2014年8月31日日曜日

ロールモデルだって擬人化でしょ?

最近、キティちゃんがニュースで話題になりました。それは以下のようなものです。

”ローキティ「猫じゃない」に世界激震 
サンリオ広報談「前略…ハローキティはネコをモチーフに100%擬人化したキャラクターです。…後略」”

質問に対してサンリオは非常に真面目に答えたわけですが、同時に「擬人化」について大きな問いかけをしていると思いました。

というのも世の中「擬人化」だらけなのにそれを意識していないからです。

「擬人化」とは、「人間以外のものを人物として、人間の性質・特徴を与える比喩の方法(wikipedia)」ですが、人間でないものは人間の性質・特徴を持ちませんからそのものの理解を誤ることになります。

キティちゃんや世の中に溢れるゆるキャラだけでなく、ペットや草木などの生き物にも「擬人化」は盛んに行われています。組織の人材開発に関する領域でももちろん、「擬人化」があります。

例えば、ハイパフォーマーやマネジャーをするときに使うロールモデル。様々な場面で発揮される行動傾向を積み重ねていくことで役割における推奨行動を記述したものですが、文書であって人間ではありません。

しかし、意識の中ではそのような人が居て行動を手本として真似をする対象であるかのように認知されていきます。

さて、そもそも他者の理解自体が理解者の中での像(すなわち、人間ではない)であってそれに性質・特徴を与えることと「擬人化」の間に違いはあるのでしょうか?


ヒトデハナイ、ヒトデハナイ(サカナクション風)


2014年8月30日土曜日

建物の新しさ古さによって行動や思考がどう変わるのだろうか

神田から万世橋にかけて歩くと、街並には古い建物から、新しい建物が混在しています。

中には、古い建物を改装して新しく活用しているケースもあります。流石に非常に古い建物は大分少なくなってしまいましたが、逆にそのような建物は現代においては刺激的です。

さて、「動的カップリング」(脳と身体と環境は継続的な調整サイクルにおいて同時に変化し、相互に影響を及ぼし合う)の考え方に拠れば、建設された時代の異なる建物によって私たちの行動や思考は変わってくるはずです。

例えば、古い建物を改装するケースでは、保持されるのは外装で内装は新しく現代のものに置き換えられますが、これは、身体が環境を調整する良い例でしょう。トイレはわかり易い実例です。

身体とカップリングする環境は、建物において基本的には内装や設備ですから改装された建物では、行動や思考がどうかわるのか確かめることが出来ません。

江戸時代、明治、大正、昭和初期の建物そのままの状態で寝起きしたり、仕事をしたりすると行動や思考に何がおきるのか確かめてみたいものです。


今となってはジオラマの中だけ

2014年8月29日金曜日

身近に感じるマネジメント力とプレイング力の違い

対比的に語ると、組織の階層によらずマネジメントする力のある人、プレイヤーとして力のある人が居ます。

どんなところでそれを感じるかというと、マネジメント力のある人は、貸し借りやギブアンドテイクが上手で、ちゃんと帳尻を合わせられますが、プレイヤーとして力のある人は貸しっ放し、借りっ放しなところです。

例えば顧客の要求に振り回される人。顧客志向として尽くす姿は良いのですが、そのしわ寄せを組織の他の人に行っていることを考えません。従って、「あんなに頑張っているのに社内の評判がいまいち」ということになります。顧客に貸しっ放し、社内に借りっ放しな状態です。

一方、マネジメント力のある人は、社内外に対して時に厳しく、時に優しく接することで、目標に向かう推進力を生み出します。プレイヤーとして力のある人がまっすぐ突き進むのが得意なのに対し、ワンツーパスで抜き去るようなイメージと言ったら良いでしょうか。

このような単純な見分けだけでも実はかなりの精度でどちらの力が強いのか見分けられると感じています。

自分で抱え込む人はプレイヤー型、他者が動けるように情報を上手に共有する人はマネジメント型、いきなり差し込むのはプレイヤー型、様子を見て指示を出すのがマネジメント型、圧迫面接をするのはプレイヤー型、面接をすると内省がすすむのがマネジメント型などです。

この背景には、「身体性」が深く関わっているのではないかと思います。要は、頭で理解して行動しているのではなく、置かれた環境、状況からアフォードされるものの違いです。

そして基礎として他者に対して持っている信頼感の強弱に鍵があるように思えます。


環境





2014年8月28日木曜日

あ、そこが気になるんだ

大学生と話をしていて、とくに就職にかんする話題になったとき、質問に驚くことが少なくありません。といっても、「うわっ、すごいこと聞いてくるな」という驚きよりは、「え、聞きたいことってそれ?」みたいな驚きです。」

就職以外の話だと、感心することしきりなのですが、こと就職に関しては「それなの?」という質問が多く、かつ答えに困まることが多いです。

必要なのは、「いつ来るかわからない15分のために常に準備をしている」プロフェッショナリズムであり、「難しい質問にすぐ的確に答えられること」なのですが、質問者が聞きたいのが解決策であることが明白なのでそこにあわせて答えてあげたくなります。

しかし、実際の仕事では相手や状況によって行為が創発されるので一般論で解決策を考えても答えはありません。シミュレーションはできますが、実際はその場でなければわかりません。

つい、目の前を「問題解決症候群?」のテロップがチラチラしてしまいますが、「あ、そこが気になるんだ」ということもひとつの気づきとして学びを深めようと思う次第です。


気になるぅー




2014年8月27日水曜日

一人一人がオリジナル化することのすすめ

組織がピラミッド型になるのは何故でしょうか。

プログラミングを行っていると、ピラミッド型であることのメリットが見えてきます。

例えば、ちょっと複雑なプログラムを作成するとき設計を行いコードを記述しますが、本当に設計通りに動作するかは実際に動かしてみないとわかりません。

そこで、作っては動かして確認し、直しては動かすという動作を繰り返す(デバッグ)のですが、ある程度、プログラミンングが進んだところでプログラムの用途が拡張したり、変更があるのは良くあることなので、出来るだけ少ない手順で正確に修正出来ることはとても大切です。

逆に同じようなプログラムを複数作って配置してしまうと手直しの際に何カ所も修正が必要になるうえ、大概、修正漏れが出てきて改修にとても手間が掛かります。ですから、機能を構造化、単純化して、それぞれの機能が重複しないようにします。

さて、プログラムが小さな動作の組み合わせによって大きな仕組みとなるように、組織も小さな動きの総合体として大きな目的に向けて活動を行います。

最近では組織の目的が変わったり、事業環境が変化することが非常に増えていますから、出来るだけ短期間で組織的活動が修正され変化に適応することが求められています。更に戦略的に考えるのであれば、変化に適応するのでなく、より好ましい状況が得られるように自律的に活動することが重要です。

となると、組織に必要な人材とは金太郎飴型でなく、一人一人がオリジナルであることですし、社長をトップとした役割においても同じことが言えます。その役割、貢献において唯一無二の存在になれば、変化に対して必要な部分で最小限の修正で済むのです。(交替も含めて)

ピラミッド型というとどうしも上下のイメージを持ってしまいますが、貢献に応じてどこでも頂点になれる組織のイメージは一人一人のオリジナル化がポイントです。


環境に根ざし、皆、同じという植物の戦略もあるけど・・・

2014年8月26日火曜日

採用人材像は二度ブザーを鳴らす

タイトルは「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のパロディですが、企業の厳選採用に伴って盛んに議論される「採用人材像」に見られる問題を考えてみます。

就職活動を行う学生は、企業の採用ページを見るとその会社がどんな人材を採用したいと考えているのか知ることが出来ます。

一方、どのような人材を採用すべきか、見極めるポイントを明確にして「人材像」を作成し採用活動を行う企業が増えています。

ところがこの「人材像」には二重の注意が必要です。(これがブログタイトルの由来です)

一つは、認知バイアスの問題です。

人には多くの認知バイアスが存在します。ある本では183個の認知バイアスが紹介されていました。それらを眺めていると、私たちの認知そのものは、全てバイアスがかかっていると考えた方が良いのではないかとすら思えて来ます。

例えば、「人材像」を定めること自体、「確実性効果(100%か0%、つまり白黒をつけることを好む)」とも考えられます。

「人材像」の作成において、どんな能力や特性、傾向が必要もしくは大切かという議論には多くのバイアスが関わっているとして、もう一つの問題は、その「人材像」を採用応募者に当てはめて理解しようとすることです。(タイトルの「二度ブザー」はクイズで間違ったときの合図です。)

もちろん、面接回数を増やしたり、データを使ったり、応募書類を精査するなどで多面的に人物理解を深めることで企業の採用活動は構築されていますから「人材像」に問題があったとしても採用ブロセスが間違っていることは少ないようです。

では「人材像」の議論は不毛なのでしょうか。

私はそうは思いません。

先ほどTVでディズニーの「シンデレラ」を放送していましたが、「人材像」とは「シンデレラのガラスの靴」のようなものだと思いました。

「ガラスの靴」に無理矢理合わせようとしている若い娘の姿は滑稽ですし、王の命令で「靴」にあうという条件だけで娘を探し回る臣下はもっと滑稽です。

大切なことは「ガラスの靴」という手掛かりで何を為そうとしているかがわかることです。

革靴で御神輿を担ぐ人は居ません。御神輿を担ぐ人を集めたければ草履を揃えるはずです。

本来の「人材像」とはその組織が何をしたいのかを表すサインだと言えるでしょう。

「ガラスの靴」だと履けるのはシンデレラだけですが、「人材像」はそんなことありません。応募者は会社に入ってやりたいことが一致すればOKです。

一方、採用を行う企業にとって革靴を履いて御神輿を担ぎたいと言う応募者が採用候補者では無いことは明白です。

さて、話を元に戻すと、御神輿を担ぐ人を集めるのに「ガラスの靴」を準備して、履ける履けないだとブザー二回です、ということでした。


「会社を担ぐ人募集」ってね

2014年8月25日月曜日

目的とプロセスの関係性

仕事をしていると成果を出す人は成果につながるプロセスを持っていることがわかります。料理を作るうえでも芸を極めるうえでも同じようにプロセスが大切です。

仕事ではノウハウ、料理ではレシピ、芸では奥義などが、形は違いますが良いプロセスがナレッジとして誰でも手に入れることが出来るのが現代社会の特色です。

良い時代と言えるでしょう。

ところが公共図書館が充実し、本屋に行けば毎日新しい本が出版され、インターネットでは簡単に情報が検索できる時代になってはっきりしたことは、プロセスよりも目的の重要性です。

要は、いくらレシピがあっても料理を作る目的が無ければ意味を為しませんし仕事で成し遂げたいことが明確でなければノウハウも活きません。

営業ロールプレイを100回繰り返しても、目的に疑問を持っていたり、頭で理解しようとしている限りは効果は極めて限定的でしょう。

目的を持つこととプロセスを身につけること、どちらが大切かと言えば間違いなく目的を持つことです。

それも頭で理解する目的ではなく自然と欲する目的です。

大切なことは状況に合わせて適切に行動するのではなく、さらに適切な状況を得るために行動することで、これが真のプロセスなのだと思います。


金網があるから巻き付くのではない
今よりも多くの種を実らせるために金網に巻き付くのだ


2014年8月24日日曜日

ロビン・ウイリアムズを偲んで

自分の記憶に残る映画に「GOOD WILL HUNTING」があります。マット・デイモン扮するウィル・ハンティングが、恵まれた才能と不幸な生い立ちの中で迷い、悩みながら自らの道を選んでいくのですが、心理学者としてウィルのカウンセリングを行うのがロビン・ウイリアムズ扮するショーン・マクガイヤです。

ロビン・ウイリアムズの出演した映画では「いまを生きる DEAD POETS SOCIETY (1989)」や「レナードの朝  AWAKENINGS(1990)」も好きですが、いずれもロビンならではの温和でやさしい眼差しと一方で信念の強い役を演じた作品です。

そんなロビン・ウイリアムズの訃報が流れたのが8月12日でした。病気療養のなかで自ら命を断ったようです。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

先日、再放送された「GOOD WILL HUNTING」を録画して今日ゆっくりと久しぶりに鑑賞しました。

映画の中のロビン・ウイリアムズは、初めて映画を見た時のままです。当時から病に苦しんでいたのかは知りませんが、心の強さを強く感じる演技で、まさにそこに惹かれこの映画が心に残ったことを再認識しました。

好きな映画筆頭の「GOOD WILL HUNTING」に悲しく寂しい物語が付け足されてしまいましたが、改めて心に染み入る演技に深い感銘を受けた午後でした。


空には羽根のような雲




2014年8月23日土曜日

職種によるアフォーダンスの違い

職種と性格の間には一致、不一致があります。外向性、緻密さなど仕事において必要とされる特質を性格として保有していないと多くの苦労が生じます。

一方、仕事を身につけるなかで学び、適応することで後天的に保有する特性もあるようです。

特に、視野と思考に関しては特性のなかでも可塑性高く、状況に適応しますが、適応が進むと習慣化して無意識のうちに物を見て、考えているようになります。

これは、就職して久しぶりに大学の同期生と逢った時に感じる違和感や、転職前の職場の同僚などとの再会で感じる仕事の染み込み具合などで確認することが出来ます。

例えば、システム開発において「目的」と言えば決められた通りにシステムが動作することですが、開発したシステムを使う側にとっての「目的」は、システムを使って「こと」を為すことです。

ですから、システム開発がアフォードするものは開発者が「システムが動作する状態」であって、一方、ユーザーは「やりたいことの仕組化」となってしまうのです。

このことは頭で考えるより実際の方が遥かに断絶が感じられます。

ユーザー:「こういうことがしたい」
開発者 :「じゃあ、具体的にそれを形にしてください」
ユーザー:「え、それってそっちの仕事じゃないの?」
開発者 :「開発できるものを準備してもらわないとできません」
ユーザー:「・・・」

ユーザー目線を持った開発者であったり、開発者目線を持ったユーザーでない限り、行き違いが延々と続くわけですが、さらに職種による性格傾向の違いもありますからお互いに大きなストレスを感じます。

このようなアフォーダンスの違いによる行き違いは、事業会社とコンサル、住宅購入希望者と金融機関などなど、様々な場面でこれまでも、そしてこれからも見られて行くでしょう。「就職」という同じ環境から得ている意味が異なっている大学生と企業の採用担当者などもそうだと思います。

同じ環境でも意味が異なるうえにそもそも気が合わない人と場を持つことを「多様性」と言いますが、壁を乗り越えるためには自らの職種への強い信念と他の職種への造詣の深さが必要です。


意識じゃなくて意味が違う

2014年8月22日金曜日

中庸のすすめ「立ち止まらないでください、駆け込まないでください」

日本橋のとある大型商業ビルの一階自動ドアには
「立ち止まらないでください
 駆け込まないでください」
と注意書きが書いてあります。

要するに、普通に通って欲しいわけですが、それを表現するのに、「立ち止まるな、走るな」と書くのは何だか面白いなと思ったのですが、その後ずっと気になっています。

では、何が「立ち止まらせ」、何が「駆け込ませる」のでしょうか。

例えば、「立ち止まる」代表は、「足が竦(すく)む」で不安、恐怖がその背景にありますが、自動ドアでの「立ち止まる」はスマホの操作であったり、他者とのおしゃべりなど、他の行動が足を「止めた」ものでしょう。

一方、「駆け込ませる」代表は、「出発間際の電車への乗車」でしょう。何らかの成果(遅刻しない、次の電車を待たなくてよい、ギリギリへのプチ挑戦?、など)を得ることが背景です。

ですから、もう少し意味を変える見ると
「気をそらすな」「挑むな」というのがその本意であるように思います。

散漫でもいけないし、集中しすぎてもいけない。

なんだか半眼の構えのようですね。

要は、世の中、中庸がよろしいようです。


半眼ではありませんが・・・

2014年8月21日木曜日

スイカ甘いかしょっぱいか

犬と一緒に暮らしていると、彼の能力のびっくりすることがたくさんあります。

そのひとつが「スイカ」です。

彼は、高齢にもかかわらず食欲が強いのですが、健康管理もあって基本、食事は決めた物を決めた量だけ食べさせていません。例外が、犬用のおやつとキャベツとキュウリ。キャベツとキュウリは身体に悪くないようですので、料理のついでにもらっていたようですが、今年の夏、瓜系ということで何気にスイカをもらってから彼の行動が劇的に変化しました。

変化が見られたのは、なめらかな行動ですが実はすごく多彩な行為の連鎖です。要素分解してみると

1.予測・・・・・人の食事がもうすぐ終わりそうだということを的確に予測する
2.期待・・・・・食事が終わるとスイカを食べるだろうという期待で鼻が鳴ってしまう
3.催促・・・・・「待ちきれないよ」という顔つき(口が半開き)で顔を見つめる
4.全身表現・・・人がスイカを食べているすぐ横でジャンプを繰り返す
5.食・・・・・・容器に出してあげるとすぐに食べる
6.おねだり・・・もっと食べたいとアピール
7.探索・・・・・容器が空か何度も確認
8.驚き・・・・・注意を逸らせて容器にそってスイカを追加しておくと見つけた時に驚く
7.判断・・・・・もう、もらえないと判断しテンションを下げる

これは、なめらかな行為の代表的な例ですが、1と2だけで放っておくと7に行き、ごろっと横になり寝てしまいますが、スイカの匂いを嗅ぎ付けた瞬間に目覚めて3からの行動をとるなどじつに適応的です。

すばらしいですね。
特に、スイカがまだ出ていない段階で行為が創発している(1、2、3)ことは驚嘆ですし、一度食べた後の行為(6、7、8)も複雑な要素の組み合わせです。

彼が「人」(この場合私)を足場として行為を創発していることは間違いありません。また、朝はこのような行動を見せませんから、「夜+人+食事」という環境が彼の行為をアフォードしているのです。

また、8の驚きは間違いなく7の探索を強化しています。つまり「夜+人+食事+偶然的可能性」がさらなる行動を引き出しているのです。

彼は、決して人のように考えていることはありません。なめらかな行動を観察して、彼の内面を人格化してしまいがちですが、人のように考えて行動していることはないでしょう。

つまり、彼は深い思考によらずに高度で複雑(に見える)な行動によって人間の日常生活に適応しているのです。

スイカは彼の食欲レベルを高める刺激=快楽です。そのレベルが高いゆえにすぐに学習しさらに行為が複雑化するのでしょう。ちょうど、LINEなどが多くの人に好まれて受け入れられていくと使い方やサービスがどんどん複雑化するようなものです。

”好きこそ物の上手なれ”
 
故事ことわざ辞典では「熱心に努力をするので」というくだりがありますが、彼はスイカが好きで貰うことが上手ですが熱心な努力はうかがえません。私たちは「好き」と「上手」の間に「熱心な努力」という思考の優位性をつい挟んでしまっているのではないでしょうか。


こんな一面もあります

2014年8月20日水曜日

映画「365日のシンプルライフ」に興味がある

過日参加した、Playful Learning Summer Fes. 2014 で知った「365日のシンプルライフ」というフィンランドの映画に興味があります。

未だ見ていないので内容はわからないのですが、映画のパンフレットに書いてあることが面白そうなのです。

例えば
「気づくと、部屋はモノであふれている。モノの数だけ”幸せ”はある?」というコピー。

確かに、今、部屋はモノであふれています。毎日、捨てる闘いです。入居した当時はあんなにモノが少なかったのに・・・。また、そのときあまりモノを増やさないようにしたのですが・・・。

また、
「ある実験を決意する。ルールは4つ。①自分の持ちモノ全てを倉庫に預ける②1日に1個だけ倉庫から持ってくる③1年間、続ける④1年間、何も買わない」というコピー。
1日に1個だけ、となると自分なら何を持ってくるのだろうか、興味津々ですね。1年間で365個となると結構な量に思えますが、全て無い状態からですから、それがどのくらいの量なのか、想像出来ません。

ところで自分が最初に持ってくるのは、きっとベッドです。まずは寝床が欲しいと思いました。それは、「どんなモノ」ではなく「どんなコト」をしたいのか、が起点になっていることに気づきます。つまり、「モノ」でなく「コト」で考えると、持ってくるモノを選び易いのではないでしょうか。

最後に「”自分ごと”映画」というコピーですが、「自分だったらどうする?」という問いかけと、「だから自分はこうする」という行為の間には大きな溝があると思いますから、映画のように実験をはじめる人がどんどん出て来たら面白いですね。

映画は8月16日からオーディトリウム渋谷でロードショー上映されているそうです。時間を見つけて見に行きたいと思います。


この椅子に座ってしたいコト それが幸せ

2014年8月19日火曜日

コミュニケーションの量と利他、利己の関係性

ふとしたやり取りの中で考えついたことですが、コミュニケーションの多さは関係性の強さと正の相関を持っていますが、集団やコミュニティにとってポジティブフィードバックを常に与えるとは限りません。

つまり、組織が持つ「大きな目的」を実現するための構成員の関係性を考えた場合、コミュニケーションの改善だけでは不十分であることになります。

そこで、構成員が「小さな目的」に向かうのか、「大きな目的」に向かうのかを分岐するクリティカルポイントを考えたところ、個人的にしっくりくるのが「利他性」と「利己性」でした。

コミュニケーションの多い、少ない × 利他性、利己性 の組み合わせを考えると、

1.コミュニケーションが多く、利他性が高い
2.コミュニケーションが多く、利己性が高い
3.コミュニケーションが少なく、利他性が高い
4.コミュニケーションが少ない、利己性が高い

の4つになります。

このうちの1に関しては「大きな目的」に向かっている良い組織の状態です。2に関しては、「小さな目的」の寄せ集めですからあちこちでささくれ立っていることでしょう。3に関しては、コミュニケーションを改善すると、成果が大きく変わってくる組織です。4はコミュニケーションを改善するとゴタゴタが増える組織です。

利他的行動を説明するのに最初に使われるのが、親による子の保護、母性的行動です。また、女性はコミュニケーション力が高いですから、共同体やコミュニティにおける女性の果たす役割、それも母性的行動の強い女性が果たす役割はとても大きいものです。

これは先ほどの4つの分類とも一致していると思います。

一方、企業において、子供をもつ女性が働きにくい状況であるということは、コミュニケーション力と利他性(母性的行動)の両方が足りていないことを暗示していますから、必然的に組織は4の傾向を持つようになるのではないでしょうか。


利己性には・・・

2014年8月18日月曜日

無言をアフォードする装置

これまでの経験では、多くのメンバーが参加するミーティングで意見交換をする際に、極く若手や社歴の浅いメンバーが積極的に発言することはそう多くありません。入社直後で張り切っているときはまだ良いのですが、仕事に苦闘しはじめる頃になると、疲労もあるのでしょう、以前の元気は何処へやら、すーっと”言わ猿”君に変身してしまいがちです。

日本人には、「曖昧な状況では自己主張をしない特質」があるという説もあるので、すこし周囲が見渡せて、他者と比べて自分の状態が曖昧だと知ることが引き金になっている可能性がありそうです。

グループワークなどを行う際、同じ年代、経験年数を集めると発言が増えることを何となく誰もが知っていますが、それは、環境(周囲の人達)が発話をアフォードしていること示唆する事実です。

逆も真なり、で考えれば環境(周囲の人達)が無言をアフォードしているとも言えます。

ここで考えるべきは、人そのものが発言あるいは無言をアフォードするのではなく、人(他者)との相対的な関係性が発言あるいは無言をアフォードしているということでしょう。例えば、上司、部下の関係性では上司がワンダウンするのが効果的なのもその顕われです。

無言あるいは発言をアフォードするのは目に見えない相対的な関係性という装置であるようです。



かわいいクマのぬいぐるみもアフォードしています

2014年8月17日日曜日

水掛け論を仕掛ける人たち

深川八幡祭は「水掛け祭」と言われ、神輿にバシャバシャ水を掛けます。そういった粋で勢いのある「水掛け」は大歓迎なのですが、うれしくない「水掛け」もあります。

「水掛け論」です。

語源由来辞典によると「水掛け論」の意味は「いつまでも解決しない議論」であり、狂言に由来するという説もあるようです。

「水掛け論」に至る道は3つあると思います。
1.お互いの利益が相反する
2.我を通す
3.責任を回避する

本来の意では1と2のはずですが、仕事のうえで多いのは意外と3ではないかと思います。

例えば、納期が守れないときに必ず出てくる「途中でああ言ったから」とか「その話は聞いていない」という主張です。品質やコストに関しても同様です。

要は、わざと「水掛け論」にすることによって「だから問題が解決出来ないのだ」ということを言外ににおわすのです。「責任はお互い様だよね」というこの言い分、如何なものでしょうか。

国際政治でもこの手の言い分が目立つ昨今ですが、身近な仕事に関して言えば非プロフェッショナル意識の最たるものだと考えています。


「水掛け」は神事だけにしようぜ

2014年8月16日土曜日

自律性と協調性の二者択一

企業の採用において重要視されるのは、主体性であり自律して問題解決しようとする人材です。

ところが、新入社員が入社時に求められるのは、素直さであり慎重さです。

例えば、今日、企業は社会的責任のもとで各種コンプライアンスにまつわるルールを持っています。それは、就業規則であったり、情報管理であったりしますが、覚えなければならない文書がたくさんあります。

要するに、善かれと思ってまず行動することよりも、規範、規律を身につけて良き判断のもとで行動することが求められますし、実際それは評価につながっていることがデータからも確認できました。

そして、職業経験の初期に学習する規範、規律はその後のキャリアに大きな影響を及ぼしますから「行動よりも学習」はかなり重要です。

一方で、成長する社会人にとっての重要成功要因である経験学習では、具体的経験を得るために「学習よりも行動」が先になります。

段階的に考えるのであれば、最初に「行動よりも学習」のフェーズがあってその後「学習よりも行動」に転換すれば良いように思えますが、パーソナリティの観点からは、自律性と協調性は相反する性向であるところがやっかいです。

結論から言うと、自律性の高い人材は、規範、規律が高く求められる組織で社会人としての基礎を積むべきです。一方、協調性の高い人材は主体性が強く求められる組織で社会人としての基礎を積んだほうが良いようです。

良くないのは、逆の組み合わせです。主体性が強く求められる組織で自律性の高い人材が社会人としての基礎を積むと歯止めの効かない人材となる可能性が高くなります。一方、規範、規律の高い組織で協調性の高い人材が基礎を積むと、主体的に問題解決できない人材となる可能性が高くなります。

組織風土にマッチしている人材にとってその組織は初期キャリア形成に不適である

このことを理解しないで、採用、育成を行うとタレントマネジメントにおける根本課題の解決は困難になります。


二択です

2014年8月15日金曜日

共有、共感、共鳴、共同、共通をする前に考えておきたいこと

組織を運営する際に、頻繁に出てきるキーワードがあります。
共有、共感、共鳴、共同、共通などがそれらにあたります。

例えば、共有であれば情報共有。
組織における不満としてよく上がってくるのが、”情報が共有されていないこと”です。

「自分は知らされていない」→だから関係ない、知らない という文脈で語られることが多いと思います。

極端になると、情報共有が無いので隣の人が何をしているか分からない→だから全社的な課題、問題には関われないと仕事における自らの範囲を限定する口実となることもあります。

そこで、情報を共有するメリット、デメリットを考えてみます。

メリット;
抵抗が減り”こと”がスムーズに進む
情報格差による差別意識が減る
横断的なテーマの議論が可能になる

デメリット:
手間がかかる
共有したのだから、と責任が曖昧になる

メリットから見えてくるのは情報共有をする際の目的性です。逆にその目的が達成できない場合、人は無力感を学習し、情報共有を等閑にするようになります。

さて他の、共感、共鳴、共同、共通も似たようなものです。

「共」で大切なことは対象となるメンバー全員の目的のスコープが「共」それよりも大きな視点(何のための「共」なのか)に無いとだめなようです。


ぽつん、とね

2014年8月14日木曜日

忌避性と因果律をたまにはニュースで考えてみる

ブログであまりニュースを取り上げることは好みではないのですが、昨日のブログの流れを受けて2つほど気になったものを考えてみます。

一つめは、テレビ朝日の動画投稿サイト開設において見受けられた強い忌避性の問題です。開設された「みんながカメラマン」というサイトは直後に閉鎖されたそうですが、問題はその利用規約にあったようです。この規約、投稿者は一切の権利を放棄するにも関わらず、テレビ朝日が動画を利用した際(編集も自由!)に問題が生じたら全て投稿者の責任というとんでもないものです。

この動画投稿サイトは、スクープを集めるのが目的ですから、前提が偶有性にあるにも関わらず、想定外の出来事を排除しようと目論む意識には飽きれる限りです。更には、それが報道を担う会社から出て来たことに問題の根深さと病理性を強く感じます。

二つめは、高校野球に関するニュースです。高校野球に関してはおむすび話もありますが、そちらではなくて決勝点を与えてしまった守備に関して流れた「ベンチの指示が中途半端だった」という記事についてです。察するに守備をした選手を気遣った関係者の発言があったのかもしれませんが、記事からは、「因果」に拘る姿勢が強く感じられました。ミスという結果には原因が無くてはならないという文脈です。

選手の話では、打球を処理するさいに頭が真っ白になったとのことでしたから、無意識、反射的に身体が動いて送球したものだったのでしょう。

決まったルールで餌づけされたハトは、ルール外のタイミングで餌が出てくると混乱して踊ってしまうそうです。ハトと選手を一緒にするような話しでは当然ないのですが、個人的には混乱した状況における行動に因果律は無いと考えた次第です。


開いた口が塞がらない

2014年8月13日水曜日

問題解決症候群と偶有性忌避症候群

これまでもブログで何回か妹尾堅一郎さんの「問題解決症候群」を取り上げていますが、脳科学者茂木健一郎さんの「偶有性忌避症候群」とあわせて考えてみます。

「問題解決症候群」とは「問題と唯一解のセットを所与とする思考の病」であり、「偶有性忌避症候群」とは「人生で何が起こるかわからないという「偶有性」を避ける日本に蔓延する風土病」です。

この2つの要素がそれぞれ独立していれば、マトリクス化すると新たな視点を生み出すことが出来ます。

「問題解決症候群」の高低と「偶有性忌避症候群」の高低で組み合わせてみると、「低-低」の組み合わせは「病」ではないので良いとして、「高-高」と「高-低」もしくは「低-高」にどのような違いがあるでしょうか。

「高-低」(唯一解だけど偶有性有りで考える)だと主体性が無いケセラセラでしょうか。「低-高」(自ら解を探れるけど偶有性を嫌う)だと論理的で慣性軌道をはずれない印象ですね。

「高-高」(唯一解と偶有性を忌避する思考が強い)の場合、もう、ダメ押し的な印象です。”何が起こるかかは全て決まっていて誰かがそれを必ず知っている”ということです。

「高-低」は、牽引車に引かれるトレーラ、「低-高」は、線路を走る機関車、そして「高-高」は下り坂の線路を走る貨車のイメージです。

議論の場で考えると、「高-低」は促されると枠にとらわれずに発言をする人、「低-高」は声高に自らの正義を主張する人、「高-高」は発言もしないのに議論のあとでも自らの正義を振りかざす人です。

こう考えると「問題解決症候群」の背後には主体性の有無が隠れているように「偶有性忌避症候群」の背後には偏狭さが隠れているようです。

思考の病を組み合わせると病の重さが見えて来るようです。


空を覆う不吉な雲

記憶を掘り起こす

記憶の多くが、自分にとって都合の良いように書き換えられていることは良く知られています。

その観点から、記憶を掘り起こすことを考えてみたいと思います。

昔の友人と話をするとき、思い出せないことがありますが、その時、記憶を蘇らせるべく記憶の欠片を手掛かりに掘り起こす努力を行います。

運良く、記憶を掘り起こせたとして、それはまさに後付けの記憶ですから、相当、書き換えらているものでしょう。ある意味、新しい記憶の生成といえる行為です。

それは創発でなく意図的な創作です。

この創作は、例えばコミュニティ維持のための行われます。要は、話を合わせる行為です。

こうした共通するコンテクスト作りは、様々な場面で行われます。つまり、社会性を維持することにおいて記憶の果たす役割は大きなものだということです。


これもやがてコンテクストになります

2014年8月11日月曜日

夏休みの自由工作 その1 人材MAPを3Dでクルクル回す

人々の距離感を見えるようにすることはなかなか困難なことです。
そこで夏休みの自由工作第一弾は、このテーマに挑戦しました。

手順は以下の通りです。
1.人のデータを三次元座標化する
2.三次元にプロット(付置)する
3.ぐりぐり回るようにする
とまあ、こんな感じ。

そして、結果は以下のようになりました。画像をクリックするとぐりぐりできます。


三次元座標に関して補足すると、今回の軸は自己効力感、自己中心性、他者干渉性です。
例えば全てが+の座標軸を持つ人は、「やれば出来ると考えがちで人の言うことに耳を貸さない割に他の人におせっかいを焼きがち」で、逆に全てが−の座標だと、「新しいことのリスクに目が届くけど自分がどうしたいかはっきりせず人に任せっきり」な人です。また、すべての座標が0だとニュートラルです。

さて、私はどれでしょう?

2014年8月10日日曜日

女王と女神と女性の活躍

今、上野の東京美術館で開催されている「メトロポリタン美術展 古代エジプト展 女王と女神」を見て来ました。

ファラオになった女王ハトシェプトの物語を中心に、古代エジプトに登場する女神の話や当時の装飾品や化粧に関わる道具などの展示です。

安倍総理が進める「女性の活躍」政策を受けての企画展ではないと思いますが、女性の活躍を考えるには良い機会かもしれません。

私なりに考えると、「女王と女神」は、一見、”もの”(地位)のように見えるけど、実際は”こと”(何を為す存在か)を指しているということです。

これは古代エジプトの神々全てに言えることではないかと思うのですが、例えば、太陽や病気など人が生きて行く、もしくは死後、また再び蘇るためには大切な様々な出来事の象徴となる存在の化身が神で、それは人々の日々の行為と切り離せない、一体化した環境そのものだと感じたました。

さらにその環境と切り離せない存在がファラオであって、まさに”こと”(国を繁栄させる)の存在なのだと思いました。

さて、そのうえで考える「女性の活躍」とは、地位や制度の問題ではなく、何かを為す”こと”です。もう少し突っ込んで言えば、、”もの”(地位、制度)によって有り、”こと”(何かを為す)が無い男性にはさっさと退場してもらい、”こと”を為せる女性がそれを担うことものではないでしょうか。

女王と女神と女性の活躍に共通するのは、”もの”ではなく、まず”こと”ありきですね。


おすすめです

2014年8月9日土曜日

意識と行動の狭間

旅行に行きたいかと聞くと、多くの人が"Yes"と答えますが、実際に行く人は多くありませんし、夏休みの家族旅行など、線引きは難しいですが家族イベント的で消極的な旅行を除外すると積極的旅行者と思われる人はさらに少数です。

良く、2:6:2の法則と言われますが、何事においても積極、消極、拒否の比率に類似性があるようです。

意識面では積極+消極、実行動では積極が対象となってくるため、意識と行動で大きなギャップが生じるのでしょう。

消極者がなぜ肯定意見を持つのかについては、付和雷同、予定調和など性格傾向から本当は違うのだけど、肯定意見に合わせているケースと、実際に行動をしていないのは行動できない理由があるから(時間が無い、などなど)と合理的な理由づけをしているケースがあります。

往々にして私たちは行動に至る、もしくは至らない原因を意識面に求めがちであり、消極的肯定者の存在は状況を混迷させています。

そもそも、積極、消極というのは意識面ですから、意識の延長線上で行動を考えないほうが良いのかもしれません。


行動の閾値を解明

2014年8月8日金曜日

難癖の受け止め方

難癖をつけられたらどうするべきでしょうか。
まずは、「難癖」を辞書で確認してみます。

難癖
→ささいな欠点を見つけて大げさにとがめること。

ささい
→あまり重要でない。取るに足りないさま。

とがめる
→過ちや罪・欠点などを取り上げて責める。非難する。
(以上、何れもgoo辞書より)

これらをまとめると
難癖をつける=あまり重要でない欠点を見つけ大げさに取り上げて責め、非難すること。
ということになります。

まあ、責め、非難されているわけですから、受け方として
1.反撃(受けて立つ)
2.対応(的確に対処する)
3.受容(真摯に受け止める)
4.無視(放っておく)
の4パターンがあります。

この中で1と4はそれ自体がさらなる難癖のネタになるのでやめた方が良いでしょう。

2は相手の本音が別のところにあることを理解しないと対応中にこじれます。
3だけでは何だか腹立たしいです。

ですから2+3がベストアンサーだと思います。
重要では無いにしろ、欠点はあったわけですから、そこは真摯に受け止めたうえで対応することが肝心です。

要は、相手を主語にすると振り回されるので、常に自分を主語にすれば良いのでしょう。


月明かり

2014年8月7日木曜日

”力を合わせて”ってどういうことだろう?

仕事をするということは様々な人と関わることでもあります。特に、物作りの場面では、それぞれの持ち場で力を発揮しながら連携することが求められます。

これは、社内に限らず社外においても同様です。

良く、”力を合わせて”と言いますが、力が合わない時の解決策はコミュニケーションで事足りるのでしょうか。

確かに、「言った、言わない」に代表されるディスコミュニケーションは連携の直接的な阻害要因と考えられます。

さて、人間には理由を後付けする認知バイアスがありますから、ディスコミュニケーションは連携が上手く行かない結果と考えると”力が合わない”原因はどこにあるのでしょうか。

思いつく理由は
1.力が足りない
2.課題が難しすぎる
3.力を合わせようとしない
この3つくらいですが、一方、この3つで多くの事象を説明出来るように思います。

3は論外としても、1、2は「挑戦」的です。あまりに挑戦的だと歯車が噛み合なくなることは良く経験します。また、「力量」には、寛容さやリーダーシップなども含まれるのでしょう。

力を合わせるためには、意志の強さや前向きさよりもクリティカルポイントはお互いの力量なのかもしれません。


”力を合わせて”って、これは楽ちん

2014年8月6日水曜日

成長についての白と黒

”仕事を通じて成長すること”
これは、現代社会で働く人の命題です。

ところで、成長に関して素朴な疑問があります。
以前に取り上げた成長の方程式

成長=f(潜在能力、態度)x(ビジョン、目標 − 現状)

を複数の人にあてはめ比較するとします。

成長A > 成長B となるためには、成長Aは

(潜在能力A、態度A)>(潜在能力B、態度B)
もしくは
(ビジョン、目標A − 現状A)>(ビジョン、目標B − 現状B)
のはずですが、
(潜在能力A、態度A)=(潜在能力B、態度B)
 ビジョン、目標A = ビジョン、目標B
だった場合、
 現状A < 現状B
である可能性があります。つまり、課題感が多いほど成長できるのです。

例えば、新入社員で考えたとき
 ビジョン、目標A = ビジョン、目標B
ということがおきていないでしょうか。

実はこれは数式の上だけではなさそうなのです。
というのも、最初の印象が低いほうより成長したと評価されている可能性がデータからも認められるのです。

これは、育成で考えればおかしな話です。



白と黒

2014年8月5日火曜日

作り手、売り手、使い手の言い分

世の中には様々な商品やサービスが溢れています。それらには、大きく分けて、作り手、売り手、使い手の3つの手が関わっています。

この3つの手は相手のことを意識しながらもそれぞれ自分のリズムで動いています。

作り手のリズムは「納期」です。いつまでに何を作るのか、それが一番の関心事であるわけです。

売り手のリズムは「相手」です。作られた商品やサービスを誰に届けるのか、誰が買ってくれるのかが関心事です。

使い手のリズムは「環境」です。どの場面でどのように使うのか、それはどのような行為を生じるものなのかが関心事です。(意識的とは限りません)

これまでも何度も取り上げていますが、複雑系の学者である池上高志さんは以下のように述べていますので、作り手、売り手、使い手の織りなす世界はカオスです。

”3つ以上の互いに素な周期運動があるとカオスに移行しやすい。内在的に壊れるので、外的になにか特別な事を起こして、周期を破壊する必要はない。”

作り手は、マーケティングなどによって売り手、使い手を意識してもの作りをしますが逆に中途半端になることが多いように感じます。

「勝てば官軍」ではありませんが、アップルの故スティーブ・ジョブズは「ブランディング」「マーケティング」という言葉を一番嫌ったそうです。

アップルの元副社長が言うには、人工的に作り出したイメージや自らの感動無しに売ることへ迎合することを否定したものですが、作り手として「いつまでに何を」に徹底的にフォーカスした姿勢がカオスの状況からイノベーションを創発した原動力になったのでしょう。

この「感動」というキーワードは、売り手、使い手にもあてはまるものです。しかし、それぞれの「感動」は異なる文脈にあることを忘れてはなりません。それを忘れると「感動」の押しつけになってしまうからです。

作り手、売り手、使い手の言い分とは、それぞれの立場や希望や背景・状況を説明するためではなく、常にそれぞれの「感動」を相「手」に伝えることであって欲しいものです。


あさりラーメン 感動した!

2014年8月4日月曜日

仕事はどこにある?

ダンスはどこにある?

哲学者アルヴェ・ノエの問いかけだそうです。
(「野生の知能」ルイーズ・バレット著より)

私たちがダンスをしているとき、ダンスは行為であって所有物や置かれている状態ではありませんから、鞄の中や場所を探しても見つからない、つまり、問いかけ自体が無意味である、同様に「意識」も行為であり「ある」ものではない、というのがノエの自説です。

ややこしくて難し話ですが、確かにダンスを行っているとき、「私たちは自分の動作をその時々の環境に合わせて調整している」(「野生の知能」より引用)のであって、頭の中に「ある」ものとは理解していません。

一方で「意識」は頭の中に当然「ある」ものとして取り扱われます。しかし、実際はダンスと同じで環境とであるという説は興味深いものです。

この哲学の思索を借りて新たに問いかけをしてみると面白そうです。

仕事はどこにある?

私たちは、仕事においてもダンス同様、「自分の動作をその時々の環境に合わせて調整している」ことに疑いはありません。仕事とは行為であって、環境から切り離した「仕事」は「ない」のです。ところが、「仕事」を考える時、自分の頭の中にあって自律的に制御している、もしくは、所有物、または置かれた状況として取り扱われます。

キャリア、職種、業種、企業など「仕事」が「ある」ように見えるのはなぜでしょう。

それは、行為を傍観しているからでしょう。
であれば、行為と行為を傍観する行為(あぁ、ややこしい)はちゃんと分けるべきでしょう。

「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」

仕事はどこにある?

この問いかけに、阿波踊りの”よしこの”が答えてくれているのかもしれません。
傍観する行為を本当の行為だと思うと大損するようですよ。(特に就活生諸君!)

さ、仕事しよっと。


踊ろう!

2014年8月3日日曜日

「カースト制」をメタファーに使う違和感

先日、自画持参で「部活」をテーマにがちゃトークを行ったところ参加者の学生から「スクールカースト」という言葉が出て来ました。

自分はなんとなく聞いたことがある程度だったのですが、当事者に近い世代にとってみるととても身近な言葉であることがわかりました。

「スクールカースト」と同じような使われ方で、「ママカースト」という言葉もあるようです。

これらの言葉には、インドにおける「カースト制度」が持っている歴史や社会階層の実態が写されているわけではありません。

むしろ世論調査で行う階層意識に近いものだと思います。

というのも、当事者でない限り、共有し難い文脈があるからです。

このように文脈の共有が難しい言葉、「パロール」には混乱と発見があります。ですから、「パロール」の実態を知ることはとても価値がある反面、当事者でない以上、気楽に使ってしまわないよう、常に「ラング」とはっきり区別したほうが良さそうです。


階層の残骸

2014年8月2日土曜日

ネガティブをポジティブに変えてみる

とある状況で部下に対して以下のような質問をしたとします。

”なぜ全体を考えて、事前に確認をとらなかったのか”

この質問には、
「考え無し」
「確認不足」
という2つのネガティブワードが潜んでいます。
ですからニコニコしながら穏やかな口調で話しても質問を受ける側に好印象はありません。

そこで、「ネガポ辞典」の力を借りてみます。

ネガポ辞典とはネガティブな言葉を視点を変えてポジティブな言葉にする辞典ですが、考えたのが北海道の高校生というところがすでにポジティブです。

まず「考え無し」ですが、
深く悩まず行動できる、先を憂うことなくなんとかなると前向きに考えられる、今この瞬間を大切にできると3つのポジティブ化がありますが、2番目の変換が面白そうです。

次に「確認不足」です。
この言葉はネガ表現で出てこないので少し意訳します。
「気が利かない」、「中途半端」、「てきとー」、「ルーズ」あたりがの意味が込められていそうです。ちなみに「ルーズ」でポジティブ化すると、「自分のしたいことを素直に出来る」あたりがよさそう。

で文章全体を変換してみると、

”さて、君は先を憂うことなくなんとかなると前向きに自分のしたいことを考えたようだよ”

ということになりそうです。
確かに、こちらのほうが伝えたいこと(フィードバックしたい)ことの本質であるように思えます。ただ、ちょっと嫌みに聞こえるかもしれませんね。


変容の鍵を探そう

2014年8月1日金曜日

続々と廃止される年功が意味すること

生き物は寿命が長くなるほど社会環境の変化に対処しなければならなくなります。ゾウの時間、ネズミの時間という本もありましたが、例えば、3ケ月で終わる一つのプロジェクトと持続的成長を目標とする企業経営では、当然、晒される環境の変化違いがあります。

ゾウは寿命の長い動物ですが、ゾウが環境の変化に適応するためにとっている戦略が最年長の雌一頭を中心とした「女家長」制だそうです。研究によれば、家族単位で生活するゾウは、他の群れとの接触する場面において、「女家長」が高齢のほうが有利なのだそうです。

どのように有利かというと「女家長」が歳を重ねることによって識別能力を向上させ、結果、他の群れが近づいた際に群れが警戒する頻度が少ない一方で、警戒した際の結束が強くなることで群れ全体の繁殖に役立っているそうです。

このような観点で考えると、「年功」は戦略として有効であることに気づかされます。

一方で、「年功」を廃止する企業が目立ちます。

パナソニックが年功制廃止 来年4月、全社員対象へ

業績不振のソニー、年功廃止を検討 給与を競合企業と同水準に

いずれも業績不振企業の施策ですが、今は、敵味方の識別能力の高さよりも新たな可能性の探索能力を高めるほうが必要な社会環境下にあるのでしょう。

これをゾウに当てはめると「女家長」が最年長から若手にスイッチすることを意味します。識別能力の低下は、緊張状態を増やし、長期的に見ると群れにとってマイナスとなるのですから、それを上回る短期的なメリット、もしくは必然性があることになります。

識別能力が低いことによるメリットはクリエイティビティの高さでしょう。

スティーブ・ジョブズの有名な一説があります。

"Stay hungry, stay foolish."

高い識別能力でリスクを回避し、子孫の繁栄に掛けるエネルギーを増やす戦略とはかけ離れた考え方ですが、東京造形大学の諏訪学長がスピーチされた「経験という牢屋」にも同じ文脈が流れていると思います。

要は、年功の消滅は、人生を長いものとしてではなく、「小さな誕生と死の連続」として生き繋ぐ時の訪れを再認識させてくれるもののようです。

Life is little birth and little death. And so on, so on...


ニャンコノネンコウ