017年6月27日火曜日

雨の日と月曜日と仕事 Rainy Days and Mondays and Workdays

Rainy Days and Mondays always get me down.

カーペンターズの名曲「Rainy Days and Mondays(邦題「雨の日と月曜日は」)に出てくるこの歌詞は、曲の中で何回も繰り返され、最後に力強く歌い上げられる。

声高に「雨の日と月曜日は気が滅入るぜ!」と聴く人に強く伝えているのだ。

僕が思うにこれに共感する人は少なく無いだろう。

雨の日はどこか憂鬱だし、月曜日は億劫だ。

特にブルーマンデーと呼ばれるように、月曜日はメンタルにとって試練の日なのだ。

そして、仕事は常にストレスフルだ。

だから、雨が降る月曜日を休日にしてしまうのは良い試みかもしれない。

でも、月曜が休みになれば火曜が月曜になる。

火曜も休みになれば水曜が月曜になる。

そう、問題は「月曜日」じゃなく、再始動することなんだよね。

昔の車は冬の寒い日はエンジンのかかりが悪くて暖機運転と言うのをしたものだけど、再始動しにくいのであればそれに備えるのは社会が求める賢さだ。

もちろん、なんらかの病を持っている人は無理をしてはいけない。

無理をしない賢さも社会は求めている。

エンジンが温まっていないのにいきなりアクセルを踏み込むのはNGだ。

で、ね。大切なのは慎重に再始動に備える手段を持つことなのだと思う。

冒頭のカーペンターズの歌を口ずさみ、滅入る気持ちを認めるてしまうのも良い方法だよね。


上やら下やら








2017年6月26日月曜日

30年ぶりの29連勝と機械学習の深淵

今日のニュースは、中学生プロ棋士藤井四段が30年ぶりに連勝記録を書き換えたことだ。

世の中で中学生といえば、まだまだ保護される対象なのだけど、強豪をバッタバッタと負かす姿は爽快で日本の未来が明るくなる気がする。

しかし、目を転じれば、電王戦と言う将棋ソフト対名人の対局は将棋ソフトの完勝だった。

藤井四段と将棋ソフト、どちらが強いのかも気になるけど、将棋だけでなく、囲碁でも同じで、もはや戦いは人対人、機械学習対機械学習のもので、人対機械学習の戦いに一喜一憂する時代は終わっているのだろう。

人に残されているのは、機械学習との戦いにならない領域での人との戦いか、機械学習対機械学習の戦いに貢献することのいずれかだ。

そして、人対機械学習の間には、人が生み出したデータは処理するけど人を理解しない機械学習と、機械学習の出した答えを理解できない人の相互不理解が深く広がっていく。

一番良いのは、人が解決できない問題を機械学習で解決し、人対人が豊かな社会を実現することだけど、機械学習にそもそも「豊かな社会」と言う価値観は存在しない。

機械学習が「豊かな社会」を学習できるかは、実存する「豊かな社会」の教師データがあるか否かに掛っているので、結局は機械学習に貢献する人の価値観次第と言えるのだろう。

で、ね。多くの争いごとの「なぜ」を考えれば、そこには人対人の戦いがある訳で、人の心の光と闇が機械学習を使って繰り広げられ、僕たちはそれを目の当たりにすることになるのだろうね。


人が豊かさを学ぶこと



2017年6月25日日曜日

組織の風通しのホントを考えよう

東京駅の改築が行われ、八重洲通りに面するビルが撤去されたのは、東京湾から皇居に向かう通り沿いの風通しを良くするためだと聞いたことがある。

京都の町家は涼しさのために風通しが良くなるように工夫されているそうだ。

真偽は知らないけど、風通しを良くするためには、障壁が無いことだけでなく、良い風がなくては始まらない。

以前、グラフィックファシリテーションのセミナーを聞きに言った時、講演者が職場や仕事を改善するファシリテーションにおいて、蓋をすると腐るネガな感情を拾い上げことから始めるのだけど、事前の計画と慎重な準備が必要だと話していた。

この場合、ネガな感情は組織の風通しを悪くしている「壁」だ。

そして、「壁」を取り外せば自然と良い風が吹き始めると言うことであって、ネガな感情を通すことでは無いことを忘れちゃいけないよね。

僕は、この風通氏は、人の心の中にあると思っている。

ポジティブな感情の吹き抜けを悪くするネガティブな感情である。

そして、経験から言っても、組織の風通しを良くするには、この個人の中にある風通しの悪さを改善しなくちゃ始まらないのだと思う。

結局、組織の風通しが悪い場合、組織を構成する一人一人が自分の内面と向き合いネガティブな壁を取り払うことで風通しが良くできるのだ。

ネガティブな感情は仕事の場面だけでは無い。

むしろ仕事以外に場面を引きずっていることが多い。

プライベートも含めて自分の気持ちに向き合い、風通しの良い心を保って行きましょう。


風通しのよい心と良い風を




2017年6月24日土曜日

ゆらぐ人の光と影

変革が求められる時代に、「ゆらぐ人」は貴重だ。

予定調和な人たちや、反予定調和な人たちいずれにも不安と与えそこから新たな気づきを与えるからね。

「不安」には、得体のしれない不安を感じる「不安症」や、悲観的な展望からくる「不安」があるけど、「ゆらぐ人」は両方のメンタリティを備えている傾向が強いように思える。

本当に大丈夫なのか、これでいいのかと常に問わずに居られないのだ。

内省的なのだけど、本質への気づきにも疑いがあるので新たな行為の選択もゆらいでしまう。

ゆらぐ人は意図せず周囲の人に気づきを与える光と不安心理による心地悪さと言う影があるのだ。


気づいたよ

2017年6月23日金曜日

「顧客満足」は経営方針から? 気になるスタバの今後

僕がスターバックスに行くのはおそらく人並み以下だと思うけど、先日、ちょっと気になる記事が配信されていた。

スターバックス、「顧客満足」ランク外に

カフェと言えばスタバ、な感じが少し薄れてきているのかもしれない。

一体スタバに何があったのだろうか。

思い浮かぶのは、コメダ珈琲店など競合の台頭と完全子会社化、上場廃止である。

カフェを巡る競争の中で事業がより戦略化することに想像に難くない。

アメリカ本社による完全子会社化は戦略化に一掃の拍車をかけるかもしれない。

経営の方針が店舗の運営に、そして顧客の満足に影響を与えた例としては、マクドナルドのカウンターメニュー撤去があったけど、スタバにもそのような出来事があったのだろうか?

真相はわからないけど気になるのだ。


気になる




2017年6月22日木曜日

専門家が気づく”致命的欠陥”と誰でも気づく専門家の”致命的欠陥”

インターネットの時代は、マイノリティがメジャーであり、ロングテールが主役であることを忘れちゃいけない。

急成長するビジネスは個人対個人を対象としたものが多い一方で、企業対個人のビジネスでは苦戦している。

そして、個人が「炎上」を引き起こす。

さて、今日、面白い記事を見た。

人気「うんこ漢字ドリル」の"致命的欠陥"

この記事、掲載元のPRESIDENT Onlineで読むより、リンク先のYahooニュースで読んだ方が圧倒的に面白い。

と言うもの記事の内容が面白いのでなく、コメントが行けてるのだ。

「机に向かっただけで大成功なちびっ子の親の気持ちが分かってないなぁ。」

「鉛筆を持って問題に向かう・・・という事が苦手な子供たちのためのものじゃないの?
大げさに、なーにが「致命的」だ。」

「うん、的外れ。」

(以上、Yahooニュースのコメントより転載)

さらっと記事の不的確さを指摘していて溜飲が下がる。


記事の著者は、専門家の立場から教育の目的と効果において”致命的欠陥がある”とぶち上げてしまったのだろうけど、違和感が拭えない主張となってしまった。

自転車に乗れたことを喜ぶ子供とその親にその乗り方では競輪選手に成れないとは誰も言わないよね。

専門家はこう言った間違いを結構やってしまう。

自分の興味関心事で、現象を解釈してしまい間違うのだ。

でも、その間違いは多くの人にすぐ気づかれて個人に暴かれる。

結局、専門家に必要なのは、実は専門家でない人たちの感受性なのだろう。


出会ったことだけで嬉しいのだ



2017年6月21日水曜日

データと機械学習を使って見えないモノとは

今やデータを使った分析は当たり前の話になったけど、ちょっと前まではマニアックな世界だった。

もっとも、今日でも先端にいる人たちは超マニアックだと思う。

イメージとしては、データ分析大陸が隆起したようなものだ。

さて、先日、その先端寄りの話を聞いたのだけど、データの量と質が変わり、新しい分析手法が次々に生まれる中でも見えない世界はやはり見えなくて、それをどう考えるべきなのか議論が尽きなかった。

データは基本的に、何らかの結果として生成されるものだから、他方、なぜそのデータが生じたのか謎が残ってしまう。

恐竜の化石や足跡から恐竜を再現することはできないのと一緒だね。

再現はできなくても情報がたくさん集まれば、恐竜はどんな生き物だったのかはかなり正確に知ることができる。

それでも、やっぱり僕たちは恐竜をリアルに見ることはできない。


いま僕たちが恐竜を見るということは、生命を見ることと同じ意味を持つらしい。

恐竜を見るためにあと何のデータが必要なのか探し求めることも大切だけど、生命はやはり見ることができない。

僕はそんな風に考える方が好きみたいだ。


見えるもの、見えないもの







2017年6月20日火曜日

誰でも自分の人間性を確かめたい欲求を持っている

人間性の基準とは、自己認識と複合感情を理解する能力と共感する力である。

この、映画「テッド2」の中で引用されたドーン・ヒューズの言葉に照らし合わせると、映画の中のCGキャラ、テッドに限らず、多くの生き物に人間性を見いだすことが出来るよね。

つまり、人間だけが特別な認知能力を持った存在ではないとも考えられるのだ。

確かに、我が家のジャックラッセルテリア、ルイは僕たちの感情を理解し共感したり反発するので人間性を感じることも少なくない。


なぜ、人は人間以外にも人間性を感じるのだろうか。


僕は、人が人や人以外の生き物に「人間性」を見いだすのは、生命の一部として常に「人間性」を感知しようとするセンサーが働いているからなのだと思う。

そして、対象に人間性を見出すと僕たちの警戒レベルは著しく低下するので、おそらくこの無意識のセンサーは「生存」に大きく関わっている。

さて、「人」におけるこのセンサーは、神秘的なことに惹かれる欲求、より深く理解しようとする探究の欲求、状況を常に把握していたい欲求によってドライブされているのだろう。

知らない自分と出会い、知っている自分をもっとよく知り、自分を客観視する。

そうやって自分自身の人間性を知ることも含めてね。



夕暮れ



2017年6月19日月曜日

大人になりたい人が考えるべきこと

脳科学の領域で、自由意志は行動を止める時にしか存在しない。

と言うのも、脳の中で起きている電位の変化を見ると、行動を起こす時は、意識よりも前に準備が始まっていることが確認されていて、一方、その準備が確認できなかったのが行動を止める時だけだったからだ。

わかりやすく例えれば、目の前の鉛筆を取り上げる時、取り上げようとする意識の前にすでに手には指令が行っている。

一方、取り上げるの止める時は、意識と連動して手に指令が届くと言うことなんだ。

この研究結果を当てはめると、例えば、大人になることは意識よりも前に決まっている、つまり自由意志ではないけど、大人にならないと決めることは自由意志だ。

さて、大人になりたいと思った時、考えるべきことがあるだろう。

それは、物事の結果を誰かの責任にするのではなく、自分にとっての意味に変えることができているか、だ。

これは、他罰だけでなく内罰も一緒だよね。

意味化しないのは子供の特権ではあるけど、大人ではありえない。

なぜなら、全ての出来事を自分の糧にする力は大人に与えられる力だからだ。

相手が悪い、環境が悪い、と考えているうちは大人の力を発揮できていない。

もし、大人の力を発揮したいと思うなら、他罰、内罰する自分の姿を知り、自分からどう変えるか考えなくてはならないのだろう。


大人にならないのは自由意志

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2017年6月18日日曜日

未来を変えるツボ? ウルトラCの共鳴掘り起こし

先週は木曜日にカフェゼミと金曜日にウェブサイエンス研究会に参加した。

公園を劇場に変える取り組みと、実務における機械学習と全くテーマは異なる。

しかし、何故か僕は場の核心には相通じるものがあるのを感じていた。

今一度振り返るに、それはいずれも合目的的なことからの解放であり、多様性への取り組みであったのだと思う。

つまり、目的性を強め、単一化する社会への危惧が背景に潜んでいるのだ。

取り組み方は全く異なる。

カフェゼミでは、事例を通じて自らの行動を開く問いであり、ウェブサイエンス研究会は、生命など普遍的核心テーマに向き合い新たな探求の扉を開く啓示だ。

短く言い換えると「さあ、君はどうするのだ」か、「さあ、君が真理を探のだ」か、だ。

現状に課題を生み、未来に向けて行動をいま変える。

言葉にするのは簡単だけど、自らの快適空間を脱出すること、考える力を強く鍛錬することはそんなに容易じゃない。

何が容易じゃないのかと言えば、当人に内在する報酬を掘り起こすことだ。

どちらも他人から言われたら出来ることではないからね。


苦味と甘み さあ、どっち?

2017年6月17日土曜日

パーソナライズに気をつけなはれやっ!

昨晩の研究会でも話題に出たエコーチェンバーとフィルターバブルは、情報化社会が尖鋭化させる問題だ。

気の合う友達とばかり付き合って入れば世界は狭くなるし、好きな情報にだけ触れていれば視野が狭まる。

今更なにを、と思うかも知れないけど、社会全体がそれらを助長する環境に変化し続けている。

駅や電車、カフェでも人は常にスマホを手に持ち、見ていて周囲に目が向けられていない。

そして幅広い情報に触れる場であった本屋や百貨店は減っていく。

世の中で何が起きているのかは、ビッグデータを握った人が知り、次に何を起こすのかデータサイエンティストが手を尽くす。


パーソナリティという固有の凹凸が歪みへと育ち、なめらかだった社会が針のむしろのような居心地に変わらないようにするためにできることを考えるのだ。


パーソナライズ



人工知能を語る前に「酋長の踊り」を考えよう

今日、初めてウェブサイエンス研究会に参加した。

この研究会は、人工生命学会と人工知能学会の中間に位置し、新しい科学領域を拓く研究会だそうだ。

2つほど企業の取り組みを聞いたのだけど、いずれもMachine Learning、Deep Learningをビジネスでの用い方の共有で、とても専門性が高かった。(さすが、専門家は具体的な取り組みの中でAIと言う言葉は使わない。僕は、AIを連呼するの人は実はよく理解できていない人だと考えている。)

それぞれの取り組みは素晴らしいものだったけど、それらの話にコメントをつけた東京大学池上高志教授の視点はさらに素晴らしかった。

池上さんが引き合いに出したのは、マイケル・ダメットが「酋長の踊り」と呼ぶものだ。

「酋長の踊り」
ある村では、大人になるためにはライオンを狩ってこなければならない。若者は、村から一日かかる狩場に行ってライオンを狩り、また一日かけて戻ってくる。このとき、幸運を祈るなら、一日目だけ祈ればいい。二日目は、すでに結果は決まって、若者は戻ってくる最中だろうから、祈っても意味はない。しかしこの村の酋長は、二日目も祈りの踊りをおどりつづける。どうしてこのようなことをするのだろうか?
(Yahoo知恵袋の回答より転載)

若者が無事に帰って来ることと酋長が踊ることには関係が無いにも関わらず、酋長が踊ると若者が無事に帰って来たと言う「因果」がそこに生まれてしまう。

そして酋長は二日目も踊り続ける。


例えば、Machine Learning、Deep Learningを使ってマーケティングを行えば、商品が売れると言う考え方は、「酋長の踊り」探しなのではないか。

僕は池上さんの話をそう理解した。

データ分析者が陥りがちな「変数をうまく取得すればMachine Learning、Deep Learningでマーケティングの精度が飛躍的に上がる」と言う仮定によりも「世の中には隠れた変数を入れても因果律で説明出来ないことがある」との言葉の方が納得し、腹落ちする金曜日の夜だった。


踊る?

2017年6月16日金曜日

日常と非日常に隠されていること

昨晩は、法政大学長岡ゼミのカフェゼミにお邪魔した。

知らない世界を知る意味をいつも原点に帰って気づかせてくれるとても有難い場です。

さて、昨日は「都会の中に日常が劇場化する公園を作る」宮田サラさんのプレゼンを聞くことが出来た。

公園を、人が通り過ぎるだけの場所にしない、人が佇む場所にする取り組みであり、「日常と非日常(の境界)を曖昧にしたい」という言葉が強く印象に残っている。

話を聴きながら僕は、そもそも日常と非日常の間に境界はあるか疑問が浮かんだ。

宮田さんたちの取り組みは、共感をうみ、「みんな」ではなく、そこに自分が居る「自分たち」の輪を広げるもので、「禁止する」を工夫と面倒くさがらないコミュニケーションで「応援してもらう」に変える、とてもシンプルでかつ効果のあるものだった。

そう、日常と非日常の境界は工夫と丁寧さがあれば消すことが出来るのだ。

では、なぜ、このシンプルで効果的な習慣を僕たちは「日常」から消し去ってしまったのだろうか。

もしかしたら、僕たちは、「日常」を「超日常」化し、「非日常」を「超非日常」化しているのかもしれない。


個人的意見だけど、塩辛いものばかり食べていると繊細な味がわからなくなってしまうように、過剰な認知によって自然な状態の日常と非日常を見失っているのだと思う。

写真はコントラストをあげすぎるとどれも同じようになってしまう。

「0」「1」化は、画像のパターン認識においては重要な技術だけど、僕たちの日常は「記号化」することが目的ではない。

手段を目的とせず、世界の中庸さ、寛容さを忘れてはいけないのだろう。


境界はどこ?



2017年6月15日木曜日

すごいの?こわいの? 主観が描く未来の世界

僕たちは一つの世界の中でそれぞれの世界に生きている。

今現在だけでなく、未来も、そして過去においても一人ひとり、オリジナルの世界だ。

そして、それぞれの世界を交換しながら時に通じ合い、反発しあっている。

僕たちが誰かの世界に惹かれると、世界に光が生まれる。

人だけでなく、生き物、自然たち万物のオリジナルな世界への好奇心が未来の扉を開いてきた。

でも、僕たちが誰かの世界に恐れを抱くと、世界に暗黒が生まれ未来の扉を閉じるのだ。


頭の中でチャンスとリスクを感じる部位は同じらしい。

誰かの世界をチャンスと感じるか、リスクと感じるかは偶然に支配されているってこと。


でも、僕たちにはその偶然に向き合う「問う」知恵が与えらている。

誰かの世界に触れた時何を感じているのか、なぜ感じているのか「問う」ことで未来を変えることが出来るんだ。


好奇心

2017年6月13日火曜日

「責任」という壁

他人のしたことにまで責任を取ろうと思えるか。

これは、僕が今日行った色々なMTGの中でも大きな気づきがあった問いだ。

「責任感」であるけど、どこまでを自分の責任と認知しているかは、実は自分の壁の表象だからだ。

壁は様々なもの姿を変えて現れる。

合理性であったり、自己限定性であったりと、多くの場合は当人も気づいていない。

この見えない壁、実は周囲からはよく見えていたりする。

不安、慢心、回避、やる気などなど、改善して欲しいリストができるくらいにだ。

まあ、周囲の期待にどう応えるから当人次第ではあるのだけど、無意識の壁を意識化することで納得感を持って何かを変えることが出来るのだと思う。

さて、昨今の経営不祥事や官僚、政治家の泥仕合を見ていると、「責任の壁」が狭いことに驚かされる。

他方、他人の「責任の壁」を声高に攻撃して当たり前と考える風潮にもうんざりさせられる。

見えないが故の無自覚と、見えるが故の他責性。

いずれもどうにかしたいものだ。


壁の手入れ




愛より実の方がいい なぜかと言えば・・・

愛より実の方がいい。

とは言っても昨晩NHKで放送していた「ニッポンの家族が非常事態!? 第2集 妻が夫にキレる本当のワケ」で語られる愛ではなくAI(artificial intelligence)のことだ。

そして実とはMI(machine intelligenceの略)のことです。

欧米ではAIでなく主にMIと呼ばれるらしいけど、日本人はやはりAIの語呂が好きなのだろうね。

さて、現在の人工知能はまさしく機械知能、つまり金属類と電気から生み出され、データ保持と演算処理で人の能力のごく一部を代替するものだ。

だから、分解しても血も涙もでない。

電気が無ければ使えない。

パソコンを分解したことがある人は知っているけど、中は「愛」とは程遠い。

こうした擬人化は僕たちの認知にバイアスをかける常套手段だから僕にはやっぱり「実」の方がいい。


馬に見えたって水蒸気



2017年6月11日日曜日

モチベーションと引退 ビジネスパーソンはどうするの?

世の中に「あいちゃん」と呼ばれる著名人はたくさんいるけど、最近話題の「あいちゃん」はプロゴルファーの宮里藍選手だ。

宮里選手は、まだ31歳ながら国内外で素晴らしい実績を挙げて来た。

最近でこそ、あまり名前を聞かなくなったけど、久しぶりに聞いたと思ったら、なんと引退するのだそうだ。

引退で言えば、ちょっと前にフィギュアスケートの浅田真央選手も引退を表明しているけど、スポーツ選手では若いうちに引退する選手が少なく無い。

体力と競技での成績に強い相関があることは想像に難く無い。

ところが、今回の宮里選手の引退理由は「モチベーションが維持できない」と言うものだった。

心技体と言うように人は「心」無くして何かに取り組むことができない生き物だ。(愛犬の様子を見ていると「人」だけでは無いと思うけどね)

宮里選手は自分を知り、自分に正直な人なのだろうね。

さて、スポーツ選手と違い、ビジネスパーソンの引退は個人の判断よりも社会的枠組みとして準備されている。

定年だ。

心技体が充実していても、制度上は定年、引退が待っているのだ。

そこにモチベーションは関係ない。

最も、高齢化社会の到来で、引退自体が無くなる可能性も出て来た。

一方、スポーツ選手であれば、モチベーションの低下による引退は仕方がないことだけど、ビジネスパーソンは引退のなくなる(かも知れない)世界で高いモチベーションの維持が求められる。

維持できない人には不名誉な「ぶら下がり」の称号が待っている。


モチベーションの維持ができなくなったとして引退する宮里選手を羨ましく思うのか、50歳でもモチベーション高く、プロの最前線で戦う三浦知良選手を見習うのか、ビジネスパーソンの悩みは尽きないよね。


モチベーション高い

個人の成長、企業の成長を支えるもの

僕は、予測不能な複雑化する状況下で、「成長」はシンプルに語られる傾向が強まると考えている。

「成長」の具体的な姿は多様化するけど、より戦略性(ここでは「勝ち負け」)が求められるからだ。

言い方を変えるなら、プロセスが見えにくくなるので結果に重きがおかれる。

さて、戦略的成果から見たとき、産業社会における個人の成長とは、社会的側面と経済的側面、いずれかもしくは両方の向上である。

居場所と稼ぎだね。

一方で企業の成長は、色々な指標があるけれど、要はCSR(企業の社会的責任)とROA(総資本利益率)のいずれかもしくは両方の向上と言うことなのかも知れない。

社会的地位と事業の優秀さだ。

でも、それらがいずれも社会全体の成長に根ざしていることを忘れてはいけないと思う。

個人にあってはその内面の成長だし、企業においてはステークスホルダーの成長だ。

社会全体の成長は複雑で見えにくいものだけど、見えにくいからといって放置すると取り返しがつかなくなる問題だよね。


成長中





2017年6月10日土曜日

理不尽さに勝る賢さを身につけよう

先日、サッカーの試合で乱闘騒ぎがあった。

その騒ぎに対する処分が発表されたのだけど、それがまた騒動になっているらしい。

要するに「理不尽だ」との主張があるようだ。

さて、世の中には理不尽なことが溢れている。

そして、自分の欲求を満たすうえでは理不尽さと自分の正義をアピールし、自分「が」満足できる有利な結論へ導くことが大事だけど、人の役に立つ仕事をするには理不尽さを受け止め、その上で相手と自分の「双方にとって」良い結論を導くことが求められる。

それが、社会性における「賢さ」だ。

一番良いのは当事者同士が「賢さ」を持って臨むことだけど、そうでない場合はどうしたら良いのだろうか。

実は、「賢さ」はどのような場面でも活かせる、弱者が強者に勝る戦略でもある。

この戦略を自然に使うのが兄弟の中で末っ子だ。多くの場合、末っ子は弱者だからだ。

逆に、自分は強者だと考える者には使えない戦略だ。

サッカーの乱闘だけでなく、この観点で世の中を眺めると色々と面白いだろう。

強者の意識と賢さの欠如はとてもシンプルに繋がって見えるからね。

一方、強者であっても、自分は強者では無いと謙虚に思う人の賢さは半端無いのだ。


賢いのは誰?





2017年6月9日金曜日

職場であなたを待っている?3つのドラマ

先日の自画持参「がちゃトーク」では「ドラマチック」がテーマだったけど、職場はドラマに溢れている。

チャップリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だけど、ロングショットで見れば喜劇だ」と言ったように、職場には当事者の悲劇、外から見れば喜劇みたいなことがたくさんある。

そこで、職場で起きるドラマチックなことを大きく3種類に分けてみよう。

1.仲間とのやりとり
採用応募者が就職で大切にしたいこととしてよく口にするのが「職場の雰囲気」だ。良い仲間と一緒に働きたいと言う欲求を人は持っているけど、人によって「良い仲間」は異なる。多くの場合、自分に都合の良い仲間だけの職場は存在しない。摩擦や軋轢があって悲劇が生まれる。

2.上司との付き合い
経営者で無い限り職場には上司が居る。仲間同様、「良い上司」も人それぞれだ。しかも上司は働き方に強く干渉する権限を持っている厄介な存在だ。勢い、気持ちよく働けない原因は上司が悪いからだ、となる。上司は悲劇の源泉なのだ。

3.仕事の向き不向き
仕事でパフォーマンスを発揮するためには、努力が必要だけど、人によって必要とされる努力の量に違いがある。働く人はできるだけ少ない努力で成果を出したいけど、実際は、多くの努力をしても成果は十分じゃ無い。仕事には悲劇が埋め込まれいてる。

以上が職場で没入することになる3つの場面だ。

これらはいずれも長い目で見ればなんだか笑えることが多い。

もちろん、笑えないこともあるけどね。


職場に向かう人

2017年6月7日水曜日

意識に勝る「備える能力」と「不意打ちに備える能力」

今日で梅雨入りだそうだ。

変な話だけど、僕は梅雨入り頃になると、昔、仕事で傘を扱った時の売り上げをふと思い出す。

それは、多くの人は、梅雨に傘が一番売れると思っているけど、傘がよく売れたのは梅雨よりもその前の時期だった。

最近の事情は全く知らないけど、当時は2月、4月に雨が続くと梅雨以上に売れていた。

逆に梅雨の時期は、皆、備えているので雨の日には期待するほど売れなかった記憶がある。

そこで「備える能力」について考えてみる。


生き物は「備える能力」を皆、持っている。それも高いレベルで。

一方で、その能力が発揮できない場面ではパニックが起こることは珍しくない。

古い話では、オイルショックの時のトイレットペーパー騒動もそうだろう。

2月、4月に傘が売れたのも同じことなのかもしれない。


さて、脳科学は「備える能力」が僕たちの内面で意識よりも素早く起動されることを明らかにした。

この解明は、僕たちには自由意志はないのではないかという問いを起こした。(最近の研究では、ちょっとだけ自由意志があることが認められている)

「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果

実際、自然でなめらかな振る舞いのためには、意識をしてから行動を起こすのでは間に合わない。

このように「備える能力」は生きていく上で基本的かつとても重要な能力なのだ。

そして「備える能力」にはこのような「意識前」だけでなく「意識後」もある。

「不意打ちに備える能力」だ。

想定外のことが起きてもパニックに陥らずに対処するには、何が起きてもおかしくないという心構えと、意識を一点に集中させず自然体でリラックスした姿勢が必要なのだけど、それを常に心掛けることで「不意に備える能力」は格段に高まるのだ。

どんなことが起きても落ち着いて受け止め最善の道を選ぶためには、日頃の心掛けが不可欠である。


人は無意識によって「なめらかに」生きる能力を、意識によって「しなやかに強く」生きる能力を発揮していると言えるのだろう。


梅雨といえば紫陽花








ニュースをネタにするのか ネタをニュースにするのか

ワイドナショーと言う番組で謝罪があった。

放送で宮崎駿監督に関する第三者に作り話を事実として取り上げ、論評してしまったらしい。

このことを知ったとき、僕は、そもそもニュースをネタにしようと言うところから問題をはらんでいたのではないかと思った。

井戸端会議を全国放送するようなものだ。

番組では、スタッフがしっかり調べてくれないとどうにもならない・・・と出演者の言葉もあったけど、他人から得た情報を元に話術を披露することの危険性から目を背けてしまったのは残念だった。

いずれにしても欠席裁判みたいなことにはどこかに気持ち悪さが残るよね。

結局、話ネタがニュースになってしまい、お粗末さばかりが目立ってしまったのだ。


お粗末さま



2017年6月5日月曜日

僕たちは常に複雑さを見失う

世の中は複雑さに溢れている。

そして一層の複雑化に向かっていく。

僕たちも十分複雑なのだけど、複雑なものを複雑なまま理解するのは難しい。

なぜなら、僕たちの目的は大抵、シンプルだからだ。

例えば、お店で美味しいものを食べたいと考えたとする。

料理店を選ぶ時、地域、料理のカテゴリー、メニュー、料金、混雑具合、口コミなどなど、組み合わせは無限だし、それらを踏まえたうえで美味しいものを定義することはさらに複雑だ。

この複雑さに向き合うために僕らは「消去」する能力を持っている。

全ての情報を処理するのでなく、必要な情報が自然と目に入る認知の仕組みがあるのだ。

地域一帯の料理店に関する情報を持たなくても、多くの人が行列している店は「美味しい」。

この「消去」能力のおかげで僕たちは混乱せず滑らかに社会生活をおくれるのだけど、一方で、複雑なものを複雑なまま理解することは苦手だ。

最近は、IT、AIなどの力を借りて複雑なことを複雑なまま扱うことが出来る様になってきたけど答えを欲しがることに違いは無い。

そして答えが見えない複雑なものには「消去」される運命が待っているのだ。


複雑さ





2017年6月4日日曜日

アメリカのアニメにあって日本のアニメにないもの?

ここ数年、「アナと雪の女王」「ズートピア」「モアナと伝説の海」など矢継ぎ早にアメリカのアニメ映画が公開され勢いがある。

日本のアニメ映画も「君の名は」「この世界の片隅に」などが大ヒットをしたけど、ヒット常連のジブリ作品が無いのはやはり寂しいね。

さて、アメリカのアニメ映画をみているとストーリー展開の中で気づくことがある。

それは、アニメ映画の中で観衆に伝えたいテーマが映画の最後で言語化されることだ。

もう少しわかりやすく言うと、「まとめ」があるってことだね。

一方、日本のアニメ映画は、雰囲気と余韻を大切いしていると思う。

こちらもわかりやすく言うと、「景色」だ。

理解を通じて映画体験を締めくくるのか、視野を通じて映画体験を締めくくるのかは、やはり共通理解の多少によるバックグランドに影響を受けているのだろうね。

故に、研修で使うなら圧倒的にアメリカのアニメ映画の方が使いやすく、仲間で語り合うなら日本のアニメ映画の方が盛り上がるのでしょう。


日本はこっち



働き方に必要なこと

日本人の働き方に関して、何かが必要であることは間違いないようだ。

グローバル化する経済の中で、企業は苦戦し、社員は生産性が低いと言われ、若者が減り、高齢者が増え、企業経営で活躍する女性が少ない。

問題は多岐に渡るけど、課題は、時代の変化に応じて国全体で働き方を変える必要があるということだね。

そして、課題の本質にあるのが「生き方への問い」であり、個々の価値観に向き合わなくてはならないとも言えるだろう。

これから僕たちはどう生きて行きたいのか、だね。

そこで考えたいのは「有り様、ご縁、舞台」の3つ。

言い方を変えると、「自分を知ること、他人と繋がること、社会で活躍すること」だ。

3つの中で「働き方」は「舞台」に該当するけど、「有り様」と「ご縁」無くして「舞台」は無いことを忘れてはいけないよね。


有り様とご縁と舞台