2014年11月30日日曜日

自然はかくも美しい

植物にとって葉緑素は貴重なリソースだそうです。ですから落葉樹は、葉を落とす前に、リサイクルするために葉緑素を葉から回収し、新たな芽吹きに備えます。

それが紅葉です。

私達が目にする紅葉は、植物にとって、季節を超え、生命を持続するための仕組みなのですね。

植物に思考する脳は見当たりません。つまり、植物の生存の仕組みは、高度な思考の結果生まれたものではないのです。

日頃、私達は仕組みは高度な思考から生まれると考えがちですが、身の回りの「人」以外の生存の仕組みは、とても合理的で環境と見事に一体化してます。

紅葉の見事さに感嘆するだけでなく、生存の仕組みが意味することを再考するべきなのでしょう。


環境と一体化する高度な仕組み

2014年11月29日土曜日

視点・視野が広い人の特徴

他の人達と一緒に仕事をしていると比較的早く、視点・視野の広さ(狭さ)に気づかされます。

「なるほど、そういう見方もあったのか」「いいところに気づくなぁ」

こうした感覚を得られるのは、場面もありますが、人によることが多いように思います。つまり「属人的」なのです。そしてそれらの人に共通しているのは、「知性と経験と創造性」です。

既存の知識を監獄に例えるなら、「知性に富んだ人」とは「監獄でのベストな生活を模索する人」であり、ルーティン化を模索し効率を上げ、現象をより広く理解したい欲求を持っているそうです。

特に「現象をより広く理解したい欲求」の強さが視点・視野の広さと関連しているのだと思います。

そして、経験の豊富さが新たな視点を増やして行くのでしょう。

キャリア論には「計画的偶発性」(クランボルツ)という考え方があり、好奇心や冒険心の強い人は、キャリアの上で発生する偶発性によってキャリアを開発していることが分析されていますが、これは、キャリアの観点から視点・視野を広げるヒントになります。

一方、「創造性に富んだ人」は、現象を新しい現象、別の形での理解をしたい欲求を持っていますから人と違う視点が出てきます。

知性、経験、創造性がそもそも豊かな人は、放っておいても視点・視野が広くなるのでしょうが、今日的課題としては、仕事から定型業務が消えていく中で、視点・視野の広さは仕事をする前提になっていることです。

つまり、経営戦略として、特定の人の先天的な強みだけに依存出来ないのです。また、先天的に強みを持っていても、組織によってそれが消されてしまうことも少なくありません。

かつて、ナチスは収容所で収容された人に穴を掘っては埋めさせてまた掘っては埋めさせて、ということを繰り返し強制したそうです。これを続けると、人はすぐに自ら考えることをしなくなります。「学習性無力感」と呼ばれる現象です。新入社員は、想定以上の現実の厳しさであるリアリティ・ショック、組織の色に染まっていく組織社会化のプロセスの中で自然とこの圧力に晒されています。

また、創造力は開発可能な能力と言われていますが、創造性が発揮されない非創造的な職場では、決して能力が高まることはありません。

経験もそうです。組織の事情、都合だけで考えれば、経験を積めるか否かは運になってしまいます。会社に入って営業一筋などというのは決して褒めらることではありません。

視点・視野が広い人を見ていると、資質+環境が大切なことが良くわかります。

そして組織において、視点・視野が広い人を増やすためには、採用、キャリア開発、組織開発、創造性開発、自己啓発支援、人材評価方針と評価制度など総合的に取り組まなければならないのです。


こっちから見ると・・・




2014年11月28日金曜日

やってもできないことがある

「子どもたちに、安易に、だれでもやれる、やればやれるといいたくない。やってもできないことがある−それも、かなりあることを、ひしと胸にして、やってもできない悲しみを超えて、なお、やってやって、やまない人にしたいと思う。」刈谷夏子著 大村はま 優劣のかなたに 遺された60のことば P27より。

人材の育成について考えている時、ふと前述の言葉を思い出すことがあります。

例えば、社員の自律成長の場づくりを議論していると辿り着く、成長する者とそうでない者の話の時などです。

社員が育つ環境を整備するのは経営の責務ですが、上手く環境が準備出来たとしても必ず全員が期待通りに成長するとは限りません。むしろ、企業で求める高次な成長への期待に対して、環境と全ての個性が相互に一体性を持って成長すること不可能です。

つまり、乗り遅れる人は必ず出るのです。

社会人にとって自らの選択の結果は自己責任です。乗り遅れたくなければそのように努力するのが当然です。

しかし成長を促す立場にあると乗り遅れた結果に対する割り切れなさと向き合わないわけには行きません。

学校と違って組織で乗り遅れると別の列車に乗り換える必要が出てきます。乗り換えた列車に上手くフィット出来ると良いのですが、遅刻する人がまた遅刻するように、乗り遅れた経験がある人は、また乗り遅れる可能性が高いのです。


メインストリームを走ること

2014年11月27日木曜日

「働きがい」とは腹の底から絞り出す腹式呼吸みたいなものである

今日は「働きがいのある会社」についての勉強会に参加したので「働きがいのある会社」について考えます。

働きがいのある会社は外部から見た時、どう見えるのか?これがまず、私の興味があることです。

採用応募者にとってみれば入りたい企業、働いている人が羨ましく思える企業ということでしょう。採用面接をすると「働きがい」を仕事の動機に持つ学生は多いです。

一方、仕事の関係で関わっている他の会社にとっては、「ほんとかよ?嘘だろう?」的な感じと「さすがだね、いいね」という感じに分かれるのでしょう。

投資会社にとっては、投資すべき会社だそうです。「働きがいのある会社=儲かる会社」ということみたいですね。

会社とは閉じた場であり、働きがいとは閉じた場のテーマです。「働きがい」があるということは、最近流行りの「ネコほいほい」みたいに、何気に人が喜んで集まる場となっていることなのかもしれません。

ところで自分の尺度からすると、真摯にガチで働いているのは組織に帰属していない人のようにも思えます。次にそれらの人が「働きがいのある会社」をどう感じるのかが考えてみると、まずは敬意を表すのではないでしょうか。

従業員が働きがいを表明出来る会社を作ることはとても大変なことです。その経営努力とシンクロする社員の連携を素直に素晴らしいと感じるでしょう。では、その会社で働きたがるか、と言えばそれはあまり欲していないように思えます。あくまでも想像ですが。

つまり、「働きがい」を標榜する会社は、社員の意識を組織戦略に使っているとも言えそうです。これ、良い戦略だと思います。

というのも、「働きがい」というのは間違いなく「幸福論」「ポジティブネス」と深く結びついた言葉ですから、社員を拡張~形成に向かわせるマジックワードです。

ところで、自分が実際に、他社の方々に接して実感するのは、リアルな葛藤です。その葛藤の中で、様々な課題の解決に取り組む様には頭が下がる思いです。そして、その課題解決にとって大切なことは物事をポジティブに捉える解決志向だと考えています。

但しそれは、歯磨き粉のチューブをぎゅーっとしぼって最後に出てる中身であったり、腹式呼吸で腹の底か息を吐き出すような感覚に近いポジティブさです。

この感覚の「働きがい」が自分は大切だと思っています。

「それでもぼくはここで生きていく」

組織戦略としての「働きがい」だけでなく、個人の覚悟と決意の「働きがい」
この2つを考えることになった夜でした。


ホイホイはありませんが


2014年11月26日水曜日

人を活かすにはポジティブな面だけを見よう

他者に対する印象や評価には様々なものがあります。

元気、丁寧、真剣、愛想がいい、仕事が早い、決断力がある、他者を大切にする

これらはポジティブな評価です。
一方でネガティブな評価には、

飲み込みが遅い、ミスを繰り返す、愛想が無い、言ったことを守らない

などなど、上げていけばキリがありません。

さて、大概、これらの要素は人の中に混ざり合っているものです。

仕事が早いけど、ミスを繰り返す。
他者を大切にするけど、飲み込みが遅い。
言ったことを守らないけど元気。

適当に組み合わせても、そんな人居るな−と顔が思い浮かんでしまいます。(思い浮かべて書いているフシもありますが。)

さて、人はそもそも課題について考える傾向があります。つまり解決するべきと考えるのは問題や課題です。これに対して、ポジティブ心理学など、悪い面ではなく、良い面に目を向けるべきであるという昨今の風潮もあるのですが、組織で人を活かす立場にある場合、ネガティブな面を見ると「活かす」よりも「直す(治す)」「外す」判断になりがちです。

やはり、人を活かすにはポジティブな面だけ見ているほうが良さそうです。

とは言ってもね・・・というオチが当然のようについてしまうのですが。


両方あるのだけれど・・・

2014年11月25日火曜日

人はなぜ、同じことを繰り返してしまうのか

管理の仕事を行っていると、規則に反した行為を発見することになります。そしていかに規則を守らせるのか、闘いが続くのです。

ところで、規則違反の行為にはある傾向性が認められます。

それは、同じ人が違反を繰り返す率が高いことです。

つまり、違反を通じて行動を修正することはそれほど容易いことではありません。これは、ミスにも共通することでしょう。

意識的に抗う場合を除けば、多くの人は、違反の指摘に対して、改善の姿勢を見せます。
もちろん強弱はありますが、違反を犯した当人にとっても、規範、規律に対する敬意は持ち合わせているのでしょう。

では、なぜ、それでも違反が繰り返されるのか。その理由を考えてみたところ以下の3つが浮かびました。

1.自己中心性・・・・・学習の不快さを避け、自分の快適ゾーンに居座る
2.甘えの構造・・・・・易きに流れる、労を惜しむ、言い訳で誤魔化す
3.無意識の行動習慣・・環境の知覚と一体化した行動傾向

1は、 快・不快といった感情面に原因がある場合です。感情面での起伏が激しい人が同じ違反を繰り返す場合はこれでしょう。違反を指摘されると逆ギレするのもこのパターンです。自己の快適ゾーンを侵されるのが嫌なのです。

2は、1とも近いように思えるのですが、1との違いは、思考による判断があることです。ですから、違反を指摘されると言い訳をします。「だってみんなだって・・・」「面倒でつい・・・」「忙しかったから・・・」こう言った言葉が出てくるときがこの場合です。

3は、感情や思考ではなく、環境の知覚と行為の一体性に原因がある場合で、例えば、高速道路の逆走などが当てはまります。道路、車といった環境に一体化した運転という行為が交通ルールに適応していません。「大事なスケジュールが度々抜けてしまう」、「指示と異なることを淡々と進めている」、このような場合は、行動の習慣性(運転をする、仕事をする)はあるものの規範性が乏しく違反が繰り返されます。心理的な圧迫があったり思考が混乱している場合も同様です。

さて、難しいのは、3なのに2がついてくるケースや、2と1、3と1が合わさっているケースなど人格としての表出が複雑であることです。

つまり人の内面では火山の地下のマグマのように内圧が高まっているのですが、どれが閾値を超えて噴出しているのか行為からでは分かり難いのですね。

これらの対策は、それほど複雑ではないように思います。

それは、1〜3に対応して考えれば良くて、「不快さに積極的に向き合う」、「ゆっくり呼吸をして大切なことに思いを馳せる」、「自分の身体や精神の状態をしっかり観察する」ことでしょう。

しかし、そもそもそういったことが出来ないから規則違反を繰り返すのである、とも言えますからやはり解決が困難な問題なのだと考えます。


夜の銀座




2014年11月24日月曜日

多様性を証明せよ

人は、どこともなく多様であることが大切だと感じています。特に、より多くの知識を持つ人ほどその傾向は強いように思います。

それらは生得的なものではなく、後天的に得られる知恵であるように思われます。

一方で、活躍する人たちには共通する行動傾向があることを70年代にアメリカ、ハーバード大学のディビットマグレランド教授が外交官の分析から見出しました。そしてそれを「コンピテンシー」と呼びました。

活躍する人達の共通性を持った多様な人々というのはどのような状態を指しているのでしょうか。

逆説的になりますが、これは、活躍する人達が一様でないこと証明すれば良いと考えます。

ここで問題になるのが一様と多様の閾値がどこにあるのかです。

その閾値を決めるひとつのアプローチに、統計を使う方法があります。データ上の差が誤差なのか、歴然とした違いなのかを見極めるものです。

しかし、人が感じる実感と必ずしも一致するとは限りません。

そこで、次に、人が感じる異質性を解析する方法が登場します。人の違いをどこで見分けているのかを調べるのです。

データの閾値と感覚の閾値。これらは、個の多様性に関する考え方ですが、そもそも集団において多様性が問われるのは創発への期待ですから、もっと全体的に考える必要もありそうです。

つまり、人と人、人と環境の掛け算で何が起こるのか、その新奇性、偶発性の高さが多様性を証明する際の閾値であるということです。


いろいろ

2014年11月23日日曜日

修羅場の板場

結婚記念日の今日、銀座で懐石料理を楽しみました。店はこれまでも何回か訪れて気に入っている店です。

この店はオープンキッチン型で、席から板場が良く見えます。そして、この店での指定席はカウンターですので、板場の様子が目の前にあります。

さて、今日はこの目の前の板場が修羅場でした。

板前さんは声も出さずに料理をするので基本的には静かなのですが、そこからは忙しさや緊張感がヒシヒシと伝わってきます。

要するに、お客が多かったのです。想定以上に。(帰り際に板長さんも白状していました。)

修羅場の様子を観察していると、板長さんは若く、恐らく40代半ばです。それ以外の板前さんは板長さんより年上の印象です。特に気になったのは、60代と思われる板前さんの苦戦ぶりでした。

この板場には、年上の経験者をマネジメントすることの難しさが見え隠れしています。

年齢が上ということは、自分のやり方があるのと、一方では、新しいことに順応する能力が弱まっていることを意味しています。

つまり、修羅場に合わせて店のやり方で最適な動きを取ることが苦手なのです。

修羅場に最適な人が苦手な人をマネジメントして修羅場を乗り切る、それが板場の現実です。

店には中居さんがいますが、料理が遅れ始めると客席に対する意識が高まります。客の不満にたいして敏感になるのです。しかし、料理が間に合わないことがわかってくると客の目から消えます。探しても居ないのです。

その光景を見て思い出すのが研修での一コマです。研修で参加者に質問を投げかけると、答えを持つ人は顔を上げ、持たない人は顔を伏せます。答えは目に宿るものなのですね。

ということで、美味しい懐石料理を食べながら実はいろいろなことがわかった夜でもありました。


美味しい!

2014年11月22日土曜日

ミッション:モンダイを解決せよ 

今日、封切りの「インターステラ」という映画を見てきました。3時間近くの大作でしたが、複雑、難解なストーリーにも関わらず愉しめる作品であり、映画監督の力の高さが伝わって来ました。

その後、図らずしも「インターステラ」同様、作品の舞台が「宇宙」の「グラビティゼロ」という映画を、WOWOWで放送していたので視聴したのですが、まったく違った内容ながらこちらもとても面白い映画でした。

さて、この2つは舞台がいう宇宙であること以外の共通点があります。

それは主人公が「モンダイを解決せよ」というミッションを受けていることです。

実はこの「モンダイを解決せよ」よいうミッションは、全てのゲームのプレイヤーが与えられる共通のミッションでもあります。

映画で提示される「モンダイを解決せよ」のミッションは、ゲームで与えられるものより大掛かりです。しかし、ゲームと違って自ら解決する必要はありません。映画の中の主人公が見事に解決してくれます。

映画のようなモンダイが解決されるプロセスを他人ごととして見ることは、仮想的であっても達成感があり心地よいものです。ところが自分がプレイヤーになると思ったようには出来ませんからもやもや感がつきまといます。

しかし、達成感ではなく、学びで比較した場合は、自らモンダイを解決したほうが間違いなく学びが大きいでしょう。

そして、成功事例を他者に伝える場合を考えると、モンダイが解決されるストーリーを共有することと、モンダイを解決せよとミッションを与えることに大きな違いがあることがわかります。

しかし、それはもやもやする話なので、受け手の満足感は下がります。

さてさて、事例共有の際にどちらにチューニングするのか、この連休中


神頼み

2014年11月21日金曜日

壁を前にして思うこと

たまに通る通勤途上にあるビルは、壁面に窓がなく、タイル貼りの壁面が見事な「壁」を造形しています。

とてもではありませんが、打ち破れそうのない「壁」です。

良く、「壁」は困難の喩え(メタファー)として用いられ、その用法は、構築物に留まりません。

例えば、ピンク・フロイドというロックバンドの"The Wall"というアルバムの中にある、"Another Brick in the Wall"という曲の中では、学校を”壁”、生徒は”壁を構成する煉瓦”として取り上げています。

We don't need no education.
We don't need no thought control.
〜中略〜
All in all it's just another brick in the wall.
All in all you're just another brick in the wall.

さて、仕事の中で出会う「壁」は多様です。それは、自分自身であったり、上司であったり、部下であったり、または、顧客、市場ということもあります。仕事が上手くいかない時などはまさに自分の周りは「壁」だらけ、四面楚歌という気分になります。

逆に、「壁」を突破した、乗り越えた実感が持てた時はとても充実した気分になります。また、この壁を超える経験が、能力を高める源泉になっていることも事実でしょう。

発達心理における「計画的有能感の獲得」も「壁」を超える経験です。その意味することは、「自ら立てた計画を自ら超える」という、自作自演の自己統制感と達成感です。

この計画的有能感は、次の行動に対して正の誘引となりますから、仕事でも困難を克服するコンピテンシーにつながる計画的有能感の獲得はとても貴重です。逆に、その獲得が無いと困難に直面するとすぐに降参してしまう傾向を持ってしまいます。そして、そのような人に「壁」を越える実感と計画的有能感を獲得させるのは非常に難しいこだと実感があります。


The Wall



2014年11月20日木曜日

「深川の雪」 寛政の改革とアベノミクス

浮世絵の知識は極めて乏しいのですが、喜多川歌麿の名前はしっかりと記憶しています。その歌麿の幻の作品と言われる「深川の雪」が今年の春、66年ぶりに公開されたそうです。

この作品とその背景を取り上げた番組をNHKが制作、放送したのですが、作品が生まれた時代背景を知ると、作品の素晴らしさに隠された様々な「意味」が見えてきます。

特に、才能を発掘した蔦屋重三郎、寛政の改革で倹約を強要し、経済・文化の停滞を招いた松平定信など、関わる人や日常生活に関わる政策によって歌麿の作品が変容する さまにはとても興味を持ちました。

そこには、才能が開花するために必要なこと、生き延びるための逞しさなどのリアリティが感じられたからです。

そして、今日、世界に影響を与えた浮世絵とその代表的な作者である歌麿は置かれた環境と一体化して作品を残し、こうした環境と才能の一体性は創発的なものであることを改めて認識した次第です。

さて、アベノミクスによる諸政策は寛政の改革同様、私たちの生活に多くの影響を与えています。

「こうすりゃ良くなる」といって打った政策によって本当に経済環境が良くなっているのでしょうか。個人的にはその実感はあまりありませんが選挙によって国民からどう評価されるのか興味深いです。もちろん、個人的に評価(投票)します。

いずれにしても、「深川の雪」から200年経った今でも、改革という恣意的な環境の変化によって私たちのアウトプットが変容していくことは変わっていないのでしょう。


環境と才能の一体性

2014年11月19日水曜日

高倉健さんの言葉に想う「行為の本質」 

”何をやったかではなく、
何のためにそれをやったかである。
今それが大切に思えてきている。”

高倉健

11月10日に名優、高倉健さんが亡くなっていたことが昨日公表されました。
葬儀も全て終えて公表するあたり、故人の人となりが偲ばれます。合掌。

一夜明けて、テレビでは高倉健さんに関する放送が多くなっています。また、ネット上では昨日から多くのコメントが流れています。

その中で強く、心に残ったのが冒頭の一節です。

良くミーテングやインタビュー、ヒアリングや研修などで状況に対する質問をすると、ひたすら場面と行為に関して答えが返ってきてしまうことがあります。

つまり、”何をやったか”という行為の連鎖についての応答です。

「病院に行って診察を受けた」「コンビニで弁当を買った」「喫茶店で話を聞いた」「売上の見込みが下がった」。こういった類の話は、その人を足跡、履歴を知る うえでは役に立つのですが、行為の本質を知ることはできません。行為の本質とは、その人が、何を考え、何を感じ、何を欲していたのか、ということです。

物事の本質を知りたい人にとって、行為の連鎖はあまり重要ではありません。むしろ、本質に潜んでいる問題や課題を知ることで、次の行為の選択肢が見えて来るからです。コーチングやカウンセリング、リフレクションで主題となるのは本質への気づきです。

アマゾンなどECサイトの購買履歴、閲覧履歴は行為の連鎖の代表例です。それによって、他の商品をリコメンドし、更なる行為の連鎖を誘引します。ですから、気持ち悪かったり不快な経験をすることも少なくありません。怖いもの見たさ的興味本位で商品をクリックしたら、関連商品を延々とリコメンドされる。他のサイトに行ってもそこでもリコメンドされるといった経験をした人は決して少なくないでしょう。

一方、実店舗でホスピタリティを持って接客する人は、行為の本質を考え、「なぜ」「どうして」をスマートに聞き取っています。ですから、「おすすめ」も自然です。ゆえに、心地よい買い物が出来るのでしょう。

”何のためにそれをやったのか”はその人の内面にあります。

そこに思いを馳せるためには、人の内面に集中する必要があります。そして、それができる人とは、自分に対しても、他人に対しても行っている人なのだと思います。高倉健さんを想うに、一層、そんな気がします。


”死”は生命の一部ですね





2014年11月18日火曜日

複雑化する社会に向いているのは結晶性知能が流動性知能か

「女家長」と呼ばれる最年長の雌一頭を中心とする家族集団で暮らす象では、高齢の女家長が率いる群れほど、歳を重ねて向上した識別能力で他の群れとの緊張をコントロールして群れ全体の繁殖に役立っているそうです。

年少者は年長者に従うべきという儒教的な考え方や、遅延報酬によって長期在籍を誘引するといった理論的背景により理解されてしまう側面もあるようですが、象の家族を見るに、人においても経験を積んだ年功者が社会的な集団間の緊張を緩和し、結果として集団にメリット与えている事実に気付かされます。

このように経験によって蓄積され発揮される能力を結晶性能力と言いますが、複雑化、流動化する社会においては、経験が通じない場面が数多く出現するので、結晶性知能はかつてほど集団にとってメリット与えていないのかもしれません。

しかし、素早く解を導き出す流動性知能が有効かというとそれも疑わしく思います。というのも、計算やデータ処理などは人間よりもコンピュータのほうが遥かに高速です。しかも、ネットワークによってどこに居てもその能力を使うことが出来ます。

そこで私が考えるのは、複雑化、流動化する社会において有効なのは場面場面で深い叡智を発揮できる「学習性知能」と、場面場面で新たな価値を生み出す「創造性知能」ではないか、ということです。

「学習性知能」とは、学ぶことを学ぶ知能です。それは、事物の本質に至る、学びを棄却するといった要素を包括したメタな学びの知能です。

「創造性知能」とは、脳の中の偶有性によりうみだされるひらめきによって発揮される知能です。

これらはいずれも行為の選択肢を広げる知能です。それによって、予測不能な状況や閉塞した状況の中で、適応の可能性を高めます。つまり、知識や正解を引き出すのではなく、価値を生み出せるポテンシャルをなのです。

これは、「ワーク・シフト」で提言されている「ゼネラリストから「連続スペシャリスト」へ」の転換に近い考え方かもしれません。


これは実?

2014年11月17日月曜日

「謙虚さ」を考えた夕方

Naming feeling helped.
Naming other feeling.

リフレクションを促すなかで相手に共感を示すポイントのひとつとしてとしてコルトハーヘン教授が明示したのが、相手が自分の感情に名称をつけることを促すこと、さらには、他の感情に名を付け替えてあげることです(上記の英短文は覚え間違っているかもしれません)。
言葉の妙で、うまく嵌ると本質が浮かび上がってきますし、瞬間的に言葉の指すものが共有出来ます。

今日の午後は、クラスタ分析の結果である樹形図の枝葉の「言葉」に上位概念の「言葉」をつける作業をしていました。

この作業、中々難しい作業です。

枝葉の言語の塊(クラスタ)は決して同義ではい多様な「言葉」の集まりです。それらから本質を見切って「言葉」を与える行為は、人の複雑な「感情に名をつける」ことと同じだと感じます。

最初、一つの塊に「真面目な」とつけ、その次の塊に「劣等感」とつけました。そしてその二つの塊をまとめて「謙虚さ」とつけたのですが、どうもしっくり来ません。

「真面目さ+劣等感=謙虚さ」では、「謙虚な人」に申し訳ありません。ただし、「謙虚さ」という言葉は嵌っている印象なので、「劣等感」を直すことにしました。

候補は、「ひかえめ」「つつましやか」「お淑やか」「押しが弱い」などです。塊の「言葉」の中には少しネガティブな印象の言葉もあるので表現を選ぶのが難しいところですが、とりあえず、「ひかえめ」としてみました。

大辞林では

けんきょ【謙虚】
( 形動 ) [文] ナリ 
ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく,素直な態度で人に接するさま。 「 -な態度」 「人の教えを-に聞く」
[派生] -さ ( 名 )

とありますから、言語的にも間違ってなさそうです。

ということで「真面目さ+ひかえめ=謙虚さ」で、Naming feeling helped was done.

さて、明日は別の塊に「言葉」を与えましょう。


ひかえめな三日月

2014年11月16日日曜日

レア学生、レア枠になってしまってよいのだろうか

安部首相の音頭もあって企業の16採用採用選考時期が遅れることになり、企業にも就職活動を行う学生にもこれまでと比べると数ヶ月の空白期間が生まれました。

その結果起きていることがインターンシップの増加、就活塾の乱立ですが、これが意味すことを考えたとき、あることを思い出してしまいます。

それは中国のレアアース戦略の失敗です。

企業が行うインターンシップは社会貢献を目的としたものから採用活動に直結するものまで様々ありますが、実際には、優秀な学生といち早く接触しておきたいという思惑が含まれています。つまり、希少な学生を見つける手段ということです。優秀さ+少子化という日本の人口構成上の問題もあります。

一方、就活塾は希少な大手企業の採用枠を潜り抜けるためのスキルを学生に獲得させるものです。そのようなスキルが本当にあるとは、個人的には思えないのですが、不安心理からその手のサービスに頼る学生もいるようです。

優秀という希少さ、大手企業の採用枠という希少さに対して様々な思いのもとで戦略が巡らされているのが16採用に向けた活動の特徴と言えるでしょう。

さて、中国のレアアース戦略でその後、割りを食ってしまったのがレアアースの生産者でした。強気の戦略が市場や資源の価値を変えてしまったのです。(石油にも同様な兆候が見られます。)

その理屈を当てはめると、優秀な学生という希少性で割りを食うのは「学生」と「大学」、一方、採用枠という希少性で割りを食うのは「大手企業」ということになります。

「学生」「大学」が割を食うのはどんな状況なのでしょうか。私なりに考えてみます。

今後、グローバル化が一層進み、グローバルマネジメントが一般化すれば、「優秀な学生」のプロフィールもグローバル化します。すると、企業は入り口の多様化と、個のタレントへの依存を減らし、大量の労働力を必要としない事業モデルへの変革が進むでしょう。

「一部の優秀な学生」という希少性が、知らず知らずのうちに、「学生」「大学」の相対的な地位を下げていく(いる)のです。

では、「大手企業」が割を食うのはどんな状況でしょうか。

採用枠が狭まると本当に企業が採用したい学生の間でも競争が激しくなり、いずれはその狭い採用枠を目指さなくなります。なぜなら競争に参加する目的と採用したい学生の目的が一致しないからです。企業が欲しい人材とは、今を支え未来を拓く人材です。つまり、自ら成長し組織を進化させる人材ですから思考を停止させるような「大手企業だから」「人気企業だから」といった価値観を嫌います。

企業が大きくなって知名度があがり、人気が集まって採用枠での競争が激しくなるほど企業に集まるのは思考を止めたがる人ではないかとも思えます。空想的かもしれませんが・・・。


まとめとしては、優秀な学生の希少性、厳選採用による採用枠の希少性を軸に戦略を立てていてはいけないと考えます。

「学生は全て優秀である」「厳選採用に枠はない」

目指すべきはこういった状況であって、学生も大手企業の採用も社会の資本とするため何をするべきか考えることでしょう。

私達は部分最適化の戦略が事態を深刻に悪化させていくダイナミズムをもっと明確に理解しなければならないのかもしれません。


全体で考える・全体を考える


2014年11月15日土曜日

組織における人の成長の本質 何に対して「主体性」「自律的」であるのか

様々な集団では構成員に対して「主体性」や「自律的」を求めることは珍しくありません。

特に機能的要素が強い組織、学校、企業などのアソシエーションでは顕著です。

さて、生命とはそもそも「主体的」「自律的」な存在です。生命は「自分の時間を生きている存在」なのです。

では、アソシエーションで求められている「主体性」「自律的」とは何でしょうか。

それは、「機能」に対する「主体性」「自律的」な貢献です。組織に対する貢献ではなく、組織が目指している社会的役割を実現するための「機能」に対する貢献です。

アソシエーションの「機能」に対する貢献は、結果的には「機能」が高次に進化することを指していますが、それを支えるのが「構成員の連携向上」と連動、連鎖する「個人としての成長」です。

注意しなくてはならないのは、個人の進化はアソシエーションの進化と同義ではないことです。個人のスキルがいくら向上しても、組織として発揮する力が向上するとは限りません。例えば、ショベルカーの運転が出来たところで、デスクワークの仕事を高めることが出来ないことは明白です。

さて、アソシエーションの「機能」を向上させる個人としての成長とは後天的に獲得するものです。その獲得過程が「学び」であり、獲得した状態が「個人としての成長」です。

整理すると、アソシエーションで求められる「主体性」「自律的」とは、アソシエーションの機能を向上させるために後天的に「学び」を通じて「個人としての成長」を獲得することになります。

もう少し細分化すると、学生は「学習」に対する、社員は事業目的に対する、マネジャーはマネジメントに対する「学び」を通じて「個人としての成長」を獲得することが、「主体性」「自律的」の本質と言えるでしょう。

そして、結論的に言ってしまえば、「他者の学びを促す」ことが最大の「自らの学び」になるという事実によって、何に対して「主体性」「自律的」でなければならないのかが見えて来ます。(反面教師も「他者の学びを促し」ていますが、「自らの学び」ではないので「主体性」「自律的」とは言えないでしょう)

自らのスキルや知識、経験を獲得するためではなく、他者の学びを促すために「主体性」「自律的」であること。(くどいですが、スキルや知識を伝達することではありません)
それを通じて「構成員の連携向上」と連動、連鎖する「個人としての成長」を獲得する。

問題は、「主体性」「自律的」の入口に人はどうやって立つのかということです。

会議で押し黙って発言をしない人が居ます。一方で、多弁で自分の言いたいことばかり話す人もいます。これらの人は、いずれも「主体性」「自律的」であるとは言えません。他者が本気で考えられるように発言し他者の発言から学び成長することが「主体性」「自律的」であるのでしょう。


「主体性」「自律的」です

2014年11月14日金曜日

地下鉄出口と乗客の不思議な関係

朝のラッシュ時に普段乗っていない電車に乗ると不思議なことに気が付きます。

例えば銀座線の渋谷方面、新橋−虎ノ門−溜池山王の先頭車両一番ドアです。虎ノ門は改札が、溜池山王は乗り換えが先頭にあって新橋を出発するときには乗り切れない人が出て、これでもか、というくらいギューギュー詰めになるのですが、虎ノ門、溜池山王で多くの人が降ります。

たった2、3分の間ですし詰めになった車両から人が整然と入れ替わっていく様は、とても驚異的です。もし、車両も駅もない状態で同じことをしようと思ったらかなりトレーニングを行う必要があるでしょう。

ところが、乗客はいつも同じ時間帯、路線を使っている人が多いとは言っても、極めて自然に混雑をやり過ごしていきますが、連動性がすごいのです。

そしてその連動性は誰かに教わるものでなく、環境や状況を外的足場として自然に学ぶものです。ですから、類似の経験があると別の満員電車にも適応が早いでしょう。

こうした「自然な学び」は、「自律的な学び」を考える際の大きなヒントになると思います。「自律的な学び」の多くが自分のおかれた状況や周囲の人や物事を上手に活かしているからです。


自然な学び

2014年11月13日木曜日

焦点化と概念化の違いを考える

個人的に、観察されることや具体的な記述などを並べ、それらが意味することを考えるとき、2つのアプローチがあると考えています。

1つが焦点化で考えるべきことを浮かび上がらせます。

もうひとつが概念化です。これは、並んだ要素を溶かし混ぜて表象します。

例えば、コンビニのお弁当売り場で、数多いお弁当の中から、パスタ系、寿司系と絞るのが焦点化です。

一方で、「コンビニ弁当」と称して、コンビニで売っているお弁当形式の食品、何故からないけど日持ちするお弁当などなどの様々な意味を一括りにすることです。一括りの仕方がうまいと的確な「概念」ということでしょう。

焦点化が、目のつけどころ、引き算のフレーミングであるのに対して、概念化はラッピングとラベリングの混ぜ算、大喜利です。

さらに恐れずに言うなら、本質が見出せるのが焦点化で、自己組織化で創発するのが概念化という感じでしょう。

そう考えると、同じ大きさであっても、そぎ落として小さくするのと、かき混ぜてぎゅっと固めて小さくするのではまるで意味が違うことがわかります。そしてどちらも大切です。

ただ、ひとつ気をつけたいのは、そぎ落としてからかき混ぜて固めることです。それでは、本質風かつ創発未満という感じで売れ筋を狙った物足りないJ-POPのようです。

ということで、意味化をする場面では、2つのアプローチをしっかりと立て分けたいと思います。


そこには虹があるのです




2014年11月12日水曜日

5年後は遠い未来なのだろうか

4年に一度のオリンピックやサッカーのワールドカップ。次の大会はだいぶ先のように思えます。しかし、実際の準備は既に始まっていることでしょう。4年後に大会を成功させるためには直前の準備では間に合いません。そりゃそうでしょう。

さて、2000年にマッキンゼーにより発刊された、「The Alchemy of Growth」という本では、「3つの地平」という言葉で、継続的成長を実現している企業を分析しています。

1つ目の地平は、今を支える事業、2つ目の地平は4〜5年後に会社を支える事業、そして3つ目の地平は将来の事業の種です。

持続的成長を続ける企業には共通してこの3つの地平があるというのですが、日本の企業にもあてはまると思います。1つ目の地平が成長途上にあるベンチャーや新興企業は別ですが、市場にしっかりと足場を築いた企業では同様でしょう。

例えば、富士フイルムはその代表例でしょう。エボラウイルスに効果が見込まれるアビガン錠で最近、大きな話題となっていますが、本業が消失するなかで事業成長する姿は見事です。2つ目の地平が会社をしっかりと支えています。

一方、ソニーはとても苦しんでいるように見えます。新たな柱と目した事業が苦戦し、業績の下方修正が続いています。消費者の目で見る限り、新商品はあったとしても、4〜5年掛けて中軸となった事業が見当たりません。

もちろん、ソニーが手を拱いていたわけではないと思います。様々な手を尽くしているのでしょうが、残念ながらまだよい成果を残せていないのでしょう。

この3つの地平に似たフレームは他にもあって、有名なものではボストンコンサルのPPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)という事業ポートフォリオのフレームがあります。こちらは、市場の成長率とマーケットシェアにおいて事業の最適な組み合わせや展開の戦略を考えたものです。大企業ではどこでもこうした事業の組み合わせを考え戦略化しています。

そこで疑問が湧くのが、富士フイルムは何故上手く行き、ソニーは何故苦しんでいるのか、ということです。両社とも、ロジカルで素晴らしい事業戦略を敷いていることに疑いの余地はありません。

もちろん、事業ドメインが異なるので比較することは簡単ではありませんが、個人的には人の問題が大きく影を落としているように思えます。これは、トヨタを見ても感じることなのですが、経営者だけでなく、企業で働く一人ひとりの問題です。

2つめの地平を考えると、事業における4〜5年後というのは、未来の話ではありません。”いま”のことなのです。そして、その”いま”と真摯に一人ひとりが向き合っている企業、言い換えると、誰に言われるでも無しに、今日の仕事をしっかり4〜5年後につなげて取り組んでいる企業が継続的成長を続けているのではないでしょうか。


木々の紅葉は来春の準備なのです

2014年11月11日火曜日

コア・リフレクションを試してみた

先日参加したユトレヒト大学コルトハーヘン名誉教授のリフレクション・ワークショップで学んだコア・リフレクションを実際に使って見ました。

実施した場面は、社内の1対1のプロジェクトMTGです。明日行う顧客との会議の準備だったのですが、MTGの相手であるPJリーダーに以下のような2つの課題を感じていました。

1.顧客要望の本質理解が足りていないのではないか
2.我々のゴールはどこにあるのか

そこで、MTGの相手であるPJリーダーと現在わかっている事実をすべて書き出して、顧客要望をまとめて討議したのですが、どうも理解が深まりません。むしろ、モヤモヤ感が増すばかりです。

一方、我々のゴールも同じです。「上下するエレベーター」を使って、Thinking、Feeling、Wantingに問いかけてみたのですが、「すべきこと」というThinkingからなかなか抜け出せず、せいぜい「すっきりしない」というFeelingまでしか到達できませんでした。

もちろん、リフレクションを促している私の力が足りていないことには気がついていますが、Wantingに関しては、より深いリフレクションが必要に感じられたのです。

そこでコア・リフレクションを行いました。

正直、難しかったです。リフレクションを促している相手は、リフレクションのフレームを知りません。その相手に対して、どうやって促していけば良いのか、ワークショップでの学びを思い出しながら問いかけを行ったのですが、一向にコア・クオリティに至りません。

さて、どうやって問いかけようか・・・迷いが深まります。

このとき思い出したのが、コルトハーヘン教授がデモンストレーションで見せていた「視線」です。ペアでワークをしていた時、教授は部屋を巡り、近くに来た時に顔ではなく、瞳の奥を覗きこんでいました。(最初はちょっとドキッとしましたが)

コルトハーヘン教授は、ワークショップの中でゲシュタルトに言及されていましたが目の奥で起きる変化を見ていたのだと思います。

それを真似て、短い質問の中で、相手の目に起こる変化を手がかりにコア・リフレクションを進めたところ、なんとか、コア・クオリティに届いたように思います。

MTG終了後に、リフレクションの結果に関するメモを作成し、本人に渡しました。自分のためのメモだったのですが、下手な促しだったので、メモを通して当人のピントがもう少しクリアになってくれると嬉しいです。

うまくリフレクションを促すことが出来たのか、まずは、明日の会議で感触を得られるでしょう。


コア・リフレクションを行ってみて、リフレクションとの関係性もなんとなく体感出来た気がしました。また、行為の振り返りのなかで、

1. Acceptance from the beginning. 
    Then you can go deep.
2. Acceptance / Empaty in the whole process. 
3. Naming feeling helped.
    Naming other feeling.

4. Generalization (Important phase 3) 

の4つが大切であることもよくわかりました。

”「考えなさい」と言った人ではなくて、考えるということを本気でさせた人が一番偉い”
時実利彦先生の言葉として大村はまさんの本で紹介されている一文が身に沁みた今日一日。リフレクションの促しも、コア・リフレクションの促しも自然の流れで出来るようにこれからも実践していきたいと思います。


あしながおじさん

2014年11月10日月曜日

データと現場の「桶狭間の戦い」

会社の事業柄、人や組織に関するデータをよく扱います。そもそも、会社の根幹を為す考え方のひとつが、人の思い込みや偏見を廃して、客観的な裏付けから事実を見出すことなので、”これでもか”、というくらいデータを集めて分析しています。(決して趣味ではないですよ)

例えば、社員は半年ごとに、適性検査や360度評価(しかも、全員による相互評価!)を実施しています。もちろん、そのデータは煮たり焼いたりします。生業とはいえ、数多くの調査に回答することはかなりハードなのですが、考えてみれば、日頃、お客様に回答を強いているのですから自分たちが行っても当たり前ですね。

さて、こうやってデータを集め、分析する目の前では生々しい現場が展開されています。それこそ、個力、組織力を発揮しなければならない各場面で自分を含めた構成員がどうしているのか、どうしていくのかが問われる瞬間です。

PCで解析をしている目の前に、当事者が仕事をしている。

このパラレルな環境は、結構便利です。データが理解できなければ、顔を上げて観察すれば良いのですから。

一方、分析しているデータの中には自分のデータもあります。

『あれ、俺はどうだっけ?』

こんなときは、トイレに行って鏡を見て、自己観察をしなければなりません。

『なるほど、このデータはこんな意味があるのかもしれない』と気づきがあれば、それを確かめられる。それは恵まれた環境なのでしょう。

こうした、現場とデータを桶狭間の戦いに例えると、現場は今川軍です。その圧倒的な物量はデータの比ではありません。いくら、データをたくさん取得する組織であっても、データは時々刻々と複雑に変化する現場のほんの微細な一部でしかありません。

言い換えれば、20人分のデータは、如何様にも扱えますが、現実の20人を相手に戦うことは出来ません。

しかし、データを上手に使えば、現実の20人と組み合うことも可能です。

もちろん、データを使えば常に勝てるわけではありません。むしろデータが有効なのは稀なのかもしれません。しかし、そこには可能性がありますし、織田軍のようにハマれば効果は絶大です。

こうして、データと現場の関係を考えると、データは現場を理解、コントロールするための簡単・便利なツールではなく、現場と凌ぎを削り格闘する部隊と考えるのが妥当だと思えます。


兵どもの夢の跡



2014年11月9日日曜日

多様性を考えてみる

電車の中、繁華街、その他、人が集まる場所には色々な人が居ます。というか、そもそも、人は”世界でたったひとつの”存在ですから、集まっただけで多様であるはずです。

それが、グローバリズムや企業で殊更、”多様性”として取り上げられるのは何故でしょうか。

グローバリズムで取り上げられる多様性とは、人種や信仰など、見た目や準拠集団が異なり、生活習慣や価値観、信念が異なることを指しています。つまり、「ひとりひとりが違うよね」ということではありません。

一方、日本の企業で使われる多様性は、ライフスタイルの違いを指していることが多いように思います。最近、よく言われる”女性の活躍”で使われる多様性もそうです。タレント、マツコデラックスさんが、安倍政権で登用された女性閣僚についても「スカートはいてても中身は男でしょ」と一喝されたそうですが、この指摘からも、日本における多様性の特異さが伺えます。

企業の新卒採用でも多様性と言われることがありますが、その場合は、ライフスタイルともちょっと違っていて、同じ大学の卒業生ばかりなど似たようなプロフィールや性格傾向にならないといった意味でしょう。

それぞれ、多様性には違いがないのでしょうが、内容は大きく異なります。

このように具体的に指し示すものが違うのに同じ言葉を使ってしまうのは、あまりよろしくないでしょう。グローバルでの”多様性”では排他性・異質性が、新卒採用の”多様性”では多種性が、そしてライフスタイルの”多様性”はその両方が中心のテーマです。

当事者的に表現すれば、差別と戦うのか、脱予定調和なのか、その両方なのかということです。ただ、被害意識の強い人は、全てを差別と感じるかもしれません。つまり、受け止め方によってもそれらは異なってきますから、曖昧に包含している表現の方が便利なのかもしれません。


仲間はずれにしないでね






2014年11月8日土曜日

がちゃトークだもんね

昨日は、月に1回のがちゃトーク、BYO・自画持参です。

「カフェに自分を持ち込む」、なんだかよくわからない話なのですが、個人的には嵌っています。

そもそも、定員があるのに事前申込み不要って、訳がわかりません。
行ってみたら定員オーバーだったらどうするのだろうか?とか何やるの?とか、今の世の中のワークショップの当たり前をひっくり返しているのがBYOの魅力なんだろうと思います。

通常参加するワークショップでは、「何をやる」のかが明確で、人数はこれだけ、早い者順とか、抽選で参加権を獲得します。ですから、まず、エントリーで緊張するのです。たまに女性オンリーだったりすると勢いでエントリーしてしまった後に恥ずかしい想いをします。(よくよく考えると、これって、就活と一緒ですね。)

よーく考えると、長岡先生、加藤先生のデザインはダイアローグのデザインだけでなく、ワークショップのデザインとしても秀逸であることがわかります。

だって、来るものは拒まないのに、行ってみなければ参加できるかわからない。これって、巷にある予約無しの人気店と同じ仕立てですね。

幸い、がちゃトークは、通の人しか参加しないのであぶれたことはありません。その実験性や意味を問える人はきっと少ないのでしょう(これ、自己満足コメントかもしれません)

さて、昨日のテーマは「喧嘩」。

このテーマ、以外と広がりがあって面白かったです。

ヤンキー、が出てきたり、渋谷のスクランブル交差点でのストーリーになったりと広がりがあるうえに、世代格差が浮き彫りになったりといろいろな局面の対話がありました。

そして対話は思わぬ方向に進むもの。人の縁を感じながら生涯、忘れられないがちゃトークとなったのも事実です。

私はなぜ、この場に居るのだろうか?仕事を吹っ切って参加した意味がなんとなくわかった気がします。そして、参加した人々の面々。皆様とのご縁に感謝です。

そんなことを深く考えた2014年11月のがちゃトークでした。
(気がついたらがちゃトークフリークになっているかもしれない・・・)


田中君、村松さん、木村さん、中村さん、写っていません、ゴメンナサイ


2014年11月7日金曜日

ネストする人、しない人

どんな人が成長するのか、
どんな人が次世代のリーダーなのか、
どんな人が採用すべき人なのか、
どんな人が・・・

この種の問いは多くあります。
もちろん、それぞれの文脈で語られるものですから、ひとまとめにしてホイ、みたいなことは出来ません。

しかし、敢えて、ひとまとめにすると、キーワードは 「ネスト」だと思います。

「ネスト」という言葉をあまり聞いたことがない人も居るかもしれませんが、英語で表記すると”nest”、日本語だと「入れ子」となります。

おそらく、プログラミングを経験したことがある人には、「あ、あれね」とわかることなのですが、プログラムの中に書かれる再帰的な記述を指しています。

もう少しわかりやすく言うと、
「あ、それって実は自分にもあるじゃん!」
ていうことです。

例えば、「うちの会社、ビジョンが無いからだめなんだよ」『それって、自分もそうじゃん・・・』というのが、「ビジョンが無いネスト」です。

つまり、批判的な視点を外にだけでなく、自分にもあてて問いかけを起こしているわけです。

これらの人が、何故、成長したり、次世代リーダーだったり、採用すべき人材なのかといえば、複雑性が持つダイナミズムを体現できるからでしょう。

要は、化けるのです。それも、内発的に化けるのです。

ネストを用いてプログラミングをすると、少ないコードで大量の処理が可能となります。逆に言うと、ちょっとした違いが大きな結果の差を生み出すことになります。つまり、将来的に大きな変化を生み出すポテンシャルを内蔵しているのです。

人は誰にも課題や問題を発見する能力が備わっています。それを、自分事化すること、そして自分ならどうする?と問いかけることは、共感や類推を意識的に高次に行うことですから、大きな期待が寄せられます。

ということで、Let's Nest!


立冬

2014年11月6日木曜日

組織内で活躍する人、飛び出して活躍する人

昨日の続きです。

どのような組織だと力のある人も惹きつけることが出来るのでしょうか。

決して一様ではありませんが、おそらく起業しても成果をあげそうな組織内で活躍する人を思い浮かべた時、いくつか共通点があることがわかります。

それは、動機、規範、そして責任です。

動機に関しては、外発的な動機を持っている人が組織に留まる理由を見つけることは困難でしょう。更に、内発的動機においても「やりがい」が強い人も組織の外に飛び出すようです。つまり、バランスの良い内発的動機を持っている人が思い浮かびます。

次に、規範です。これは、何かに依るという従属的な立場ではなく、人徳を感じさせる中庸さが与える一貫性です。「寛にして栗」といった一見、相対する概念を人格に共存させている人が該当します。例えば、楽しくと厳しく、とか。

最後に、責任。これは、本人の責任感もありますが、むして、組織が社会に対して果たそうとする責任を問い返しているように思います。そこには厳しさもあって、会社が安易な道を選ぶことを許容しません。

総合的に考えると、偏りがなく懐が深く転ばぬ人、ということになります。

これを人材の要件としては非常に難易度が高いものであり、逆に組織から飛び出して活躍するほうが要件としての難易度は低いように思われます。

また、このような人材は多くの組織に適応し、組織を選びませんから、組織の特異な様相が人を惹きつけるものではありません。あとは、嗜好や縁、タイミングなのでしょう。

そして、この人材の要件は、資質も関わっていますが、多くは後天的に身に付けるものです。なので、人格を育てる組織には、外でも活躍できる人材が居続け活躍しているのでしょう。


ぶらさがりとは縁の無いはなし

2014年11月5日水曜日

組織内に事業を興す人を創る

不確実な社会環境の中では、安定的に事業を行うことは幻想でしかありません。事業責任を負う者は、この事実に日々挑んでいます。

例えば、内田洋行では、かつて新人によるイノベーション創発として、新人を社内から隔離し、鎖国状態にする取り組みを行いました。

また、最近では、サイバーエージェントの「ジギョつくチャレンジ」が有名です。藤田社長の激怒ブログというオチまでついていますが、事業作りに会社が積極的であることは明確です。

また、商社は社内ベンチャーという形で、数多く事業のインキュベーションを行っていますし、投資顧問系の企業もベンチャーを支援しています。

このような企業の取り組みは、新規事業を興す一方で、人材を育てる効果も絶大です。

被雇用者にとって、入社後のリアリティショック(こんなはずじゃなかった)を超えて組織社会化(会社に染まる)を終えると組織は「快適ゾーン」となります。そこで、多くの人は学びが止まり、行為指向的(やることを行動する)になります。そして、そのような状態の人を意味指向的な人材に育てることはとても困難です。

一方で、「事業を興す」とは「自らやるべきことを見つけて行動する」ことであり、意味指向的です。自ら課題を定義してそれを解決するわけですから、所与の問題を解決することとは大きな違いがあります。

つまり、事業を作るプロセスは、会社に経営者と同じ指向の経営型人材を増やすプロセスでもあるわけです。

さて、事業を興す人は、組織内に留まっている印象がありません。それは何故でしょうか。

理由は3つあると考えます。

ひとつは、既存の組織の成功よりも、新しい会社の成功による成長のほうが、成長率が大きく、目立つからです。会社の1事業、もしくは連結子会社では、本体の規模で成長が霞んでしまいます。

2つめは、会社の中に経営者と同じ指向の人材が居るということは、いずれ経営者と衝突することになります。事業継承プラン(サクセッションプラン)が動いていれば良いのですが、そうでなければ、玉座を巡っての争いになるのです。上手い折り合い点が見つけられなければ、組織内に留まることは出来ません。

そして、もうひとつの理由、こちら方が大きな原因かもしれないと考えているのが、イノベーションと人の「態度」の関係性です。ここで言う「態度」とは、心理学の定義による、価値信念要素、感情要素、行動傾向要素によって構成されるものですが、その中でも特に「価値信念要素」の影響が大きのではないでしょうか。

「既存の仕組みや構造を壊して新しい仕組みや構造を生み出すことは良い事である」という価値信念要素を備えた態度がイノベーションを誘発する要因であることは間違いありません。そのような「態度」を有する人にとって、既存組織は居場所ではありません。

さて、事業を興す人の価値信念要素が常に利己的で破壊的であるとも限りません。利他性があり創造的なケース、つまり、より大きく広い欲求で仕事を定義する人は、組織内にあっても、イノベーティブであり、事業を興す人と言えるでしょう。

そのために組織が持たなくてはならないのは、箱(組織)やお金でなく、具体的で高次な組織の規範、目的だと思いますが、具体的な企業を念頭においてどのような運営がポイントなのかは別途整理したいと思います。


純米大吟醸の香りも楽しむグラスです





2014年11月4日火曜日

ああ、唯我独尊

何をしていてもその場で空気を作ってしまう人が居ます。良い場面では、オピニオンリーダーとして、場を牽引しますが、悪い場面では、他者を威圧したり、ポジティブさを損ねます。

これは、発信する人の問題だけではなく、それを受け止める側の問題でもあって、相互に影響しあう場作りの課題です。

ベンチャー企業など起業家は、器用に何でもそつなくこなせる人よりも、我が強く相手に合わせられない人のほうが良いそうですが、わかりやすい理念やビジョン同様、癖はあっても理解しやすく、はっきりと合わせやすい人のほうが周囲にとってもやりやすいものです。

これは、組織運営にとって理想的な状況なのでしょうか?

この課題に正解はありません。そもそも、理想的な状況を定義できないのですから。

しかし、問題が起きている時に組織全体として解決指向なのは、個の自律性が高いほう、つまり相手合わせではなく、自律的な協働においてです。

ゆえに、混沌とした時代においては「個が自律的でないこと」は致命的かもしれません。

IT業界も勃興期から淘汰期を超えて、何回目かの転換期を迎えていますが、勝ち残っている(もしくは生き残っている)企業の中にエキセントリックな経営者はあまり居ないように思います。勝ち残っていても、エキセントリックな経営者の企業は、問題解決力が低いように感じます。(あくまでも経験を通じての印象ですが)

組織において問題が解決できなかったり、課題が設定されず、周囲のメンバーに自律性が足りないときは、まず、自分が変わるところからはじめる必要がありそうです。


カオス

2014年11月3日月曜日

行為指向 について考えてみる

昨日、一昨日と参加したリフレクションのワークショップでは、行為指向性<意味指向性、つまり、自分がより良く行動するために、これにはどんな意味があったのか?とより深いリフレクションを行うことに取り組みました。

ところで動物の本質は行為指向的な表出であると考えたほうが都合が良いかもしれません。例えば、動物は地図を理解することが出来ないのに自由に行動することが出来ます。

動物においては、ひとつの経験は、次の経験を得るための刺激となっていて五感で得られる情報がその刺激をポジティブにフィードバックする、もしくはネガティブにフィードバックすることで行為を創発しています。

つまり、環境と行為が一体化しながら経験とフィードバックのサイクルが回っているのです。

シンプルに考えればお掃除ロボット、ルンバの世界です。
ルンバは、買ってから家の図面や障害物の位置を入力する必要がありません。つまり、環境を内面化するのでなく、「左がぶつかったら左のセンサーが反応して右に方向を変える」など、環境と一体化して部屋を自由に動き回るわけです。

これは動物が自由に行動できることを理解する手助けになります。

人間以外の動物と人間の大きな違いは「言葉」ですが、コミュニケーションの手段としてよりも、言葉によって即時性を超越した概念形成がその核心となっています。

そしてリフレクションにおける意味指向性とは新たな概念を形成するプロセスと言えるでしょう。極めて人間らしい、もしくは人間臭いことなのですね。
いみじくもワークショップで、他者のリフレクションを支援するにあたり、語彙の差が支援の障壁になるのではないかとの発言がありましたが、言葉、思考、概念(意味)がリフレクションの実態であると言えるかもしれません。

さて、ルンバが概念を形成する言語を持っていたとしたらどうなるでしょうか。

「左にぶつかったら」ぶつかるとはどういう意味か考え、飛び越える選択肢を増やす。

そうなるのかもしれません。


「危険」ではなく「興味深い」という意味が見つかる

2014年11月2日日曜日

リフレクション学 スペシャルワークショップに参加して(二日目編)

昨日から二日間の日程で始まったリフレクション学スペシャルワークショップ。本日は、二日目(にして最終日)でした。

昨日、終了時に参加者が情報量が多いと書いたアンケートを参考にして、コルトハーヘン名誉教授は右脳を使ったワークショップの立ち上げを行いました。

リラックスして呼吸に意識を集中し、大きく3回呼吸する、つまり、座禅的な状態からのスタートです。そこで昨日をイメージする指示があったのですが、座禅や自律訓練法の経験者が行うと短時間でも深く入ってしまい、指示を受けてもなかなかイメージが出来ないかも、と感じました。

さて、二日目は、昨日のポイント、疑問点を大きなT(Theory)も使って解き明かしながら、山場はコア・クオリティへアプローチする、コア・リフレクションです。

昨日のリフレクションのワークが誰でもが普通に想起する、課題へのリフレクション出会ったのに対して、コア・リフレクションは、気づくとちょっと嬉しくて恥ずかしくて笑顔になってしまう中核的な資質へのリフレクションです。

これは、フローな状態を振り返ることから始まりますが、リフレクションを促すひとが居るととても効果的であることが体感出来ました。

そして、「コア・クオリティとスキルの連動が強い専門家を作る」「他者のリフレクションを促すためには、まずは自分がリフレクションする強い信念が必要である」ことを確認し、そのコア・リフレクションの大切さを学んだのでした。

この二日間、非常に多くの小さなワークを行いました。小さなワークはより本質に到達するための工夫でもあるようです。そのワークの間に、コルトハーヘン先生のインストラクションが散りばめられているのですが、メモだけで3500文字になっていました。

学んだことは、
リアリスティック・アプローチを実現するリフレクション・モデルとその実践
コア・クオリティを理解して強い専門家になるためのコア・リフレクション
です。

社員の指導をするにしても、研修の講師を行うにしても、重要な実践に出会うことが出来ました。

コルトハーヘン名誉教授をはじめ、学びの機会を頂いた皆様に深く感謝申し上げます。

そのうえで、中原准教授が話していた『リフレクションの次』をこれから寝るまでゆっくり考えてみたいと思います。


見ぃーちゃった

2014年11月1日土曜日

リフレクション学 スペシャルワークショップに参加して(初日編)

今日は(明日も)リフレクション学 スペシャルワークショップ「私たちは、何をどこまで、振り返り、何を生み出すのか?」に参加しました。フレット・コルトハーヘン名誉教授(オランダユトレヒト大学)のセッションに参加出来るなんてこんな素敵なことはありません。

三連休なんて吹っ飛ばしてしまうイベントです。

さて、まだ、明日があるので、今日は、初日の所感です。

お昼のランチを盛る列に並びながら声を掛けて話をしたのが、あの、白井さん(博報堂人材開発戦略室マネジメントプラニングディレクター)だったみたいなもったいない(何が?という突っ込みはありますが)ことがゴロゴロしているワークショップはこれまであまり経験がありません。コルトハーヘン教授と接する機会はそれだけ貴重だということでしょう。

その中で、一番、インパクト(破壊力)があったのは、主催者のお一人である中原准教授の放った一言であったりします。ワークの中でたまたまペアになった時、お話をさせて頂きましたが「あ”ー」という感じでした。さすが unの師匠(勝手にそう呼んでいます)。今日、アウトプットしてしまうと、熟成不足なのでやめて、明日の日程を終えたあとでまた、中原さんの言葉の意味を考えてみようと思います。

さて、今日の予定が終わったあと、軽く懇親会の場で、参加者の方と話し込んでいました。そこでもリフレクションが進んでいました。

さて、今日のワークショップ、「面白い」という評価は出来ませんでした。というのも、ワークショップを通して感じていたのは「ドキドキ 」というモヤモヤ感だったからです。

あ、これか!わかった、みたいなアハ体験は少なくて、むしろ、このWSは何を意味しているのだろうかとその本質を探っている時間が長かったように思います。なので、頭が疲れました。

ちなみに「明日、どうなるのか」は、今、ワクワクしています。




リフレクションなう。