2014年6月30日月曜日

光と影

光があたると影ができますが、影をつかった面白いディスプレイを見ました。普段何気に見ているものでも新鮮です。

影は自分の分身ですが、自らの意志を持ちません。付かず離れず、つねに傍にあります。

さて、心理学には投影法という手法があります。自らの心の内面を何かに投影することで、読み解こうとするものです。外からは見えないものを写し出す方法ですが、有名なものでは「ロールシャッハ・テスト」があります。

左右対称のインクのシミを見た反応によって情動や知性などを分析するのですが、何かの影(のようなもの)を見て、自分自身を投影するのですから面白いものです。要するに、影はその人と切っても切れないメタファーとして誰の心にもあるのでしょう。


影は彼、彼は影

2014年6月29日日曜日

ノゥオーと叫ぶ犬

犬と一緒に生活そしていると、犬の行動を理解するために、様々な自分中心の解釈をしていることに気がつきます。

例えば、噛みつき。といっても、怪我になるようなものではなく、こちらからちょっかいを出しているとき、口で応じてくるものなのですが、嫌がって反撃しているのか、喜んでじゃれついているのかそれともそれ以外なのかわかりません。

しかし、犬に対して若干の恐怖心があると、反撃されたように感じ易いように思いますから、自分がそもそも犬に対してどういう気持ちで接しているのかによって犬の行動の理解が変わってくるようです。

これは、犬に限らず、人が自分以外の生き物(もちろん、人間も含む)と接するとき、相手を理解をする際の重要なポイントです。

相手に対して何らかの感情を持った際に、なぜ、そのような感情を持つに至るのか心の深層を探ることで素の自分を知ることが出来るかもしれません。

さて、今日は宅配便が届き、配達の方が玄関に現れたとき、彼(犬)は何故か、”ウォン”ではなく、”ノゥオー”と叫びました。その時の彼の気持ちが理解できないのですが、それはひょっとしたら、彼を理解しようとする想いが足りないからなのかもしれません。


イェース?

2014年6月28日土曜日

未来年表で考える自分の未来の変え方

将来を予測する手法のひとつに「未来年表」というものがあります。過去、現在、未来は点でなく、線であり、面であることに注目して、点と点と結び線にして、面にすることで確からしい未来を予測するものです。

例えば、現在の日本の人口の年齢構成から見て50年後の日本がどのような年齢構成に変わっているかを予測することはそれほど難しいことではありません。人は突然30歳で産まれてくることはないからです。

このように、変わり難い点を繋いで確からしい織物にしていくのが「未来年表」ですが、実際に、10年後に検証を行うと、結構違っています。それには以下のような背景があります。

1.イノベーションによるパラダイムの変化
今まで無かったものが社会を変えます。例えば、音楽配信サービス。インターネットの普及とともに音楽の販売の仕方が大きく変わってしまいました。

2.カタストロフィーによる連続性の崩壊
リーマンショックに見るように、これまで線形で変化していた状況が、一夜にして根底からひっくり返されます。

3.コヒーレント(相互干渉的)な変化
環境への適応は身体的、精神的な変化を伴います。畳の上で正座をする習慣が無くなることにより、日本人の体系に変化が及びます。それは、洋服のデザインを変え、流行の質を変えていきます。1と2が予測不能の大きな変節であるのに対して、3は日々、徐々に進行している変化です。

さて、これらの未来を変える要素と誰もが無縁では居られません。つまり、人の未来は予測不能なわけですが、不思議と何年経ってもこのままなのではないかと思えてしまう人も居ます。そう感じてしまう人の特徴は変化を嫌い、回避しようとすることでしょう。未来よりも常に過去を見ていて自分を傷つけていることも共通点であるように思います。

では、どうしたら自分の未来を自ら変えることができるのでしょうか。1、2は自ら起こす可能性が極めて低いうえに避けられないものですから、残るのは3のコヒーレントな変化が自ら変えることが出来る変化だと言えるでしょう。

自ら環境を変え、新たな習慣を手に入れ、そしてまた環境を変えて行く。こうした、日々の姿勢やちょっとした行動が未来年表を塗り替えて行くのです。そして、自ら環境を良い方向に変えていけば、未来年表は、きっと明るい未来を描き出すはずです。


日々、未来を変えていく

2014年6月27日金曜日

一杯なのに空っぽなことを変えて行こう

謎掛けみたいなタイトルですが、最近感じるのは、仕事が忙しくて一杯一杯のときに何か価値的なものをアウトプットしようとしても非常に困難であるということです。もちろん、アウトプットの量は忙しさと比例して多くなりますし、仕事としての出来が悪い訳ではありません。

そこで、ここでいう価値的なものとは何かを考えるにあたって仕事が忙しくて一杯になっている状態をもう少し考えてみると、それは、仕事と自分のセットアップが密に成されて一体化されている様子であることがわかります。

つまり、超日常的に動き、考え、アウトプットしている状態です。この状態が固着してくると、思考も行動もアウトプットも超合理的になってきて、「自らの世界」に閉じ込められていきます。

人は、自分らしさとは異なる、「自らの世界」の無い(学生)生活から、社会に出て「自らの世界」を構築する(社会人)生活に相転移する際、「社会性の学習」というプロセスを経ます。会社組織だけでなく、社会そのものへの適応も行われる大切なプロセスです。

多くの人が一旦、適応が一段落する30代半ばからは仕事のキャリア、人生のキャリアにおいて新たに山登りが始まります。そこに待ち構えているのが、「自らの世界」への固着です。これは、会社や仕事や職能の固定化というでなく、仕事や人生を含めた「自らの世界」のことです。転職をしたとしても同じ職種や業種を選択している限りは「自らの世界」を固着しているのです。

つい先日、1970年頃にヒットした「パピヨン」という映画を観ました。
パピヨンと呼ばれる主人公が無実の罪で囚われ、本国から遠く離れた領地の刑務所において、脱走と独房を行き来する人間の物語です。

パピヨンは、刑務所という他者に閉じ込められていますが、物語に登場するドガは自ら刑務所に閉じ込められる道を選びます。でも、両者の間に刑務所に閉じ込められている事実の相違はありません。

パピヨンが魅力的なのは、何年も独房に閉じ込められて生きる希望を失うところまで追い込まれながら、それを変えようとする心を失わなかった、つまり「空っぽ」にならなかったことです。ただ、「心地悪い場所だから逃げたい(=心地よければ居座る)」と考えてしまったら気づくべき本質を見失うのだと思います。

キャリア(人生、仕事)の中で、忙しさで閉じ込められたとき、そこで「自分の世界」に固着せず、変えようとすることが、30代後半からの大切なテーマなのでしょう。

もちろん、「自分の世界」無しでは、変えることはできないので有ることが前提です。


「自分の世界」という空っぽ

2014年6月26日木曜日

ちっちゃいことは気にするな! ということの本意

自分だけのこだわりだったり、プライドは、思わず守りたくなるものです。
例えば、会議の中で自分の考え方や意見に対して反論を受けることは決して気持ちのよいことではありません。

「自分の意見を通したい」、「自分の考えを認めて欲しい」。こういった「自分の」が主語になっている場合、何かを成し遂げたいと考えてもそれは目的のなかでも最も「小さい目的」だと言えるでしょう。

ところで、「小さい目的」 に対する「大きな目的」とは、社会への貢献や人類の未来などを指しています。密教では「大きな欲」は良いこととして教わるそうですが、密教でなくとも現代のような混沌とした社会では、「大きな欲」への渇望が強いように思います。

例えば、今回W杯の日本対コートジボワール戦のあとのサポーターのゴミ拾いが話題に上るのはサッカーへの敬意という目的が感じられるからだと思います。

一方、会社の組織風土変革といった組織人にとっては比較的「大きな目的」を達成しようとしたとき、達成へのプロセスをどうデザインするかという大きなKSF(重要成功要因)がありますが、そこには「大きな目的」を達成したいという強い我欲が必要です。

肝心な会議で黙ってしまったり、尻込みしたり、自分のスタイルを主張してしまうのは、「大きな目的」を隠れ蓑にして「小さな目的」にとらわれていることの顕われなのだと思います。

ゆえに、お互い、ちっちゃいことは気にしないで大局で語りあいましょう!


紫陽花にしめ縄 なんとなく梅雨っぽい風景

2014年6月25日水曜日

数量化理論とクオリア

質的なものを分析する手法として、統計数理研究所元所長の林知己夫氏が開発した数量化理論があります。この理論は、質的なものを分析するという発想の斬新さだけでなく、質的なものとは何なのか、という問いかけをおこなっているように思います。

「質」と言うと思い出すのがクオリアです。日本語だと、質感や質感覚と訳されますが、これこそ数値に置き換えることが困難な情報です。

ところで、「わくわく」や「ふかふか」など、質感を表現する言葉があります。言葉は情報を交換する手段ですから、言葉を通じて感じた質の交換をおこなう、つまり、質感は情報として扱えることがわかります。

情報である以上、使い回すことも、増やすことも、減らすこともできる、つまり数として把握できるわけで、量的、質的というのは取扱い方による違い、もっと大胆に言ってしまうと、質的なものの中で特異な性格をもったもの(クオリアのないもの)=量的、なのかもしれません。


もくもく


2014年6月24日火曜日

火事場みたいな日もある

いろいろなことが重なる日、というのはあるものですが、今日はその中でもこれまでにないくらいいろいろ重なった日でした。

今日の打ち合せの準備からはじまり、打ち合せ、打ち合せの電話、提案書の作成x2、新システム開発の検討、現システムの人為トラブル対応、採用面接、顧客から取組み開始の連絡とその対応などなど積み残さずに終える事が出来てよかったです。

明日もW杯の日本vsコロンビア戦を見て、早朝からMTGを行い、顧客訪問が連続し貴社したら部会と息つく暇も無さそうですが、短時間で集中して良いアウトプットを出すためにこれまでの蓄積が役立っていることは間違いなさそうです。


まっすぐに

2014年6月23日月曜日

パワポで作るか、散文にするか それは「伝える」の問題だ

アマゾンではパワーポイント禁止だそうです。ジェフ・ベゾスCEO直接の指示だそうですが、何故、そうなったのかというと、パワーポイントを使ったプレゼンに不満だったベゾスがプレゼン資料のノート欄のコメントを目にしたとき、そちらのほうがはるかにわかり易かったので、以後、パワーポイントが禁止になったとのこと。

そう言われれば、確かにパワーポイントならばプレゼンがわかり易いとも思えません。

池上彰さんは「伝える技術」の中で、パワーポイントの使い方を解説していますが、「伝える」ためにパワーポイントをどう有効に使うかということが主題で、パワーポイントがあれば「伝わる」とは書いていません。

つまり、伝えることが上手いひとがパワーポイントを使って効果的に伝えることが正しい利用方法ということです。

逆に、伝えることが下手な人にとってパワーポイントは逆効果になりかねません。よくあるのが、意味不明な抽象性、盛り過ぎ、大混線です。

説明出来ないキーワードや、多すぎる情報や図版、話のポイントがあっち行ったりこっち行ったりなどは、パワーポイントというよりは伝える人の問題ですが、見えない文脈、自由な配置というパワーポイントゆえの特徴が不明瞭さに拍車を掛けていることは間違いありません。

それに比べて、散文には「文章には文脈がある」「文章を書くルールは一般化されている」といった前提がありますから、パワーポイントを使うことによる混乱は避ける事ができるのでしょう。

ということで、とある企画は、パワーポイントを捨ててワードを使って作成しましたが、マイクロソフトにとってみればどちらでも良いことですね、きっと・・・


鍵と扉

2014年6月22日日曜日

科学と予定調和

温泉宿の読話室には、人の心の内側に開く窓(本棚)がありました。その窓から様々な景色が眺められるのですが、そのなかで目を引いたのが小林秀雄全集です。

この全集のなかに、小林秀雄氏と湯川秀樹氏の対談がありました。

ほぼ、出会い頭のような形で本を開き、気になるところを数ページ探しただけですが、そのとき惹かれたのが「進歩」という言葉です。そして、もっとも印象に残ったのが「結局、科学というものは最後は予定調和的なことをどこかで考えなければ成立し得ないわけでしょう」という湯川秀樹博士の言葉です。そして「科学者が自然は合理的と考えるのは、つまり自分が合理的に考えているのと自然とが予定調和的に一致している」と続けています。

これを受けて小林秀雄氏は「合理的な考え方はやはりそういうところに行きますね」と応えています。

「予定調和」というと、哲学的には「理」そして日常生活ではどちらかというと「妥協」的な印象があったのですが、「統合」においても内在されているのですね。


こんな本棚が欲しいです

2014年6月21日土曜日

部屋にとっての硝子戸と本棚と暖炉

とある温泉宿には読話室という部屋があります。その部屋は、ひなびた中庭に向けて大きい硝子戸があります。

一方、硝子戸に向かって左と後方の壁面には、天井まで届く作り付けの立派な本棚があります。

そして残った壁には暖炉がありました。

硝子戸は、人が出入りしたり、閉じた空間に外に開き視覚や嗅覚によって部屋の中の人の世界を開く役割を果たしています。

本棚は、思考によって部屋の中の人の世界を開きます。

暖炉は、おそらく、人の五感全てをつかって人の心の中の世界を開くのでしょう。

宿の演出とはいえ、見事な空間でした。





人を開く仕掛け

2014年6月20日金曜日

都議会ヤジ問題に見る低俗な仲間意識をもつ組織

毎日、嫌な気分にさせるニュースが多く流れますが、その中でも都議会で飛んだ心ないヤジのニュースは多くの人の関心を呼んでいるようです。

女性都議へヤジ、抗議1千件 自民、発言者特定せぬ意向

この問題は国も推進しようとしている「女性の活躍」について誰が何を考えなくてはいけないのか浮かび上がらせているとも言えるのではないでしょうか。

さて、この問題のこれからの展開を予想してみます。

1.組織が謝罪
世論の盛り上がり→あくまでも発言者を組織的に守る→一層の非難→組織が謝罪→収まらない世論→しぶしぶ個人が謝罪→収まらない世論→責任問題化→組織が当人を処分→組織への非難・・・

2.本人が謝罪
世論の盛り上がり→あくまでも発言者を組織的に守る→一層の非難→しぶしぶ個人が謝罪→収まらない世論→責任問題化→組織が謝罪→組織が当人を処分→組織への非難・・・

3.本人が謝罪し組織が処分
世論の盛り上がり→あくまでも発言者を組織的に守る→一層の非難→個人が謝罪し組織が当人を処分→世論は妥当性を議論→新たな組織の規律と個人の規範が出現・・・

1と2は、ヤジを飛ばした本人や当人が所属する組織自体の問題であるのに対して、3は社会におけるルールの問題として展開するという想定です。

1と2もやがてルールの問題に至ることは明白ですから、問題によって社会がどう変わるのかがこの問題の本質でしょう。

そして重要なのは、ルールを変えるということはコストが掛かることを意味していますが、組織が自己の利益のために防衛に入りルールを変えることに抗った場合、実は、この社会的なコストを組織は代償として負担しているということです。

より大局的なコストを1組織が負担しきれるものではありませんから、最後は組織の崩壊へと繋がっていくのです。

これは、様生な問題を発生させた企業の初期対応とその後の状況を見るとよくわかります。

優秀な組織は、損得勘定を行わずして、正しい規律が組織のコストを下げることを知っているものなのでしょう。


自らを律すること

2014年6月19日木曜日

あまちゃんと真のプロを考える

あまちゃんの放送が終わって大分経ちましたので、「あまちゃん」なんて言うといまさらな感じもありますが、ちょっと、アマチュアとプロフェッショナルについて考えてみたくなりタイトルをつけてみました。

自分のなかのアマチュアからプロフェッショナルに至る道には以下のようなバリエーションがあります。


あまちゃん
アマチュア
仮想プロ
似非プロ
プロ
真のプロ

それぞれを建築に例えるといかのような状態です

あまちゃん・・・資材を揃えている
アマチュア・・・足場を組んでいる
似非プロ・・・・足場を構造と取り違えている
仮想プロ・・・・自分の中にだけ確たる建物がある
プロ・・・・・・・・他者が認める確たる建物を築いている
真のプロ・・・・他者が認める確たる建物を築き、壊し、築き、を繰り返している

日頃の行動にすると

あまちゃん・・・意志が定まらずにあれや、これやとやっている
アマチュア・・・ひとつのことにむかって試行錯誤する
似非プロ・・・・がんばることが目的になる
仮想プロ・・・・自分の正義を振りかざす
プロ・・・・・・・・規律をもって行動し執念を持って結果を出す
真のプロ・・・・自分のルールを変えながら規律をもって行動し執念を持って一段上の結果を出す

こう見ると、「真のプロ」の中に、ルールを変えるためのアマチュアリズムが生きていることがよくわかります。

そして、似非プロ、仮想プロは「自分だけが主語」になっていることがわかります。

今の自分はどのバリエーションにあるのか、常にチェックをしてみようと考えています。


つながっているもの

2014年6月18日水曜日

仮面をつけて仕事をしたら・・・

仕事をしていて気をつけなくてはいけないと思う事があるのですが、自分はわりと顔に気持ちが出やすいようです。まったく出ないのどうかと思いますが、必要以上に相手に伝えてしまうことはぶしつけでよろしくないと思うので気をつけます。

さて、相手の表情によって意見の意味が変わって伝わることがよくあります。これは、非言語的なコミュニケーション、ノンバーバルと言われるものですが、ノンバーバル部分を取り除くと、会話において人が受けている印象は驚くほど共通しているものです。特に観察的に人を見ているときは尚更です。

面接後のレビューなどでは、他者の意見を掘り起こしながら自分の意見が出来ていく過程がありますが、面談の所感を文章で記録して並べるとその共通性から様々な意味が見えて来ます。

そこで考えたのが、本日のタイトル、「仮面をつけて仕事をしたら」です。

パーソナリティの語源と言われる「ペルソナ」には仮面という意もありますから「いまさらそんなこと言わなくても普段から仮面をつけているじゃん」というツッコミもありそうですが、ここで言う仮面は物理的な仮面です。

表情が見えないコミュニーケーションの方法としては、メールコミュニケーションがあります。また、電話でのコミュニケーションは声の調子はわかりますが相手の表情、身体表現はわかりません。そして、仮面をつけると相手の表情のみがわからなくなります。

その場面を想像するに、必要以上に相手の様子を窺うことが無くなるように思います。人間は、会話をするときに無意識に相手の表情に合わせて自分の表情筋が同じように動き、その動きから共感によって相手の気持ちを推し測っているという説がありますから、その説が正しければ、印象的な共感が減り、より本質的な思考に意識が集中するかもしれません。

一度、職場での実験や、実験的にワークショップを行ってみたいものですが、告知の仕方を間違えるとへんな集まりになってしまいそうです。


これも仮面?

2014年6月17日火曜日

質の悪い効力感が気になるこの頃です

デューラーは自己効力感を「結果予期」と「効力予期」に分解して説明しました。「結果予期」は、「こうなるだろう」と感じること、「効力予期」は、「こうできるだろう」と感じることです。

そして、自己効力感とは「自分はそうすることができる」と感じていることですが、時にそれは「根拠の無い自信」ととられてしまうこともあります。

「根拠の無い自信」自体は、行為の可能性を拡げるトリガーであり悪い事だとは思いません。枠に嵌った考え方、予定調和のほうが未来を閉塞させ問題をはらんでいます。

で、「質の悪い効力感」は何かと言えば、「気づき」を妨げる効力感です。「何とかなる」「どうにかなる」という希望的観測の中に紛れ込んだ「質の悪い効力感」は「茹で蛙」状態を招いてしまうようです。ポジティブシンキングと希望的観測の境目を見えなくするのがこの「質の悪い効力感」のではないでしょうか。


境目が見えるか

2014年6月16日月曜日

「自分たちのサッカー」と大局観

W杯初戦、残念ながら日本代表はコートジボワール代表に勝つことが出来ませんでした。試合後のコメントの中で、「自分たちのサッカーが出来なかった」という件が多く聞かれます。試合前も「自分たちのサッカーをする」というコメントがありましたから、試合で自分たちのサッカーを展開することが勝つための条件になっているように思います。

さて、以前、MALLのイベントで囲碁の世界に触れさせて頂く機会がありましたが、その際、印象に残ったのが「自分の思い通りに決してならないゲーム」(確か、そんな表現だったと記憶しています)という言葉と「大局観」という言葉です。

囲碁は白と黒の石で陣地を取り合うゲームですが、それぞれが自分の陣地を広げる&取られないように次の一手を打つため、相手の一手は常に打ち手の希望的観測(こう打って欲しい)の裏(それ、勘弁して欲しい)をかいてきます。

これは、相手があるゲームの本質でしょう。
つまり、お互いに裏をかきあい、自分の思い通りに決してならない中で表現される「自分のゲーム」とは、
1.相手の強みを消す
2.自分の強みを出す
この2つによって初めて成立するものでしょう。

そして、大局観。つまり部分的なせめぎ合いにとらわれず、全体的に良い悪いを判断して次の一手をきめることによってこそ、「自分たちのゲーム」にすることが可能なのだと思います。

日本代表には次の試合では、大局観を持って要所要所で相手の強みをしっかり消し、自分たちの強みをだして、「自分たちのサッカー」を展開して欲しいです。がんばれ!


負けたからこそ、兜の緒をしめて次を戦おう!

2014年6月15日日曜日

「お気に入りの場所」を考える

この世界には、ありとあらゆる「場所」があります。

大辞林 第三版の解説では「場所」は

ばしょ【場所】

①ところ。位置。 「病院の-を尋ねる」
②ある一定の区域。空間。 「車をとめる-がない」 「すわる-を確保する」
③相撲の興行を行う所。また,その期間。 「一月-」

と記載されいています。

一方、東京大学名誉教授清水博氏が著作「生命と場所」のなかで定義している場所とは、「無限の可能性を一つにしぼっていく」という働きをもっています。

この「場所の働き」を考えると「場所」とは単なるロケーションではないことに気づかされます。

例えば職場。仕事をする場所ですが、職場で求められることは、勤勉さ、達成、そして連携(組織力の発揮)などです。これは仕事の仕方を規定しています。そして、ほとんどの職場で共通している規定だと思います。

これは、ローケーションの意ではない「場所」の定義のわかり易い例示だと思います。

このように「場所」には少なくとも「場所」と「場所の働き」の2つの文脈が内在していおり、「お気に入りの場所」と言った場合に、さらに「お気に入り」という主観の文脈も加わって、その人にとってかなり明快な定義があるはずです。要するに、「お気に入りの場所」とは
1.説明できる・・・なぜ気に入っているのか
2.行動は限定的・・・やることが決まっている
で、「自分自身を容易に理解できる場所」とも言えるでしょう。

「お気に入りの場所」を通じて自己分析を行ってみると面白いかもしれません。


彼の「お気に入りの場所」はここです

2014年6月14日土曜日

理解としての「性格」と科学としての「性格」

Facebook投稿から性格を推定し、視覚化するツール」が提供されたというニュースは非常に興味深いニュースです。表面的には見えない人の内面が、Facebookの利用によって手間を掛けずに「見える」形になるというアプローチは、以前にも考えたデータを入力するコストを誰が負担するのか、というデータサイエンスにおける課題を解決してくれる予感をもたらしてくれるものです。

一方、人間の行動、認知、感情などと脳の働きの関係性を分析する脳科学においては、データを集めるために、「多次元生体情報記録手法」といった立体的で網羅性の高い方法が取られています。

Facebookからの性格推定と多次元生体情報記録手法の違いは収集データの構造だけでなく、データの直接取得と間接取得の違いもあります。

直接取得とは、行動の源となる脳の活動自体を測定するのに対して、間接取得は、脳の活動の結果である意識や思考およびその結果表出する行動(たとえばFacebookの投稿)を測定するものです。

間接取得は、人間が持っている不必要な情報を遮断し必要な情報の処理に限られた脳のリソースを配分する仕組みにとっては都合がよい方法なのですが、一方では、それが様々なバイアスとして事実を歪めてしまいます。

それは脳の限られたリソースを最大限活用して迅速に外的環境へ適応することへの代償なのでしょう。

やっかいなのは、「Facebook投稿で性格を推定」と言ったときに、直接取得、つまり科学のイメージを想起してしまうことです。「投稿の分析」としてはよいのですが、「性格の科学的分析」ではないことを正しく認識しなければなりません。


人ごみの中で会話が出来る

2014年6月13日金曜日

神様にとっても未来は不確実なのではないだろうか

今日は、会社の周辺で赤坂にある日枝神社の山王祭の神幸祭が行われました。街を神列(と聞こえました)と呼ばれる行列が巡るのですが、2014年の都心は、車が信号機に従って効率的に行き交い、様々な人がそれぞれのスタイルで目紛しく通り過ぎています。

そのような中で行われる祭は、一種異様な雰囲気を醸しています。

例えば、長い列はいくつかのブロックに分けられ、そのブロックの切れ目に交差点の信号を警察官が切り替えています。また、三車線の路側を通る列を巻き込む形で車が左折していきます。

車を運転する人は、土地に縁もゆかりも無い人でしょう。しかし、クラクションを鳴らすでも無く、淡々と列の折り合いを付けながら過ぎ去って行きます。

通りで祭を見守る人も同じです。銀座に近い場所もあって、外国の観光客と思われる人も静かに列を見守ります。むしろ、列を見ながら大声を出して話をしているのは、日本人のおばあさんたちで、本来は、慣習を守る立場に居そうな人達です。

さて、神様はこのような時代が来る事を知っていたのでしょうか。全知全能であれば、もう少しなんとかなっているような気もします。

それでも数百年の時を超え、神様はこの社会にも根付いていることを考えると、不確実で複雑な状況に対応する力は神様の力なのかもしれません。


神様、写真です・・・

2014年6月12日木曜日

傲慢な人の2パターン

仕事を通じてある著名企業の最高顧問という方と、「傲慢な人」について話をしました。その方いわく、傲慢な人には2パターンあるのではないかと。

それは、「本当は自信が無いのだけど傲慢に振舞う人」と「本当に傲慢な人」です。

この捉え方は確かに的を射ていると思います。このパターンの違いが一番出るのは成果の有無です。

本当は自信が無いのだけど傲慢に振舞う人→内心ではあるべき自分に向かって自分を埋めようとする→継続的に行動が拡張する→成果につながる
本当に傲慢な人→つねに周囲を見下す→行動が拡張しない→成果が出ない

こうなるのではないでしょうか。

ところで、ここで言う「傲慢な人」とは、決して辞書にあるような「おごりたかぶって人を見くだすこと。また、そのさま。」という人だけを指しているのではありません。実は、社交的であったり、礼儀をわきまえていて人を見下している印象を受けない人の中にも実は「傲慢」さがあります。自尊感情が低い「仮想的有能感」とバンデューラが名付けたタイプがこれに該当します。

このパターンの人は、積極的に自ら自分の課題を取り上げ、議論を行っても常に前向きに話が進むのですが、結局行動が変わらないという特徴があります。つまり、「自己革新」が進まないのです。

組織において、リーダーシップを発揮するためにはある程度の傲慢さが必要だと思います。ですから、「傲慢さ」はある場面では「主体的な人物」に見えるし、「自立している印象」を受けるのですが、「自己革新」が進まないと不確実で複雑な状況では、環境に適応できません。そして、今はまさに不確実で複雑な状況です。

さて、話の冒頭に戻りますが、このように背景を整理しなくても重責を歴任された方には真実がちゃんと見えているものですね。


ぎょぎょぎょ 見えてる

2014年6月11日水曜日

創発をデザインする

ビジネスシーンでイノベーションをテーマに創発を考えることはよくあると思いますが、もっと身近な創発、つまり自分自身の小さなイノベーションを考えてみたいと思います。

要は、「昨日の自分と違う今日の自分をどう創発するのか」ということです。

一番最初に思いつくのが、環境の劇的な変化。しかも、危機的状況のほうが効果的だと思います。例えば、3.11などの大災害は図らずしも、昨日の自分と違う自分を創発します。

次に思いつくのが「気づき」。脳科学者の茂木さんは、「不確実性(危険察知)への適応とひらめきの脳回路は同じ場所をつかっている」「不確実であることが創造性の起源になっている」と仰っていますから、「気づく」「ひらめく」とは、まさに脳の内部における創発の瞬間です。

さて、環境というマクロでの創発があり、脳の内部という「ミクロ」での創発がある一方で、その中間が無いことに気づきました。

そこで考えたのですが、おそらくその中間にあるのが「社会性」という人と人の繋がりにおける創発だと思います。例えば、「真似」。意識、無意識に関わらず、他者を真似ることは、社会性を実現する一歩であるとともに、「昨日の自分と違う今日の自分」がそこにあります。

創発とは限定されるものではありませんが、「昨日の自分と違う今日の自分」ということを大中小で考えると、「いつもと違う環境、他人の真似、気づき・ひらめき」を日常にどう、どれだけ配置するかというによって創発をデザインすることが出来るのではないでしょうか。


山王祭はすごいパワーだそうですよ

2014年6月10日火曜日

細胞も「後悔」するのだろうか?

Behavioral and neurophysiological correlates of regret in rat decision-making on a neuroeconomic task

ラットの功利的な意識決定と「後悔」をあらわす行動、神経反応の間に相関がみられた!

こんな記事がネット上で広まっていました。

「生命」とは「自分の時間を生きる」ことであり、「意思決定」の連続です。

「意思決定」は、知能の高度な発揮であるように思われがちですが、じつは、単細胞生物が光や養分のある方向にむかって動くことが確認されていて、このように条件によって行動が生じる状態を「意思決定」と捉える事も可能です。「意思決定」が大げさな場合は、「行動に勾配が生じる」と言い換えたほうが「自然反応的」で納得しやすいかもしれません。

しかしながら、「自分の時間を生きている」生命は、表現はどうであれ、自ら自分の時間の使い方を決めています。ということは、ラットが「意思決定」により「後悔」を示すことと同様に細胞も自らの時間を後悔とともに生きているのかもしれません。

昔、「十二国記」という漫画のなかで、「何を選んでも後悔するのだから、少しでも後悔の少ない(と思われる)方を選ぶのだ」というような台詞があったことを記憶しています。一見、消極的な表現のようですが、実はそれは積極的な選択の実態なのかもしれません。


後悔しないように鍵をかけてます

2014年6月9日月曜日

発見と表現 的確な言葉遣いの難しさ

昨年の春に公開され、話題を呼んだ「舟を編む」と言う映画があります。作家三浦 しをんさんの原作だそうですが、辞書を作る作業の地道さに関心するだけでなく、辞書作りに関わる人々のユニークさに惹きつけられる作品でした。

そして、今年の春、NHKが同様のテーマでETV特集「辞書を編む人たち」を放送しました。本放送を観る事は出来なかったのですが、再放送を録画して観る事ができました。

辞書に無い言葉を見つけたときは「釣りをしていて魚が釣れたときみたいな感じですよ」と、それはもう嬉しそうに語ります。

一方、言葉の意味「語釈」を練り上げていく作業での打って変わった、苦渋に満ちた表情の対比がとても印象的です。

辞書編集の職場に院生がインターンを行っていましたが幼稚園の卒園時以来の辞書好きである院生は、就活や職業体験を越えた、それは見事なインターンぶりを見せて、かなり”やばい”感じです。

 やば-い(形)③若者言葉で、すごい。自身の心情が、ひどく揺さぶられている様子についていう。

さて、自分も仕事の中では、出来るだけ、短く的確な文章で表現しようと試みているのですが、なかなか難しいことと感じることが多いです。多くの場合は、書いて削って並べ直して「うーん・・・」と悩んで時間切れが多いのですが、前述のインターン院生は、街角に出て、アンケートをして客観的な意味を確かめて「語釈」を練り上げていました。

データをとって話を聞いて意味を確かめることの大切さは知っているつもりですが、その意味を表す言葉を的確にするために同じ時間を費やしていたかというとそうではありませんでした。

そこで、これからはもっともっと的確な言葉遣いを探求しようと思います。


発見と表現

2014年6月8日日曜日

アナと雪の女王とドラゴンボールで考える女性の活躍

今更ながらですが、「アナと雪の女王」を見て考えたことです。

見る前に、宮崎アニメとディズニーアニメの違いを論じたブログを読んでいたので、どんな違いがあるか気にしながら見ていました。

前述のブログでは、ディズニーアニメがとある境遇の女性が王子様の出現によりハッピーエンドを迎える展開が多いのに比べ、宮崎アニメは「どう生きるか」を考える展開が多いといったような内容だったと記憶しているのですが、作品は見る人がどう感じるかなのでひとつの意見として面白いと思いました。

さて、改めて映画を見て考えたことは「力」でした。

観ていない人も居るとおもうので内容には触れませんが、主役が女性であることと「力」の獲得の仕方に暗黙の前提があるように感じました。というのも、主役が男性である場合の「力」の獲得には、努力、鍛錬、打開といった要素が「ドラゴンボール」のように配置されストーリーとなっていることが多いのですが、主役が女性である場合「力」はそもそも持っていて、その「力」をどう発揮するかという条件の組み合わせがストーリーになっています。これは、ディズニーアニメでも宮崎アニメでも同じように思います。

私が感じている「力」の獲得における暗黙の前提は、「ドラゴンボール型とアナと雪の女王型」=「エレメントの配列とコンディションの組み合わせ」のようです。

そこで、最近、安倍総理の政策によって今まで以上に注目されている「女性の活躍」を考えるとき、「力」をどう位置づけるのか、「力」の獲得は、ドラゴンボール型なのかアナと雪の女王型なのかといった視点を持つことができるかもしれないと考えた次第です。

もちろん、これはストーリーを描く側の話であり、実際の女性の活躍はこんな単純な二元論ではありません。

ただ、女性ご本人の努力や苦労は別にして、「女性の活躍」をわかり易く語ろうとすると勢い、受けの良いストーリーになりがちであることも事実のようです。


ハナは雨の紫陽花

2014年6月7日土曜日

大人が成長を止めない5つの方法

大人になり、身体的な成長が止まってくると、成長の可能性が残るのは内面的な成長のみになります。内面の成長も、流動性知能と呼ばれる頭の回転や視点の速さは25歳位で止まり、そのあとは結晶生知能、統括性知能と呼ばれる経験を積んで本質を深める能力を高めていくしかありません。

この知能は経験を積む事が成長の必要条件ですから、経験学習のサイクル(具体的体験→観察的省察→抽象化→新たな試み)が大切になってきます。

ところが、熟達が進み慣性軌道を省エネモードで進行できるようになると非日常が消失、心地悪さが敬遠され、具体的体験の幅は狭まり成長が止まります。

どういうことがはじまるのかというと、事実から自分を変えることに気づくのではなく、自分が日頃おこなっている(と考えている)ことを事実によってさらに正当化するようになります。

例えば、他者からのフィードバックに対して「それは課題と考えていてずって取り組んでいます」と言ってしまった瞬間に、そこに気づきはありません。

そこで、成長を止めない方法を以下のように考えました。

1.自分がまだまだ至っていない真理、真因の存在を認める
2.自分の考え方、行動を否定、棄却する
3.居心地の悪い場所に身を置く
4.非日常の体験を多く持つ
5.他者に合わせて萎縮しない

要するに今を越えていくことが成長を止めない方法なのだと思います。


止めない

2014年6月6日金曜日

激しい雨の日はダイアログがオススメの訳

関東が梅雨入りした途端、叩き付けるような激しい雨が降っています。そんな第一金曜の夜は「自画持参」のガチャトークでした。雨のために来れなくなった人も居たのかもしれませんが、最終的には7名でのトークとなりました。

トークは多いに盛り上がったのですが、ひょっとしたら長岡先生が何か書きそうな勢いだったので、テーマに関する話は譲るとして、「天候が荒れると場が盛り上がる」という個人的な仮定について考えてみたいと思います。

高校生だった大昔、当時、田園調布にあった「田園コロシアム」という屋外のテニスの競技場でLive under the SkyというJAZZのイベントに行ったことがあったのですが、その際、大雨が降ったことがありました。

屋外ですから当然、びしょ濡れで、夏場とは言え震えながら見ていたことを覚えています。ところが、そのコンサートは後に名演奏として語られました。激しい雨によって演者の集中力とインスピレーションが高まり、素晴らしいインプロヴァイゼーションが展開されたのです。

さて、以前から、天候が荒れると気分が高揚する気がしていましたが、どうもそう感じるのは自分だけではなさそうです。

そして今日のガチャトークが盛り上がったのも、激しく降り続ける雨のせい・・・だったのかもしれませんが、長岡先生はじめ、参加された皆さんのお力ですね。

でも私は、激しい雨の日は、多少濡れても出掛けてカフェでビールを飲みながらダイアログに参加することをオススメします。とても良い時間を過ごせるはずです。


激しい雨です

2014年6月5日木曜日

和風?洋風?それともまだら模様? グローバルを身近に考える

「日本人の働き方と欧米人の働き方に違いがあって、どうやらその違いに向き合わなければならない」

かつて、国内と海外はマーケットで繋がっていたのが、今では、インターネットの普及で情報の流通がボーダレスとなり、ついには日常生活の一端である「働くこと」までもボーダレスになってきたことを実感します。

日本国内であれば「外人」はマイノリティであっても、一歩、国外に出れば「日本人」がマイノリティです。

我が社の常識は世の中の非常識という話もありますが、内と外の障壁が低くなり、行き交うものが多くなると入り交じりやがては同質化していきます。

内側の純粋な固有種は、外来種と棲み分けるか、混ざるか、絶滅するかを選択出来るわけですが、混ざってハイブリッドになるというのも今風です。

さて、隔てるものが無くなるとなんでも混ざるというのも間違いでしょう。水と油が混ざり合わないことは小学生でも知っています。

しかし、お互いの距離が限りなくゼロに近づくことだけは間違いないようです。振り向けば、すぐそこに。


これ、外来種でしょ?

2014年6月4日水曜日

接近する行動のアクセルを踏む「共感」の力

今日は、ワークスHR交流会でキャメル山本さんの「こんなはずじゃなかったグローバル化」というテーマのお話を聞きました。

いくつものコンサルティングを通して気づかれた全体感、「まだら模様」とそこに対する深い思索、かつわかり易いメタファーと、数多の経験した人にしか見えない世界を垣間みることができ、とても楽しい時間を過ごしました。

その講演のなかで、茂木健一郎さんのお話が出て来たのですが、それによって「共感」の深まりを実感した次第です。

山本さんのお話では、昨日、茂木さんが対談で相手の方に相当喰って掛かっていかれたそうです。

ツイッターを探してみると、以下のツイートがありました。

茂木健一郎 @kenichiromogi  ·  15 時間
い(2)駒場で、ぼくは予想通りかなりの爆発をしてしまって、しかしあくまでも論理的に筋の通った話をしているつもりなのだが、いつものように、わかってもらえない人には全くわかってもらえなかった。しかし、こういう議論が、コマーシャルなベースではなくできるのは、いいなあとも思った。

どうやらこれですね。

以前、茂木さん、池上さん、植田さんの対談を聞いたとき、対談後の質問タイムで茂木さんのが質問者に対してかなり辛辣に受け答えしていたことがあり、山本さんのお話を聞きながらそのことを思い出していました。

そして「そうそう、やるんだよねー、茂木さんは」という「共感」を持った瞬間に、山本さんへの好感度があがったことを実は冷静に自己分析していました。

また、「共感」は気持ちの問題だけでなく、「共感」したことで山本さんに近づき、声を掛け、さらに話を進めるなど、行動面での変化を促していますから、一歩が踏み出せない人は、まず「共感」することからはじめると良いと思います。


共感が行動を加速する

2014年6月3日火曜日

企業研修の効果で考える成長の要因

企業研修を行う際、効果として受講者の満足から業績の向上までいくつかの段階に分けた指標がありますが、個人的には受講者本人の仕事能力の向上と、職場の生産性の改善に結びつく内容だと価値が高いと思っています。

さて、どうやら仕事能力の向上と職場の改善には、研修の内容だけではない要因が関わっているようです。

仕事能力の向上では、他者と関わりながら経験学習サイクルを回す力が関わっています。粘り強く人と関わりながら査察、抽象化、試行を連鎖することで生じる強い達成感が能力向上のエンジンであるようです。

職場の改善に必要なのはタイミングと上司の理解です。ニーズのないところに価値は生まれないことの良い実例かもしれません。

これは、研修だけでなくOJTでも通用する話だと思いますので、能力向上のエンジンと現場のニーズは成長の要因だと考えます。


ぐんぐんのびる

2014年6月2日月曜日

データの取り方を考える

ビッグデータ分析が秀でているところは、自然に大量のデータが集まる仕組みがあることです。というのも自然界には自動的に数値データが集まる仕組みはありません。それもそのはずで、「数字」は数を表現するための記号であり、抽象的です。

データ化とは、具体的な事象を記号により抽象化する作業であり、思考の力が大きく関わっています。

思考の力を使うということは、人の時間の消費、すなわちコストが発生します。ゆえに、データ化には絶えず、誰がそのコストを負担するのかという問題が付いて回るのです。

グーグルがすべてのものをデータ化するために行っていることはデータを生成するプログラムやデバイスの開発です。PCやスマホを使う事で、自然と行為、行動がデータに変換される、一石二鳥の仕組みはデータ化のお手本と言えるでしょう。

ところで、行為、行動がプログラムやデバイスと接続されていない場合、プログラムやデバイスと接続して、行為、行動を入力しなければなりません。コストを体感する瞬間です。

言語解析の技術も進歩していますが、網羅的なデータではありません。

入力せずに効果的なデータを集める方法をなんとか考え出したいものです。


デジカメもデータ化の効果的なデバイスです

2014年6月1日日曜日

美術鑑賞を通してリフレクションする日曜日

今日は、「木梨憲武展×20years」と「バルテュス展」を鑑賞してきました。

以前、ACOPを体験したこともあり、どこが好きでどこが気になるのか、その背景も含めてリフレクションしてみます。

木梨憲武展×20years
とにかく若い人を中心に混んでいました。以外と、順番に並んで鑑賞するなど保守的な若者層?という印象もあります。
モチーフが、木、手、ロボットそして言葉などなどイメージ通り「子供のようなピュアな感性」を感じました。その中でも好きだったのが「お手月REACH OUT 」です。
「月」というテーマに惹かれるのもあるのですが、そこに「手」が丁寧に描かれています。

犬と暮らしていると、犬にとって人間の「足」がとても象徴的な存在であることがわかります。仕事を終えて家に帰ると、足に鼻をくっつけて挨拶をしてきますし、何か欲求があるときは足元によって来ます。

同様に、人にとって「手」は他者と関わる上でとても象徴的な部分であると思います。生まれて一番近くにあるのが「手」だからです。そのピュアな感覚を忘れない作家の感性にくらべ、自分は大分それを忘れているようです。

バルテュス展
こちらはやはり落ち着いた雰囲気です。モチーフは「人間」。それも若い女性をかなりハッとさせられる姿で描写しています。NHKで「バルテュスと彼女たちの関係」という番組を制作、放映しましたが、画家とモデルとの間にどのような人間模様、関係性があるのかとても引き込まれる作品です。

人を描くということは、画家の心のフィルターを通して人を描くことですから、そこに画家が写り込んでいます。

これを作品として、大きなキャンバスに描き出すということはとても勇気の要ることだと思います。案の定、それは様々な評価や評判を受けたようですが、自分自身を開示することより、自分と他者の関係を開示するほうが遥かに「複雑なこと」だと思いました。

それを作風として技術と感性で表現する、アートとは人間の行為のひとつの究極の側面であることは間違いないでしょう。

今日の気づきとしては、ピュアな感覚を誤摩化さないことと、他者との関係を高度に具体的に開示する勇気と技能を身につけることの大切さでした。


アート、アート!