2014年1月31日金曜日

囲碁の世界に触れる人に触れる

今日は、MALL:経営学習研究所のギャラリーモール「囲碁の世界観に触れ今年の生き方を考える ―囲碁体験を通じて新年の序盤に布石を打つ―」に参加しました。いつもMALLのイベントは人気が高く、抽選に当たってラッキーです。

さて、今日は参加しながら、実はイベントに参加する人を見ていました。それというのも、「囲碁」というゲームであり、ひとつの世界観に対して、多くの囲碁未経験の参加者がどのように適応していくのかに興味があったからです。

方法は簡単で、登壇者に背を向けるだけです。

振り向けば登壇者に集中する参加者の視線がありますが、それは「ルールを学んでいる」ことを意味しています。実際に囲碁を体験するにあたって、どのように行動すべきであるかまさに知識を吸収しているところです。

「ルール」は行動の前提です。ですから囲碁の「ルール」を身につけることは囲碁の世界の住人になることを意味するのでしょう。実際、体験するに囲碁の世界は魅力的です。そして、こうして参加者は新しい前提を身につけました。

私たち一体、いくつの前提を身につけるのでしょうか・・・


マイケル・レドモンド(Michael Redmond) (公益財団法人日本棋院所属棋士九段)さんの話は囲碁の魅力をさらに高めてくれました。

直感力、大局観、コミュニケーションなどなど、いろいろなことに役立つ予感はたくさんありますが、とりあえず今日は、囲碁の世界にちょっとだけ触れたことを大切にしようと思います。


碁石の価値

2014年1月30日木曜日

世の中は気づきが溢れているのだけど・・・

Facebookにしても、街歩きにしても、読書にしても様々な気づきがあります。「あ、そういうことか」であったり、「え、なにこれ」であったりと、それは頭の上で見えない裸電球がピカッと光った、学びが始まる合図です。

この、「ピカッ」のためにデータをグラフ化したり分析したりするのですが、いざアウトプットを作ると困る事があります。

それは、誰もが「ピカッ」となるベストな方法がなかなか見つからないことです。

そこでなぜ、「ピカッ」とならないのか理由を考えてみます。

1.裸電球が無い
実は、「ピカッ」となるためには見えない裸電球が頭の上に浮いている必要があります。ところが、そもそもそれが無い人は当然、「ピカッ」となりません。
様々な情報を意味化する準備(readiness)が無ければ気づきは生まれないでしょう。

2.電気が流れていない
例え裸電球が浮いていたとしても、断線していたり、配線が間違っていれば「ピカッ」となりません。他のことに気を取られていたり、思い込みによって電気を流し損なえば気づきは生まれないでしょう。

3.電流が弱い
裸電球を光らせるためには一定以上の電流が必要です。活性が低いと薄ぼんやりと気づきますがそれで終わりです。

4.常時点灯
非常等のように常に点灯していれば「ピカッ」となりません。あれやこれやとはしゃぎ過ぎたり、騒ぎ続けていたりすると真の気づきには至りません。

ではどうしたら、人を「ピカッ」とすることが出来るのでしょうか。

会議やワークショップなどではファシリテーションが大切なのは、気づきを得るための「気づきのための準備」「気づきの連鎖」「集中と統制(フロー)もしくはのんびり、ゆったり(リラックス)」の3つです。

さて、このような環境が常に整うとよいのですが、各々がファシリテーション無しにレポートのグラフを眺めるだけで「ピカッ」とするのはなかなか難しそうです。


ピチョン とね


2014年1月29日水曜日

知識を使うこと、使ってもらうこと

学生であれば授業、企業であれば研修など知識を得る場面はたくさんあります。それらの得た知識を実際に使うために何が必要なのでしょうか。

なぜ、このようなことを考えるのかというと
「昨日、言ったじゃん、あれだよ、あれ」
といった感じのことが多いと感じるからです。

知識は使ってもらうために伝えるわけですが、受け取った側はすぐにそれを使えるわけではありません。

それには3つの理由が考えられます

1.理解できない
2.使う場面が無い
3.応用出来ない

1について、知識を与える側に理解出来るように工夫する必要があります。
2について、1が活かせるように機会を作り出す必要があります。知識は実際の体験によってはじめて当人にとっての知識となります。
しかしながら、難しいのは3です。そしてそれは、当人にとって知識をつかう必然性が生まれて無いことによるのだと思います。

例えば、人は困ったとき、思いを巡らせたり、試行錯誤しますから知識を求めさらに活かそうとします。しかし、困っていないときはどうでしょうか。得た知識は飾りになってしまうのではないでしょうか。

「あれだよ、あれ」と言った時に感じる「気づかなさ」の背景には、「本当は困っていない隠れた意識=真剣に向き合っていない状況」がありそうです。


困ってなんぼ

2014年1月28日火曜日

()「カッコ」に入れて考えること

「会社に行く」、「会議に参加する」、「研修で学ぶ」、「顧客に提案する」、「寿司を食べる」、「お酒を飲む」、「家で寝る」、これらの日常を()「カッコ」に入れてみます。

(会社に)行く
(会議に)参加する
(研修で)学ぶ
(顧客に)提案する
(寿司を)食べる
(お酒を)飲む
(家で)寝る

()「カッコ」に入れた言葉は私たちの日常における”前提”です。

一方、()「カッコ」からはみ出した言葉は、私たちの”前提”のない行動です。

「社会的である」とは、行動に”前提”をつけることであり、その”前提”が多いほど、「自立」した状態とみなされる訳です。

例えば、赤ちゃんは「階段を登る」ことができないので自立していないと見られます。つまり、()「カッコ」が少ないと「依存」していることになります。

ところが、(階段を)を括ってしまえば、「何かに登る」動作は出来ます。

そして”前提”を()「カッコ」に入れてしまうと私たちは「自由」です。

そこで、まずはいろいろなものを()「カッコ」に入れてみたいと思います。


自分も()「カッコ」に入れる

2014年1月27日月曜日

大気が色づく Photo Story

すぐそこに色づく季節が来ている


Colors of Stairways


Flowers has come 


Dry and Green Leaves


Burger !


Red Bench


Colorful Lights


Crescent and Bird in the Sky

2014年1月26日日曜日

企業の障害者雇用促進と障害者グループホーム開設反対運動

今朝、NHKのニュースで、各地で障害者グループホームが住民の反対運動によってなかなか開設出来ない現状が紹介されていました。

障害者グループホーム開設への住民の反対相次ぐ

これは、障害者差別解消法が昨年成立し、行政と事業者に対して差別解消の推進が求められる中で差別解消が進まない地域コミュニティの暗い一面です。

一方で、従業員50名以上の企業においては、障害者雇用率制度によって2%以上の障害者の雇用義務が課せられています。企業によってその取り組みに差異はありますが、仕方なく、ではなく積極的に推進している企業がたくさんあります。

以前、IT大手企業を訪問した際、雇用されている社員の方に美味しいコーヒーを入れて頂きましたが、真剣に仕事をする姿勢とそれをサポートする周囲の社員、そして、当たり前に受け入れている現場の空気に感銘を受けました。

おそらく地域コミュニティにおいても、決して反対するコミュニティだけではないと思いますし、コミュニティの内部においても皆が反対してるわけではないでしょう。しかしながらニュースが切り取った断面には、どんな人間や全ての社会に根ざす「意識」の偏向が表出されています。要は、「自分ごと」です。

大分前に亡くなった兄は障害者でした。昔の兄を取り巻く環境の厳しさは身を持って知っています。また、兄を支えていた親や周囲の負担、苦労も知っています。ですから、どちらが良くてどちらが悪いという短絡的な結論は出せません。反対活動をする人の指摘は全てが間違っているわけでもありません。

では、「自分ごと」としてどう受け止めるのか考えます。

「自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと」という記事にふれて障害者とは「依存先が限られてしまっている人たち」との指摘にハッとしました。

社会のルールや地域コミュニティの掟に適応するなど、差別を受けない存在とは、多くのものに依存する事で他者に迷惑を掛けていないように映るのであり、差別を受ける存在は、多くのものに依存できない実態により依存できるもの(絶望を分かち合う存在)が重要になるのでしょう。

逆の視点に立てば、差別を受ける存在は差別する側が依存できない、自立にとって不都合な障害であり、それが排斥につながるのかもしれません。

まとめると、「自分が多く依存先によって自立できてことを知り、周囲に感謝するとともに、より高度な自立を目指して依存できない対象を不都合な障害ではなく、新たな依存先としていくこと(依存できるかたちをつくること)」が「自分ごと」の姿です。

先ほどのIT大手企業は、障害のある方にもしっかりとミッションを与えて評価していました。
排斥ではなく依存の模索。それは「自分ごと」の具体化です。


舗道に感謝

2014年1月25日土曜日

楽園を五感で捉える

楽園と言うと”南の島”みたいなイメージがありますが、五感にとっての楽園を表現すると少し様子が異なるのではないでしょうか。個人的にそれぞれで楽園を感じてみると・・・

視覚・・・広大な空間と自然の摂理を見る。例えば、満天の星空、ご来光、大海原など

聴覚・・・アコースティックな生演奏を素敵な音響の場で聴く。

味覚・・・身体を動かしたあとのビールやフグのひれ酒。

触覚・・・愛する存在に触れる。

嗅覚・・・空腹時に漂う食べ物の匂い。

全てを纏めると”南の島”ではありませんが、視覚はそれに近いようです。やはり、人が取り入れる情報の7〜8割が視覚からなので、そのイメージが強くなるのかもしれません。

さて、第六感にとっての楽園とは何でしょうか。
そこに「超越した存在」があるように思います。


匂いの楽園

2014年1月24日金曜日

どこで咲き実るのだろう・・・

いつでも死ねる草が咲いたり実つたり 山頭火

退職の連絡をもらうたびに、いつも2つのことを考えます。

ひとつは、「次の活躍」、もうひとつは「離職の何故」です。

職業選択の自由が保証されるなかで、組織と個人の関係は雇用契約ですが、心的な関係性には相互に「共存」「共生」「隷属」「敵対」という4つの類型があると考えています。

そして、組織と個人、それぞれがどの立場をとっているかで以下の表のような事態が表出されます。


止むを得ない事由による退職は除き、個人の選択の自由における契約解除では、少なからず、組織の思い如何に関わらず、個人に「この組織ではやっていけない」という敵対心があるように思います。

この心的な関係性において人はその場で咲いたり、実ったり、そして去ったりするのでしょう。



ここで咲いています

2014年1月23日木曜日

ビジネスの旬は2周目以降

ビジネスパーソンは常にアウトプットを求められます。それは、成果であったり、プランであったりと形態は様々ですが、次の人のインプットになるものです。

「インプットし、アウトプットする」と書くと何となく一方通行の道路のようですが、実際の仕事では、そのようなことは滅多にありません。

例えば、「情報を集める」という仕事があったとき、集めた情報に対するフィードバックを受けてさらに次のアウトプットが発生します。

フィードバックが無い仕事もありますが、それらは機械化されたり、コストの安い海外に移ったりする絶滅危惧種です。

逆に考えれば、「フィードバックを受けない仕事はそのうち無くなる仕事である」と言えるかもしれません。

次に視点を仕事の当事者からサービスの提供者にシフトします。

仕事柄、様々なレビューやプレゼンを行いますが、反応が薄いものはそのあとが無く、必ず終わっていきます。当たり前といえばそれまでですが、そこに大儀の有無や、合目的的か否かはあまり関係ないようです。

このように、業務、マネジメント、コンサルティング、営業などすべての仕事場面に通じる法則であるように思います。

身近なところでは、若手の仕事スタイルもその一例かもしれません。
上司が忙しいことを良いことに自らフィードバックを受けに行かないとその若手はいずれ仕事が無くなる可能性が高くなっているのではないでしょうか。

質問、要望、相談、そしてクレームも含めてフィードバックを受けているうちがビジネスの旬だと言えるでしょう。


Give me feedback !


2014年1月22日水曜日

自分を変える3つの手掛かり

ここ何回かの文章をまとめると

なめらかな行動は無意識に社会性を発揮している
行動の結果から得られるフィードバックによって意識がうまれる
意識はつぎの行為への勾配を作る
行動は行為のコレクションとして複雑に表出する

ということになります。

難解なのでもう少し簡単にすると、
人は何気になめらかに行動し、何かを感じるのだけど、いい感じだとまた行動したくなり、悪い感じだと行動したくなくなる。しかし、ほんとうに行動するかどうかは、色々な事情によって人それぞれ、予測しづらいものである
といった感じでしょうか。

ケースで考えると
私は渋谷の雑踏を他人とぶつからずになめらかに歩くけど、混雑で不愉快になり2度と来たくないと思った。だけど、好きな人が「渋谷で待ち合わせしましょう」と言ってくれたので、会いたさから渋谷に行くことにした
みたいなことでしょう。

分解すると
・渋谷をなめらかに歩く
・混雑に出会う
・不愉快になる
・渋谷を回避する
・好きな人が渋谷を指定する
・会いたい
・渋谷に向かう

そのなかで、「なめらかに歩く、出会う、回避する、向かう」が行動、「不愉快、好きな人、会いたい」が意識に関わる記述です。

無意識の適応的反応と意識化によるフィードバックを足場とした次の行動の創発。

外向、場、(拡張的)内省

新たな行動の創発=自分を変える手掛かりはこの3つかもしれません。


3つの手掛かり

2014年1月21日火曜日

模擬面接で感じた5つのこと

先日、要請があり数名の模擬面接を行いました。実際に、自社の採用面接も行っていますが、志望企業が自社ではない学生の面接を行うのは初めてでした。改めて気づくことがいろいろありましたので以下、5つにまとめてみます。

1.志望でなく希望が多い
どこの会社でも志望動機を尋ねると思いますが、「志(こころざし)」が感じられません。「形にする執念」ではなく「当選したらいいな」くらいが本音です。

2.軸が蜃気楼のよう
就職活動で大切にしていることを聞くと必ず応えてくれるのですが、さらにその足元を確かめると見当たりません、蜃気楼のようです。

3.人の役に立つ、裏から支えるという裏方思考
これ、非常に良く聞きます。採用を担当する人は他者への説明責任がありますが、「彼は人の役に立ちたい人なんです」とは説明できません。そもそも役者のオーディションに裏方は応募しないはずです。

4.経歴を能力の証と履き違う
新卒、中途ともにですが、語れる経歴があることは素敵だと思います。しかしながら、それは採用から未来へつながるストーリーではありません。自身の経歴を場を変えても発揮できる能力の証と思いたいのでしょうが、能力はギャップを埋めるストーリーの中に開発方法とセットで適切に配置されるべきものです。そして経歴はそのサイドストーリーです。

5.自分に向き合うとシンプル
自己紹介、志望動機、将来のビジョン、困難に向き合った経験、学んだことなどなど、すべての質問に対して自分に向き合った人の応えはとてもシンプルです。とくに、体験を経験に変えている人(「こんなことがありました」から「こうします」への転換)の言葉はとてもコンパクトでシンプルです。それは能力を高める能力の顕れと感じられます。

この手のレビューはたくさんあると思いますが一度まとめておきました。


面接中

2014年1月20日月曜日

場が生む意識の果たす役割

外的状況と滑らかにカップリングする行為に付帯して生まれる意識、極論すれば、「場が生む意識」はどのような役割を果たすのでしょうか。

優秀な人たちの輪に入っていっしょに仕事をすると、優秀な人が作り出す状況に応じて社会性が発揮され自身を客観視するようになります。それは、時には「すごい人たちが居るなぁ、自分もがんばろう!」という意欲であったり、また時には「自分はとてもかなわない。」という無力感、挫折感であったりします。

こうした意識は、次なる機会における場への接近、回避に影響を与えます。

回避の事例で考えると、

人と衝突する          :いや、それはおかしいでしょ!?
価値観が合わない        :そもそも、自分だけ良ければと思っているから・・・
その人との接触を避ける     :衝突をしないよう出来るだけ会わないようにしよう
なぜ価値観が合わないのか考える :なぜ、避けてしまうのだろう
自分の価値観に気づく      :他者への要求が高いようだ
他者の価値観を受け入れる    :そういう考えもありだね
でも接触は避ける        :でも敢えて近づかなくてもいいや

慶應義塾大学環境情報学部加藤文俊教授が行われている活動はとても示唆深いものですが、そのなかで「場のチカラプロジェクト」では「地域コミュニティのなかで、創造性に富み、活気のある「グッド・プレイス(good place)」を取り扱っていらっしゃいます。これは、接近の事例とも考えられそうです。

人と出会うする         :こんな素晴らしい人が居るんだ!
価値観が合う          :こういう考え方が大切なんだよね
その人との接触を増やす     :機会を捉えてまた会いたい
なぜ価値観が合うのか考える   :なぜ、大切だと思うのだろう
自分の価値観に気づく      :場の捉え方は変えられるのではないだろうか
他者の価値観を受け入れる    :なるほどそうやってアプローチしているのか
新たな出会いを探る       :ほかにもこのような状況があるはずだ

このように最初の「人と出会う」という社会性のある行為は同じでも、その先にある「次の行為」は意識によって大きく異なるものです。

そこで「場が生む意識」は、自分自身へのフィードバックによって、次の行為の創発と淘汰を分岐する傾斜と理解してみます。

さて、行為は単発でなく、様々な傾斜が複雑に入り組んだ結果として表出するものでしょう。つまり、傾斜は複雑に競合しているので行為は安定的に推移します。

外部からは本人の意識ほど行動が変わったように感じられないのもそのような理由かもしれません。

つぎのテーマは、「観察できる明らかな変化」にします。


気になる花には手入れする人が居る

2014年1月19日日曜日

でんでん太鼓に込める想い

近くにある小売店の店頭POPの、でんでん太鼓に関して「裏表のない子になるように・・・」という言葉が目にとまりました。

そこで、インターネットで検索したところ以下のような豆知識がヒットしました。

” 初宮参りに犬張り子を用いるのは名古屋の熱田神宮が発祥といわれ、病気をせずにスクスク育つ犬の子にあやかって、元気に育つようにとの願いをこめて張り子の子犬をぶら下げます。
  犬張り子とともに「扇子(末広がりに人生が開けるように)」、「お金(お金に不自由しないように)」、「デンデン太鼓(元気に育つように、裏表の無い子どもに育つように)」をぶら下げます。” (白木屋結納店HPより引用)

生まれたばかりの子に願う想いは4つ、元気、開運、金運、そして裏表が無いことのようです。

最初の3つが個の幸せを願うものであるのにくらべ、最後の「裏表が無いこと」は、関わりにおける幸せのツボを取り上げているのが異質です。

関わる人にとって、裏表がある相手はまず信頼できません。事が深刻になると「嘘つき」「騙し」と形容されるようになります。

意思が疎通し共有出来た考えや想いは、その背景にある価値観が一致したものと思いがちですが、裏がある人はいつも一致したフリをしているのでしょうか。

「空手形」「面従腹背」といわれるケースは一致したフリですが、相手によって自分の立場が変わってしまうケースもフリと考えるのは難しそうです。

「表裏の無い子どもに育つように」という思いは、人を騙すような人間になって欲しくないという願いと、しっかりとぶれない自分を確立した人間になって欲しいという願いが込められているように思います。


裏が見える

2014年1月18日土曜日

意識で人は変わるのか

マザー・テレサの有名な言葉です。

Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words;
Be careful of your words, for your words become your deeds;
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits;
Be careful of your habits; for your habits become your character;
Be careful of your character, for your character becomes your destiny.

「思考」thoughts から「行為」deeds が生まれ、ついには「人となり」character になる、これはとても説得力のある見識です。

意識と思考の関係は、「思考」thoughts は「意識」consciousness が結晶したものとします。

さて、「無意識の社会性」では、外的状況となめらかにカップリングする行動は無意識なのではないかと考えました。脳科学の知見から、適応的反応が意識を生んでいるという立場をとってみたのです。

となると、マザー・テレサの言葉の前には次のような前文が入るかもしれません。

Be careful of your place, for your place become your consciousness;
Be careful of your consciousness, for your place become your thoughts;

つまり、新たな場で適応的反応を創発することで意識、思考、言葉、行為が連鎖するのではないでしょうか。

そうであれば、脱予定調和、慣性軌道からの脱出は、言葉ではなく「場」から生まれるはずです。

つぎは「場が生む意識」について考えます。


意識から変えるのではない

2014年1月17日金曜日

無意識の身体性と社会性

動物は自律的に動くものを生き物と判断する能力を保有しています。
「外的状況となめらかにカップリングする存在は「物質」ではなく、自らにとって何らかの意味を持っている存在である」と捉えるのも「生き物」であることの前提なのかもしれません。

これは社会性を実現するためのひとつの能力なのでしょう。

一方で、動いていないものでも、自らの行動に影響を与えることがあります。

例えば、部屋の片隅に黒いものが落ちていたとします。

「え?ゴキブリ?」

と思った瞬間、もう大変です。

身体は強張り、汗が流れ、じーっと集中して動くかどうか確認します。
スイカの種ならよいのですが、触角が見えようものなら・・・・

同じように、ラーニングイベントでプロジェクターと名刺交換する人は居ません。動き回っている人と名刺交換します。プロジェクターの投影が切り替わると皆、注目します。

次に、名刺交換をした相手の会社を見て、瞬間的に機会、脅威、無関係の判断をしています。そして、それによって会話の内容を変えています。

しかし、多くの人が集まる場所であっても、駅のホームで見知らぬ隣の人と名刺交換を始める人はいません。

これら、「無意識だけど外的状況に応じたなめらかな行動」には社会性があります。むしろ、外的状況が人間に社会性を発現させているとも言えるでしょう。

社会性が無意識に発現されているのであれば、「意識の果たす役割」とは何なのでしょうか?

次のテーマは「意識で人は変わるのか」です。


なめらかに泳ぎます

2014年1月16日木曜日

「自分の時間を生きる」存在と主体

引き続き「適応行動と意識」「自分の時間を生きる」を考えます。

自分の外的状況となめらかにカップリングして創発する適応的反応。それは、客体視すると「自分の時間を生きる」という、「生命」のひとつの本質的な様相を呈しています。

一方、人間の内的意識には、自律的に思考し、判断し、行動する、天動説であり中央集権的な自分の存在があります。この中央集権的な意識は、時として「生きている実感」として充実感、達成感、幸福感を醸成します。

そもそも、「脳は身体のコントローラーである」(「現れる存在―脳と身体と世界の再統合」 アンディ・クラーク, 池上 高志, 森本 元太郎 )という視点で捉えると、脳は客体視において「自律性」を実現しているはずですが、主体的な「自律性」は外的状況との衝突つまり不適応を生み出す原因になっています。

例えば、組織において「主体性」と言えば、状況に適応した自律的行動を差しますが、個人にとっての「主体性」は「自分の正義」であることもあります。組織の外に広がる世界への適応であれば、高次な適応的反応である一方、「見下し」「非難」「自己正当化」は状況への不適応です。

適応と意識の関係を反転して考えると、意識による不適応ではなく、無意識の不適応反応、もしくは、無意識の適応反応不全に対する意識化と考えられるかもしれません。

この考えの根底にあるのは、「脳は、意識より前に行動を起こしている」という脳科学の知見です。

外的状況とのカップリングが複雑かつ広範になればなるほど適応反応不全が起こるのは、そもそも身体性の問題であると仮定し、意識と切り離すと世界はどのように反転するのでしょうか。

「無意識の身体性と社会性の関係」について引き続き考えたいと思います。


かもめに生きている実感や自己正当化はあるのだろうか?

2014年1月15日水曜日

「社会性」の陰陽

昨日の続きです。

「複雑、予測不能に変化する状況に適応する人間が、自我意識によって適応を阻害することがあるのは何故だろう」というのが問いかけです。

それに対する自分の仮説は「社会性」によるものです。

高度な社会性を実現した動物は、自分と他者という認知を行います。

「インド国立公園で73歳ゾウが死亡、仲間のゾウも涙」

「社会性」という戦略によって生存競争で優位に立てるからです。
さらに人間は、環境との共生という概念の社会性にまで到達しました。ゾウの社会性にも共感できるのです。

「社会性」を実現する脳の部位は「社会脳」と呼ばれるそうです。

「社会脳とは、瞬間的に変化する社会的ルールに対応して、適切に行動を切り替える脳の働きである」(「拡張する脳」(藤井直敬著) P.121)

ところで、個のレベルでは行動は身体性に寄りますから「社会脳」と「身体」にはギャップがあって、そこにうまれるのが社会性という、行動と意識の相互的な傾向性であると考えてみたいと思います。

先ほどの定義に当てはめてみると、
社会性とは、瞬間的に変化する社会的ルールに対応して、適切に行動を切り替える脳の働きと実際の行動の間に生まれるギャップを埋めるための意識傾向
ということになります。

この考え方では、行動が先であって意識は後づけです。池谷裕二さんの本でもそのような指摘があります。

ここで一度、自我意識に立ち返ります。

「生命」の定義は「自分の時間を生きている」というホリエモンの言葉が妥当なのではないか、という小林康夫氏と池上高志氏の対談で出て来た一言には説得力がありました。

「適応行動と意識」「自分の時間を生きる」

次はこの2つの関係を考えたいと思います。


泣くゾウ

2014年1月14日火曜日

目標、状況、連携、仕組み 相互に変動する流動性

物事を主観で捉えると、天動説の立場のように自分は世界の中心にあって周りが変動していると考えがちですが、実際は地動説の立場のように自分も周囲も相互に変動しています。

このように、周囲が変動すると相互的に自分の中心性が変化します。

まずは目標管理制度(MBO)。

多くの場合、半期での設定と実践になりますから、S・M・A・R・Tに目標を設定し、周囲と連携し、様々な仕組みを使いながら達成に邁進することとなりますが、もし、期中に異動があったらどうなるでしょうか。粛々と目標設定を行っている最中に、知らないところで異動の話がすでに決まっているかもしれません。

次に就職活動。

自分の就職希望企業を決めて就職活動をはじめますが、前年と募集要項や選考プロセスが変わるのは当たり前、さらには、経団連の倫理憲章なるものもあって、毎年、採用活動は行われているにも関わらず、毎年、誰も経験者がいない状況が繰り返されます。

そして新規事業開発。

ミッションと素晴らしいアイデア、意欲を持って新たな事業を創造すべく、活動を行っている最中に会社がM&Aにより吸収されることになった、災害により甚大な被害が出た、反日抗議行動でターゲット市場が消失したなどなど、事業推進を頓挫させる理由はいくらでもあります。

こうした周囲の変化から逃れる術はありません。計画を強化し、いくつものシナリオを想定したり、逆にシンプルな計画で複雑な要因を出来るだけ排除したとしても、実社会における要因は極めて多岐にわたり複雑に関係しあっているので「天動説」で居ることは不可能です。


統計分析における多変量解析は、データの世界もこの事象から逃れられないことを教えてくれます。

多変量解析では、多くの分析手法において縮約した情報は新たなサンプルによって変化してしまいます。それは、転校生が1名来たことで学級の様相が変わるようなものです。

分析手法のひとつ、コレスポンデンス分析では、説明率の高い次元以外に、説明変数の数により多くの次元が存在します。

「次元とは移動できる座標の数」ですから次元の多さとは変動する可能性といっても良いでしょう。

ある要因のひとつの項目が次元内で移動すると、すべての関係性に影響を与えて結果は予測不能となる。

まさに複雑系です。

ところが驚くべきことに、人はその複雑性に素早く適応しています。主観的には「こんななずじゃなかった」とか「おかしい」とか「やってられない」などなど、不満たらたらになることもありますが、客観的には適応行動をとるのです。

ただ、、素早く適応できない人は総じて評価が低いようです。また、そのような方の主張は「天動説」に近いものであるように感じます。


人間以外の生物は、ずっと地動説で生きています。そして、満月の夜に珊瑚が産卵する様子など、人間よりもずっと周囲の変化を上手く使っているようにも思えます。

では、人の意識はなぜ、自己中心的な認知(天動説)を行うのでしょうか。

謎は深まります。


世界が動く、私も動く



2014年1月13日月曜日

成人の日に自分の20歳を思い起こす

以前、講演で社会人と新卒採用の関係を以下のようにMALL田中理事が語っていらっしゃいました。

1.誰でもかつて一度、経験している
2.再び経験する人は誰もいない

このような条件のもとで、「誰でも就活を語るが採用活動ならびに就活は毎年変化していて、「今」を語ることは出来ない」と纏められてことが記憶に残っています。(多少、間違って記憶しているかもしれませんが・・・)

このようなことは、成人の日でも言えるなぁ、と思い少し自分の20歳を思い返してみます。

自分が20歳は、1982年、早生まれだったこともあり大学2年から3年にかけての一年です。

1982年の出来事をWikipediaで調べ、割と記憶に残っているものを抜き出すと、
2月8日 - ホテルニュージャパン火災発生で33人死亡。
4月2日 - アルゼンチン軍がイギリスと領有権を争っていたフォークランド諸島を占領(フォークランド紛争勃発)。
5月8日 - F1・ベルギーGPでジル・ヴィルヌーヴが事故死。
9月14日 - モナコ公国のグレース・ケリー大公妃が自動車事故死。
9月22日 - 三越・岡田茂社長が取締役会で解任される。「なぜだ!」という言葉が話題に。その後背任で愛人とともに逮捕(三越事件)。
10月4日 - フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』放送開始。
10月13日 - NECが「PC-9801」を発売。
11月10日 - ソ連のレオニード・ブレジネフ書記長死去。後任にユーリ・アンドロポフ元KGB議長が就任。
11月27日 - 第1次中曽根内閣発足。田中派の7人入閣。
12月4日 - 米映画『E.T.』が日本で公開。のちに当時の日本と世界で史上最大の興行収入を記録。
12月 - 日本電信電話公社、カード式公衆電話、テレホンカード発売。
でした。

これらを眺めてみると、社会、国際、政治、娯楽、ITなどなど、幅広く関心を持っていたいたように思えます。しかしながら、問題意識や危機意識や強い動機をもってそれらの出来事に向き合っていたかというとそうではありませんでした。

一方で20歳の時の大きな判断といえば、ゼミの選択がありました。

経済学部で2年間学びながら、合理的経済活動を前提とした経済学の考え方に違和感を持っていて、経済学部ではちょっと異色な産業社会学組織論の青沼吉松ゼミを選びました。その頃は、先ほどの記憶に残っているような様々な社会の出来事を通じて、人の合理性に疑問を抱いていたのかもしれません。

幸いにも、入ゼミ試験に合格し、青沼教授がご退官される前の最後の青沼ゼミ生として送った2年が20年後のキャリア選択に大きな影響を与えたことを考えると、20歳の一年は、自分の仕事人生のプロローグと言えるのかもしれません。


どこまでも続くのです

2014年1月12日日曜日

数式と神託 反転する自己と世界のものがたり

全てのものを数式で表現する神の数式。ヒッグス粒子の発見により神の数式と言われる数式で物質のミクロの世界の成り立ちから、ブラックホールの解明まで全てを表すことが現実的になってきたと言われています。

しかしながら、意識や生命の存在は神の数式を持ってしても説明が出来ない。

昨日、三鷹天命反転住宅で開催された小林康夫氏(哲学者 東京大学大学院総合文化研究科 教授)と池上高志氏(複雑系の科学者 東京大学大学院情報学環 教授)の対談は、未だゴールに届かない2つの価値観を、科学と哲学の現状と建物を通しての体感から感じるものとなりました。

三鷹天命反転住宅とは、正式には三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Kellerといい
「三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller は、芸術家/建築家の荒川修作+マドリン・ギンズによる、世界で最初に完成した「死なないための住宅」です。」(HPより)

その、カラフルな色使いと円や立方体を大胆に組み合わせた、外観、内装から子供向けのような印象や物珍しさを感じますが、それらの本質は、「天命反転」することによって「死なない」とは?という問いかけです。

床は平面でなく凸凹、しかも部屋の中心に向かって下がっていますから、お掃除ロボット「ルンバ」には掃除ができません。その事実が、「生命」についての思考を促します。まさに、部屋によって私たちの「生きていることのあたりまえ」に気づかせてくれるのです。

小林氏は、それをオラクル(ご神託)と表現しました。

部屋の中には、そのような仕掛けが、いや、そのような仕掛けで部屋が出来ています。
部屋にはご神託が溢れているのです。

荒川修作氏は4年前に、そして、なんとマドリン・ギンズ氏は三日前(1月8日)に逝去されたそうです。「死なないための住宅」を作った二人が死んでいるからといって、「死なないための住宅」の意味が問われることは無いでしょう。

昔から数式やデータによって世界の全てを表現しようとする試みが続いています。特に、この一世紀の間に、科学の進歩にともなって、急速に広がりました。例えば、グーグルはすべてをデータ化することを目論んでいます。ビッグデータはその流れに乗っています。

池上氏は、グーグルがすべてのものにラベルを貼って行くが、ラベルの貼れないものが必ず残る、そして、それに重大な意味が隠れているだろうと語りました。

ラベルの貼れないものに潜む意識や生命との共通性、それは、身近に向き合っているタレントマネジメントのシステム化における本質課題でもあるように感じます。

世界を表象する神の数式は、人間本人の意識や生命を説明できず、そこに神託がある。

自分の時間を生きる人工知能が誕生し、その人工知能と友情が芽生える。
素晴らしいタレントマネジメントを実施する人事マネジャーが人工知能である。
それらためには、神の数式に辿り着くだけでなく、神託が必要だろうということが少しわかりました。

創発する世界を真に理解する日が来るのはいつになるのでしょうか・・・


知の刺激において天命反転住宅の本質に触れることができました

2014年1月11日土曜日

便利ですよ、楽ですよ、得ですよ、効率的ですよ、という問題解決症候群の共犯者

サービス化する産業構造のなかで看過できない問題があります。

それは、問題解決症候群を助長する犯罪行為です。

問題解決症候群とは
【症候1】「問題」は与えられるものだ、と思うこと
【症候2】与えられた問題には必ず唯一の正解がある、と思うこと
【症候3】その唯一の正解は誰かがすでに知っていて教えてくれる、と思うこと
です。一橋大学大学院商学研究科(MBA)客員教授の妹尾堅一郎氏が提起された課題です。法政大学長岡教授に教えて頂きました。

これは、主体性、当事者意識、自分ごとなど採用においても育成においても最重要課題となっているテーマの本質課題です。自組織運営の中でも強く実感してます。

ところがこの本質課題には事態を深刻化させている共犯者が居ます。スターウォーズで言えば、フォースのダークサイド、ようするにダースベイダーです。

つまり、本質課題について自ら課題解決に望むのでなく、課題から目を逸らす手伝いをする人たちです。

先ほどの定義に則れば
【症候1】「問題」はこれです
【症候2】私は正解を知っています
【症候3】私は正解を与えています
と言ってしまう人たちです。

東大中原准教授の言葉をお借りすれば、「思考停止」させる存在であり、本質課題に向き合うべき人たちの視線を反らせてしまう行為は、多くの課題に直面している現在の日本において犯罪だと思うのです。

様々な方の課題に向き合う立場の人間として犯罪者になってはいけないと思うのが、私の倫理観です。

便利、楽、得、効率的という視点で物事を判断していたら、それは本質課題から目を逸らせている行為であることに気づかなければならないでしょう。(もちろん、自戒の意も込めて・・・)


目を逸らすと倍返しですよ!

2014年1月10日金曜日

思考における苦痛はほんとに痛くてしかも伝わる

脳は、痛そうな画像を見ると、本当に痛みを感じているそうです。それは、脳が身体のコントローラーとしての機能を使いまわして外部情報を処理しているからです。

逆に、考え事などをして脳が疲れると身体も疲れていると感じるそうでして、ビジネスアスリートと呼ばれる「考え抜く力」がある人は身体も強いのだと思います。

例えば車椅子の物理学者のホーキング博士などは、筋萎縮性側索硬化症という難病によって身体の自由は効きませんが、実は相当、身体が強いのではないでしょうか。でなければ、あれだけ考え抜くことは出来ないはずです。

さて、車椅子で思い出すのが、小児科医/東京大学先端科学技術研究センター・特任講師の熊谷晋一郎さんのとても興味深い指摘です。

それは「自立は、依存先を増やすこと」というものです。
車椅子の熊谷さんは震災の際にエレベーターが止まり、5階の研究室に取り残されたそうです。そして、障害者とは「依存先が限られてしまっている」人たち、健常者とは「さまざまなものに依存できていて、依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすることでその便利さに依存していることを忘れている」人たちであると気づかれたそうです。

そして「実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。」と洞察されました。

冒頭の「他人の痛みを感じる」とは、この文脈に沿うと「他人の痛み」に依存している状態です。他者の気持ちがわかることは、成熟度合いの指標ですが、私たちは他者によって自立することが出来るのです。

昔から「親の苦労、子知らず」とも言いますが、「自立していない状態では伝播しない可能性がある」とも考えられるかもしれません。

思索、思慮を深め苦悩しているとき、表情も身体も実際に苦悩を表現します。ロダンの「考える人」を見るとそこに心はなくても私たちは苦悩を感じます。私も集中して真剣に考え事をしていると周囲から「辛そうですけど大丈夫ですか?」と声を掛けられることがあります。

このように、苦痛や苦悩は人から人へ伝播します。

したがって、会議やワークショップなどで議論を行う時、真剣に深く、悩ましい問題を考えれば考えるほど、集団の苦痛レベルは上昇しているものと思われます。

「対話」「サードプレイス」などによって思考や身体性を解放することは苦痛や疲労を減らすよい方法であることを改めて気づきました。


迷い犬の自立は、今、私に依存しています

2014年1月9日木曜日

成長の方程式

ある方の話を聞いて、以前は成長の方程式を以下のように考えていました。

Y = ax + b

それぞれに意味をあてると、
Y 成長 a 潜在能力 x 経験 b 顕在能力
といった感じでしょうか。

ところが、最近は次の式のほうが妥当ではないかと思うのです。

Y = f( A - B )

Y 成長 f 夢中(努力) A 目標(効力感) B 現状

というのも、中堅・ベテラン社員のキャリア開発、新入社員の育成、新卒・中途の採用を行うなかで以下のような現実に突き当たるからです。

1.自らの目標や勇気が無い(A<0)
人の役に立ちたい、会社に貢献したい、ミスを無くしたい、若手を育てる役目などなど本人のヴィジョンが見当たりません。

2.自分の現状を認識していない(A=B)
一方、目標や勇気はあるのですが、こと自分の現状に目が届いていません。自己認識、現状認識に齟齬があって有能感、使命感はあるのですが目標と現状のギャップに思いが及びません。

3.傍観者で執念、執着がない(f<1)
目標と現状のギャップを自分が埋めるのだ、遣り切るのだといった自分ごと、当事者意識や遂げる、究めるといった執念がありません。

Aが無いとどんなにfがあってもYはマイナスです。
A=Bだと、fの大きさがYになります。
fが1より小さければA-BがはっきりしていてもYはゼロに近づきます。

最初の式だと、a(潜在能力)が高ければ x(経験)によって Y(成長)の値が高くなることになります。したがってYが低い原因は、能力が低いか、経験を与えられない会社、職場、上司が悪いことになります。固定的知能観と他責いうやつですね。

一方、後者の式であれば、「会社はどうしてくれるのですか?」「私の能力を行かせる仕事が軸です」という要素はありません。
夢、ヴィジョン、目標を持つ。現状を的確に知りギャップを理解する。無我夢中になってもしくは苦痛に向き合って努力をする。成長に至る要素がすべて自分自身の問題になります。

会社や職場、仕事、上司、同僚、部下などの周囲、そして本人の能力ですらも、それぞれの要素を明確にしたり光明を与える支援要因と考えるとスッキリします。


登れるから登るわけではない

2014年1月8日水曜日

行動イメージの予期と適応的反応の予期

パーソナリティを研究する心理学には、類型論と特性論という2つの立場があります。

類型論では、「○○タイプ」といった形式で、パーソナリティをいくつかの分類に分けて人を理解します。割と直観的に全体を把握しやすい反面、ラベリング効果など、決めつけによる弊害の問題もあります。また、少ない分類に人を当てはめるため、違和感を生じ易い傾向があります。

特性論では、パーソナリティを構成するいくつかの因子それぞれの強弱によって性格特徴を詳細に読みとります。個人の特徴や個人間の相違を比較しやすいのですが、「で、どうなの」「要するに」など簡潔にまとめて理解、表現することが困難です。

もう少し、具体的に違いを見ていくと、特性論では、緻密性が高い、低いといった事実から、細かい仕事(財務管理など細かい数字を取り扱う、原稿の校正など)において行動と結果の予期が可能になります。つまり、仕事がしっかりと定義されていると向き不向きを論じることができます。

一方、類型論では、「先頭に立って皆を引っ張っていく」「一人で切り開く」「客観的、冷静に論評する」など仕事におけるその人のスタイルの理解に役立ちます。

では、採用において
「面接ではテキパキと受け答えをし、大学では部活でリーダーシップも発揮していたのに、プロジェクトマネジメントの仕事で挫折して休職してしまった」
というケースでパーソナリティを紐解くのに有効なのは類型論でしょうか、特性論でしょうか。

類型論は前半部分、リーダーシップに関わる部分では適切ですが、プロマネ業務とのミスマッチには不適切です。

一方、特性論では、勤勉性、情動性などから休職を予期することは可能ですが、リーダータイプか否かを理解するためには各特性を人物像を紡いで判断するしかありません。

「とにかく明るく元気な人材が欲しい」という現場の声に沿って採用を行ったところ、「もっと仕事が出来る人材でないと困る」と言われてしまう。

良くあるこういった現象は、実は、コミュニケーションが悪いからではなく、そもそもの人の理解の仕方が、類型論的な「類推」-似ている他の人をイメージする-と特性論的な「共感」-クリティカルな出来事への反応-に拠っているからではないでしょうか。

さて、先ほどのケースでのパーソナリティの理解は、仕事への不適応という観点が重要になると考えています。仕事に適応出来なければリーダーシップも発揮出来ないから、というのがその理由なのですが、何を予期するのか戦略はあっても正解はありません。



「花」と「美しさ」

2014年1月7日火曜日

他者軽視と自尊感情の2軸

自尊感情と他者軽視の2軸で4つのタイプの有能感を説明するモデルがあります。
(「仮想的有能感の心理学: 他人を見下す若者を検証する」速水 敏彦 (著))

両方高いのが「全能型」、両方とも低いのが「萎縮型」。
自尊感情が低く他者軽視が高いのが「仮想型」、その逆が「自尊型」です。

「萎縮型」が有能感に該当するかはどうかとして、他者軽視の軸に「仮想的有能感」という心理尺度を設定したのは面白いと思いました。

そこでどう使えば良いのか考えてみました。

毒舌であだ名をつけてどん底から見事に復活した芸人さんがいらっしゃいますが、視点をかえると彼があだ名をつけることは社会的な笑いを創発する行為であることがわかります。

「ベースボールマフィア」「リズムアンド暴力」「子どもの皮をかぶった子ども」などなどネットで検索して差し障りのない範囲で記載してみますが、誰のことかわかるでしょうか。

この、他者に名前をつけるという行為に自尊感情と他者軽視が反映されているとしたら、あだ名をつける行為を「仮想的有能感」で説明できるかもしれません。

名前をつけるという行為は「名付け親」、英語では「godfather,godmother」と言われるくらい権威性があります。名前を付けられる立場よりも一段上、ワンアップであることは間違いありません。自分がワンアップするということは、自動的に相手がワンダウンすることです。

しかしながらワンアップ=他者軽視ではありませんし、その判定が自尊感情の高低に拠るというのもなんだか腑に落ちません。毒舌のあだ名には、「見下し」もあれば「反権威」の要素もあります。

最初、毒舌のあだ名と仮想型、全能型に関係性がありそうだと考えはじめたのですが、「名付け」と他者軽視を結びつけることはどうやら適切でないようです。


「仮想的有能感」という心理尺度の考え方は面白いのですが、初音ミクのような仮想現実(VR)や仮想空間をイメージ、さらにはおたく文化に対する見解が内在し、「仮想的有能感」という言葉自体がすでに、他者軽視の主観を反映しているように感じます。


尻に敷かれる薄っぺらいやつ

2014年1月6日月曜日

質問紙、ローデータ、クロス集計、パス図を眺めて解決策を考える

問題事象を観察して、その実態を知り、背景を理解しながら真因を特定し解決の戦略を講じる。

課題解決の基本的なプロセスです。

このプロセスをより客観的、科学的に行うのがデータサイエンスの領域です。

では、質問紙を作って、データを取得し、集計、分析、パス図を作れば戦略が生まれるかというとそうではありません。

そこで表出する事実は、測定された対象内部の事実であり、対象の存在する環境や外部との相互干渉によって起こる事態は測定されていないからです。

切り取られた断面からは、その瞬間のリアルさは見えますが、例えば変化の方向や強さは見えてきません。

変化の方向や強さを測定しようとすると時系列分析を行う必要が出てきますが、ここで問題となるのは環境や外部との関係です。事業に関わるデータは景気の変動によって容易く変わります。

これは、次元によってデータの見え方が変わるというやっかいな問題をはらんでいます。

より大きなデータによる抽象化や次元性に関する原理の把握など高度な知識は少しは問題をやさしくしてくれますが結局やっかいなことに変わりはありません。

観察対象がロバストであれば次元の問題はあまり考えなくて良いのですが、そもそも、人間は「社会脳」によって進化を遂げた生き物です。

社会脳とは、「瞬間的に変化する社会的ルールに対応して、適切に行動を切り替える脳の働きである 」(「拡張する脳」 (藤井 直敬著 P.121)ですから、状況に応じて変化することが前提ですから次元が増えればそれだけ可変性が高まるのです。

ただ、この能力を逆手にとって、超えるべきハードルを高めたり、パラドクス(逆説)によるジレンマでストレスを与えることは真因に近づく有効な一つの手段です。

例えば、会社において社員がマネジメントに経営戦略の明示を求めるには、社員自らがマネジメントに経営戦略を呈示しなければならないというのもパラドクスです。そこで見えてくる真因は、戦略の不足ではなく、戦略的能力の不足です。

少し論理的にすると、課題を解決するためには、解決可能な状態(良設定問題)にする拘束条件が必要だということになります。


な、なにが埋まっている!?


2014年1月5日日曜日

生えて伸びて咲いてゐる幸福

山頭火の一句です。(山頭火 句集 P.72)

一緒に仕事をするメンバーがあっと驚くようなアウトプットをしたり、顧客と知らないうちに信頼関係を築いている姿を見ると幸福感に包まれます。この山頭火の一句はそのことを思い出させてくれます。

メンバーと仕事をするうえで、上司として濃淡はあれ、業務支援、内省支援、精神支援において関わりを持ちますが、その期待は、メンバーが一人前になることです。

しかしながら、どこまで支援をすべきかは、悩ましく、かつ、熟考すべきテーマです。

”型にはまるはずの型が、見事に乗り越えられていくのを、楽しみにしたほうがいいんだと。” (「大村はま-優劣のかなたに」苅谷 夏子著 P.181)

例えば、本当の師とは、弟子の状況、力量、個性などを全て理解した上で、いかに本質を習得させるかを知らなければならないようです。

”あなたはまず第一にあなた自身の工夫でもって難破の苦汁をなめねばならなかったのです。”( 「弓と禅」オイゲン・ヘリゲル著 P.48)

明日は、自らの気づきを通じてメンバーの気づきに関わる2014年の仕事始めです。



”心の痛みというのは、過去のものです。
私たちみんながより良い明日のために努力すれば、ものごとは良くなっていくでしょう。”
(「それでもあなたの道を行け」ジョセフ・ブルチャック著 P.121)

2014年1月4日土曜日

大切なのは「要旨がわかること」ではない と思ふ

物事の要旨を掴む事は、人との関わりや物事の本質理解に大きく貢献します。つまり、その人の人生を豊かにするといっても過言ではないでしょう。

その力に大きく貢献するのが国語力です。

さて、文章を読んで要旨を掴むということは、ひとつの技能でありスキルです。つまり、トレーニングを積むことで身につくことです。

ところが、問題はスキルを身につけることは、スキルを学ぶことでは無いことにあると考えます。「スキルを学ぶ」とは、あるスキルの習得を通じて、未経験のことにも適応できるスキルに対する理解の到達を意味します。

つまり、本質的な課題は、自律的にスキルを身につけるために何をすれば良いのか?を体感することにあると考えます。

例えば、自分なりに「現場主義」という学習方法を身につけたのは、その方法を教わったからではありません。授業を受け、試験に臨み、達成感を得られる成績を得るためには、試験前に集中的に勉強するのではなく、とにかく日々の授業をしっかり聞く事であるということを身を持って実感したからです。大切なのはハウツーではなく、気づきとその結果でした。

私は教育の専門家ではないので、まったくの私見ですが、その後の仕事経験も加味したうえで、与えられた枠組みのなかで自分の視点に気づくことが教育の本質かもしれないと思います。一方、表面的な教育とは、枠組みの習熟を学ぶ者の視点としてしまうこと、要するに方法論のコピーです。守破離で言えば、破離が無い教育とは、単なる複製ということで、オリジナルを決して上回れないどころか、むしろ劣化して行くものでしょう。

もし、次世代が劣化していると感じたら疑うべきポイントです。

では、どうしたら良いのか、自分なりに考えてみます。

一定のフレームに落として、作業をさせ、その中で気づきを与えることは重要なアプローチだと思います。事実、自分は学校教育の枠組みのなかでそれに気づきました。

しかしフレームに落とせば必ず気づきが得られるかと言えばそうではないことも実感します。それはやり方を身につけることであり、その場面でしか力が発揮出来ない限定的な能力でしかありません。大切なのは、異なる場面でも発揮出来る能力を身につける事でしょう。

他者を気づかせることのヒントは、やはり自分が気づくことではないかと考えます。どんな場面でも自分自身が気づくことによって、「気づくこととは何か」を、示せるのかもしれないと思うからです。

最近、良くお邪魔する東京大学中原准教授のラーニングイベントにおいて、中原先生が必ず行われるラップアップはとても重要です。そのなかでも最も重要なのは、先生がまとめる要旨の視点や的確さではなく、先生ご自身が気づきを得る姿を見る事だと感じています。


「自分」だね

2014年1月3日金曜日

2014年、今年のテーマを考える

どのような業界、業種、職種、役職においてもハイパフォーマーに共通すること。

それは、「機敏に的確な行動がとれる効力感があること」です。

仕事を通じて呈示されたこの命題を考えることが今年のテーマです。

逆も真であれば、そのような資質を備えた人材は、いかなる仕事についてもパフォーマンスを発揮できる可能性が高いことになります。

本当にそうでしょうか?

ここで、注意が必要なのは、決して、「的確な行動を知っていること」ではありません。何故なら、正解の無い場面において役立つのは「正解を知っている知能」ではなく、「正解に近づこうとする態度」だからでしょう。

行動の的確さは、訓練や経験を通じて精度を高める事が出来るので、試行することが大切になります。易しく表現すれば、勇気や挑戦が大事になります。逆に、「これが正解である」という決めつけや「正解は誰かが知っている」という意識が、正解の無い場面では大きな障害となります。

さて、今年のテーマとして向き合うのは、人はこの命題を如何にして成し遂げているのかを理解することです。

具体的に、人は様々に変化する複雑な状況下で行動を起こします。その行動が、「機敏で的確」であるか否かは行動の結果としてフィードバックされますから、正解に近づこうとする態度があれば、やがて「機敏で的確」な方向に収斂していくはずです。

しかしながら、現実はそうではありません。そこには多様性があって然るべきだと思いますが、結果に対しては自己責任という社会の原則に行き着く際の選択肢を増やすことは出来るのではないか、どのようなフィードバックによって適応的反応が生じるのかを実践を通じて考えていこうと思います。


花は自ら咲くものですが、咲くことが目的ではありません

2014年1月2日木曜日

シリアスプレイ is シリアス?

レゴ・ブロックを使ったシリアスプレイというワークショップがあります。仕事に関わるテーマをレゴで表現しながら、対話、共有、内省を深めるものです。

すこし意地悪な見方をすると、「シリアス」とは

1 きわめてまじめなさま。本格的なさま。「―に考える」「―なドラマ」
2 事態などの深刻なさま。「―な情況」
goo辞書

ですから、「プレイ」(「遊ぶ」「演じる」「試合をする」)とは意味的に反対のことを指し示していてちぐはぐな表現ではないでしょうか。


”遊びは、その活動そのものに内在する報酬を求める以外に、どんな動機によっても動機づけられない。”(「人間はなぜ遊ぶのか」M・J・エリス P36)

「遊び」には、快楽性や娯楽性があって繰り返されるもの(場合によっては依存的に)という観念がありますが、「遊び」に関するこの定義には、そのような記述はありません。従って、内在する報酬の質が「シリアス」なものであれば成立するのだと思います。

では「シリアスプレイ=きわめてまじめで、事態が深刻な遊び」というのをどのように具体的に理解すれば良いのでしょうか。

例えばNPOやNGOといった組織がソーシャルな課題を解決する場合、構成員は収益の配分ではなく、ビジョンの配分によって報酬を受け取ります。それは、「内在する報酬」とも考えられますし、社会性を考えるとシリアスプレイとも言えそうです。

ここに至って問われていいることは、「外在する報酬」と「内在する報酬」の分離です。

「外在する報酬」とは、金銭、占有、承認、支配など、経済的側面と、社会的側面がありますが、要するに、死に際にあの世には持って行けないものです。

ついては、身に纏ったものを棄却したとき「内在する報酬」とは何か、シリアスに考えてみたいと思います。


あくびだってしますよ

2014年1月1日水曜日

行列というサイン

初日の出を見に、近所の川岸に出掛けたところ、昨年と少し様子が異なっていました。それは、人の溜まっている場所です。当初、昨年日の出が見られた場所に立って居たものの、そこには誰も集まってきません。少し離れた場所には人が溜まっています。そこで、他の人が溜まっている場所に移動したところ、見事な日の出を拝む事ができました。元の場所に立っていたら日の出の瞬間を見逃していました。

脳には、学習した結果を放棄して新たな可能性を探索する機能が備わっているようです。自分は間違っているかもしれないことを知っているメタ認知や、気分というゆらぎなど、行動を創発する要因は様々ですが、行列は新たな行動を引き起こすわかりやすいスイッチです。

人が集まっている、並んでいる状態が視覚に捉えられると、自然と興味が湧きます。それは、危険を知らせるサインではなく、良いことが待っているかもしれないサインです。

昔、浅草界隈の繁華街では、路上で服地を売っている人が居ました。その露天商をよく見ていると、いつも同じ年配者の男性と女性が生地を触って品定めをしていました。要は、「サクラ(偽客)」です。誰かが品定めをしているとそれに吸引されて真の客が寄ってくるわけです。

逆に、真剣に商品を見ていて、ふと気がつくと、さっきまで誰もいなかったのに、自分の周りに人が集まっている経験は誰しも必ずあると思います。

最近では、ステルスマーケティングと言われる、クチコミやレビューに販売促進を目的とした投稿を行う行為に非難が集まっていますが、他者の行動につられて行動が起こることは、注意・関心・欲求・記憶・行動のAIDMAの法則というよりもっと適応反応的な行動のように思えます。なぜなら、他の人の動きに連れて日の出を見る場所を移動するといった行動は、思考的葛藤とは裏腹に、外部から見ればとてもなめらかな行動だからです。

行列というサインは他人の行動によって行動を創発するための足場なのでしょう。


ほら、見えた!