2014年3月31日月曜日

性格は忘れた頃にやってくる

パーソナリティ、キャラクター、性格、性向、気質、資質、癖 などなど人の特性についての表現は非常に豊富です。

これらの言葉はいずれも人を理解することを目的として使われます。もう少し、つっこんで言うと、人の理解を共有するためにつかわれるものです。それは、自分が理解を深めるための場合もあれば、他人との共有もあります。

ところで性格は変えられるのでしょうか、変えられないのでしょうか。これは、ちょうど過去と未来の議論と似ています。

過去はかえられないが未来は変えられる。しかし、未来はそもそも不確定なので「変えられる」ものではない。

どうでしょうか。何となく、性格の本質が見えてきます。

「性格とは記憶であり、想像である」と言えるかもしれません。

そして、不確定ながらがデジャブーのごとくよみがえるもの。性格とはそんなものであるようです。


水の記憶の如く


2014年3月30日日曜日

被害者面して実は加害者

思わず唸ってしまう表現があります。最近、唸ったのがこの表現でした。

外に向けている顔と内に向けている顔が違うとき、腹黒いとか表裏があるとか面従腹背とか様々な表現がありますが、そのなかでも「被害者面して実は加害者」は、最近よく見られる様々な現象や傾向を的確に表していると思います。

例えば、タレントでも、共感を得るために弄られ役を演じているのですが、どうも家庭では様子が違いそうな人がいます。また、国際社会においてもこの戦略は見受けられるようです。

被害者意識というのは人間固有の感情でしょう。コミュニケーションが取れないからわかっていないだけかもしれませんが、人間に近い動物においても不安や恐怖の意識以上の被害者意識があるようには思えません。

関心を持ってもらい、共感を得るために被害を強調するパターンは企業でもたまに見かけられます。「こっちこそ被害者だ」という主張です。しかし、この手の主張は大概、周囲からの反論によって炎上し、最終的に経営トップが責任をとることになります。

被害を受けた旨を明言することを避ける必要はまったくありません。しっかりと発言しなくてはいけない。但し、それは、将来に向けて加害と被害の問題が発生することを少しでも減らすためのものであってほしい。「だからこうしよう」とセットで語ってほしい。そう思うのです。


自戒です




2014年3月29日土曜日

因果律にこだわる不安心理

いんがりつ【因果律】
哲学で、すべての事象は、必ずある原因によって起こり、原因なしには何ごとも起こらないという原理。(goo辞書)

人は未知のことや理解できないことに出会うと不安になります。

不安(ふあん 英語 uneasiness)とは、心配に思ったり、恐怖を感じたりすること。または恐怖とも期待ともつかない、何か漠然として気味の悪い心的状態や、よくないことが起こるのではないかという感覚(予期不安)である。(Wikipedia)

予期不安は、効力感がじぶんに出来そうという感覚(効力予期)とある結果に至るだろうという感覚(結果予期)であることと対照的です。

さて、気味の悪い心理状態にあるときや予期不安があると、人は、その心理状態を改善したり、逃避することで解消しようとします。

そして心理状態の改善において都合良く使われるのが因果律であり、原因探し、犯人探しです。

この因果律と不安心理の関係性は社会の至る所で見られると考えています。もちろん、因果がある事象においては不安心理は関係ありませんから、ここでの主語は因果律でなく不安心理のほうです。

不安心理が強いと理解し難い原因と結果が出現します。また、同時に逃避も発生します。

「今の自分が辛いのはみんなあなたたちが悪いからである。」といって対話や責任を避けている人は、自分の経験では100%、不安心理が非常に強い人です。

そして、心理状態改善のための因果律を振りかざす人を相手にしているとただ振り回されるだけなので距離を置くことが肝要だと思います。そもそも未来は不確実なのです。


偶然ですよ、偶然

2014年3月28日金曜日

承認されたいという自己中心性

罪を犯した人の中に、社会に対する恨みを晴らすことが動機であったと供述する場合があります。社会の中で他者から認められなかったと言う理由です。

確かに、人は生まれた境遇によって人生に影響を受けます。そして自分の人生に不満を持ったとき、その理由を環境のせいにすることは決して珍しいことではありません。

もう少し人の本質で考えると、人には他者から承認されたいという欲求があるといわれます。マズローの欲求五段階説の上位から2つ目の欲求です。また、他者とともにありたいという親和欲求もあると言われますから、疎外されていると感じることは誰にでもある自然な感覚です。

ところで、私たちが日常生活をなめらかに行ううえで周囲の人や物に多く依存しています。依存先が多くなると選択と自立の意識や効力感、統制感が芽生えるのは皮肉な話です。

私たちは、自ら生きているとともに環境から生かされている存在でもあると言えるのです。ところが、承認されたいという意識には「周囲は自分を認めるもの」であるという前提があって、環境から生かされているという認識ではありません。そこにあるのは「感謝」の欠損です。

例えば、道路はどうでしょうか。快適に歩いたり自転車に乗ったりできるのは道路があるからです。しかし、そのことを忘れて「道が狭い」「舗装がわるい」などと非難するのは自己中心的な言動です。

同様に、日頃、社会で生きているのに自分が社会から承認されていないと感じるのは周囲でなく、実は自分の問題だと考えるべきでしょう。

日本もそうですが、個人のレベルからはじまり、国家、国際社会においても、他者や社会、他国を非難する前に自分が周囲に依存しているのか、恩恵を受けているのか、今一度、理解する必要がありそうです。


仕事のお供♪

2014年3月27日木曜日

問題解決症候群育成装置

東京大学中原准教授がFBでナビサイトの「人気企業ランキング上位50社まとめてエントリー」について言及されていました。そのとき頭を過ったのは問題解決症候群です。改めて問題解決症候群に触れると、

問題解決症候群 妹尾堅一郎(1994)

  ・問題は与えられるものである

  ・与えられた問題には必ず1つの正解がある

  ・その唯一の正解は誰かが知っているし、場合によっては教えてくれる

と定義されていています。
先ほどのナビサイトの事例を当てはめると

  ・企業へのエントリーはナビサイトにより与えられるものである

  ・そのなかの1つに内定をもらえれば正解である

  ・その唯一のマッチングする企業は誰かが教えてくれるものである

と、うまく嵌ってしまいます。

同様に、最近よく見る某学習塾のテレビCM。テスト勉強とか採点とかのシーンをパッパと切り替えているやつです。

  ・受検勉強は学習塾により与えられるものである

  ・塾で与えられた問題には必ず1つの正解がある(そのまんま)

  ・その唯一の正解と正解を出す方法は塾が教えてくれるものである

某検索サイトも嵌りそう。

  ・情報検索は検索サイトにより与えられるものである

  ・検索には必ず1つの正解がある

  ・その唯一の検索結果はリストの一番上にある



私たちはどこに向かうのでしょうか・・・


カー(モ)リング かも

2014年3月26日水曜日

現場のプロセスとマネジメントのプロセス

「マネジメントには業務マネジメントと人的マネジメントの側面がある」と言われますが、マネジメントの要素は「仕事と人」に分解できます。

ところがこの要素は重層的に入り組んでいるので、枠組みとして理解するより実際はもっと厄介です。

日本の物作りは主に現場力によって支えられて来ました。仕事を通じて人が育ち、育った人が仕事を作る、その連鎖によって現場力が高められて来たのです。そこにはプロフェッショナリズムによるヒエラルキーとリーダーシップが構築され、その構造をより高めるために改善が繰り返されてきたのです。

一方、経営的観点でのマネジメントにおいては、現場力はひとつの資源として理解されます。故に、変化の先読みと経営の戦略化によって選択と集中、変革や革新が実施され業務プロセスが再構築されます。

つまり積み上げることで現場力を高める業務に対して、組み替えることで競争優位性を獲得しようとするマネジメントの立場があって、そのことを忘れて「仕事と人」を考えることは出来ません。

要は、仕事と人が重層的であるのに加えて、現場とマネジメントも重層的な関係なので場面、場面で状況が揺らいでいるのです。

困難な環境、状況下にあって、経営者も含めた組織構成員は現場、マネジメント、仕事、人、どこに拠り所を持てば良いのでしょうか。

よい組織では、相互に矛盾をはらみながら重層的関係性を維持しているようです。そのツボは相互に尊重しながら恊働することにあるように思います。

一方、上手く行っていない組織では、どれかを上においてそれ以外を下に置くといった階層的関係性になり、それを固定化(「これでいいのだ」)する、またはそれをひっくり返す(「さっきはあっち、つぎはこっち」)ことをしています。

そして、そこで言っている「組織」とは、じつは「組織の中の人」ひとりひとり、そのものであるのです。

それぞれが、硬直化したり朝令暮改にならずに交流と対話によって重層的関係を実現することが現場のプロセスとマネジメントのプロセスを融合する核心だと思います。


個と全体

2014年3月25日火曜日

本当に必要な答えを探して

人材の育成に関して必ずぶつかる大きな問題があります。それは、学ぶ姿勢を学ばせることです。学ぶ姿勢をもっている人には多少の回り道はあっても、様々なきっかけや出来事がサインとなって学びを深めていきます。一方、学ぶ姿勢が弱い人には、どのような出来事を経験させたり、きっかけを与えれば学びを深めるのか、なかなか答えが見つかりません。

そのような時にかならず言われる言葉があります。

「覚悟を決めて、時間をかける」

この言葉には、難しいことという示唆だけでなく、暗に、「それはできないこと」「やらないほうがよい」という考え方が潜んでいます。

確かに、よく観察すると、学ぶ姿勢が弱いからといってまったく学びが無いことはありません。当人なりに何かしら学んでいるのですが、その量や深さが「足りない」のです。

「足りない」ことには理由があります。ですから、いきなり「足りる」状態にはならないのだと思います。

様々な活動を通して、この理由に近づきたいと考えています。


探しています

2014年3月24日月曜日

誰かの気になることが気に障ったらそれはチャンス!

会議や打ち合わせの場で求められて意見を述べたとき、場の空気が悪くなることがあります。

そのようなときは、「あーまた何か言ってるよ」とか「そーじゃないだろ?」といった空気がバンバン伝わって来ます。もちろん、時に(よく?)自分も同じ空気砲を発射しているのであいこです。

さて、このように、誰かが何かを気にしているときに苛つくことがあるのは何故でしょうか。いくつかの場面を考えてみます。

1.場のリズムに合っていない場面
とてもせっかちな人にとって、マイペースで語られるとイライラします。この場合は、リズムの不一致が苛つきの原因です。場にも特有のリズムがありますから、そのリズムに合わないことは場を苛つかせます。

2.思考のスタイルに合っていない場面
論理的思考を好む人にとって、状況説明を続けると苛つくのが手に取るように伝わって来ます。情緒的な思考スタイルを好む人にとって論理的に話をするのも同様です。

3.自分のアウトプットに意見される場面
一生懸命作ったアウトプットに対して、頭からこうしたほうがいいとかここが良くないとか言われると苛つくことがあります。自意識が強いときほど苛つくようです。心的リアクタンスが影響しているものと思われます。

4.疲れたり悩みがあったり、忙しかったりとイライラしている場面
そもそも疲れてなんだかイライラしているときは、ちょっとした意見でも苛つきます。

などなど、もっといろいろありそうです。

「気に障る」という感情は、快・不快を司る脳の扁桃体の働きです。そしてその効果は不快さの除去に向けて行動を創発することにあります。

行動を創発するもの、それは「やる気スイッチ」ですから、不快さを発散せず内省することは成長に大きなチャンスでしょう。


気になる?


2014年3月23日日曜日

言葉と理解を切り離すこと

深川不動堂では、毎日、定時に護摩祈祷を行っています。読経と太鼓と火炎によって、ご本尊に祈祷を捧げ、「煩悩を清らかな願いへ高めて成就させる力をもつ」(HPより)そうです。

護摩祈祷はとても荘厳なパフォーマンスで、時たま足を伸ばすのですが、今日は、「
不動明王御真言」という小さなメモを頂きました。僧侶の読経にあわせていっしょに読むらしいのですが、意味がわかりません。サンスクリット語だそうです。

ふりがながあるので読む事はできるのですが、きっと大事なことが書かれていることを理解できずに口にするのはあまり心地がよくありません。

お経にくらべ、企業が掲げるビジョンや理念などがサンスクリット語で書かれている事はないと思いますが、共有、浸透に苦労しているケースが見受けられます。特に、「あるのは知っているけど・・・」ということが多いようです。丁度、私がお坊さんから「不動明王御真言」を頂いたのと同じような状態なのでしょう。

「言葉の意味がわかる」とは、他の人に説明できる状態にあるはずですから、斉唱や伝言ではなくいろいろな場面に引き当てて語れなければなりません。そのためには、多くの人や場面において説明を聞いたり体感する必要があります。

言葉と理解を切り離さないようにしたいものです。


ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー



2014年3月22日土曜日

「大学生と社会人」という枠組みを外して考えてみる

大学生から社会人への移行について考えることが多いこの頃です。そこで、「大学生と社会人」という枠組みを外してみようと思います。

「大学生」の定義は「大学」に所属する学生とです。
では「社会人」とは何でしょうか?

1.高校、大学、大学院など学業を終えた人・・・学業を終える=社会人と言えるのか疑問が残ります
2.職業に就き仕事をする人・・・こちらの方が社会人というイメージに近そう

仕事とは他の人のインプット(物質、知識などあらゆるもの)になるアウトプットを出すことだと考えますから「職業に就き仕事をする」とは、道を定めて社会に対し貢献することと言えるかもしれません。

一方、大学生は将来の貢献に備えてインプットする人とすると、インプットが中心の生活からアウトプットが中心の生活にかわるのが大学生から社会人への移行です。

さて、「大学生と社会人」には、インプットからアウトプットへの転換が見えて来ますが、枠組みを外して見渡すと、その転換は生物においては次世代を育む段階にいたることを指していることに気づきます。そして、「次世代」が一番本質的なアウトプットだと思うのです。

こう考えると大学生から社会人への移行はは段階的成長でなく、相転移の如く別の相へ変わることを意味しているようです。

格好よく言うと、ステップアップでなくパラダイムシフト。
なんとなく困難さが見えてきます。


シフトです

2014年3月21日金曜日

説明が共感を生まないわけ

「わたしは他者の話を心を込めて親身に聴くいている」 Y:はい N:いいえ

本人は、結構、努力をして話を聞いているつもりでも、「なんだか興味ないみたい」とか「つまらなそうに聞いている」とか「ちゃんと聞いている?」などと問われることがあります。

困った事に、そのように問われたときは「あまり興味のない話」であり「つまらなくて」「右耳から左耳へスルー」していたりするので、答えに詰まってしまいます。

傾聴スキルがある人は、「あまり興味のない話」でもこのように問われるようなことはないのでしょうが、それは、聴く行為が上手で「心を込めて親身風に聴く」ということなのかもしれません。

一方で、他者の話に関心や興味がある場合は「傾聴」などと言わないでも「心からしっかりと聴いている」状態です。

関心や興味が湧く、湧かないの境目にあるのが「共感」だと思います。

「共感」には度合いがありますが、ここで言う「共感」は「同じものを追う目線」であり相手にとっては主体的な活動です。
それに対して、「お互いに向き合っている目線」の代表が説明を行う場面です。

説明は、相手に理解してもらうことが目的ですから、相手の目線を大変気にしています。これを相手の立場にたって考えると、「自分の目線に合わせてくれる」ことであり、「説明を受ける」と表現するように受け身な活動です。

受け身に立つと、話は「興味がわかない」「つまらない」「ちゃんと聴かない」ものとなりますから、説明は「共感」という主体的な感情からほど遠いものなのです。


おもしろいものに説明は要らない!




2014年3月20日木曜日

とても厄介な「かわし癖」

とても頭が良くても、ほどほどでも共通している厄介な癖があります。

それは「かわし癖」です。

1.知能が高い人の「かわし癖」
質問や疑問を投げかけると、至極もっともな理由を上手に並べて問いかけをかわします。回転の早さともっともらしい説明によって問うた人の納得を得てしまいますが、よく考えると問いかけに答えていないことがわかります。この癖をもっていると明晰な頭脳を壁を越えるための道具として使えず、頭脳に振り回されて壁を避ける道を選んでしまいます。

2.ギブアップ宣言型の「かわし癖」
目の前に壁が現れると早々にギブアップしてしまうのがこのタイプの特徴です。自己弁護することもなく、あっさりと力不足を宣言してそれで終らせようとします。「それじゃだめだよね?」と投げかけると「そう思います」と答えるのですが、「でどうする」が無いので結局はかわしています。

3.寝技が好きな「かわし癖」
論点をすりかえることは間違いないのですが、そのすり替え方にとても人間味があるのがこのタイプです。例えば、相手の好きそうな物をプレゼントしたり、誘ったりしながら、本質課題から目を背けさせる技能があります。特に矛先が自分に向かう瞬間にそのスキルを発揮します。

「かわし癖」の問題点は、事の本質に届かないことでしょう。つまり、問題や課題が永遠に解決されない構造です。

もちろん「かわす」ことが全て悪い訳ではありません。しかし、「癖」になっていると無意識の領域に留まるので自分で統制できません。そこに、この「癖」の難しさがあります。


向き合いましょ

2014年3月19日水曜日

「吾思う吾を思う吾」 ってなーんだ

なぞかけのようなタイトルですが、自分のパーソンリティ診断の結果を見ている状態を言い換えるとこうなります。

また、それをブログに書いている今の状態は、

「吾思う吾を思う吾を思う吾」

ということです。

「考えることを考える」ことをメタ思考と言いますが、それで言うとタイトルはメタメタ思考、いまの状態はメタメタメタ思考です。

語感からは、メタメタとかメタメタメタは、どうしようもなくダメな印象を持ちますが、実際はメタ思考のさらに上位の思考です。

人は自分を客観的に捉える能力を持っています。「幽体離脱」という現象は、その能力を司る脳の部位の働きによって引き起こされるという実験結果も報告されていますから先天的に持っている能力なのかもしれません。

さて、自身を客観的に捉える能力が高まると何が起こるのでしょうか。

身近なところでは、メタメタ思考、メタメタメタ思考を行っているひとは、自分の性向や癖を語るようになります。言語化と発話が生じるのです。

「私を語る私」の出現です。

この行為は大変重要で、「私を語る私を聴く私」の出現により、ここでもメタメタになっているからです。

もう、メタメタメタメタメタメタメタメタ・・・・・

ということで要は、メタのループ回数が自動的に多くなる繰り返しの効果によりありのままの自分を謙虚に受け止めることが出来るようになることを実際に確認しています。

ただ、受け止めたからといって性向や癖が変わるかと言えばそれはまた別の問題です。


めためたやねん

2014年3月18日火曜日

時間と空間の対称性に浮かぶ月

・・・・・生きようとするものを岸の方へいざないながら ひとの中に潮が満ちる ひとのなかに海がある 月の呼び 月のめぐるまま ひとの中に終らない暦がある・・・・・

谷川俊太郎 愛について-月のめぐり より


めぐる

2014年3月17日月曜日

ビジョン、マネジメント、キャリア、ライフの四方位

時間と空間の2軸を交差させると、ビジョン、マネジメント、キャリア、ライフの4つのエリアが現れます。

キャリアとビジョンは「未来」に向かい、マネジメントとライフは「今」を捉えます。

ビジョンとマネジメントは「組織」という空間を、キャリアとライフは「パーソナル」な空間です。

私たちはこの4つの方位の間を振り子のように振れる力を推進力にして前に進んでいるのでしょう。


むかえ!

2014年3月16日日曜日

不適応と成長の境目を考える

人は存在として環境とのカップリングで理解する必要があります。その際、環境と相互に干渉しあいますが、相互にネガティブに干渉しあう場合と、相互にポジティブに干渉しあう場合とがあります。

今回は、ネガティブに干渉しあう場合を「不適応」、ポジティブに干渉しあう場合を「成長」と考えてみたいと思います。

何に対してネガティブ、ポジティブかと言うと、未来(結果予期)に対してです。結果予期がネガティブであれば「不適応」、ポジティブであれば「成長」と定義してみるわけです。

「成長」とは、目標と現状の差分を埋めることですから、目標に対する結果予期が前提となりますが、「不適応」は目標ではなく、現状の改善に対する結果予期が前提であり、相互に干渉し合うプロセスが異なります。

また、干渉し合うプロセスにおいて「不適応」は人と環境が相互にストレスを与え合うのに対して「成長」は内的報酬によるモチベーションを形成し合う関係性であることも大きな違いです。

このように、「不適応」と「成長」の違いが生じるのは何故でしょうか。

ヒントは冒頭の「環境とのカップリング」にありそうです。

企業において「不適応」と「成長」が意識されるのは、入社後の組織社会化、育成、熟達、業務遂行の過程においてですが、採用場面でなかなか境目が見えないのは、準拠集団が異なるためでしょう。

多くの企業では、採用と育成を分けて考えており、境目を見えなくしている一因と考えられますが、そもそも異なるカップリング下での「存在」を同一視すること(段階的な成長や大学から企業への連続性を前提にすること)に問題がありそうです。


環境とカップリングしています

2014年3月15日土曜日

人の本質という中心化傾向

人は自分を中心に物事を認知し、思考し行動しています。ゆえに、その人なりに個性があり、人の本質を理解することが大切であると考えられます。

でも、ほんとうにそのような「人の本質」ってあるのでしょうか?ちょっと考えてみます。

動物や昆虫には「脳」があります。脳を持つ生物にとって脳をその生物の中心と捉えることは一見、合理的ですが、生物は必ず空間的、時間的環境の中で存在することを考えると、その世界の中心に「脳」があると考えることは、思考が生み出す顕著な「自己中心化」です。

自分を取り巻く世界も含めて自己の「存在」を考えると「脳」の働きとは、自分と世界を繋ぐ連結器のような役割であって「存在」の本質とは思えません。脳科学の進歩は、脳がいかに偉大な機構であるかということより、いかに「なめらかな存在」であるかということを明らかにしているように感じます。

組織のおける自分と、家庭における自分。管理職としての自分と、夫としての自分。

環境と相互的な「存在」の本質は、世界と一体になって語られるものであり、世界から人だけを切り出すことはナンセンスです。

ゆえに、思考という脳の働きにおいて作り出される「人の本質」というイメージに囚われるべきではないと考えます。


「存在」すること

2014年3月14日金曜日

ストーリーと統計の違い

「ストーリーとしての競争戦略」の著者である一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授の楠木建氏は、ストーリーは順列であると述べています。「あれと、これと、それ」ではなく「ああして、こうして、そうする」ということだと思います。

前者の考え方は統計的です。Aが起こる確率は○%でBが起こる確率は○%だからAとBを行うと○%であるとい考え方はもっともらしさを表現するにはわかり易いアプローチです。数値が大きい、もしくは小さいということが判断の基準になるので、誰から見ても同じ理解を得やすいのです。

このアプローチは、多様な民族によって社会が構築されている欧米においては一般的です。

それに対して後者では、例えば3つの順列をそれぞれ2つの要素から作ると2の3乗で8通りの中からどれを選ぶかというアプローチになります。「なぜ、この1つを選んだのか」という唯一無二のプロセスがどれだけ共感を生めるのかに掛かってくるのです。

共感作りをテーマとするこのアプローチは、多様でない民族によって社会が構成され、多くの前提が共有されている日本において好まれ易いものです。
また、楠木教授の「ストーリー=空間的広がり+時間的奥行き」という定義は、禅的な世界観にも近しく、その観点からも日本的であると言えるでしょう。

この2つを比べると統計的なアプローチは、議論を収束させるときに便利で、ストーリー的なアプローチはその人ならではの決断と共鳴するのに便利であることがわかります。

これらのアプローチを場面によって使い分けられると効果的なのでしょうが、私たちが何かを判断する時に選好しているアプローチは、気づかないところで生育的、社会的影響を大きく受けているのでしょう。


ここに神社がある確率か、なぜここに神社があるのかというストーリーか
お好きなのはどっち?



2014年3月13日木曜日

居心地の悪い組織のレシピ

社員の離職率が高かったり、労働環境が苛酷でブラック企業と囁かれたりすると働く人にとって芳しくない環境であると判断されます。確かに、社員の不安や不満、苦痛を放置する会社経営に弁解の余地はありません。

では反対に、素晴らしいと言われている企業は、社員にとってどのような組織なのでしょうか。そんなことを考えることがありました。

ひとつはサイバーエージェント藤田社長の記事を読んで思ったことです。同社の話は様々な形で世に知らされていますし、直接、お話を聞かせて頂いたこともあって新たな発見があったのではないのですが、自分が同社の社員であったり管理職、役員であったらどう感じるのかなと思ったのです。

さらに、トヨタの社員や管理職、役員であったらどうでしょう。

想像の域を出ませんが、どちらにしてもどうもとても居心地が良いと感じるとは思い難いのです。

というのもどちらの組織にしても社員が安住しているイメージがありません。むしろ、ぶれない軸をもって自分たちにとって居心地を悪くする工夫をしているように感じるのです。

多くの企業では滞留する人材の活性化に頭を痛めていますが、社員は入社して10年くらい経つと仕事に熟達します。一度、慣性軌道に乗ってしまうと7〜8割の能力発揮で業務を進められます。自転車で言えば、どっかりとサドルに腰をおろし、それまでにつけた勢いで平地を楽にペダルを漕いでいる印象です。

それに対して、前述の2社は、競技用の自転車のように、ペダルを踏まないとブレーキが掛かるし、サドルは飾り程度で座るものではない感じ。「会社は、ちゃんと自転車をメンテナンスするけど、自転車に乗って道を定め走るのは君だよ」という関係性であって、そういう会社の人は、「良い組織」と言ってもは「居心地の良い組織である」とは決して言わないでしょうね。

さて、居心地の悪い組織のレシピですが、

1.味覚の整った社長(シェフ)
2.安心と公正を実現するルールと制度
3.惰性(経験や同じ場所や人)の仕事は切り落として捨てる
4.学習と創発、異なる人々やロケーションを中火で焦がさないように混ぜ合わせる
5.大さじ一杯の挑戦を入れて
6.失敗(しょっぱい)塩とスパイスを少々
7.素敵な皿(オフィス)に盛りつけて完成

といったところでしょう。


本日はおしまい

2014年3月12日水曜日

「気づき」を阻む6つの癖

「気づき」のあえる仕事は楽しいものです。仕事のなかでお互いに「気づき」合うと、仕事を終えたとき、自分の成長をより強く実感できるからです。それは、達成感による満足と効力感によって一層の拡張があるからでしょう。

一方で、意図的に「気づき」を与えることは難しいと感じます。特に、気づいて欲しいと思う時ほど感じますが、それによって、気づかせたい側に「気づき」が無いかというと、そんなことは無く、お互いに気づき合う時以上に気づくことがあるものです。

ところで、これまでの経験を通して「気づき」を阻む癖を考えてみたところ以下の6つが思い浮かびました。

1.謙虚さの無さ・・・プライドが高かったり功利的で、自己正当化する癖がある

2.言い訳・・・「がんばりました」(これ以上は無理)的に自己防衛する癖がある

3.知識偏重・・・理論や理屈、権威的思想に傾倒し人の心を慮らない癖がある

4.せっかち・・・早合点し、すぐに結論を出して終えてしまう癖がある

5.盛り癖・・・虚言、戯れ言など妄想的で事実から目を背ける癖がある

6.不安症・・・自己不信、劣等感が強く情緒が安定せず情動の嵐に流される癖がある

これら6つのうち、複数が重なると「気づき」からは一層、遠くなります。

もう少しプロファイルすると、6つの要素を兼ね備えた最強の場合「心的リズムも頭の回転も早く、勉強好きで成績は優秀、頭は良いが固定的知能観を持ち上位意識と不安心から他者を信頼できずに見下す」というのが人物像です。

要するに自分は誰よりもわかっている(未来も…)し実践している(一番!)という奢りが「気づき」を阻むのでしょう。


気づきましょ

2014年3月11日火曜日

あなたならできるわ

東京京橋にあるLIXIL GINZAにはギャラリーが3つあって、無料で展示を見ることが出来ます。 会社から近いこともあって、たまに昼休みに見に行くのですが、今回の展示もちょっと面白かったです。

ギャラリーによっては写真をとることが出来るので、彫刻など立体的な作品を写真に撮って楽しむこともできます。

今回の展示は「伊藤幸久 展 Ito Yukihisa Exhibition -あなたならできるわ-」。
タイトルからして面白いのですが、作品はなかなかインパクトが強いものでした。

それは、時間が奪われた空間的日常です。


時間を意図的に奪うことによって、逆に私たちの脳は、時間を補完しているようです。


彼等が動き出すように感じるのです。


しかし、それは錯覚以外の何者でもありません。


だたそこに「ある」だけです


そして、私たちと同じ、壊れやすい存在です

2014年3月10日月曜日

「読み通り」 and 「結果オーライ」の予感強化ルーチンとその棄却法

不確定要素のある仕事をしていて、結果が出たときに「ほーら、やっぱりそうなった」と思う時と、「いろいろあったけどまあ良かった」と思う時があります。

自分的には、前者はどちらかというとネガティブな結果なとき、後者はポジティブな結果なときに思うことが多いように思います。

例えば、これまで、繰り返し上手く行かなかった仕事が前に進みはじめたとき、どこかでまた上手く行かなくなる予感があります。

そのひとつが社外との連携です。ビジネス上の連携の話では、始め調子良く盛り上がってもどこからか雲行きが怪しくなるタイミングがあります。要するに冷める瞬間です。

冷める三大要素は、「見込みを立てない、面倒くさい、持続しない」です。

一方、社内の連携でも冷める瞬間がありますが、そのときの三大要素は「通じない、変わらない、やる気がない」です。

残念ながら冷める予感は当たったと感じます。
恐らく、ネガティブは予感は危険予知の一環なので、この「予感が当たった」印象は、学習効果によって次の予感を強化しネガティブな読みを強化します。

一方、まったく予期していなかったのに上手く行ってしまった時は、「結果オーライ」と考えてしまうことで結果的には「予感強化ルーチン」を保護し、ネガティブな学習の棄却を妨げます。

この「予感強化ルーチン」を打破するためには、「通じる、変わろうとする、やる気がある」仲間と組んで、「見込みを立て、根気強く、執念を持って」いる社外の人と連携するのが一番です。

「なにをするか」ではなく「だれとするか」が大切なわけです。


仲間と執念 ね

2014年3月9日日曜日

学習能力と問題解決力に「偏差値」は有効か?

グーグルのラズロ・ボック人事部門担当上級副社長の「グーグルの5つの採用基準」という話がネット上に出ていました。ポイントとして取り上げたいのは以下の点です。

「すべての職務について第一に重視するのは、学ぶ力」
「何らかの問題に遭遇したとき、リードするために適切なタイミングで立ち上がるか否か」
「この環境内でリーダーとして効果的であるためには、自ら権限を手放す意思を持つ」
「謙虚さと主体性。問題解決に向けて努力するためには、「責任感と主体性を持つリーダーになること」が必要。そして謙虚さは、他者のよりよい発想を取り入れるために身を引くこと」

ボック氏は、知能指数や大学の成績評価GPAでなく、学ぶ力や問題解決におけるリーダーシップの在り方に言及しているのですが、メンバーの学習能力と問題解決力は組織運営をしてると常に直面する主題です。

まずは学習能力に関してですが、大学の成績に関しては、大学の入試を脳科学者茂木氏のツイートで考えさせられました。

茂木健一郎 ‏@kenichiromogi (連続ツイート1189回「ぶっつぶせ、偏差値入試!」より)
”大学入試もそう。ある人が、入試のために奈良の興福寺の境内のどこになんという建物があるかとか覚えたとか言っていた。意味わからない。ペーパーテストの単一基準による偏差値入試は、自由な能力の開発を妨げる点において逸失機会凄まじく、日本の国益から見て巨大な損失と断ぜざるを得ぬ。”


茂木氏は偏差値入試が機会損失を生み国益に巨大な損失を与えていると述べています。

人間は、外的足場に頼ること(ボルタリングを思い浮かべてください)で有限な脳の資源を、より高次なアウトプットを行うために開放すること(ボルタリングでは支えを作って、自由な手や足を確保します)が出来ます。そして、活用頻度の低い情報で脳を占有するということ(開放した手に買い物をぶら下げる行為)は、間違いなく大きな機会損失ですから、茂木さんの主張には説得力があります。

私は、学習能力の正体とは、この「脳資源を活用すること」と考えています。それは、脳の活動と、その活動をより効果的にするために外的足場に依存することを意味しています。

もう少し、わかりやすくすると、学習能力とは「小さな脳がより大きな仕事を遂行すること」です。

さて、批評の対象となった偏差値入試ですが、偏差値とは何でしょうか。
偏差値は以下の数式で計算されます。(Wikipediaより

T_i=\frac{10(x_i-\mu_x)}{\sigma_x}+50
ただし、
\begin{align}
&\mu_x=\frac{1}{N}\sum_{i=1}^Nx_i\\
&\sigma_x=\sqrt{\frac{1}{N}{\sum_{i=1}^N(x_i-\mu_x)^2}}\\
\end{align}

つまり、ある項目で、自分の得点とその項目の平均点の差分を、その項目の得点のちらばり具合で割ることで異なる他の項目と同じ基準で比較するすることが出来るようにするものです。

簡単に言ってしまえば平均との差を表しています。ですから、「偏差値が高い」とは、平均よりも高い数値であることを指し、ある角度では特定の課題に対して「より大きな仕事」を遂行したと言えます。

しかし、学校教育における課題と、社会における課題には大きな違いがあります。学校教育における課題は、人の「脳」単体の機能を中心に扱われるのに対して、社会における課題は、人の「脳」とその外部環境の接続性、連携性において扱われます。

ボック氏が言う「学ぶ力」とは、まさに社会における課題に対して「小さな脳がより大きな仕事を遂行すること」であり、その行為が問題を解決するのが「問題解決力」なのでしょう。

ここに問題の本質が見えて来ます。

偏差値が悪いわけではありません。偏差値とは、平均より高い(大きい)、低い(小さい)を可視化する指標でしかないわけです。そして、「学習能力」「問題解決力」は脳が向きあう「仕事」を遂行することです。

となると、「仕事」の定義に本質があることになります。

ボック氏は、「問題解決力」として「より効果的であるために自ら権限を手放すリーダーシップ」を挙げました。それは、能力の発揮です。この良い事例があります。

宇宙飛行士界に見る、30代から「伸びる人」に出てくる油井亀美也飛行士の選抜面接時のエピソードです。宇宙飛行士の選抜は過酷で、わざとトラブルを発生させてその対応を見るそうです。以下、記事の一部を転載します。

”「見ていた審査員はうなりました。状況が変わったときの対処能力、問題点の整理。油井さんは自衛隊出身で、しかも部下を指揮する幹部自衛官でした。優先順位づけを徹底されてきた経験を駆使したのでしょう。でも、そのままリーダーシップは執らずに、あえて補佐役に徹した。その『ポジショニング』が絶妙だった」

就職試験ではとにかく目立ちたいと、自分の手柄をアピールしがちだ。だがその誘惑に負けないバランス感覚を、審査員はきちんと見ていたのである。”

宇宙飛行という「仕事」の定義がここに見えてきます。


まとめます。

これまでは「仕事」とは、徐々に大きくなるものと考えられていたのだと思います。それは中学、高校、大学、就職、管理職、役員、定年引退といった階段(階層)を登ることを意味します。そして偏差値の基準となる平均値は、各階ごとにあったのです。

ところが、より大きな「仕事」に対して学習能力を発揮し、社会にとって複雑で難易度の高い問題を解決することが求められようになって、階段(階層)の構造が多くの領域で崩壊したと言えるでしょう。

結果、「平均」という基準は階層内固有の基準に相対化し、階段の絶対的指標であった「偏差値」が採用基準において指標性を失い、国益における機会損失と認識されるに至っているわけです。

小さな脳がより大きな仕事を遂行し、社会を取り巻く複雑で突然出現する大きな問題や課題を解決することに対して、偏差値(学力に関わらず)は説明率が低く、まったくの役不足にあるのだと思う次第です。


長くなってしまった・・・


2014年3月8日土曜日

3つのコミュニケーションレベルと放射線問題

コミュニケーションは、空間的および時間的把握において3つのレベルに種別することができます。

1.顔を付き合わせたコミュニケーション(空間:狭、時間:短)
2.習慣や様式などとして共有されるコミュニケーション(空間:広、時間:中)
3.遺伝される情報によるコミュニケーション(空間:広大、時間:悠久)

3年前の3月11日、東日本大震災に端を発した福島第一原発の爆発事故により、莫大な放射性物質が環境に放出され、3年経ってもまだ、事故の完全収束も見えていません。この大事故後の課題をコミュニケーションのレベルに相対させてみると、

避難、補償金 → 1.(空間:狭、時間:短)
仮設住宅、移住 → 2.(空間:広、時間:中)
除染、放射性物質の最終処分 → 3.(空間:広大、時間:悠久)

ということになります。

1に関しては、交渉、説得など解決の方策が明確ですが、2になると情報の伝播に時間が掛かり、複数に及ぶため誰に何を交渉するのか、説得し合意形成するのかが不透明かつ困難になります。そして3にいたると、DNAの解読や操作であったり、未来永劫放射線を管理出来る施設の構築などが必要で、短期的(人類の歴史にくらべて)な話し合いではまったく解決ができません。

東京オリンピックの招致で、首相は福島第一原発の汚染水に関して「状況はコントロールされている。私たちは決して東京にダメージを与えない」と3のレベルを1のレベルと同一視してしまいました。それが政治と考えてのことなのかもしれませんが、とても残念なコミュニケーションです。


花のいのちは短いが植物の延々と継承されている

2014年3月7日金曜日

贈りものを考えた

今日は、ガチャトークの日。加藤教授はどうも三宅島に行かれた模様で不参加でしたが、長岡教授のグサグサ刺さる話も聞けて気づきが多くありました。

考えさせられたのは、タレントは贈りものか、という件です。

教育者としては、受け入れられないという長岡教授の話も感覚的にはよくわかりますが、一方で、「タレント(才能)」という言葉を日常的に使っている身としては、言葉の使い方にもっと気を遣わなければいけないと気づいた次第です。

個性という観点で見れば、努力すれば得られるものと努力とは関係無しに持っているもの(持っていないもの)いずれも「タレント」の領域だと考えるのですが、二項対立的に考えればそれらは異なっています。

個性を「taste」と表現した長岡教授の明晰さは置いておくとしても、生体的に獲得した前提と、外的環境と関わるなかで顕在化する傾向性、それら両方を重層的に内在する「人間」はなめらかで複雑です。


個性

2014年3月6日木曜日

いま、ここ を考える

季路問事鬼神、子曰、未能事人、焉能事鬼、曰敢問死、曰未知生、焉知死、

季路が神に仕えたいと訪ねたら、孔子は「人にも仕えていないのに神に仕えるなんて」と言った。死について敢えて聞いたら「生きることもまだ知らないのに死を知るなんて」と言った。

という意味だそうです。(論語より)

私たちは自分のこともよくわかっていないのに、他人のことに言及します。孔子の謙虚さを持ってすれば、それは理に適っていません。

教育者でないのに育てる、学ぶ身でありながら人を教える、実経験がないのに論評する、こうした理に適わぬことが多くありますが、それに慣れるのでなく、違和感を持つことが大切なのでしょう。

それは、「いま、ここで自分は何をするのか」に気づくためのヒントだと思うからです。


違和感がスイッチ

2014年3月5日水曜日

拙いコミュニケーションはネガティブな評価を強める

同じことを違う人に説明しても伝わり方は一緒ではありません。今日はそんなことを感じることがありました。

これは、説明の上手、下手ということではなく、会話のストロークから感じる印象です。

現象として起きるのは
1.聞き返す
2.食い違う
3.同席者が言い換える
の3つです。

キャッチボールで表現するとわかり易いと思うのですが、届かない、構えたところに来ない、他の人が拾ってくれるといった光景はキャッチボールであれば習いたての子供によく見られる光景です。

また、質問があるか訪ねても何も出て来ないというのも、キャッチボールであれば望ましくない行為です。

キャッチボールでは下手なことが誰にでもわかるのに、コミュニケーションでは下手さが見逃され何となくモヤモヤして終ってしまいます。

おそらく、目に見えないやり取りであることがその原因だと思いますので、言葉のやり取りが目に見えたら拙さがわかり易くなったらコミュニケーション力はもっと向上するのことでしょう。ビデオにとって見返すのも良い方法です。

さて、拙いコミュニケーションの後にややネガティブな情報を聞いた場合と、なめらかなコミュニケーションの後にややネガティブな情報を聞いた場合ではどちらのケースのほうが、相手に対するネガティブな印象が強くなるでしょうか?

今日の経験では、明らかに前者の方が総じてより低い評価になり、後者は逆に信頼感が生まれました。両面呈示の心理効果が働くのでしょう。

さきほどのビデオ活用の他に、なめらかなコミュニケーションを実現する方法を考えると答えは簡単で、たくさんコミュニケーションを取ることなのだと思います。キャッチボールと一緒です。そして、コミュニケーションは行わずに過ごしているとどんどん錆び付いていくことも実感します。


錆び付かせてはいけません

2014年3月4日火曜日

クレイマーな集計 注)クレームの数ではありません

TVで「クレイマー、クレイマー」を放送してたのを見て、ふと6年位前に男手で子育て(といっても幼児ではありませんでしたが)をした257日間に作った料理のメニューを集計してみました。

その結果は以下の通りです。

1位.マーボ豆腐 12回
2位.ミートソース  9回
3位.塩鮭 8回
3位.鶏肉のトマト煮 8回
5位.カレー 6回
5位.ホイコーロー 6回
5位.豚肉とキャベツのトウバンジャン炒め 6回
8位.ブリの照り焼き 5回

1回しか作っていないメニュー177種

一番多く作ったのはお弁当で125回でしたが、それ以外に作った料理ではマーボ豆腐が1位であったことはちょっとビックリです。というのも、今でも時に休みの日に作る料理ではマーボ豆腐が一番多いからです。当時は、簡単に作れるものを使っていた記憶がありますが、今は、甜麺醤、豆豉醤、豆板醤などを混ぜて素人ながらちょっと本格的に作っています。

いずれにしても、マーボ豆腐好きだったことをいまさら気づいた次第です。

料理って、結局自分が好きなものを作るのでしょうね。


中華が多いのぉ・・・

2014年3月3日月曜日

アウトプットは求められて出すものではない

採用面接で応募者が提出する物は、中途であれば、95%が履歴書、職務経歴書、あと応募書類です。新卒であれば、履歴書と応募書類(エントリーシート)ですが、2〜3種類の書類と口先で志望の本気さを伝えることは可能なのでしょうか?

書類を見ながら、会話を通じて人柄や経験や能力を判断しようとしても、雲を掴むような感じで抽象的な印象を拭えません。そこには何も具体的なアウトプットが無いからです。

経験や経歴はアウトプットではありません。足跡です。そして私たちが「仕事をする」ということは他者にとって良いインプットとなるアウトプットを出すこと、今から未来に向けて生み出す行為です。

面接している人材が、今、そして将来においてどのくらいのアウトプットを出すことが出来るのだろうか、それが、一番の関心事なのですが、それに応えてくれる人材は極めて稀です。

募集要項に「作品持参」とか記載すれば何かを持って来てくれるのでしょうが、課題ありきではなく、何も求められなくても志望する会社にとってよいアウトプットを持参すれば、その人材の人柄、経験、能力、そして意欲、貢献心すべて見えてくると思うのです。課題は自ら創るものです。

社会人も学生もそこは一緒のはずです。

おそらく、意欲の高い人材が集まる企業では、採用応募においてもアウトプットする人材も居ることと思いますので、それらの人のスタイルが早くスタンダードになって欲しいものです。


採用活動だけでなく、日頃の仕事でも圧倒的にアウトプットが不足していると感じることがあります。そういう人に限って、情報が少ないとか、よくわからないとか、もっと詳しく説明して欲しいなどと口にする気がします。

そう言う人は、自分がアウトプットしないのはインプットが少ない(悪い)からだ、と暗に語っているのでしょう。

何を出すのか明確になったらちゃんとアウトプットしますというのではいつまで経っても良いアウトプットは出せません。アウトプットは求められて出すものではないと思うのです。


期待より貢献 って言うじゃん



2014年3月2日日曜日

「社会人基礎力」 へー、なるほど。で、どうするの?

「いわゆる「社会人基礎力」に関するメモ」というブログのエントリーで、「社会人基礎力」がOECDが2003年にまとめたキー・コンピテンシーに源流があるのではないかという考察に接しました。

前述のブログのように、「考え方」の源流を辿ることは理解を深めることに役立ちます。

一方で、キー・コンピテンシーと結びつけることで生涯を通して蓄積していくべきスキルであるとの言及と大学教育での部分性については考えさせられました。

人材に対する企業の求めと、大学教育の限界性。
私には、企業が必要とする人材を誰が育成するべきなのかといった議論や取り組みが今ひとつ腹におちていません。登坂するための足場と滑落を防ぐザイルがどこかで入れ替わってしまっていくように感じてしまうのです。

「主体性」にしても「社会人基礎力」にしても主役は誰なのでしょうか。


咲かせている? 咲いている?

2014年3月1日土曜日

意欲を失わせる「似非豊かな社会」の罪

大学生の4割が全く本を読まないという記事が配信されたあと、これをどう考えるのか思いを巡らせています。「書物とは、目にし、手にとることで記憶を蘇らせる装置」(山本貴光)であるならば、「本を読まない」ということは人生に「空白の期間」を作ることになるでしょう。

記憶が失われることは悲しいことですが、記憶が創られないことはもっと悲しいことのように思います。

一方で大学生にかんしては、「”就活自殺”の背景に迫る」で取り上げられている深刻な問題があります。今の日本は、正直者はバカを見て、いざというときに何もしてくれない社会で緊急避難的に正社員を希望するが、就活が上手くいかずに強いストレスに晒されるという状況と、「空白の期間」に何らかの関係性は無いのでしょうか?

プロフェッショナルはいつくるかわからない15分のために準備をしているとカーデザイナーの奥山清行氏(「人生を決めた15分 創造の1/10000 」)の話をTVで見たことがあります。それに対して、来ることがわかっている、ある程度の人生を決めるタイミングに「空白の期間」から臨み、緊急避難する状況は、あまりにもプロフェッショナルから遠く離れています。

そして、そのような状況の何処を見て「豊かな社会」と言えるのでしょうか?

30年前、大学4年のときに「社会の発展と勤労意欲」について考えていました。生活のために「強い」必然性を持って「働かざるを得ない」状況の、「強さ」が弱まって、「なぜ働くのか」と問える余裕が出て来たときに、それまで以上に強い動機を持って仕事に取り組む道筋を考えたのですが、その後の30年間の社会人経験を通じて、その仮説が強まることはあっても弱まることはありません。

実際、自分の周りを見回しても、自身の目標やビジョンや強い関心に向かっている人にとっては本人の「強み」も「弱み」も大きな推進力になっていますが、目標などが無い、もしくは極めて薄い人にとっては「強み」も「弱み」も前に進まないことの言い訳に映ってしまいます。

そして、その推進力のひとつが、より多くの足場をもつことであり、「読書」もその一つだと思うのです。

ボルタリングというスポーツがあります。壁についている様々な突起を使って壁をよじ登るのですが、読書のイメージはまさにその突起です。そして、本を読まないということは突起のない壁を登るようなものです。

しかしながら、「空白の期間」は、冬眠期ではありません。そに時期に行うアルバイトやサークルなどはそれぞれが突起になっているのでしょう。しかし、それは壁を昇るための突起ではなくて壁に寄りか掛かるときに倒れないための手摺りでしかありまえん。

「豊かな社会」とは壁を昇る手掛かりとなる突起をどんどん増やせる社会である一方、「似非豊かな社会」とは壁に寄り掛かり腰掛け易い頑丈な手摺りがある社会であり、そのような社会は壁を登ることを忘れさせてしまうのだと思うのです。


壁を昇る