2017年9月21日木曜日

黎明と黄昏 あなたはどっちが好き?

「君の名は」というアニメ映画を観た人はわかると思うけど、僕たちが過ごす毎日には「彼は誰時」と「黄昏時」という2つの情感豊かな場面がある。

「彼は誰時」とは、闇(黄泉)の世界からこの世(現実世界)への狭間でそこにいる人が生き物なのかそれとも冥土の物なのかわからない状態だ。

「黄昏時」は「彼は誰時」であって、この世の人があの世へ向かう狭間なので、生きている人を闇の世界へ送ることだ。

つまり、どちらもとても生きる、死ぬという境界が曖昧なことだよね。

僕にとって「黄昏時」を代表するイメージはエルトン・ジョンの「goodbye yellow brick road」だ。その核心は"goodbye"にある。

一方、「彼は誰時」を代表するイメージはジミー・ヘンドリックスの「Purple Haze」だ。核心は”Purple Haze”、紫のモヤモヤした空気感である。

それは新しいものが生まれる瞬間の不安感とエネルギーだね。


さて、今日、飲みに行った店の女将が好きな色は、黄色と紫だった。

黄色はゴールドに近いと聞いて想ったのが、「黄昏」と「黎明」だ。

それは「この世とあの世」を行ったり来たりするイメージである。


僕たちは無意識に「死生観」の影響を受けている。

新しい命の芽生えと身近な人の死は「死生観」を意識化して向き合うタイミングだと言える

その瞬間に潜む「力」と「不条理」が僕たちの生命の根っこなのかもしれないね。

黄の黄昏

紫の黎明

2017年9月19日火曜日

問題を解決しようとしない症候群に気をつけなはれや!

オープンイノベーションが当たり前の時代になって、問題解決能力とオープンマインドネスの間には密接な関係が生まれている。

誰かの力を借りるには自己開示が必要なのだ。

さて、オープンマインドネスにとって幼少期や思春期における人との関わりは大切なインシデントだ。

自己開示は他者に対する基礎信頼から始まるからだ。

一方、世の中には自己開示せず、問題を解決しようとしない行動傾向もある。

中には秘密結社のごとく、特定の人との間でだけ情報を共有し、明から様に他者を排除する場合もある。


もちろん誰にでも開示したくないこともある。

開示ありきではない。

だけど、非開示ずきの人は往々にして問題の解決を遅らせる。

それでいて、問題があると指摘するのは好きだ。

国際情勢を見てもよくわかる。

秘密主義の国は、大体、問題解決を遅らせその責任を他者に転嫁するものだ。

国とまで言わずに個人においても、自分の気持ちを抑えて言いたいことを言わずに我慢する人は問題を抱えてしまう。

それは、ある意味、問題を解決しようとしない症候群と言えるのだろう。


避けるのだ



2017年9月18日月曜日

あまちゃんが、ひよっこが。 成長するってどういうこと?

休みの朝、ルーティンを終え、ゆったりしながらテレビの連続ドラマ「ひよっこ」を観ている。

連続ドラマで描かれるのは、主役の女性たちが成長していく様子だ。

今、放映されているひよっこでは、茨城から集団就職で東京に出てきた女の子の話だけど、何も知らない無垢な少女というより、大人の世界の苦悩を知った少女が家の苦境を救うために東京に出てくる、大人びた少女のさらなる成長だよね、

連続ドラマの視聴者を考えれば、芯がしっかりとした少女が様々な苦しい出来事を乗り越え充実した人生を送る物語、の方が話がわかりやすく受けが良いのだろう。

以前、放映されていた「あまちゃん」もそうだけど、僕は主人公の生まれた時から老いた時まで人生の全般を描く物語よりも、思春期における結節点をぎゅっと描く物語の方が好きだ。

「このあとこの娘はどういう人生を送るのだろうか」と想像する方が楽しいし、そもそも演者の年齢層と役の年齢がかけ離れているのはいただけない。

さて、人生を彩る経験とは、環境や周囲の状況と身体的条件が相互に干渉しあって意味づけられうものだ。

つまり、人は自ら成長する存在であると同時に周囲によって成長させてもらう存在なのである。

若くて活発に動ける時と、歳をとりあまり機敏に動けなくなった時では、経験の意味づけとそこからの成長の仕方は変わるものだ。

いくらテレビドラマだからだと言って、映像表現であまり強引に成長を描かない方が良いと思う。


成長中



2017年9月17日日曜日

なぜ「カレーと車」なのだろうか

慶應義塾大学SFC加藤教授たちが主催する「カレーキャラバン」(詳細は「つながるカレー」にて)は、カレーを使った場づくりに取り組んでいる。

とてもユニークな取り組みだと思うのだけど、不思議と「カレー」であることへの納得感が高い。

僕もカレーなら場に集いそうな気がするのだ。

加藤先生たちのカレーキャラバンが現地現物、無料であるのに対して、ほぼ日のプロジェクト、水野仁輔さんとほぼ日が運営するジャパニーズカレーのフードトラック、「カレーの車」はメニューがあって有料でカレーを販売している。

この2つのカレープロジェクト、コンセプトもモデルも全く異なる。

カレーキャラバンはフードトラックじゃなく、あくまでも、道具一式と人を場に運ぶ役目だ。

だけど、なんとなく「カレーと車」にテーマがあるように思えてしまう。


自宅やお店など固定の場所でなく、離れた場所で調理を行ったり料理を提供する場合、調理器具類を持ち歩かなくてはならない。

その際には、運搬する手段が必要だ。

だから「車」も必要になる、こんな当たり前の話より、「カレー」という料理とその世界観にあるポータビリティ(可搬性)と人々のカレーへの基礎信頼、「車」という自己世界を持ち運ぶ移動運搬手段が生み出しているのは、「自分たちの世界を外の世界に持ち出す企み」である。

カレーキャラバンとカレーの車、どちらからも強く感じられるこの企み感。

実は僕が惹かれているのはそこかもしれない。



本文とは全く関係ございませんが近所に出来たカレー屋さん



2017年9月16日土曜日

チャンネルを合わせてチャノミを避ける

僕は昭和世代なので「チャンネルは回すもの」だ。

もはやテレビにしてもインターネットにしても回すインターフェースはないのだけど、悲しいかな、チャンネルという言葉がアフォードするのは回すという動作である。

で、「チャンネルを回す」のは、見たい番組、もう少し抽象度を上げると、入手したい情報にアクセスするための行為ということになる。

脳科学で言えば、ニューロンの結合だし、インターネットで言えば特定のアドレスのポートに接続し、承認されることになる。

さて、職場において適性があるとは、チャンネルが合っている状態、すなわち、結合し、相互承認されていることを指している。

職場を構成する上司や同僚たちと、仕事の仕方・価値観・目標など(ポート)を共有して行為行動(仕事)が引き出せていることが適性のある(もしくはマッチングしている)状態なのだ。

要するに仕事をする前に相互にチャンネルを合わせる必要があるのだけど、下手をするとチャンネルを合わせずに就業者や上司や会社が仕事をし、させている。

下手をするとフィードバックと言いながら、チャンネルが合っていないことを指摘しあっているのだ。

チャンネルが合っていない状態での指導や面談はほぼ茶飲み話に等しいのだろう。

この「チャンネルを合わせる」という表現は、数多くの現場経験をお持ちの人事コンサルタントの方から聞いたのだけど、フィット感のあるいい表現だよね。

で、ね。もう一度整理すると、「適性がある」とは「最初からチャンネルが合っている」状態、「適性が低い」とは「相互にチャンネル合わせをする必要がある」状態ということだ。


チャンネル合ってる?

何かにイラつく人は、何事にもイラつくのか?

世の中イラつくことは少なくない。

身近なことでもそうだし、国とか地球レベルでもそうだ。

そういったイラつく感情というのは、それ以外の出来事に対して無意識のうちにイラつきを投影してしまう。

例えば、某国がミサイルを発射した→イラつく→仕事で日頃から我慢していることがある→イラつく→そもそも為すべきことを為さない人がいる→イラつく・・・

といった感じで、「基礎イラつき」によってその人の世界は「イラつく」世界に塗り替えられて行くのだ。

厄介なのは、多くの人に影響が出るのは、最後の方だっていうことだよね。

家に帰って「俺は疲れているんだ!」みたいにイラついても、奥さんはなぜイラつかれるのかわからないから戸惑うし不愉快になる。

もちろん逆の場合もある。

「イラつき」をうまく浄化する術を持たないと、睡眠やイラつき疲れで自然解消するを待つしかないね。

僕の経験からすると、×お酒、△映画鑑賞、◯自律訓練法(呼吸法)といった感じです。

ヨガとか座禅とか呼吸が整うマインドフルなアプローチは精神衛生の良薬だよね。

まあ、日々仕事に向き合う中で、なんだかんだとイラつくことを解決できたら良いな、と思うのです。


イラつく?

2017年9月14日木曜日

ゲシュタルト崩壊を招くのはメモ? メモとノートの違い

今日は記憶と認知について考えていた。

その中で、認知の崩壊現象としてゲシュタルト崩壊を取り上げたのだけど、ちょっと気になっていることがある。

以前発表された研究結果「メモを取っても記憶は定着しない」があるのだけど、ひょっとしたら認知の崩壊現象とメモを取ることは関係があるのではないだろうか。

というのも感嘆するほどひたすらメモを取る人って日を改めたとき、話のポイントがずれるからだ。

メモをとった時の文脈ではなく、改めてメモを見て話を組み立てているように思える。

「いや、あの時の話はそうじゃなかったよね?」

もちろん、シンプルな用件はメモが役に立つ。


メモしなくて忘れてしまったら、それでいい。忘れていいようなことだったのではないかしら(大村はま)

メモが役立たないのは、文脈と要約(要するに)が必要なときだろう。

メモをしなくても大事なことであればその文脈も含めて覚えている。

さて、文脈をあらなた文脈に書き変えていくのがノートや板書だ。

だから、仕事の打ち合わせで行うべきことはメモを取ることでなく、ノートを作成したり板書をすることである。

打ち合わせ中に、文脈と要点と仕事の次のアクションを定める。

時をおけば、それらは熟成し、新たな問題や課題が発見したり、発想を生む苗床となる。

丁寧にメモをとり、後からメモを見、ずれた文脈を創作し、仕事を進めるのは非効率この上ない。


モヤモヤのまま記録しない

あれ、何だっけ? 身近に潜むゲシュタルト崩壊

「あ」という文字をずーっと眺めていると文字の意味がよくわからなくなってくる。

失認や意味飽和など、その原因は不明だけど「ゲシュタルト崩壊」として知られる現象だ。

さて、パスワード忘れも「ゲシュタルト崩壊」というのかわからないけど、IT全盛のこの時代に、昨日まで使っていたパスワードが崩壊してしまうと大変困ったことになる。

「あれ?何だっけ?」

指先が勝手に覚えていたフレーズのはずなのに、今日の指先はまるで他人のようだ。

良く出来たサービスはパスワードリマインダーや「パスワードを忘れた場合は」みたいな機能がついているけど、多くの場合、崩壊は品質の低いサービスで起こるのだ。

あゝ。

認知の崩壊って案外、身近で多く起きていると思う。

多くの場合は、記憶の問題として捉えてしまいがちだけど、実は、認知そのものに崩壊が起きているのだ。

「◯◯君、この前のあれだけど・・・」
「え?何の件でしたっけ?」←認知Aの崩壊
「何だ、忘れたのか!」←記憶の問題
「これこれそれそれだからあれするように言っただろう!」←記憶の呼び起こし
「わかりました、すぐします」←新たな認知Bの発生

そして、認知Aと認知Bのずれが新たなトラブルを引き起こす。

何度も同じミスやクレームを繰り返す場合、それは、ゲシュタルト崩壊が起きているせいなのかもしれない。


崩壊



2017年9月12日火曜日

成長は「動きかた」に宿る

ゴルフの練習をしているとき、グリップをこうしてとかテイクバックはインサイドに上げてとか色々なことを考えている。

でも、動画に撮って比べると本人が意識しているほどスイングは変わっていない。

もちろん、繊細な感覚は大切なのだけど、一連の動きの中で側から見てもわかるほどの大きな変化があったとしたら、当人にとって全く別のことを行なっているに等しいのではないだろうか。

スポーツ選手が試合中に見せる大きな変化の最たるものは怪我だ。

一方、良いリズムでスイングできたり、滑らかな動きがとれた時、周囲もそれにすぐに気づくよね。

そして、それが定着すると上手になったねと他者から成長を認められる。

ゴルフの練習だけでなく、仕事においても僕たちは「おかしな動き」や「滑らかな動き」に敏感だ。

その道のプロでなくても簡単に気づくことができる。

ということは僕たちは、調和がとれた無駄のない流れるような動きを認知するのだ。

生き物は、自ら動くと共に、動くものに敏感である。

もう少し詳しく言い換えれば「動きかた」に敏感だ。

おそらく他の生き物の「動きかた」が「動き」を引き出すスイッチになっているのだろう。


飛んでくる!







2017年9月11日月曜日

よき師に巡り会うのは偶然?それとも必然?

世の中サービス化社会、いろんなサービスが溢れている。

サービスで大切なのはUI/UXと言われるよね。

あえて簡単に表現すると、使い勝手と使用感だ。

気楽に使え、華々しい体験を得られるのが受けるサービスの共通点だね。

例えば、タダでDLして遊べるゲーム(娯楽サービス)だったり、写真を撮るだけで簡単に不用品をお金に変えられるフリマアプリだったりする。

サービス化が進むと素晴らしい体験がいつでもどこでも手に入るようになるけどサービス化がどんなに進んでも手に入れるのは難しいのが「よき師」なのだと思う。

例えば、色々なサービスを使って履歴書を飾ることはできるけど、その人の核心を彩る経験にはならない。

一方、「よき師」と出会いは履歴書に現れないけど、人の内面に成長の種を植えつけてくれる。

僕が思うにこの「よき師」とは教育者に限らない。

だから、良い中学、良い高校、良い大学を選べば良い師に巡り会えるわけでもない。

もちろん、教えを請う先生が師となる可能性は高いけどね。

でも、ね。サービスで経験を彩っている限りは「よき師」に出会えない、面接で数多くの学生に向き合うほど、そう感じてしまうのだ。


経験させることよりも気づきを与えることをするのが「師」だよね









2017年9月10日日曜日

さしこが主役 定番にはない強い個性の意義

人気女性アイドルグループAKB48でこのところ不動のトップに位置しているのが、指原莉乃さんだ。

指原さんの愛称は「さしこ」だ。

偶然なのだろうけど、「さす」という言葉にはとても多くの意味がある。

コトバンク、大辞林では以下の21個が挙げられていた。

①(「射す」とも書く)光が入り込む。日光が当たる。
②相撲で、自分の腕を相手の腕と胴の間に入れてまわしをつかむ。
③相手に酒をすすめる。
④(「点す」とも書く)ある部分に色をつける。
⑤(「点す」とも書く)漢文の文章に、句読点や訓点を書き入れる。加点する。
⑥手を、上または前のほうに出す。
⑦潮が満ちてくる。 「潮が-・してくる」
⑧色が現れる。
⑨(「熱がさす」などの形で)熱が出る。
⑩ある気持ちが生じる。
⑪姿がちらりと見える。
⑫(「気がさす」の形で)うしろめたい気持ちになる。気がとがめる。
⑬(「魔がさす」の形で)心に魔物がはいり込んだかのように、一瞬、悪い考えを起こす。
⑭物差しで寸法を測る。
⑮机・簞笥たんす・箱などを作る。
⑯(「止す」とも書く)動詞の連用形に付いて用いる。
⑰印を押す。
⑱さしつかえる。さしさわる。
⑲物を組み立てる。また、張りめぐらす。
⑳帯やひもをしめる。むすぶ。
㉑草木の葉や枝が伸び出す。茂って物をおおうようになる。

総じて言えば、「当たり前と異なる大切なコト」だ。

当たり前ではないので、どちらかと言えばメジャーでなくマイナーであるはずなのだけど、時に、このマイナーな存在がメジャーを凌駕してしまうことがある。

例えば定番無地マフラーのカラーバリエーションでは、黒、白、赤、ベージュなど、安定して売れる色に対して、ピンクやパープルなど少しだけ必要な色があって、時にそれらに人気が出て売れてしまうことが起きるのだ。

将棋で「さす」一手は、局面を変える想いが込められていると思うけど、「さす」こととはイノベーションにも通じている。

もっとみんな普通でないものを「さす」ことに力を注いで良いのじゃないかな。


光がさす

2017年9月9日土曜日

ビジネスパーソンの基礎力である理不尽さへの耐性を失う社会

僕は、社会で活躍し続ける人の共通点に理不尽さへの耐性があると考えている。

ただ、前提条件があって、そもそも理不尽なことに納得できないタイプの人が理不尽なことへの耐性を備えた時、その後の活躍を支える力になる、ということだ。

だから、そもそも理不尽な事に鈍感な人は外れてしまう。

さて、理不尽なことへの耐性がある人がなぜ、活躍できるのだろうか。

以下のような3つのポイントに整理してみた。

1.離職、転職を思いとどまる
2.内省を通じて核心にある信念を革新できる
3.どのような結果であっても最終的には環境や状況のせいしない

1に関してはシンプルで、職を離れてしまえば活躍できない。「活躍」とはその場に留まる人にのみ与えられる称号だ。

2は理不尽を感じるためには信念が必要だということと、活躍している人たちはその信念を昇華させていることを数多くのインタビューを通じて確認しているからだ。

3は、言い方を変えると、「自分の正義」ではなく、「組織の正義」「社会の正義」で物事を捉えられるようになる瞬間には「理不尽さ」が大きく関与している。

「自分の正義」では、環境や相手が悪者になるけど、「組織・社会の正義」とは環境や相手も含み込んでの「正義」だからね。


3年3割とかジョブホッピングなど、理不尽さに耐えても組織に留まるという傾向は明らかに弱まっている。

また、理不尽なことはハラスメントとして糾弾される社会になっている。

もちろん、各種ハラスメントなどを肯定する気はないのだけど、学生は社会に出る前に理不尽さへの耐性を持たないと社会で活躍できる確率がうんと減ると思う。


圧倒的理不尽


改めて「大学での成長について」考える

大学と企業が連携して開発したインターンシッププログラムの効果に関する研究論文を拝読させて頂いたことがある。

とても興味深い内容だった。

ポイントとして、学習デザインを施したにも関わらず、確認できたのは社会性スキルとキャリアアダプタビリティの向上だったというもので、個人的には、インターンシップを通じて社会に出れば、社会性が高まり、仕事に対する視野が広がる、それ以上でもそれ以下でもないのだなぁと感じたのだった。

さて、大学は大学生の学びの場であると共に人間成長の場でもある。

自主、自立、自学、と言った主体性を前提とした大学において、主体性が足りなさはずっと議論さているし、少子化が進む中でより効果的な教育機関であろうと様々な議論、取り組みがなされているだろうことは想像に難くない。

どうしたらもっと勉強するようになるのだろうかと問いつつも、勉強を促す仕組みを作ることに対しては賛否が巻き起こるだろうね。

また、先日行ったインタビューでは、勉学でなくスポーツでの経験が成長において重要な役割を果たしてることが確認できたけど、この場合、学府としての意義はかなり曖昧になる。

実際、最近、成績、履修歴データを採用に活かそうという動きがあるけど、裏を返せば専門性が重要視される理系以外、これまで、あまり注目されていないのだ。

企業にとって見れば、採用の対象となる学生が何を学びどのくらい人間的に成長したのかは、とても関心が深い一方で、学府としての学問へのこだわり、教育機関としての自主、自立、自学へのこだわりにどうも溝があるように感じてならない。


ちと残念






2017年9月8日金曜日

エネルギー充填120パーセント 就活砲のゆくえ

誰でも大一番には力を込めるものだと思う。

宇宙戦艦ヤマトでは、波動砲という最強の武器を使う時、発射に必要なエネルギーを100%でなく、120%充填していたけど、あまり違和感がなかったのは、製作者の意図に対して、まあ、そういうものだよねと共感があったからでしょう。

さて、大学生にとって就活はやはり大一番だろう。

力が入って当然だよね。

採用面接で会う学生は、一様に力を込めて自分の長所や、志望動機を語ってくれる。

面接官としても120%を感じさせてくれる方が良い評価をつけやすい。

ただ、力の入れ方を間違うと、自分をよく見せたり、強がってたりすることになる。

会社に入社した時100%以下だったりすると、相互にあれ?みたいなことになる。

周囲からしたら、「面接の時は元気だったのになぁ・・・」となるし、当人にしたら「これ、本当にやりたいことだったっけ?」とね。

就活に臨む意気込みは大切だけど、もっと大切なことは、勉強や越境、留学など、経験を通じて自分の内面や他者との繋がりを少しづつストレッチして120%が100%になるような日頃の成長だよね。

たまに面接時に「もし御社から内定を頂けたら入社までに何をしたら良いですか?」という質問を受けることがあるけれど、日頃、ストレッチを行なっている学生であれば多分あまり気にしないだろね。


エネルギー充填! でもそのあとは・・・



2017年9月7日木曜日

No Reaction, No life. 打っても響かぬインスタ映えしない氷の世界

うちの犬は、突然、戯れついてくる。

噛み付く、というほどでもないのだけど、やはり歯が当たると痛いし、そのまま無視していると、噛み方が強くなって、妻などは青あざを作る羽目になる。

なぜ、そうなるのか今ひとつ原因がわからないのだけど、怖いことへの反撃ではなさそうなので、おそらく、何らかを要求しているのだろう。

さて、要求に応えていなかったり、無視すると攻撃的になるのは、何も僕の犬に限った話じゃない。

応えてもらえていないと感じた時の人の行動はけっこう恐ろしいものだ。


社会性のある生き物にとって相手から反応が無いことは不安を生む。

そして僕たち人間は極めて強い社会性を有している。

だからLINEの未読とか既読スルーが発信者に打撃を与えるのだ。

そういった意味では、LINEだけでなくFacebook、InstagramなどFoggの行動モデルを基礎にしていると思われるSNSサービスは、何かをしたことに他者の反応が得られる仕掛けがある。

反応を連鎖させてサービスの利用行動を引き出しているのだけど、誰かが反応すると行動が強化され、誰も反応しないとなると不安が掻き立てられのだろう。

そこで、インスタ映えと呼ばれる、新たな社会現象が出現するわけだ。

この良い反応を引き出すために「盛る」行為はインスタ映えだけでなく、いろんなところに見られる。

オシドリのオスはメスの気をひくため、目立つリスクを犯しての鮮やかな色彩で、ある意味「盛って」いると言えるだろうし、響かなければ子孫を残せない。

案外、こんな簡単な生存原理が働いて社会を混乱させているのかもしれないね。


外は凍りついている



2017年9月5日火曜日

お客様ファースト? ◯◯ファーストの誤解と思うこと

お客様第一を掲げる企業は少なくないけど、事業を進める上で必要にかられて顧客に目を向けるケースも少なくないだろう。

お金を払ってくれる取引相手を大切にする、それがビジネスの基本だと言う考え方はとてもシンプルだ。

でも本当にそうだろうか。

お客様を最初に考えるのか、お客様を最後に考えるのか、この差は大きいのだと思う。

というのも、もし、お客様を最後に考えたとき、その前に何を考えなくてはならないことがある。

つまり、より多く考えなくてはならない。

お客様以外を考えるとなると、それは、何が一番大切なのか、とか、どうやって成果を出すか、とかがあるけど、究極に問われるのは、自分はどうなりたいのか、だよね。

自分はどうなりたいのか、があって、自分が何を達成するのか、そのために大切なことは何か、そして、最後にそれをお客様(大切な人)にどう伝えるのかとなる。

僕は、お客様ファーストは、最初に自分がある、ファースト自分、から始まるものだと思う。

ファースト自分がないと、相手合わせになるだけで、突然、虚しくなったりする。

なんでこんなに人に尽くしているの?とね。

一方、ファースト自分だけだと、自分勝手な人だよね。

僕にとって、アメリカファースト、とか、都民ファーストって結局、自分さえよければ・・・みたいに聞こえてしまう。

何がファースト? なぜファースト? そして何をファースト?

ファーストを問うのって案外良い思考なのかもしれないね。


治療ファースト?

2017年9月4日月曜日

躍動する若手がゴールを決める社会を

今日、パートナー企業の営業同行で若手メンバーに帯同した。

先方2名にこちらが2名で顧客に提案、説明を行ったのだけど、僕はさながらベンチにどっかり腰をおろして戦況を見つめるキングカズ、と言ったところ。

先日のW杯予選日本代表のように、若手が顧客を前に躍動する姿を喜びを持って見守っていた。

そしてパートナー企業の若手は、うちの若手よりもさらに若手でなんとインターンシップ中なのだ。

聞くところすでに20社訪問しているとのことで就業体験と言った印象は全くない。

恐れ入ったものである。

もちろん、若手だから屈託無く顧客に向き合えるのだ、なんてそんなお気楽なことはなく、若手には若手なりの努力と苦労と悩みに塗れていることを知っている。

痛みに強いタイプ、弱いタイプはあるのだろうけど、皆、傷を負って戦っているのだ。

W杯予選で戦った若手サッカー選手だってどこかに怪我や故障は抱えているに違いないよね。


さて、キングカズはピッチに出ればゴールを狙う現役だ。

ということで僕も同行したからにはアシストくらい狙っている。

僕のいる場所はベンチじゃなくピッチだもの。

でも、アシストを狙って味方のスペースを潰してしまうこともある。

あゝ、ごめんなさい。


若手、お疲れさん


2017年9月3日日曜日

犬の居る生活 雑記

犬と生活していると散歩が日課になる。

散歩は適度な運動で犬のストレスを発散し健康を維持する大切な習慣だ。

ただ、犬なら皆、散歩が好きかと言うとそうでもない。

外の環境には、匂いなど興味を引くものもあるけど、見知らぬ音や人、生き物など怖いものも多い。

また、犬や人の安全を最優先に、リードをつけて犬の行動を規制するのでストレスも溜まるのだろう。

吠えたり、引っ張ったり、そして時には噛み付いたりと結構、気を使うものだ。

人や車が多い都会ではなおさらだろう。

人に対して、もそうだけど、犬を連れた人に対しては、特に気を使う。

というのも、犬に対する接し方が皆違うからだ。

犬同士に仲良くして欲しいと思っても、犬同士が戯れたり喧嘩したりするのを避けるためには、飼い主同士が仲良くならない方が好都合になる。

すっとすれ違う感じ。

干渉し合わない都会生活の延長なのだろう。

偶然の出会いではなく、「犬とも」みたいなコミュニティに入れば「お友達」ができるのかも知れないが肌に合わないなぁ。

犬の社会化トレーニングでパピークラスに行ったけど、実社会では、犬同士の接触はかなり少ないし、犬同士の社会化に向けた場数ってなかなか踏めないものなのだね。


飼い主次第(汗)




2017年9月2日土曜日

自画持参の終わり? 始まり? 場のページが捲られるとき

第一金曜の夜は自画持参。

習慣化するつもりは無かったのだけど、カフェという利己的な「場所」で、魅力的な人、知らない人たちと「対話」を行う違和感、緊張感、集中力と素敵なマスターご夫婦と美味しいアップルパイに惹かれてほぼ毎回参加するようになっていた。


カフェラテ

自画持参では「ガチャとーく」という方法で場において1つのテーマについてガチャ玉使い、スピーチし使って対話する。(FBはこちら

これまでの51回で対話したテーマは以下の通り。


テーマたち

僕は全てに参加した訳では無いけど、一度に2回スピーチこともあったりと思い起こせば懐かしい。

ここ数回は、知らない人の参加も減り、前回はマンネリ化や自画持参の今後についても対話の話題に登っていた。

テーマを見返してみると20回目には「マンネリ」があるから、実はすでに自画持参
としての「マンネリ化」は3年前から顕在化していたのだろう。

その後、自画持参の生みの親、法政大学長岡教授の病気や、慶應義塾大学加藤教授が忙しくてこのところ欠席がちなことなどもあって、場には対話と異なる緊張感があった。

人数が集まらず、がちゃらない月も2回ほどあったけど、長岡先生が復帰した時(31回目いと32回目の間)はやはりジーンと来たなぁ。

僕は、当初のモチベーションだけでなく、場を維持するためにも参加を続けているのだけど、恐らく同じ動機で参加していた大学生も就職して場から去り、そして、50回目を迎えたのだ。

長岡先生の自画持参コンセプトは寄席だ。

僕にとっての自画持参コンセプトは定点観測と言えるかもしれない。

自分、参加者、そしてCafe Katyの移ろいに気づき、少し偉そうに言えば、対話と内省を体感する場になっている。

「あれ、なんだか以前よりスピーチで気楽に喋っている」「あの人、来なくなったなぁ」見たいなことだけどね。

昨晩は、がちゃトークをせず、Katyのこれから取り組みなどを対話した。

僕は、場所としてのCafe Katyとそこに集う人がそれぞれの場としてCafe Katyで行う場づくりなのだろうな、と考えていた。

「場」とは場所において自分の内面に形作られるものであるとすれば、「場づくり」はCafe Katyにおける「自分づくり」だ。

そう考えると、大切なのは「自画持参」ではなく、「自分を持ち寄れますか?」という「自画持参の問い」なのだろう。

人の集まるカフェにコーヒーを飲みに行くのでなく、自分が「自分」をバッグに押し込んで得体の知れない泡沫コミュニティに持ち寄りますかと問われると、敷居の高さにも気づける。

そして、「マンネリ」は敷居た低くなったことを意味しているのだろう。

僕が、自画持参に参加した皆が、そしてCafe Katyが次のページをどう捲るのか、終わりなのか、始まりなのか、考えてみればページは毎日捲られているんだよね。



2017年9月1日金曜日

何を学ぶ? 誰から学ぶ? 誰と学ぶ? 学びのチカラ

以前、人事関係で有名な某大学某教授のゼミ生が採用面接に来てくれたことがあった。

人事の活動を新たな研究領域として確立した教授のゼミ生なので、大きな関心を持って選考にあたったのだけど、結局、当人の選択はゼミでの研究領域と異なる仕事だったようだ。

思い起こせば採用面接ではゼミ活動と応募動機に連続性が無いケースが多い。

ゼミはゼミ、就職は就職、ということだよね。

昔の話だけど、自分もそうだった。

一方で、社会に出てそれぞれの分野で活躍している人が実は同じゼミだった、ということも少なく無いように思う。

ゼミ活動の研究テーマよりも、指導教授から叩き込まれた思考力の賜物なのだろう。

また、そのようなゼミ活動で同じ釜の飯を食った人たちはお互いをよく理解し合っているのも特徴と言えそうだ。

この「何を」「誰から」「誰と」という3つの視点はゼミ活動だけではない。

先日行った調査インタビューでは、体育会での部活で「誰から」は学生の指導とは距離をとっていた経験者からだ。

指導を受けられたのは、先輩たちの力だったそうだけど、指導による刮目が社会人になってからの活躍に繋がったことは疑いようが無かった。

やはり学生時代は「誰から学ぶ」が大きいのだろう。

一方、社会人になってからの学びでは「何を学ぶ」と「誰と学ぶ」が大きいように思える。

大人の学習条件「主体性」「現実的問題」「発話」高木・竹内(2006)から考えても、現実的な問題について自ら誰と学ぶかが大切なのだ。

で、ね。冒頭のゼミ生はこの順番が逆だったのかもしれないね。


オレッ!




2017年8月31日木曜日

W杯は成長のチャンスなのだ

今日、サッカー日本代表がオーストラリア戦で勝利を納め、6回連続6度目のW杯出場を決めた。

浅野選手、井手口選手の鮮やかな得点は爽快なこと、この上ない。

いやー、めでたい。


さて、1998年フランス大会から来年のロシア大会まで20年の月日が経ったわけだ。

一時よりサッカー人気も落ち着いた感はあるけど、やはりW杯は特別だね。

僕はひたすらテレビで観るだけの人なのだけど、2002年の日韓W杯は、開催国であったこと以上に記憶に残る大会だ。

その時期、僕は次のことも考えずに3月に家業を離れ丸一年、良く言えば充電していた。

たっぷりとある時間を使ってW杯を観ていたのだけど、うさを晴らすにはちょうど良かったし、おかげで前を向けたような気がする。

その後、進む道を決め、色々な可能性を模索しながら今の会社に入社するのだけど、採用面接の際に、W杯のテレビ解説を書き起こしたデータ(時間はたっぷりある)とインターネット上の掲示板の書き込みのテキスト比較分析を持参した記憶がある。

銀行経験でのお金勘定や財務分析と商品仕入れや重い荷物を担ぐことなどは出来たけど、統計データを分析をするスキルは持っていなかったから、それらの経験を通じて基本的なことを身につけることが出来た。

ひょっとしたら会社に入れたのはW杯のおかげかもしれない。


今、振り返ると、興味関心と時間の両方が揃った時、そこには大きなチャンスがあったのだろう。

そして、気がつけば会社に入って早くも14年経ち、僕の中で最も長いキャリアとなっているしそれなりに成長できたのだと思う。

僕にとって2002年W杯は成長のチャンスと同意だ。

これからもW杯に合わせてぐっと成長して行きたいな。


サムライブルー



そして蘇るビンタ

僕は小学生の時、目の前で先生のビンタを見たことがある。

もう少し正確に言うと、班のメンバーが並べられて端からパーン、パーンとビンタをされたのだ。

で、結果から言うと僕はビンタされなかった。

先生がビンタをしたのには当然理由があったのだけど、先生のビンタ基準から僕は外れたらしい。

小学校を卒業してしばらく経ってから、当時の同級生がビンタをもらわなかった僕のことを裏切り者的に言っていたのを知ったとき、改めてその原因となった事件に加担しなくて良かったと思った。

その事件は小学生なりの「正義」がもとで、班の中で起きた、一人の女の子を皆で叩いたものなのだけど、確か、ちゃんと掃除をしないからとかいったことへの粛清だったようの記憶している。

僕は叩くこと自体に罪悪感が強く、粛清には参加しなかったことで結果、先生からビンタされなかった。

振り返って小学生の僕が場の雰囲気に流されずに良かったのだけど、じゃあ先生が叩くことに嫌悪感はないのかと言えばそこらへんには矛盾がある。

中学生以降もそんなに清廉潔白だったはずもなく、そこは反省が多い。


あれから40数年経ち、小さな集団の中の小さな事件を端に起こる先生や指導者の体罰が全国版で取り上げられるようになってしまった。

ニュースが流れるたびに小学生の僕が蘇ってしまうのだけど、経験もあってか体罰の背景がやはり気になる。

昨晩もトランペッター日野皓正さんのビンタがニュースで流れ僕は再び複雑な気持ちになるのであった。


ビンタはやめよう



2017年8月30日水曜日

一線を越えたら何があるのだろうか

国会議員が自身の素行に関する報道で「一線は越えていない」と説明して話題になった。

この場合、「一線を越える」=「自分の非を認める」と言うことだよね。

学びの領域でも「越境」の意味や大切さが認識されているから、どうやら「一線を越えること」は僕たちにとって大きな「意味」を持っているらしい。

しかしながら、一線を越えたら何が待っているのか考えずに越えてしまうことも少なくない。

だから問題になって糾弾されることになるのだ。

家の近くの大した交通量もない裏道に近い感じの交差点には、一時停止の標識があり、よくおまわりさんが止まらない車を取り締まっている。

意地悪な取り締まりにも思えるけど、ドライバーは停止線を越えた時、取り締まりが待っていることなどあまり考えていないだろう。

そういった時、線はあるけれども無いに等しい。

冒頭の議員もきっとそうだったに違いない。

では、逆に線をしっかり意識した上で越える場合はどうだろうか。

意味は全く変わってくるよね。

一方で、学びに置ける越境は意識を持って一線を越える行動を指しているように思える。

結論的に言えば、大切なのは「越える」ことではなく、「一線がある」ことの方だ。

世の中には、自分が引いた線以外にもたくさんの線がある。

だから僕たちには、上手に線を越えなかったり、越えたりを想像力を働かせて判断する能力が必要なのだ。


一線をちっと越えてる


2017年8月29日火曜日

言語化できないこと

考えいることを言語化することは難しくないけど、考えていないことを言語化することは難かしい。

何をバカなことを、と言われそうだけど、僕たちが何かを探している時、考えていないことの方が実は多いのだと思う。

そうでなければ、ウインドウショッピングとかamazonのブラウジングとかができない。

僕たちはなんとなくモノを探し、しかもその挙句になんとなく買うのだ。

厄介なことに、買ったあとには「もともとそれが欲しかったのだ」と勘違いする。

だからあれこれ理由をつけてしまう。

これは商品の購入だけでなくヒトに関しても同じだろう。

なんとなくヒトを探しているから、運命の出会いがある。

なんとなくヒトを探しているから、この人は違うと感じる。

そして、なんとなく探しているヒトを言葉にするのは難かしい。


言葉にできない♪


2017年8月28日月曜日

かつてのメモで連想ゲーム 正解はあるか

僕は自分の使いかけのメモ帳を開くと意外な発見をする。

字を書くのはあまり早くないので僕のメモは大体判別不能だけど、それでも四角で囲ったワードはメモを取った時に重要だったことはわかる。

この重要ワードを繋いで行くとなんとなくメモを取った時の状況が思い起こされる。

そんな細切れのインデックスを繋いで行くとたまに芋づる式に記憶も掘り起こされたりするのだけど、「あー、あの時はそんなことが大事だと思ったんだ」と感慨に浸ることも珍しくない。

なんだか恥ずかしかったり、感心したり、成長のなさにがっかりしたりと浸った後の感情は様々なのだけど、案外、メモを取った時の重要性や関心と思い出は一致していないのかもしれない。

文章や写真が記憶をかなり正確に思い起こさせるのに比べてメモはかなり曖昧だ。

忘れてしまうようなことは大切なことじゃないからメモは取らない、と言う人の話を聞いたこともあるけど、「愛」とか「待っている」みたいにシンプルな状態以外の大切なことを数文字だけで表現するのはやはり困難だよね。

例えば、昨日、いぬと散歩した時に通ったカフェの店頭に大きなスプーンとフォークがあったのだけど、「大きいスプーン」「大きいフォーク」「いぬ」では、写真を撮った時の動機は表現できない。

もしメモをして、3年後の僕がそれを見た時、僕はどんな連想をするのだろうか。

ちょっとメモ帳に残してみたくなった。


これはいい写真になる!と感じたのだ





2017年8月27日日曜日

24時間働くのがデフォルト? 侵略される社会を目指そう

休みの日の今日、対照的なテレビを見ることになった。

一つは毎年恒例の24時間テレビだ。

こちらはほとんど観ていない。

障害者を積極的に取り上げる姿勢の一方で、24時間の番組を製作することには違和感が強いから。

僕たちが働き方改革で目指す社会とは、24時間走ったり、生番組を放送する社会なのだろうか?


もう一つの番組は「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」だ。

アメリカに、世界の優れた社会の仕組みをどんどん略奪して持ってこようと言った、皮肉の込められた映画なのだけど、取り上げてたドイツの会社の例は週間労働時間36時間だ。

一週間で36時間働き、残りの時間を充実させようと考える社会(従業員にアクセスすることはもちろん、メールすることも禁止)と、24時間頑張り続けることを美談とする社会の違いは歴然としている。

さらに、件の番組は今年で40周年だそうだけど、僕は、40年間もその価値観を変えられていないことはとても悲しく感じる。

僕たちは「24時間戦えますか?」のキャッチフレーズが当たり前だった時代にまだ生きているのかもしれない。


社会の価値観を俯瞰する

2017年8月26日土曜日

どこまでが空手形? 仕事のなかの約束を考える

今の時代「手形」と聞いてわかる若者はどのくらいいるのだろう?

日本全体として産業が成長期にあり、会社にお金が足りなかったとき、支払いと決済の時間差を作り出す「手形」の仕組みには事業を成長を加速させる働きがあったよね。

しかし、ちゃんと決済出来なければ、支払いが行われないことと同じだから大問題。

そう言った、約束不履行的な手形を「空手形」と言い、実際の決済手段としてだけでなく、出来ない約束も「空手形」と言われるようになったのだ。

さて、本当は出来ないことを出来ますと言ってしまうのは詐欺みたいなものだけど、出来るか出来ないかわからないことを出来ますと言うのは微妙だ。

想定と結果には少なからず違いが生じるものだからね。

世の中にはやってみなければわからないことの方が間違いなく多い。

だから、やってみて結果が想定と違ったからと言って「空手形」をきったと責めるのはどうにも一方的だ。

プロジェクトマネジメントでは、「もし出来なかったらどうするか」を考えるリスク管理は欠かすことが出来ない。

リスク想定をしていない方がダメなのだ。

要するに、空手形は出し手と受け手がいて成立するものであり、受け手が出し手に信用を与えているのだから、リスクマネジメントをしていない受け手にも大きな責任があるのだよね。


ドラマチックトーン



2017年8月25日金曜日

「そこが子供だって言うんですよ」 ひよっこを卒業しよう

「自分からはできないよ。」
「そこが子供だって言うんですよ。」

NHKの朝ドラひよっ子で、主役のみね子(有村架純)が由香(島崎遥香)に対して言うセリフです。

色々な経緯があって掛け違えてしまった家族との関係をどう修復するかで、自分から掛け直すことはできないと言う由香に対して、父親が行方不明になったみね子は、父親を許して自ら東京に働きに出てきた時、自分は子供じゃなくなったと感じたそうな。

これ、ドラマとは言え侮れないセリフだよね。

どんな理由があろうとも結局人に依存していることって少なくない。

しかも自己正当化してしまうと、依存していることもわからなくなってしまうから厄介だ。

さらにお互いに依存し合う、共依存の状態になってしまうと、もう無限ループ化する「永遠の子供の国」状態である。

みね子が言うように、大人は誰のせいにするではなく、自らの決断と覚悟で一歩を踏み出すものだ。

結局、誰かの手助けを待っている=「そこが子供だって言うんですよ」 だよね。

「悪いのは自分でなくおまえだ」と言うストレートな外罰性だけでなく、「自分を成長させてくれる会社」とか「頑張っているところを認めてほしい」なども実は無意識に相手に責がある言葉を使っている。

子供の宝物である純真無垢さ、天衣無縫なさまを持ち続ける大人はとても魅力的だけど、「そこが子供」の部分は早く卒業したいものだ。


遊んでくれなきゃ噛んじゃうもんね






2017年8月24日木曜日

横取り、駒扱い、押し付け そしてモチベーションの源泉

良く、部下の手柄を横取りするのはダメ上司だっていう話を聞くよね。

横取りされた部下は達成感を踏みにじられ、上司に不信を抱き、モチベーションが下がる。

本来、部下のモチベーションを上げさせるのが上司の仕事だから、本末転倒だ。

しかも、横取りした手柄によって、上司の評価が上がっちゃったりするものならば、上司どころか会社に対する不信が同じ境遇になりかねない同僚にも広がって組織にはざけんな、やってらんねーぜ病が蔓延する。

この問題、モチベーションという観点から考えると、本末転倒な上司の行為は直接的な手柄の横取りだけに限らないだろう。

例えば、目標は与えられるよりも自ら定め、計画立案に取り組んだ方が達成感が高く、仕事への意欲が上がる。

計画立てに参画させず目標を割り振ることは、部下の手柄を横取りするのと似たような影響を与えかねない

それでも、意志を持って目標達成に取り組む部下には、大きな学びと成長が待っているのだけど、皆が常にそのようなマインドセットを持てる訳ではない。

部下の能力を見切ったり経験不足を指摘するのは簡単だけど手柄をあげられるかあげられないか良く見てギリギリのところに仕事の難易度を定めることができれば良いね。

むしろ、成果を出すプロセスで最後のところを任せて達成感を演出するバックワード・チェイニングといった方法もある。

部下の育成において優秀な上司は、部下が上手に手柄をあげられる工夫をしているのだよね。

さて、知らず知らずのうちに部下のやる気を削ぐ上司の行為は仕事や成果の横取り、駒扱いだけではない。

仕事の割り当てや業務アサインもそうだ。

采配と称して権限を取り上げたり、文脈の見えない仕事への配置することなどだ。


上司にはどのような言動、采配が部下の自律的な成長を阻害する行為になるのか正しく知って自らの行為を選択できることが大切だ。

もちろん、そのためには部下に適したそれぞれの自律的な成長のあり方も知らないといけないけど、一方で、いかなる形であれ自律的な成長への取り組む姿勢がある人材を部下にしなくては始まらない。

上司ができることは部下のモチベーションを削がないことであって、ベースにあるモチベーションを生み出し維持し高めることが出来るのは部下当人以外にいないのだからね。


水とバケツとホース



2017年8月23日水曜日

思考を高める場数の踏み方

昔、人は頭の中が静かな人はよく喋り、賑やかな人は無口になる、という話を聞いた記憶がある。

脳にはデフォルドモードネットワークという意識が沈静化している時に起きるベースライン活動があって人によって違うその活性がおしゃべりか、無口かに影響しているといったような話だった。

直感的なものとは逆だったので、ヘェ〜そういうものなのか、と驚いた。

さて、そのコトの真偽は知らないけど、誰かに何かを伝えるために多くの場合人は自らの考えを口に出す。

この思考を口外するプロセスには熟達の効果があり、例えば、同じコトであれば1回目よりも2回目、2回目よりも3回目の方が自らの考えを的確に伝えられるようになる。

「話す」ことは「思考を整理する」のに役立つのだ。

ここ数ヶ月に間に、あるテーマについて考える、話す、議論するを繰り返しているのだけど、そのテーマが本物に育っていくのがよくわかる。

議論や説明の場数は積極的に持つべきなのだ。


何度も話して鍛える


2017年8月21日月曜日

改革よりも堅牢化? テレワークの事例から感じること

今日は久しぶりに経営学習研究所のイベントに参加した。

シアターMALL「仕事にオフィスはもういらない?!リモートワークの光と影」という旬なテーマである。

日本航空の働き方改革とテレワーク導入の取り組みを聞かせて頂いた。

さながら「働き方改革奮闘記」というドラマであった。

語り部は日本航空人財戦略部の久芳珠子さん。

働き方改革の対象は4400人で全社員の15%、デスクワーク中心で残業削減と生産性改善が目的だったそうだ。

経営破綻した日本航空では「全員が力を合わせて一機の飛行機を飛ばす」という一体感の醸成を5万人の社員が破綻後一年で3万2千人に減らすなど大きな苦しみの中で目指した。

客室乗務員の9割が女性で女性が活躍する一方でエンジニアの女性はごく少数であったりと部門での格差が激しく、様々な分析の結果からも女性が能力的に劣るデータはないのだけど、20代半ばのタイミングで女性の評価と男性の評価に如実に差が出始め、活躍が衰退していくことが明らかになった。

そして女性の7割が去っていくのがそれまでの会社の実情であったそうな。

そこで、仕事免除施策ばかり打っているけど昇進昇格がない施策から、長時間労働を減らしキャリアブランクを作らない施策が必要であることを見出して持続可能性、フェアでクリエイティブな仕事への転換を推進している。

不夜城化していた仕事の不平不満を解消するために、書類山積みのデスクトップをフリーアドレス化し、集中できる大きなブースやファミレスシートを整備することで仕事に縛り付ける要因から真のやりがいへ、そしてその一環としてテレワークの導入と、試行錯誤はあったのだろうけど順調な展開のように感じられた。

制度を上手に使う社員からヒントを得てさらに制度を良くしていく取り組みからは、職責を全うする強い意志を伺うことが出来た。

後半は実践女子大学松下慶太先生の「PlaceとSpace」といった問いかけを聞いたけど、僕たちの身の丈で言えば、テレワークを難しくしているのは実は法律であったりするので、保守的で遵法精神が高く、しっかり組織を守ろうとする人にしわ寄せが起こるのはやむを得ないのかもしれない。

つまり今の環境でなんとかテレワークを実現するとことは働き方の改革よりも前提をより堅牢な構造にしている可能性があると言えないだろうか。

「職場」を場所と捉えれば多様な解があり得るのだけど、そこで働く人にとってみれば、自己定義を行う「場」にあたる。

主語を「場所」に置くのか、「働く人」に置くのか、もっと言えば「働き方を改革させる」のか「自ら働き方を創造する」のか、視点をちょっと変えると見える世界もガラッと変わる。

僕がイベントの最後に考えていたのは実はそんなことだった。


働き方、変える?

2017年8月20日日曜日

わかるけど簡単にわかっちゃいけない「いい◯◯」

商売でモノを売るためには、モノを作るか仕入れるかしなくてはならない。

モノを作る場合も原材料を仕入れる必要がある。

僕たちは、如月博士が空中元素固定装置を開発するまではこの「理」を破ることができないのだ。

そしてこの「理」は人材に関しても例外ではない。

人材派遣・紹介の事業者が人材を企業に派遣したり、紹介する際には人材のストックが必要だ。

ゆえに、企業の雇用意欲が高まると総じて人材が足りなくなり、人材の募集が激しくなるり、テレビCMや交通広告も増える。

でも、転職人材の募集において「条件は、今よりいい会社」というコピーにはいささか違和感を感じた。

企業が「いい人材を採用したい」というのと同様で、そりゃみんなそういうけどさぁ・・・という部類の表現だからね。

そもそも「いい人材が欲しい」という会社は「いい会社」なのか、「今よりいい会社」という会社員は「いい人材」なのか、とか言いたくなってしまう。

そして、それは当事者であれば常に自らに問うべき事柄であるのだ。


登録します?





2017年8月19日土曜日

僕たちが時間を越えるのはいつだろう

昨日、封切り初日の映画を観たのだけど、最近の映画、特に注目を浴びている映画の多くは「時間」を扱っているように思う。

去年大ヒットした「君の名は」とか、その前にヒットした「インターステラ」とか、挙げたらキリがない。

もっとも、時間に関しては最近のテーマではなく昔からだ。

例えば、バック・トゥー・ザ・フューチャーなどもそうだね。

SFではタイムマシンという時間を自由に行き来する機械があるのだけどそれはまだ実現に至っていない。

「時を越える」というのは古くて新しい、僕たちの根源的願望なのだ。

「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」

これは、ジュール・ヴェルヌの言葉と言われるけど、僕たちが成し遂げたと願っている以上、時間は掛かってもいつか解決される課題なのでしょう。

AIが単なる機械学習装置を卒業した時には、是非、この「時間」の越える方法を考えて欲しいよね。

もっとも、僕の関心は、その答えを出すのと地球上の電力全部を消費するのとどっちが先だろうか、ということなんだけどね。


時の階段





刀女子との遭遇 負けるな僕の創造力

デパートで日本刀の展示「河内一門と日本刀のこれから」を観た。

僕は日本刀にほとんど興味が無いのだけど、珍しさと、時間もちょっとあったので足を運んでみた。

展示されいてる日本刀を観て、「刀」の価値を改めて考えたけど、武器として使うことはもちろん、所持するだけでも法律で規制が掛かっているからその美しさを眺めること、つまり美的価値と、工芸品としての希少価値以外の価値を思いつくことは出来なかった。

一方で、展示会場に多くの若い女性が居ることにも違和感を持った。

どうやら「刀剣乱舞」というイケメン系のゲームがあって、そのゲームから刀に興味をもつ女性が増えたのらしい。

会場にもキャラクターのポスターや関連する?刀が飾ってあった。

多くの女性がさっと観るのではなく、すごくじっくりと観ている姿が印象的だ。

ゲームの作り手は、キャラクターとしての価値を刀に見出し、それを2次元で人格化したわけだから、刀には人の想像力を掻き立てる力があることも間違いないのだろう。

さて、考えてみれば、僕は子供の頃、ボールペン一本でジェット機の空想をしていた。

どんな物にも人の行為を引き出す力が備わっているのだ。

僕たちは価値というと交換可能であることを前提にしがちだけど、実は、新しいものを生み出す価値は交換という概念を超える、創造する力である。

人との出会いも新しいものを生み出す瞬間だけど、刀のように長い歴史と刀匠の職人技などいくつもの物語が眠るモノにもきっとすごい力が宿っているのだろうね。


刀を撮るのは難しい






2017年8月17日木曜日

卵と鶏 パソナリティと経験 どっちが先だと思いますか?

物事の始まりがどこからなのかを考えるのは結構難しい。

よく知られているのが、卵が先か、鶏が先か、と言う議論だね。

生命の継続性を考えると生物は徐々に進化を遂げているので始点を定めるのは思うほど優しく無い。

カオスの淵にある生命は、時に偶有性を持って姿を変えて行く。

そして環境という共犯者を得てまるで意志が存在するかのように淘汰が起きる。

そう言った複雑性を考えるときにどちらが先かと問うのは愚問であることがわかってくるよね。

愚問は頭を悪くするのでやめたほうが良い(大村はまさん)。

さて、パーソナリティと経験、それぞれにある偶有性と環境の存在を考えた時、どちらが最初でも良いのだ。

パーソナリティが経験を呼び込むのか、経験がパーソナリティを形成するのか、ではなく、自分も自分以外も自己定義を更新していく。

自分は卵でもあり、鶏でもある。

自分の成長にとって都合の良い方を選べば良いのだろう。


どっちも先だし、どっちも後だ

2017年8月16日水曜日

Great or Crazy Journey? 人が旅する理由

このブログを書きながらクレイジージャーニーという番組を見ている。

普通の人が絶対に行かないような場所を超個性的な人たちが目的を持って旅する番組だ。

普通の人の旅も、観光、グルメ、癒し、学びなど目的はあるが、多くの場合「安全であること」が前提だよね。

「安全」の尺度は人それぞれだけど、危険性の高い旅ほどテレビ的には美味しいのだろう。

さて、そもそも人はなぜ旅をするのだろうか。

山を登る人が「そこに山があるから」と言うが如く「そこに旅があるから」なのだとしたら、そもそもの「なぜ」を解き明かすのは難しいだろう。

実は、僕たちがコンビニで商品を買ったり、SNSに記事や写真を投稿する行為も「なぜ」がよくわからない。

もちろん、お腹が空いたから、とか、他人に自分の投稿を承認して欲しいからと言った欲求はあるのだけど数ある選択肢の中からコンビニや特定のSNSを選ぶ理由を説明することは容易くないのだ。

なぜなら、簡単に選ばなくもなるからね。

そこでコンビニもSNSも集客のために様々な試行錯誤を繰り返すことになるから、マーケティングにも終わりが来ない。


消費者の無意識の行動と違って、旅をする行動はかなりはっきりと意識があるように感じられるけど、もしも「どこでもドア」があったとしたらコンビニに行くのと変わらなくなるのかもしれない。


そこに国もある




2017年8月15日火曜日

無意識に「一人っ子」を構造で考えていないか

構造が機能を定める。

僕たち生き物の存在は、こういった構造主義を超えている。

構造は、僕たちが理解可能であることが前提だけど、「生命」には必ず理解出来ないものが残ると思うからだ。

しかしながら、構造主義はあらゆる領域に存在して僕たちの姿を定めようとする。

例えば以下のような記事だ。

一人っ子は兄妹のいる人とは脳の仕組みが異なる?

脳科学の発展は目覚ましくて、ついちょっと前まで定説であった男性脳、女性脳の違いが実はないことも解明されている中でこれは意外なニュースだった。

僕は心理学の研究はそもそもバイアスの掛かった研究だと思っている。

それは人か認知していることを解き明かそうとする研究だからだ。

そして、この研究は「一人っ子は異なる」というバイアスを持ってデータを観ているんじゃないかなと感じた。

構造に理由を求めることは、モノゴトを変える力にもなるし、変えない力にもなる。

だから、良い、悪いではないけど、僕たちは構造の持つ意味をその本質から考えるべきだよね。


神に構造はあるのか


2017年8月14日月曜日

何かを生み出すために必要なコト

”自分の居心地の良さ、悪さで自分の行動って決まるので、理念を先に考えて、理念に合わせて行動することは、僕はあまりしたくないんです。” 儲ける知性を休ませ、親切を――糸井重里に資本主義を聞く

かつては売れっ子コピーライター、今は上場企業の代表取締役である糸井重里さんの記事が面白い。

冒頭の一節は記事から転載したものだけど、人にはその人にとっての快適さがあり、最初に掲げる理念はその人にとって居心地の良いものになりがちだ、ということを言っているのだろう。

大村はまさんの名言「一番先に浮かんだ言葉は使わないこと。たぶん、それは「自分の癖」だから、いつも同じ事を言っていることになる」から受ける印象とたぶん同じだ。

パーソナリティ特性は、思考や行動を習慣化する。

それによっていちいち考えなくともなめらかに社会で生きていくことが出来るのだけど、一方で、無意識にバイアスを掛けて物事も見るようになるし、思考を停止して居心地の悪いことを避けるようになる。

だから、自分のパーソナリティ特性を知ってそれに向き合う、ということは思考を巡らせ、居心地の悪さを感じ、他人の力を借りて自分の壁を超えることである。

さて、糸井さんは同じ記事の中で、差異を生むのは人間であること、何かを生み出す人の価値は上がっていることにも言及している。

”モノやお金の価値が相対的に下がっているのとは逆に、人の価値はどんどん上がっています。モノを作るための労働力としてよりも、イノベーションを生み出すような人材だとか、無理かもしれないことでも実現できるよう工夫する人材だとか、そういう人が圧倒的に足りないと思います。” 同記事より転載

「そういう人が圧倒的に足りない」という課題からは、何だか特別な人が世の中には少しだけ居るように感じるけど、そうではないだろう。

僕は誰でも何かを生み出すことが出来ると思う。

しかし実際に生み出す人たちは、多くの場合、自分の居心地の良さを越えた者である。

また、その越え方は個人ごとに異なり、千差万別なのだ。

で、ね。この課題の本質は、「パーソナリティ特性を、今ある自分の表象ではなく、未来の自分への出発点にすること」である。

今の自分を越えることはある意味、イノベーションであり、無理かもしれないことを実現できるように工夫することだものね。



イトイさん、飛んでますよ〜








2017年8月13日日曜日

「縦割り」という視野狭窄に気をつけよう

僕が生まれ育った浅草橋は鳥越神社が近くにある。

鳥越神社は小さな都会の神社なのだけど、神輿は大きく重い、千貫神輿が自慢だ。

僕はこの神輿を担いだことはないけど、多くの担ぎ手が道いっぱいになって神輿を担ぐ様はとても強く記憶に残っている。

その後、会社が浅草にあり、向島に住んでいた時は浅草寺の三社祭が身近な大きな祭りだったけどやはり神輿は鳥越神社の千貫神輿が凄いなぁと思ったものだった。

さて、今日、今の住まいの氏神さまである富岡八幡宮の深川八幡祭りを見てきた。

実は、今の住まいは、富岡八幡宮と神田明神のちょうど境にあって、当初、氏神さまは神田明神だと思っていたので実は、富岡八幡宮だと知ってちょっと驚いた経緯がある。

神田明神が氏神さまだと信じていた時は富岡八幡宮のお祭りがどのようなものかほどんど知らなかったし、鳥越のお祭りに行っていた時は富岡八幡宮も知らなかったと思う。

深川八幡祭りでは、氏子の町内会が繰り出す神輿が富岡八幡宮に集まるのだけど、沿道からものすごい勢いで水が掛けられる。

その様は、花火よりも弾けている。

でもそれを知ったのは、氏子になってからだ。

祭りになると町内に〆縄が張られる。

それは、社会や生活を割る象徴にも思える。

観光客という外様でなく、当事者としてよその祭りに参加するためには何が必要なのか、考えると縦割りから抜け出す方法が見えて来るのかもしれない。


水かけ




2017年8月12日土曜日

労災認定の事実と真実? 研修に潜む危険性

先日ショッキングなニュースがあった。

ある会社の新人研修で業務上の死亡として自殺が労災認定を受けたケースがある。

父親は、会社、研修会社、講師を訴えていると言うものだ。

研修は「意識行動改革研修」と呼ばれ、仕事で成果を出すために必要なマインドセットを与える、しかし受講者にかなり負担を強いるものだったらしい。

しかし、その目的、内容や負担の大きさは僕にはわからない。

事実としてわかっていることは、新人研修の途中で受講者が自殺し労災に認定されたと言う事実だけだ。

そして自殺という取り返しのつかない事態まで至らなくても、新人研修の途中で受講者にトラブルが発生することは、実はそれほど珍しくないのではないだろうか。


多くの企業や新人研修を受託実施する会社と参加する新人は常にリスクを理解している必要がある。

研修の内容に関わらず、だ。


レアではない

シンギュラリティ後も売れ残りの時代は続く?

物やサービスを買う人にとって、売れ残りは売り手ほど気にならない。

必要とする時に必要とする物が入手できれば良いから不必要な時に不必要な物は興味関心の対象外だ。

今、世の中は、買い手に最適化されていく一方で、売り手にとってはどうなのだろうか。

作り手は買い手という観点では原材料を仕入れる立場でもあるので、作りやすい環境があるものの、一方では、いざ売り手になると売れ残りに心を痛めることになる。

売り切りごめんで売れ残りなしでやれている人は社会で極めて少数だ。

なぜそうなるのか、といえば、売り手が過剰であること、それと売り手と買い手が二極化しているからなのだと思う。

コンビニの廃棄食品などはじめ、日本の廃棄食品量はとても多いけど、事業者間の競争だけでなく、買い手と売り手の心理的要因も無視できないだろう。

自給自足であれば余剰や過剰を減らす工夫が自然にできる。

必要な量と余分が発生していることがわかるからね。

要するに、買い手はこれだけ欲しいと言わないし、売り手はどれだけ売ろうとしているか言わない。

この双方の沈黙と憶測で世の中が成り立っているので売れ残りが生まれる。

買い手はそれが心地よいし、売り手は真剣で必死だ。

クラウドファンディングのような仕組みは売れ残りを減らす手助けになるだろうけど世の中全てが置き換わるようなことはない。

さて、あと何年かして、人工知能が汎用化され自ら社会のことを学び始めた時、売れ残りの本質を何と認識しその解決に向かうだろうか。

僕たちの心地よさと真剣で必死な想いをどう調和してくれるのかな。


人々




2017年8月11日金曜日

未来を憂うことなかれ

僕たちが若かったころは1999年7月に人類が滅亡するって言うノストラダムスの大予言があった。

ノストラダムスの大予言を信じる信じないは別として結構、世の中の認知度が高かったように思う。

でも7月には空から恐怖の大王が降るどころか天災も起きなかった。

この類の悲観的予言は、ノストラダムスの大予言だけではない。

最近では、2012年12月にマヤ暦が終わり終末が来る、と言うのもあったよね。

人類の終わりだけでなく、国家の崩壊や大不景気の到来、戦争の勃発などなど世の中には悲観的な予言が溢れているけどほとんどは現実になっていない。

一方で、大地震や悲惨な大規模テロ、リーマンショックなど天災、人災は現実に数多く起きている。

確かに、起こりうる悲観的未来に対して備えることは必要だ。

未来には良いことしか起きないなんて都合の良い夢想だものね。

で、ね。休みの今日、家でONE OK ROCKのライブ映像を見ながら思うのだけど、新しい才能は必ず生まれ、新しい環境で新たな花を開き明るい未来を描いていくのだ。

だから僕たちは環境をどんどん新しくして行く必要があるのだろう。

それは結果として明るい未来を描く一助となっているのだからね。


明るいね




2017年8月10日木曜日

経験が人生をどう変えるのか

僕の好きな映画にベン・スティラー主演の『LIFE!」がある。

映画のキャッチフレーズは「人生を変える、壮大な旅が始まる!」だ。

映画のストーリーはさておいて、理不尽さに耐える生活を送りながら妄想し、誰に賞賛されるでもなく我が道を行き、色々な人と出会いにときめき謙虚に学び、そして事の本質にと自分の至らなさに気づく、多様な経験は誰にでもあり得ることだよね。

4つが一度に揃うと映画になるくらい劇的な人生だ。

もちろん、どれか1つを極めることも生易しく無い。

しかし「人生を変える」となると多様な経験は必須だろう。

また、映画の中でベン・スティラーは理不尽さに向き合いながら仕事への責任感で旅を始めるのだけど、1つの深く極めようとすると結局、他の経験を積むことになっていく場合も少なくない。

とにかく、始まりはどうであろうとあらゆる出来事に質の異なる経験を積むことで「人生が変わる」のである。

映画の中で主人公は最初と最後で大きく人生を変えた。

それは傍目には「成長」と思える変化だ。


4つ揃える
















2017年8月9日水曜日

組織行動を生む軸足 

僕が就活生と面接をする際の違和感を感じる言葉に「軸」がある。

「どのように就職活動を進めていますか?」

といった質問の答えとして

「私の就職活動の軸は・・・」

みたいに語られる。

以前は、

「◯◯さんが仕事選びで大切にしているのは△△なんですね」

みたいにページング(バックトラッキング)の際に言い換えていたけど最近は、相手の言葉を返す意味からも

「◯◯さんの軸は△△なんですね」

と言うことが多い。

で、なんで「軸」に違和感を感じるかと言えば、「軸」とはそれを中心の動きが起きる中心点であり、活動全体を支えている「根っこ」のイメージがあるからだろう。

一方、応募者が使う「軸」とは、選択可能で調整出来るものであることが多い。

なので「軸」と思えないのだ。

さて、組織には2つの「軸」がある。

組織がなんのために存在するのかと言う「目的」と、組織が組織として存在する原理にあたる「協調」だ。

組織はこのどちらかに「軸足」を置き、活動する。

そして活躍するのがもう一方の「利き足」だね。

サッカー選手を見るとわかるけど、「軸足」を固定して「利き足」でボールを操作するのだ。(両方利き足に出来る器用な選手もいる)

組織も、良い協調関係を軸にリーダーやマネジャーが目的達成を統率する場合と、目的達成に向けた強い理念・ビジョンやカリスマ性を軸に全員が一丸となって組織力を発揮する場合があって、似ているようだけど、順列が違うことでストーリーがまるで変わってくるのだ。

前者は、メンバーの離職率は低いけどリーダーやマネジャーの変革力も低いのに対し、後者は、リーダーやマネジャーの変革力が高いけどメンバーの離職率も高い。

もちろん、どっちつかずの組織もあるのだけど、大概よく見れば、組織の軸足はどちらにあるか見えてくるものだ。


軸足

2017年8月7日月曜日

経営課題の本質にあるもの、ご存知?

経営という立場から言えば、経営課題を社員に転嫁するのは難しくない。

「もっと考えろ」とか「顧客の立場で」などと言えば済むのだ。

でも、これは、日本企業が導入に失敗した「成果主義」と同じ類なのではないだろうか。

つまり、本質を考えることや顧客志向というのは結論的な話なのだと思う。

それが出来れば、もうゴールに近くて、あと一歩、の話なのだ。

あと一歩の話は、実は任せておけば良くて、問題はそれまでにどう加速できているのか、その環境を作れているのかが俗に言う「経営手腕」だったりすると思うのです。

と言うのも、自力達成は何物にも代え難い達成感と効力感を与えてくれるものだからだ。

だからダメなマネジメントの典型は、手柄の横取りだよね。

で、ね。原点かどうかはわからないけど、より原点に近い経営課題の本質は、社員一人ひとりの「成長志向」「成長意欲」なのだと思う。

もちろん、それにはいくつかの経験が重要だとも思う。

「想い」だけでなく、「原体験」が必要だ。

でも、後先はどうでも良くて、「想い」の後に「原体験」があっても良いのだろう。

結局、経営が出来ることって、「想い」を育てることと「原体験」の機会を提供することなのだよね。


本質はそこ?

2017年8月6日日曜日

機械に職を奪われるのか、機械が職から解放するのか

このところテレビを見ている転職を支援するサービス会社のCMが多いように思う。

おそらく世の中的に求人企業が多くて求職者が足りないのだろう。

この求人と求職のバランスは常に大きく変動している。

景気、産業構造の変化、社会の変容、就労意識の変化などがその背景となっている。

さて、人間は同じ仕事を長時間し続けるのが苦手だ。

一方、機械はそれが得意である。

人間は工夫や思いつきなど考える力を上手に活かすことが出来る。

逆に機械はそれが苦手だ。

つまり、今後、単純で付加価値の低い単純労働を機械が替わってくれたら、人はより付加価値の高い仕事に取り組むことが出来るようになる。

しかし、人が嫌がる単純労働を黙々と引き受けてきた人々、付加価値を生み出すことが苦手な人にとってはそれは歓迎できる社会じゃない。

例えば、コンビニの完全機械化はすでに技術的には可能だと思うけど完全機械化された場合、多くの雇用が消失する。

そして、コンビニでバイトしながら芸人や役者を目指すといったキャリアプランは描けなくなる。

要するに、様々なセンサー技術とネットワーク、そしてAIによって機械が職から解放してくれる恩恵に預かれるのは、従事している仕事というよりも、仕事や組織に強くコミットメントしていて、成長志向の強い人たちだけなのかもしれない。

もしそうであれば、10年後に無くなる仕事、という予測よりも、10年後に仕事が無くなる人の予測をする方が的を射ているのだろう。


何につかまる?



日常を新たな記述で書き換えていくこと

だいぶ前から飲食店やコンビニで外国の人が働く姿を良く見かける。

周辺のコンビニでは最近、ベトナムの人が多いようだ。

それらの人と接して感心するのは日本語が上手なことんだよね。

もちろん難しい話はしていないし、イントネーションも人によってまちまちだけど言葉を覚え、遠く国を離れて僕たちの日常を支えてくれている。

僕はレジを済ませるとき大概「ありがとう」と一声かけるのだけど、特にベトナムの人の応対はにこやかな気がする。

僕たちにとってキャリアは自分で選ぶものだけど、一方で、セーフティネットも備わっているから、チャレンジもリセットもしやすい。

しかし、海外から日本に来る人たちは色々な面でハンデがあるんじゃないだろうか。

さて、先日、中国やベトナムの実習生受け入れ、派遣を行っている会社の社長さんと話をする機会があったのだけど、突然皆で仕事を辞めてしまうケースが増えているそうだ。

どうやら僕たちは、パーソナリティ、生育環境への理解、キャリア形成、経験のデザインなどを自分たちだけでなく、日常的に世界レベルで考える時をむかえているのらしい。


ビルの向こうではゴジラとガメラの戦いが!

2017年8月5日土曜日

違和感を考えるガチャとーく

昨晩の自画持参ガチャとーくは通算50回目だった。

最後には「この先どうする?」みたいな議論も出る回数だ。

まあ、50回くらいでマンネリと言ってしまったらどれだけ飽きやすいのか疑われてしまうだろうけどね。

テーマは、「違和感」だった。

僕は「違和感」というと、「生命」に近いもの感じる。

というのも「生命」とは、僕たちの体があらゆる出来事に反応する様であるように思うからだ。

僕たちは無意識に何かと反応し、意識でその意味を考える。

そして「違和感」とは無意識が意識に換わる瞬間なのだろう。

一方で、「習慣化」によって「違和感」を生み出さない工夫もしている。

「違和感」を多く感じる人はそれだけ多くの意味づけを行って深く生きる一方、「違和感」をあまり感じないようにする人は効率良く生きることに長けているのかもしれないね。


違和感