2016年6月30日木曜日

迷走するWindowsの行く先 背に腹変えられないのは何故か

Windows10の自動更新が世界規模で問題となる中、マイクロソフトは頑なに方針を変えません。

マイクロソフト規模の会社であれば、事前に様々な想定を行い、訴えられても負けない条件を揃えたうえでの強行突破に見えます。

ITの世界では、UI(ユーザーインターフェイス)UX(ユーザーエクスペリエンス)といった、利用者中心の哲学があるにも関わらず、会社の事情を最優先している背景はとても気になります。

強行の事情を考えるに一つはWindows7に致命的な欠陥がある可能性です。このままユーザーがWindows7を継続利用しているとサイバーテロなど、大きな被害が予測されるのであれば、早期にバージョンアップを進める理由となります。

しかし、今日、第三者機関がOSのバグをいち早く見つけ出しますから、マイクロソフトしか知らないとても大きなバグがあるとは考え難いです。

そうなるともう一つの可能性は、AI(人工知能)とビッグデータです。

個人的にはWindows10と7の一番大きな違いは、Cortana(コルタナ)だと考えています。

AIを軸とした音声、画像認識は、ユーザーをキーボードから開放し、さらにはデータとユーザーのバリューチェーン(生産的活動から消費的活動全般)を占有するキーテクノロジーでしょう。

AIとビッグデータの実態は、広告に変わって就職や消費活動を誘導するシステムの構築です。広告でAIDMAの法則の呪縛に苦労しなくても、すごく儲かる仕組みの実現であり、アップル、グーグル、アマゾン、IBMがこぞって力を入れている分野です。

昨年のAIカンファレンスで、スポンサーを務めたマイクロソフトが、AIではなく、Windows10とCortanaの宣伝を行っていたのはかなり奇異でした。


それだけ、Windows10の切り替えが急務になっており、これまでのビジネスモデルを少しだけ緩和し、Windows10を無料で配り、さらには強制的に更新までさせる意味もそこにある・・・

全て、勝手な想像ですが、実際はどうなのでしょうか。


かな?



2016年6月29日水曜日

あるべき姿を考える時に気をつける2つの問い

”世界平和のためにできることですか? まず家に帰って家族を愛しなさい”

マザーテレサの名言として知られるこの言葉は、質問に応えた際のものだそうです。

「世界平和というあるべき姿に向けて何をすれば良いのか・・・」

恐らく問いを投げかけた人はそう考えていたのでしょう。

それに対するマザーテレサの応えには2つ問いが含まれていると考えます。

ひとつは、「あるべき姿」に捕らわれて足元が見えなくなっていませんか、という問いです。

お客様に最高の価値を届けよう!とか言っておきながら、一方では、社員が低いモチベーションで疲弊しいてる会社をたまに見かけます。

ES(従業員満足度)が高い=CS(顧客満足度)が高く高業績である、という式が必ずしも成立しているわけではないことが知られていますが、ESが低いのにCSだけは高い会社は、その後、報いを受けることになります。

もう少し身近を見渡せば、仕事一途で家庭を顧みず、定年になった途端離婚されるケースなどもそうでしょう。

私達は、常にもっとも身近な人達に目を向ける必要があります。


もうひとつは、自分のやりたいこと(やりたくないこと)を「あるべき姿」の名を借りて大義にしていませんか、という問いです。

舛添前都知事は、不信任案が提出されるか否かの瀬戸際に、リオオリンピックが終わるまで待って欲しいと懇願しました。

前都知事は、それは公益のためであるとしましたが、実際は、せめて檜舞台には立ちたいという自分の願望でした。都知事を辞職したくない、という願望も含まれていたのかもしれません。

シンプルに人はこうしたい!と言ったほうがわかりやすいのに、なんとか他者を説得し成し遂げようと大義を仕立ててしまう。

よく見ていると、あちらこちらで見かける現象です。

更に、本人が自分の内面を確かめず本気でそう考えていることも少なくありません。

しっかりとリフレクションを行っていれば気づける事柄です。


質問に対して質問を返すことは好ましくありませんが、気づきを与えるマザーテレサの応えには改めて感嘆するしかありません。


珠玉



2016年6月28日火曜日

グラフィック・レコーディング、3つの良いところ ワークショップその後

土曜日、グラフィック・レコーディングのワークショップ参加し、場数が大事ということで早速月曜日から実践中です。

会社近くの文房具店で、A4のスケッチブックとプロッキーの細字・極細字を10色とケースを買い、早速会議で議事録を作成してみました。

そして、今朝、会議の結果を未参加のメンバーに共有したのですが、わかりやすいと非常に評判が良かったです。

グラフィック・レコーディングの1つめの良いところは、会議の「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」伝えることができることでしょう。

パソコンで作った議事録と大きな違いを実感し、グラフィック・レコーディングの真骨頂に少し触れることが出来た気がしました。

パソコンでは、入力スピードの関係からステッキーズという付箋を模したソフトを使っているのですが、そちらの記述と比較して感じるのが、温もり感です。

これは、書き留める内容にも影響しているように思います。

パソコンにはイライラが、グラフィック・レコーディングにはほのぼのさが宿るのも偶然ではないでしょう。

入力自体はパソコンの方が早いのですが、漏れがないように速くキーを打つため、たとえ書き留めた内容がリフレクションであっても、どこかイライラしているかもしれません。

グラフィック・レコーディングでは、最初から全ては書くのは無理とあきらめ、ニュアンスや感じなど、ライブ感を味わうので笑点の大喜利のように、どこかほのぼのとするように思えます。

パソコンだと必要に応じて会議中に資料を取り出すことも出来ますが、スケッチブックはどんなに捲っても白地しか出てきませんから、こちらもあきらめがつきます。

よい意味で開き直れるのがグラフィック・レコーディングの2つめの良いところです。

最後に重さです。

軽くなったとは言え、パソコンは1kg、それに対して、スケッチブック&プロッキー10本では360gと約1/3、身体に優しいです3つめの良いところ。

しかも電池切れを気にする必要もありません。

グラフィック・レコーディングの場数をもっと踏んで、いろいろな気づきを発見したいと思います。








プロッキーを安売りしていたのは古いから?

2016年6月27日月曜日

仁義なき創造 ルールって何?

もの事を創造する時、ルールはただ邪魔なものなのかもしれません。

物心がついてきた子供に絵を書かせる時、いかに自由に表現させるのかが肝心であるように、私達は大人になるに連れ様々な形で自己統制を行うようになります。

これは、私たちの思考や行為、行動が秩序化されることを意味しています。

つまり、制御の仕方によって個性が現れるのです。

それに比べ、自由な表現をする個性的なアーティストは社会の規範に収まりません。

例えば、ストリートアートのバンクシーは、壁に描きますが、その作品は高く評価されています。いたずら書きをしてはいけない、という社会のルールを超えています。

このようなルール無用な「自由」の一方で、私たちが存在する「宇宙」を神の数式によって論理化する試みもあります。

万物の理をルールによって説明できるかもしれないのです。

これは、「宇宙」に秩序が存在することの証だと思います。

そうなると「宇宙」とは、とても合理的なルールに従った「場」です。


私たちの存在にとって大切な「自由」と「ルール」。

この2つは良く天秤に掛けられますが、一方で、多くの場面で共存していることに気づきます。

例えば、創造性発揮するワークショップにもグランドルールが出現しますし、企業におけるイノベーションの取り組みは多くの場合、組織目的の達成に向けて規則の元で取り組まれます。

創造的なメッシのプレーもサッカーのルールと共存してます。

さらに驚くべきは「自由でなくルールもない」こともメタにとらえれば「存在」のひとつです。

「記述可能(ルール)であること=秩序(存在)があること」と言えるのでしょうか・・・


ルールがあるが自由でもある



2016年6月26日日曜日

50対50 拮抗した社会と失われる「自制心」

かつてフィギュアスケートの浅田真央選手が、現役続行か引退かを問われて「ハーフ ハーフ」と応えたことがありました。

「それをいうならフィフティ・フィフティやろ!」というツッコミもありますが、どっちになるかわからない状態は、周囲の興味と興奮を引き起こします。

多くのスポーツが1対1(1チーム対1チーム)の対決であることを見てもわかるように対立構造のわかり易さ、明確になる勝敗などがその背景にあるのかもしれません。

さて、環境における多様性に対し1対1の駆け引きはそれこそ生死に関わるような重大場面に見られる状況です。

より緊張を高め、周囲が見えなくなる瞬間でもあります。

このところ、英国におけるEU離脱派と残留派、米国の共和党と民主党、さらにはトランプの支持者と反支持者など、大局から細かい場面まで1対1での対決がよく話題にのぼりますが、社会全体が興奮した状態で多く失われるのが「自制心」でしょう。

「人に自由意志はあるのか」という生理学から生まれた議論の最新の研究結果では脳内で無意識にはじまる準備(準備電位)から意思決定の間の0.2秒だけ決定を拒否する「自由」があるそうです。

この「自由意志」と「興奮状態」に関する研究があるのか知りませんが、社会的な興奮状態の後に人災とも呼べる様々な悲劇があったことを思い出すにつれ、私達が「自由」失っているのではないかと考えたくなります。

大切なのは、一人ひとりが本能の赴くままに対立軸で意思決定せず、0.2秒の「自由」を駆使することでなのではないでしょうか。


多様性という自由






2016年6月25日土曜日

グラフィック・レコーディングとは? はじめて経験してわかったこと

今日は、「人とビジネスのいきいきをデザインする」株式会社タンタビーバ主催による、生涯学習開発財団認定ワークショップデザイナー岸智子さんの「ノートのとり方、会議の記録が変わる!?グラフィック・レコーディングワークショップ」に参加させて頂きました。

”あの”板谷和代さんがデザインしコラボしたワークショップ、と言ったほうがわかり易いかもしれません。(板谷さんはタンタビーバの取締役です)

さて、素晴らしいワークショップのレポートをブログに上げたいと思ったのですが、テキストに打ち直すのでは意味がありませんから、自分が書いたグラフィック・レコードを並べます。これで、内容が伝わり、共有できると良いのですが、まだ、そこまでは出来ないようです。

そして、グラフィック・レコーディングを知り、早速使いたいと思うだけでなく、板谷さんヒストリーにも触れる事が出来た、ステキな3時間でした。

岸さん、板谷さん、そして参加された皆様、今日はありがとうございました!

9月3日にまた開催されるそうですので、是非、参加されることをオススメします!







最後はリフレクションです

2016年6月24日金曜日

イギリス国民の選択 間違っているのは誰か

今日一番のニュースはイギリスのEU残留、離脱を問う国民投票の結果でしょう。

正解の無い問いを多数決で決めるというあまりにも浅薄な政治的判断が世界を揺るがしてしまいました。

でも、それほど悲観する必要はありません。

所詮、人の判断とはそういうものです。

この後、上手くいかないことが増えると、今回の投票にその原因を求める人が増えることと思いますが、所詮、地震・カミナリ・火事・親父、私たちがちっぽけな脳を中心において考えるよりももっと世界は豊かで時に冷淡なのです。

つまり、イギリス国民の選択を問うひとが一番間違っている人であると考える次第です。

さて、今回の選択を自分事に置き換えると、某都知事のせこさ、不信任・辞任よりも遥かに重い問題があります。

ある日、自分の隣人が移民になり、しかもそれらの人と利害が反するかもしれない、としたらどうでしょうか。

実際、これだけガラパゴス化している日本においてすら、気がつけが周囲に外国の方が増えているご時世ですから、ボーダレスになったEUにおけるイギリス国民の不安、不満、危惧は推して知るべし、の状況であると言えるでしょう。

今回の、離脱による世界の混乱は、ある意味イギリス国民の苦悩を全世界が共有するプロセスであるのかもしれません。

ソーシャルネットワークの時代においてシェアされるのは「いいね」だけではないことを改めて気づかされる今回の結果です。


再び壁の時代?


2016年6月23日木曜日

立場は人は育てるのか、人は己の力で立場を得るのか さて、どっちでしょう。

「立場が人を育てる」と言われますが、実感としてはあまり正しくないように思います。

要するに、期待を持って立場を与えても失敗することが少なくありませんでした。

もちろん、「それは、人選を間違っているからだよ」と言われることは百も承知なのですが、選び放題ならまだしも、限られたなかで、どんどん高くなる社会からの要請に答えていくためには、期待を持って人に接しないわけにいかない事情もあります。(ちょっと言い訳っぽい)

また、人材が豊富な企業の方から話をお聞きしても同様の問題は確認できます。

その結果、「力があったから上の立場に就けたのだ」、というところに話が落ち着くこともよくあります。

一番多いのは、「どっちもだよね」、という至極曖昧な結論とはいえないモヤモヤな世界が広がることになります。

結局モヤモヤか、と言うのも癪なので、答えを出しましょう。

この問題の本質は、「語ること」と「行うこと」がいとも容易く混同されるところにあります。

例えば、映画を観てあーだ、こーだということと、映画を作りヒットさせることの困難さの違いと言えば誰でも理解できると思いますし混同することはないでしょう。

同等の違いがあるにも関わらず、混同されるのは、後輩の指導、子育てなど人は様々な場面で自分以外の成長に接しているからだと考えます。

そして、人は成長とは、主観的に認知される、正解のない「言ったもの勝ち」の問いです。

さらによく考えれば、世の中に様々な「立場」がゴマンとあるのですから、一般論として語ること無理があることがわかります。

ですから、この議論を行う場合は、人と立場を特定しなくてはなりません。

「◯◯さんはA社の課長になってどんな成長をみせたのか」
「△△さんはどんな能力を発揮してB社の部長になったのか」

この具体性をもって議論するとすぐ結論を見ることができるでしょう。

人材の育成、成長は、バイネーム(名指し)ワールドと言うことです。


プロペラみたい





2016年6月22日水曜日

人の能力の本質はすごい という話

データを使って人の特徴を表現しようとするとけっこう苦労があります。

統計データを使う場合、帰無仮説という考え方を使うことが多いのですが、違いを明らかにするためには、違いが無いという仮説を否定できなければならない訳です。

ようするに人と明らかに違うぞ、とならないと認められません。

一方、人は容易く他者の特徴を知覚します。

それは容姿に留まらず、性格、相性など「容易にみえない特徴」まで及びます。

しかも、この能力は、意識すること無しに発揮されています。

人はとてもしなやかな社会性を表現する存在ですが、その際に「認知」→「思考・内観」→「判断」といった時間とコストの掛かるプロセスは使われません。

もし、全てそのようなプロセスを採っていたら、社会はナマケモノ以上のスローモーションとなってしまいます。

素早く人の特徴を見分ける能力には様々な仕組みがあるのですが、一方で、それは認知バイアスと呼ばれる決めつけ、歪みの問題も生じさせます。

データを使うことは、このバイアスを回避する目的があるのですが、データで精度を出すためには、とてつもない量のデータが必要になります。

現在のAI(人工知能)がどれだけのデータと労力と電力を消費して成り立っているのか、そのコストパフォーマンスの悪さには驚愕します。

それに比べ、ちょっとした差異から次の行為を引き出すことができる人の能力はとても凄いものであり、改めて感嘆します。

その能力を置き換えることより、能力を高める方向で物事を考えることがとても大切に思える今日一日でした。


置き換える意味ある?

2016年6月21日火曜日

後継者選びの本質

個人的な今日のトピックスは、ソフトバンクの後継者選びば振り出しに戻った報道です。

ソフトバンクのアローラ副社長退任へ、社長就任時期にずれ

報道以上の事実は何も知らないので勝手な想像になるのですが、経営者にとって後継者選びは重大な関心事であること、いざ、バトンタッチを行う段になると意外と難儀することはよく見られること、が共通点として挙げられるのではないでしょうか。

大塚家具、ユニクロなどなど、枚挙に暇がありあせん。

当事者としても経験があります。

このような事態に陥る背景には、事業の私物化以外にありません。

これは、自分だけ良い目を見ようという私利私欲からよりも、事業目的にコミットしすぎる、過剰コミットから生じるように思います。

会社の未来と、事業目的の実現を天秤にかけて、後者を選ぶマインドセットがあるのです。

稀代の名経営者として名高い、本田宗一郎氏は前者を選んだ少数派です。

後継者選びとは、事業目的の実現も含め、会社の未来を託すことです。

その覚悟なくして委ねる振りをすることがステイクホルダー全員の混乱を招くと言えるでしょう。


「手懐ける」のではなく「委ねる」

2016年6月20日月曜日

人を使う?育てる? ポテンシャルの考え方

仕事をする人は、誰でも最初は未経験者です。

従って、仕事を通じて経験、知識、能力を高めていくしかありません。

未経験者を雇用し、組織の中で育てる

日本人にとっては違和感のない仕組みですが、海外の事情は異なるようです。

ミャンマー、ベトナムを訪問してきた会社のメンバーが帰国し、報告してくれた内容は改めてこのことを実感させてくれました。(お疲れ様でした)


諸外国では、先進国においても開発途上国においても多くの企業が雇用するのは経験者であり、仕事を遂行する能力がある人材です。

これは企業にとっては育成コストを負担しないで済むのですが、経験者にとってはより有利な条件で働くには都合が良い状況でもあります。

だって、経験と実績があれば、引く手あまたなのです。

そうして離職率が高くなれば、当然、つねに次の人材を探さなくてはならないし、人材が入れ替わっても仕事が廻る仕組みをつくらなければやっていけません。

つまり、仕事は標準化、記述化され、ルールにより運営されるようになります。

だからといって、同業種であれば仕事に違いはないか、といえば、そんな金太郎飴みたいなこともないようです。

それは、それぞれの企業が置かれた状況や、事業戦略が異なるためでしょう。

さて、私はポテンシャル採用の良いところは、学び成長する原動力を組織に取り入れるところだと思います。

未経験者に対する指導、育成は多いな学びとなります。

これは、事業の質を上げる、とても大きな価値です。

”業績不振によって新卒採用を控えたことで、新人が居ないだけでなく、新人を育てる経験も失われてしまい、マネジメントが育たなくなった。”

よく聞く話です。

要するに、ポテンシャルとは、「自らが変わる仕組みがあること」なのです。


ポテンシャルが高い








2016年6月19日日曜日

過剰適応と自己過大評価 似ていて非なる2つの特徴

求めに応じて過分に反応してしまうこと。

過剰適応を自分なりに定義するとそんな感じです。

つまり、こちらの求めに反応しすぎる状態です。

例えば、採用面接や研修でのグループワークでいきなりリーダーとなり仕切ってしまう人がいますが、明らかに過剰適応です。

さて、過剰適応と似ている特性に、自己過大評価傾向があります。

自分のことを過分に評価してしまうため、語れば高所からになり言うことが不相応、な人です。

何の行動もせずに「俺が世界を変えてみせる」「我こそが救世主である」みたいに真面目に言ってしまう人は事故過大評価傾向です。

この2つの特性は、あるべき姿で自分を捉えるところに共通性があります。

こうするべきである自分、と、あるべき姿が自分であるというところです。

一方、決定的な違いは、場や相手の求めにがわかっているのが過剰適応、わかっていないのが自己過大評価です。

ですから、過剰適応は能力が伴えば高い貢献を行う有り難い存在です。

一方、三菱自動車の現場は過剰適応ですが、能力が伴わない典型でした。

自己過大評価の問題点は、場や自身に対する錯誤であり、舛添都知事はこの類ではないでしょうか。

過剰適応に対する特性として、過剰不適応があります。

求めに応じない頑なさです。そこには、自分には無理、というケースもあれば、自分の信念に反するというケースもあります。こちらは周囲に対する貢献がありません。

また、自己過大評価に対する特性として自己過少評価があります。

能力があっても、能力を発揮していてもそれを受け入れることができない特性であり、実は周囲に対してしっかり貢献してます。謙虚さが強すぎるケースです。

実は、採用面接でも人材育成でも重要なのは、この過剰適応・過剰不適応、自己過大評価・自己過少評価を正しく見極め評価することなのです。


スイカかアミか








2016年6月18日土曜日

何もやらないよりとにかくやったほうがいい、ってほんと?

昨日のイベントで、登壇者が、

「私は、やらないで色々いっているより何でもいいからとにかくやったほうがいい」

といったようなことを語っていました。

でも、本当にそうなのでしょうか?

昔、バブル経済の頃、不動産への投機的貸付を行わない金融機関に対し、大蔵省(現金融庁)はもっと積極的にやるべきだ、と指導していました。

ところが、バブル経済が弾けて、積極的な貸付を行った銀行が全て不良債権の処理に苦しみ、破綻、統合を進めたことは紛れもない事実です。

日本のは長い業歴を誇る企業がたくさんありますが、それらは頑なに本業を守っている企業で、投資に力を入れて失敗する企業も少なくありません。

このような例は数限りなくあります。

つまり、冷静に見回すと、「やったほうがいい」のかはその時はわからないのです。


「どんなときもやったほうがいい」、「どんなときもやらないほうがいい」、「ときによってどっちか」というのは、実はパーソナリティ特性であって結果を保証するものではありません。

ゆえに、それは自己責任で行うものであり、人に強要するものではありません。

しかし、組織的決断においては、自己責任では済みません。

そこに必要なのは合理性、客観性などのリスク(チャンス)マネジメントであり、経営の仕事の本質がそこにあるのでしょう。

そして厳に戒めなけばならないのは、経営者が個人的好みを組織に押し付けることですが、「こうすれば良くなる」という価値を提供したいコンサルタントや、研究者など外部の人間にとっては理解できないことなのかもしれません。


どっちにする?

2016年6月17日金曜日

エシカルファッションでおしゃれ、クリエイティブなライフスタイルを?

今日は、NEXT WISDOM FOUNDATION主催でファッション・ジャーナリスト生駒芳子氏による「”ファッション”から現代社会と未来を読み解く」というテーマの話を聞きました。

一貫したテーマは、「エシカル(道徳的、倫理的に正しいこと)」です。

ファッションがこのまま行くはずがないという意識が2000年を超えてから芽生えはじめ、その後は、パリミラノコレクションが変貌(主役がデザイナーから消費者へ)、ラグジュアリーブランドの改革期、伝統と革新(クラフツマンシップ回帰)など、意味づけ、ストーリー、商品の背景重視の流れにあるようです。

これは、90年代に次々と浮上したファッションの裏事情、劣悪な工場と児童労働を消費者が知ることとなり、環境問題から人道問題へ、エコからエシカル(思いやり)へ転換が起こっているのだそうです。

農薬の問題から工場排水の問題まで、深刻な環境汚染も見逃せないません。

私たちが普段身につけている綿衣料は、児童労働(18歳未満で教育を受けず危険有害な仕事をしている子供達)により支えられてきた歴史があるし、美味しいチョコレートの材料、カカオの生産でも児童労働があるそうです。

2013年バングラデシュで縫製工場の崩落で多くの労働者が亡くなった事故はその事実を白日のもとに晒す結果となったわけですが、発注者たちが謝ることはなかったそうです。(この手の話は、iPhoneを作る中国の工場でもありました。)

たしかにこれらの不条理は、地球規模で考え、実践が求められるものです。


さて、話を聞いて感じたことは、ファッションビジネスとジャーナリズムの「軽さ」です。

最後にはエシカルとは、おしゃれでクリエイティブなライフスタイルと言い切っていたことが象徴的でした。

もちろん、何事も続けるためには楽しく取り組むことが大切なのはわかるのですが・・・


貧困、児童労働、環境汚染といった人類が直面する問題を深く問う人達に対し、おしゃれで環境やっ社会への貢献というやりがいがある豊かな生活を送りましょう、的な印象を受けてしまうのは、なぜなのでしょうか。(なぜ私はそう感じるのでしょうか。)

どうやら私にはそっちをじっくり内省する必要があるようです。


ドッグスタイル



2016年6月16日木曜日

客観的なデータって何? データの信頼性を考える

適性検査のような、質問紙形式(といってもホントの紙を使うの少数ですが)で行われる調査で、よく問われるのがその客観性です。

本人が「こう思う」と回答するのはその人の主観であって、「本当」が知りたいのだ。

というのがその問いに潜む本音です。

ところが本人が「こう思う」だけでなく、周囲が「こう思う」と答えたとしても、同様な声が聞かれます。

上司の「こう思う」は昇進などの思惑で歪んでいる。「本当」ではないのだ。

となるわけです。

360度評価のような取り組みでも、誰が回答したのかを気にする人が必ず出てきます。

このようなデータに疑いを持つ人に人間不信傾向や疑り深さがあることは否めません。

さて、データ化されていれば、それは誰が見ても同じです。

たとえば、テストで100点を取ったとき、誰が見ても100点は100点です。

つまり、そもそもデータ化とは客観化することであるわけです。

そして、その100点が実力なのか、まぐれなのか、はたまたカンニングの結果なのか、得点の根拠と納得感の高低は、データを生み出した人ではなくデータを見る人の主観と判断にかかってくるのです。

この問題の典型例が、三菱自動車の燃費データ不正とか、杭打ちデータの改ざんです。

事実と異なるデータを作り出し人を欺く行為がニュースになるたびにデータの信頼性が損なわれていくようです。

身長や体重を測るのと違い、人の特性(しがち)や行動(していること)、能力(することができる力)などを測ることは簡単ではありません。したがって疑い始めればキリが無いです。

ゆえに議論が尽きない一方でデータを扱う側に知恵が求められるのです。

結論的に言えば、客観的なデータとは「ある」のではなく、「つくる」ものだと言うことです。


真っ白です





2016年6月15日水曜日

営業力強化のクルクルモデル 大切なことはなんですか?

事業の成長が滞ると、営業力強化が俄然テーマに上がります。

営業スキルで足りないのは何か?目標とのギャップをどうスキルで埋めるのか。また、起死回生のプロモーションをどうつのか。

最初の議論の場所です。

これは、強化サイクル症候群です。

クルクルを強めれば営業数値が上がる、という思い込みです。

実際はそうではありません。

メタに捕らえて考えれば自明の理です。

より本質的な成長が無い限り、現状を打開することは出来ません。

つまり、自分は成長しているのか、自分はどう成りたいのか(ビジョン)が重要なのですが、強化サイクル症候群にはその考えはありません。


俯瞰

2016年6月14日火曜日

事業目的だけに向かって創造性を発揮させることは難しい

創造性を発揮するには、創造的能力と創造的態度が必要です。

創造的能力とは、人が考えないような新しいことや、アイデアをたくさん思いつく能力ですが、保有する創造的能力の高さは興味関心の広さと関係しているようです。

要するにいろいろなことがつい気になる人なのです。

創造性に寄与する感性は広角レンズのようなもので、意識、無意識に広い画角の中から気になったものに目を向ける知覚特性が創造性に寄与するのでしょう。

さて、偶有性(ひらめき)は無意識の試行錯誤から生まれ、直感は意識化された経験の積み重ねの結果から生まれます。

創造的能力は無意識的であるのに対して、創造的態度は意識的です。

新しい物事や考え方は良いものだと考えてそれらを早急に判断することを避けます。

松下幸之助の有名な「やってみなはれ」は創造的態度です。

創造的態度とは遊びの一種であると考えられます。

遊びは、その活動そのものに内在する報酬を求める以外に、どんな動機によっても動機づけられない。「人間はなぜ遊ぶのか」M・J・エリス P36

創造的態度は、内発するものです。

創造性能力は開発でき、創造的態度も動機付けを行うことができます。

創造性は、環境によって強く左右される特性でもあるのです。

「ブレスト」「KJ法」「なぜを5回」「常に考える!」といった手法やメソッドによって仕事や事業を創造的に執行している企業やマネジメントは少なくありません。

しかし、創造性のベクトルは、幼少期の環境と形成される個性の向き不向き、強化されてきた過去の意識、無意識によって固有性があります。

それは、遊び方が千差万別であるのと同じです。

したがって、企業や組織の目的だけにむけて創造性を発揮させることは、短期間は可能かもしれませんが、恒常的には困難です。

任せておくと目的と異なったところで創造性を発揮しはじめてしまうのです。

ゆえに
「余計なこと言わずに、決まっていることをちゃんと守って仕事をしろ」
となるわけです。


内在する報酬




2016年6月13日月曜日

できること、やりたいこと、やるべきこと

仕事を積極的に行う動機として、自分が得意としていること(できること)、自分が実現、達成したいこと(やりたいこと)、自分の役割(やるべきこと)があります。

一番望ましいのは3つのバランスがとれていることです。

それは、組織目標の実現に向けて自然と自発的な貢献が行われるからです。

「やりたいことはわかるけど、ちょっと違うんだよね」
とか
「もうちょっとできることを増やしてもらわないと」
などど、言われない
「あの人に任せておけば大丈夫」
な状況です。

さて、これらのバランスをとるためには、俯瞰とセルフリフレクションが必要です。

3つの脚の上に立っているか、どれかの脚に荷重をかけていないか点検するわけです。

さらにバランスの崩れを確認するには、他者からのフィードバックが有効です。

丁度、ゴルフスイングの崩れをプロに修正してもらうような感じですね。


バランス




2016年6月12日日曜日

「このままではだめだ」という危機察知が生み出すエネルギー

人は成長の段階において計画性をもって物事をやり遂げ、自己の確立を行う時期があります。

色々な情報を統合的に考えるに、この経験は、その時だけでなく、その後の人生においてとても大きな役割を果す、核心的経験(コア・エクスペリエンス)であると言えるでしょう。

核心的経験の条件は、

1.先立って当人に強い危機意識が内発する
2.主体性のもとで課題が自発する
3.計画的解決が必要である

といったところでしょう。

そして、「核心」である理由は

1.達成により心的優位性が刻まれる
2.経験は教訓化、メタ化され異なる場面で引き出される

からです。

承認欲求や支配欲求などが充足されることによって得られる満足感と異なり、自分の内面への報酬で生じるのは自分という存在への実感、自己確立感です。

この自己確立感は、頑固さとは対極にあって、あらゆる事に柔軟に適応する力となります。困難な出来事においても、絶好の機会においても、です。

そして、内面に静かに潜みながら、人生をドライブする大きなエネルギーを生み出す源泉であると言えるでしょう。


大きくなるかな?




2016年6月11日土曜日

どれが本物? ほんとうの私を知るのは誰ですか

人は誰でも、自分のことは自分が一番良く知っていると思っています。

一方、心理学では自分が思う自分と、他人が思う自分(その人)は一致していないことも定説となっています。

そこで、疑問が生じるのは、アマゾンやら何やら、最近流行りの人工知能も含め、自分が何かを買ったりしたときに、「あなたはこんなものが欲しいでしょ?」とリコメンドしてくるアレです。

システムの中で作られている私の人格がどんなものかは知りませんが、少なくとも「こっとこんな人」という像があることは間違いありません。

もちろん、それは私たちが持つ自分像とは違うものです。

しかし、これを推薦すればこれを買いそうだ、という推論を持っているのでリコメンドを出すのです。

そして、このような仕組みはこれから確実にもっと増えてきます。

例えば、このブログなども、データは収集されていて私はこんな人だ、と判定されていると考えるほうが現実的と言えるでしょう。

たまたま買った商品、たまたま書き込んだツイートで「お前はこんなやつ」と判定されることに納得感はどのくらいあるのでしょうか。

また、自己の成長に向け新たな習慣作りのために書いているブログ、つまり、自分らしさを変えるための取組みを通じて「あなたはこんな人ね」と言われるのもちょっと違うような気がします。

さて、買い物したり、ブログを書いたり、色々なネットのページを観たり、音楽を買ったり・聴いたりすることで、インターネット上に残した様々なデータがそれぞれの事業者によって分析され、パーソナライズされることで、おそらく様々な「私」が存在していることだと思います。

つまり、組織やチームのメンバーそれぞれが、「私」のイメージを持つことと同様のことがインターネット上でも起きていて、それがこれからもっと酷くなるのです。

特にAI(人工知能)は、その期待感も含め、過大評価されていますから、AIこそがほんとうの私を知っているのでは?と思われることでしょう。

しかし、良く考えて見れば、それも中途半端な私のある一面でしかないことがわかります。

このような状況のもとで最もいけないことは、私の知らないところで作られる私に怯えることでしょう。

バーチャルな世界で作られる人格と、リアルに生きる人格の本質的な違いは、「生命」です。

誰がなんと言おうと、自分の人生を生きるのは自分以外にありません。

鏡に映る自分に怯える人は居ないのと同様、自分のことは自分しか知らないのです。


本物は?

2016年6月10日金曜日

プログラミング ア ゴーゴー 曖昧さを許さない先にあるもの

コンピュータのプログラミングには曖昧さがありません。

例えば「.」(ピリオド)と「,」(カンマ)の違いにも容赦はありません。

もちろん、それが正しいのですが、人同士であればメールのやり取りなどで間違っていても大概問題になりません。

さらに、会話には「.」も「,」もありません。

さて、プログラミングに曖昧さが無いのは、設計した通りの結果を出力するために必須です。

一番怖いのは、正しくプログラミングしているのに設計と異なる出力が出ることです。

1+1があるときは足し算でなく引き算になり答えが0になるとしたら誰もそのプログラムを使わなくなるでしょう。

そして、いま注目のAI(人工知能)においても、その実態は、コンピュータプログラムです。

一方、人は曖昧な状況や状態から次の行為を選択することが出来ます。

これは現在のコンピュータに出来ない高度な能力です。

厳格さの構造物であるプログラミングと、曖昧さで環境に適応する人間の対比も興味があるのですが、いずれ、曖昧さを許容するプログラミングが出現した時、プログラムが経る成長のプロセスは、まず厳格さとルールを学び、次に曖昧さを理解し受け止めるという順番になります。

そこには成長することの意味が潜んでいるようにに思えます。


曖昧さのない世界の先にあるもの

2016年6月9日木曜日

心からタダ(無料)を喜んでいるのはクリエーターだけ 無料モデルの意味を考える

最近では、グーグルのような巨大企業が無料でサービスを提供し、多くの人がそれを使っています。

もちろんカラクリはあるわけで、「タダほど高いものはない」という謂れもある意味では真実であると言えるでしょう。

しかし、ITの発展、進化を支えているのは実はこのタダのモデルです。

その最たるものが「オープンソース」と呼ばれる、自由に使っていいソフトウエアです。

「オープンソース」と言えど様々なライセンス形態があるのですが、Apach2.0は、特許権を明白にしつつも、商用利用もOKなライセンスで多くの企業や組織が用いているようです。

一方、コンシューマービジネスでも無料のモデルは沢山あります。最近ではLINEがその良い例ですが、日本の民放TVもこのモデルです。

しかし、コンシューマー向けの無料モデルには様々なカラクリがあって、広告が出たり、おまけに何かを買わせたり、酷いものでは個人情報を収集するためにやっているサービスもあります。

グーグルもデータを集めるために無料で様々なサービスを提供していますが、これはよく知られている話しです。

こうした無料サービスを使うコンシューマーに、サービスやサービス提供会社に対するロイヤリティは芽生えません。

飽きたり、新しいサービスが出れば乗り換えるだけです。

さて、話をもとに戻すと、物作りをする人にオープンソースはとても価値があります。

なぜなら、物作りにとって試行錯誤は避けて通れないからです。

上手くいきもしないものにコストをかけていたら、物作りは金持ちの道楽になってしまいます。

その時、助けてくれるのが「オープンソース」です。

今日のネットワーク社会を支えるOSのひとつにLinuxがありますが、これは、それまで高価であったUNIXというネットワークOSと同等のものを個人が作ろうとしたものです。

リリース当時に触る機会がありましたが、熱意を感じる一方、実装されていない機能も多く、おもちゃのような出来でした。

それが、多くの人のサポートを受け今日ではメインストリームなったのです。

そして、資金力のある企業が開発を手掛けたOSは、早々に消えていきました。
皮肉なものです。

オープンソースは、物作りをする人にとって、便利なだけでなく、希望でもあるのです。

街角の無料ティッシュで捕まえて、挙句には数十万する似非羽毛布団を売りつけるキャッチセールスみたいな無料アプリとオープンソースは明らかに異なるものです。

まず、無料モデルを考える時には、それが撒き餌なのか、それとも、クリエーターを刺激するものなのかを見分ける必要があります。

そして、オープンソースによってどんなベネフィットを生み出すのかを考えずして、無料モデルを考えることはナンセンス極まりないでしょう。


自然はタダで気づきをくれる

2016年6月8日水曜日

幽霊の正体見たり枯れ尾花 慌てず騒がず事実に目を向けよう

人は得体の知れないものに対して不安を持ち、時に恐怖を感じます。

これは、危機察知能力の賜物です。

ストループ課題という、色を表現する言葉と、その言葉を異なる色で表示すると脳が混乱を生じることがわかっています。

実は、この時、脳の中で働く場所は、リスクを察知する部分でもあり、一方ではチャンスを見つける部分でもあるのです。

つまり、認知の過程では偶有性と不確実性は同質であることがわかります。

これをもう少し、具体的に表現すると、ちょっとした情報で騒ぐ人は、ある時はこれはピンチだと言い、ある時はこれはチャンスだと言うのです。

周囲は結構振り回されます。

もちろん、本当にピンチかもしれないし、本当にチャンスかもしれないので、軽視してはいけません。

さて、枯れ尾花が正体だとわかれば、不安から来るリスクもチャンスも消え去り、本当のリスクやチャンスが見えてきます。

そのために一番良いのは枯れ尾花を見ることです。

つまり、自分で確かめることです。

逆に言うと、自分で確かめられない物事ほどリスクやチャンスを強く感じてしまうのでしょう。

物事の正しい判断、決断をするためには、どんなことでも自ら飛び込む覚悟が大切なのですね。


表裏一体

2016年6月7日火曜日

そして人に残ることに向けて学ぶこと

今日から社内で「はじめてのパターン認識」の読書会を始めました。入門書と謳われていますが、とてもレベルは高いです。

シンギュラリティ(超知能の出現)論争やグーグル始めとした米国の巨大IT企業のAI(人工知能)に対する多額の投資とオープンソース化など、機械学習(マシーンラーニング)や深層学習(ディープラーニング)への注目が集まる中、現在は、いち早くAIを取り込み事業を差別化して競争優位に立とうとする企業が非常に多くなっています。

はっきり言ってしまえば、この競争はグローバルで進行しており、今のブームに乗った短期的な営業施策として効果があるかもしれませんが、本格的に浸透した時、例外を除きほぼ全ての企業にとって、もはやAIによる優位性は見当たらないでしょう。

というのも、ハードウエアの値段はどんどん下がりうえにクラウド化によって誰もがいつでも使えるようになりますし、ソフトウエアはオープンソース化によってデファクトスタンダードとなるのでこちらも誰でもすぐに使えます。

そして、同じデータを入れれば同じような結果(誤差はあります)が出るのがAIです。

もちろん、使ううえでのハードルはあります。
そこで冒頭の読書会を始めました。

ポイントは、データサイエンティストなどといった高級専門職(アメリカでの話。日本のデータサイエンティストは自称ですね)ではなく、ふつうの人が携わることです。

これは、公衆衛生への貢献、廃棄と肥満の解消などといった大きな社会問題の解決ではなく、身近な場所で日々起こる問題やビジョンや目標を定めることにより生じる課題の解決において、ふつうの人の力が不可欠だからです。

ふつうの人は、巨大IT企業にデータを提供する存在でなく、身の回りで問題や課題を解決する主体でなければなりません。

問題や課題を解決してもらう客体ではなく、自らが解決する主体であること。

そして人に残ることに向けて何を学ぶのか、今日において、常に考え実践し続けるテーマです。


常に兜の緒を締めよ


2016年6月6日月曜日

生涯現役 蜷川幸男さんから仕事の仕方を学ぶ

演出家、蜷川幸雄さんは今年5月に80歳で亡くなりました。

そしてこのところテレビで蜷川さんの病気でありながら仕事に向き合う姿が特集番組として放映されています。

昨年秋に蜷川さん演出の舞台を観劇し感動した記憶もあり、強い関心を持って番組を視聴しました。

さて、番組を通じて感じたのは、類い稀な才能、強いこだわり、もっと良い演出家になろうとする執念、それと温かい人間性です。

そして、この4つが亡くなる直前まで、現場に立ち、現場に行けなくなっても枕元に脚本を置くほど生命と仕事を一つのものとさせたのではないかと思いました。

まさに、「生涯現役」で人生の幕を降ろされたと言えるのでしょう。

少しわかり易く言い換えると、生涯仕事をし続けることとは、「自分の弱さを知りながら、自分が身を捧げられるテーマにより強く、決して燃え尽きずに向かい合う」ということなのかもしれません。

自分の時間を生きる主体であり続ける、すなわち「死なないための仕事」ですね。

燃え尽きることを前提とし制度化した社会の限界性を目の前にして、誰もがそれぞれの「死なないための仕事」を考える時期が到来しているのではないでしょうか。


とびだす紫陽花



2016年6月5日日曜日

がちゃトークという非日常と本質への気づき

法政大学長岡教授と慶應義塾大学加藤教授が開発した「がちゃトーク」に出会ったのは、2012年6月に経営学習研究所(MALL)1回目のイベントに参加した時でした。

今になって、長岡教授のMELCラボが主催した「対話の場づくり入門:〈がちゃトーク〉を鑑賞する」が、MALLの1回目のイベントになった理由がわかってきたように思います。

その後、長岡先生、加藤先生が主催され、市ヶ谷のCafe Katyで開催される月1回のがちゃトークに可能な限り参加しています。

今月は、先週金曜日に開催されましたが、対話の大テーマは「組み合わせ」でした。

トークテーマが「妥協する?ぴったり嵌るものを探し続ける?」「組合せと順列の違いをエピソードで語ってください」「大好きな映画を観ながらドリンクを飲む。あなたが選ぶ映画とドリンクの組合せは?」「食べ物とお酒の組み合せ」(記憶している限り、こんな感じでした)と、相変わらず、語りたい、聴きたいテーマ満載でした。

そこで、個人の気づきでちゃトークを考えてみます。

まず、「対話の場」としてデザインですが、ポイントは「掟」と「等価交換」にあるのではないでしょうか。

「掟」は、参加自由、まず名乗らない・名刺交換をしない、進め方とタイムマネジメントがある、というところです。

ビジネスシーンで当たり前の、「名刺交換」「自己紹介」を禁じているのは、アンチではなくトークの場の本質を見据えているからでしょう。

がちゃトークの場で主役はテーマと対話であり、「応答するコミュニケーション」や「答え探し」「結論づけ」は排されるべきです。

そして、それらはビジネスシーンの定番でもあります。

ビジネスの延長ではない場である、ということを自然と気づかせる「掟」だと思います。

しかし、ビジネスにどっぷり染まった人にとって心地悪い経験です。私も最初は肩書を知らない人といっしょに過ごす落ち着かない場でした。

続いて「等価交換」ですが、がちゃトークなのでトークするのかといえば、確率的にはトークするより他者のトークを聴く機会のほうが圧倒的に多いです。

つまり実は「がちゃリスニング(傾聴)」なのです。

しかし、場として求められるのはトークですから、しっかりと傾聴し、そしてテーマからスピーチを組み立て偶然3分間話し、その後対話するという等価性がとても強いです。

ゆえに、参加者が大学生であっても、教授であっても、ビジネスマンであっても、経営者であっても、カフェのマスターであっても成立する「対話の場」なのでしょう。

この、掟、非ビジネスシーン、傾聴、等価交換は、ビジネスの世界に染まった人にとって意味づけが難しいのかもしれません。

参加自由ですが、興味を持って1、2度参加しても、その後参加が無くなるのはビジネス場面で仕切る役割に慣れている人たちのように思えます。

さて、がちゃトークのもうひとつの特徴は、「短時間で本質に気づく」「内省をすすめる」という思考の鍛錬の場であることです。

いろいろな学びの場があると思いますが、本質に気づくことは簡単ではありません。

そもそも、社会人において何を学びたいのかというニーズは「いますぐ役立つこと」になりがちです。これは社内研修を行うなかでも感じることです。

他方で「どんなときにでも役に立つ学び」があります。

「本質への気づき」とはまさにそんな学びです。

ところで、短時間で出来る「いますぐ役立つ学び」が役立つほど仕事は単純ではありません。結局「勉強になりました」とその場で終わってしまうことがほとんどです。研修などで満足度が高くても、実務への応用(転移)が進まないのも頷けます。


脳の偶有性を創発させ、本質に気づくことを学び、内省により経験に新たな意味づけする。

どうやらこのような思考を身につけるためには誰でも鍛錬が必要であるようです。

そして、がちゃトークはこのプロセスを実践しています。

がちゃトークの本質は、まだまだ奥深そうです。


美味しい場



2016年6月4日土曜日

たった一音 促す時と挫く時の違い

「気づき」は、人、いや生き物を成長させるとても小さな仕組みです。

人は、この仕組みを使うことで自分のみならず他者とより良好な関係性を築くことができます。

一方、本当に「気づき」を与えられているかは別問題です。

例えば、当人がすでに気づいていることに気づかせようと働きかけると、それは「気づき」ではなく、「傷つき」を与えることになってしまいます。

『そんなこと言われなくてもわかっているよ』といった経験は誰にでもあると思いますが、それだけ、「傷つき」を与えることは多く、「気づき」を与えることは少ないのでしょう。

もっとも、「気づき」を与える関わりが意識的であるのに対して、「傷つき」を与える関わりは意識+無意識であることも忘れてはならないでしょう。

「あの時は・・・」と告白されて「そんなつもりはなかった・・・」と汗をかく経験も誰もが持っていると思います。

それぐらい、こちらの意図と相手の受け止め方にはギャップがあるのです。

長期的に見て成長に寄与するかどうかは別として、短期的にみれば「傷つき」を与えることは成長を挫くことになりますから、音の違いはたった一音ですが、「気づき」を与え、「傷つき」を与えないようにする注意が大切です。

特に無意識に「傷つき」を与えることはその人の癖であるとも言えるので、自分を知り、自己変容に取り組むことが望まれます。


小さな花



2016年6月3日金曜日

あなたとあなたの組織はワクワク、ドキドキ、ユラユラ〜ハラハラしていますか?

人と組織が変わろうと改善目標を立てても、強力な固定概念に支配された裏の目標は生じる阻害行動が発生し、結果として、人と組織が変われない。(「なぜ人と組織は変われないのか」Rキーガン、LLレイヒー)

人と組織は不思議なもので、変えようとして変わらないのに、実際に変わった事例はいくらでもあります。

したがって、「なせ変わらないのか」という問いと同時に「なぜ変われるのか」という問いも起きてきます。

そして、「何か上手くやれば人と組織は変わるのではないか」となるわけです。

例えば、「人は不安があると回避する習性を持っている」ということから、不安を無くせば良いのではないか、となりますし、一方で、「生存不安が学習不安を上回って初めて学習が始まる」ということから、危機をクローズアップしたり追い込むことで生存不安を高め変容を強制的に促すこともあります。

そして、若年層には安心を与えて挑戦を促し、中高年はセカンドキャリア研修で変容を追い込む、といった施策は今日、日常的に行われています。

人の考え方や行動に一貫性が見られるのは誰でも知っていることです。

しかし、この一貫性は、機械が同じように動作するのとは訳が違い、仕組みとして構造から生じるものではなく、常に周囲の環境とやりとりしながら創発する思考や行為に見られる傾向性です。

ですから、晴れの日と雨の日でパフォーマンスが変わることなど珍しくないです。

さて、菊池省三先生の「ほめ言葉のシャワー」のように他者からの徹底的な承認によって自分への自信を培い自律性、協調性のある子どもに成長させる取り組みはとても示唆深いものです。

もちろん、ある特定の目的やゴールイメージに沿って人を変えようとする取り組みではありませんが、人と組織(この場合は学級)が変わる実践であることには違いがありません。

この例も参考に自社を振り返ると、場所にワクワク、ドキドキ、ユラユラ〜ハラハラが高まると人と組織が変わり始めることは間違い無いようです。

そして、これらは「〇〇したい」「〇〇せずにはいられない」と言った内発動機よりももっと漠然としたフィーリングです。

宇宙空間のガスが集まって星が誕生するように、それらが結晶化して内発動機、ビジョン、コミットメントが生まれるのです。

例えば、新入社員を迎える時の社員のワクワク感と社会人になり仕事を始める新人のドキドキ感、そして相互にリアリティに向き合い生まれるユラユラ〜ハラハラ感などはその最たるものです。

新卒採用(未経験者採用)は、ワクワク、ドキドキ、ユラユラ〜ハラハラ感に関しては、とても大きな効果がありますね。

逆に、「なぜ、どうして、どうあるべき・・・だからここがダメなんだ、打ち壊せ!」みたいな思考が勝っている時は、ほとんど人と組織が変わりませんでした。むしろ人も組織も壊れていく感じ・・・。



最近、大手企業の不祥事が相次いでいます。

ビジネスで競争するために市場を支配する強さ、論理性、合理性を大切にすることはわかりますが、「変化への適応」(チェールズ・ダーウィン)において、変われない人と組織に未来はないようです。


変わらない人

2016年6月2日木曜日

5年前の社会と5年後の社会 仕事を選ぶのはいつ?

日本におけるインターネットは1995年に始まり、2002年に世帯普及率50%を超えました。

そこからは、流行を先取りする人達だけでなく、誰でもがインターネットを使う時代になりました。

インフラとしてのインターネット普及が峠を越えたあとは、インターネットのネットワーク機能が急速に進化をしています。

Googleにはじまり、Amazon、Facebook、Twitterとネットワークビジネス、ソーシャルネットワークが急激に発展し、社会を変えています。

それらの中でも今、若者が使っているInstagramやLineが生まれたのはわずか5年前です。

そして、話題になっているタクシー配車のUberや民泊サイトのAirbnbもまだ10年経っていません。

このスピード感は、整備されたネットワーク環境と、絶え間ない高性能化に支えられているのですが、5年間といえば高校生が大学入学の準備を本格的に初めてから大学を卒業し社会人になる期間と同じです。

社会人へのトランジションにおいて、高校の時にすでに職業に対するビジョンを持っている学生ほど本人にとってよい就職活動を行えるという話しを以前、聞きました。

逆に就活で苦労するのは、経団連の倫理憲章に沿って、ナビサイトのオープンあたりから就職先を探す学生です。

今日では、まだ見えない5年後の種探しも同時にしなくてはならない

これは、30年前とはまったく異なった状況です。

逆に言えば、イメージもフィーリングも合わないレガシーでいつひっくり返されるかわかない老舗企業を大学3年で選ぶより、高校2年のあたりでこれからの社会を変えていく企業を自分の直感で選びその後軌道修正したほうがまったく理に適っていると言えるでしょう。


5年後へ翔べ







2016年6月1日水曜日

日本はIoTやAIの進化にどう向き合うのか 「死なないための社会」を創る

本日夕方は、とある出版社の編集主幹をお招きし、社内でお話をして頂きました。

主題は、IoTやAIなどの旬ネタです。

現在の日本社会が直面している問題をIT先進国のアメリカやインダストリー4.0に邁進するドイツなどと比較しながら分かり易く聞かせて頂きました。ありがとうございました。


さて、特異点(シンギュラリティ)が2045年に来ると言われてから俄然、AI(海外ではMachine Intelligenceだそうです)界隈が賑やかになっていますが、日本における議論は、今日聞いた話のように、欧米に比べて意識や取組みが非常に遅いこと、そこには規制ありきの硬直化した社会への批判が多く見られます。

確かに、行政レベルで見ると三段ロケットの三段目(クラウド、SNSやビッグデータを使った新産業の成長期)を飛ばしているアメリカにくらべ、二段目のインターネットの活用レベルで停滞している感は強くあります。

そして過度な個人情報の保護や箱物と人中心の古典的なセキュリティ対策など、戦略性が無く、保守性ばかりが目立ちます。

これは、日本の産業構造が、金融と建築に重心を置いてきた弊害でしょう。

保護といえば、規則、規程で縛るものだし、安全は、人の手でより構造を強固にすることで確保されると考える人が沢山生み出されてしまったからです。

結局、それでもそれらの産業に関わる人は余るのでマイナス金利になり、それでも新しい保険会社が生まれるわけだし、空き家が増えているにも関わらず、都心では企業は事業をやめビルを壊して跡地にばんばんタワーマンションが建つのです。

そして、ITはずっと低空飛行と困ったものです。

さて、トレンドの後追いをするほどバカなことはありませんから、私たちはここで大騒ぎする必要はないと思います。

ITで新産業が生まれると、破壊的イノベーションにより最初は急成長します。しかし、数年で成長は止まり破壊したビジネスモデルと同じような過当競争に陥っていきます。

アマゾンだってアップルだって、明らかに本業は減速しています。

要するに、過当競争になる前にどれだけ稼いで逃げられるかが重要であり、ビジネスも金融取引と同じモデルになっているのです。

会社を手段と考える諸外国の人達にとってそれは当たり前なことでしょう。

一方、日本には業歴の長い企業がたくさんあることからもわかるように、会社は手段でなく、個人と社会を繋ぐ「場所」になっています。

最後に勝つのが個人主義なのか、和の精神なのかわかりませんが、せっかく日本に生まれ、和の精神で育まれているのですから、その道を進めば良いのではないでしょうか。

もちろん、IoTやAIの良いところをインテグレーションした、新しい和の精神の実現です。

その中から、欧米では生まれない新しいビジネスモデルやライフスタイルが出現し、破壊的な特異点ではなく、和合する特異点を迎えることが私たちの目指すところなのかもしれません。

荒川修作とマドリン・ギンズがヘレン・ケラーをモデルとして「死なないための住宅」として三鷹天命反転住宅を作りました。それは、哲学であり、アートであり、日常生活である住宅です。

IoTやAIによって0.1%の勝者と99,9%の敗者を作る社会ではなく、一人一人が中心となって「死なないための社会」を作る最前列に日本はいることを私は信じます。


日々変化