2013年4月30日火曜日

人にあわせる?人があわせる? 酸欠注意

結論から言えば、どちらも必要でどちらも大変です。

で、どうする?となるわけですが、実はそんなに表面的に考えているのでもなかったりします。
この手の話は、飲んでいるときは好き放題言えていいのですが、会議の場になると息苦しくなる”窒息ネタ”ですので、封印しておいたほうがよさそうです。結構、皆、困っていたりするので、正解が無い(はず)のものを良設定問題にするために、いくつかの拘束条件を与える必要がありますが、それで現場の苦労が無くなることはないので遮断、愚痴、言い訳が多くなります。

さて、問題の根本は、「行為は創発するもの」ということです。

他者の行為にあわせて自らの行為が創発する。自らの行為にあわせて他者が創発する。創発である以上、生じた行為は複雑でアンコントローラブルです。

ところが、ドラムサークルでは面白いことがおこります。初対面の人々が輪になり、目の前に打楽器があって、一人がリズムを取りはじめると、いつの間にか皆が、リズムを取って楽器を打ち鳴らすようになります。

これは、非常にシンプルですが、実に心地よい(快楽回路が通じる)状態です。

このようなリズムの同調は、国や民族がかわっても世界中、いたるところで見られる現象です。

このように、他者のリズムに同調する行為は、人間の基本に備わった強力なルーチンであると言えます。そしてそれは心地よさという快楽回路によってエンパワーメントされているのでしょう。

では、なぜ仕事の場面では、心地よさを求めてこの同調のルーチンを働かせないのでしょうか。
恐らく、同調のルーチンと別のルーチンが創発していて、其方のルーチンが優位になっている、もしくは、同調のルーチンと他のルーチンが干渉してまったく別のルーチンを発生させているのだと思います。その非同調のルーチンを発生させるのは知性という再帰的定義、社会性というゴールイメージのズレであるように思います。


リズムが同調しないとイライラし不快になることは言うまでもありません。
それは場にとって学習のタイミングであることは間違いないのですが、ポジティブな行為が連鎖し、場に行きたくなるメカニズムを理解し、職場をデザインすることは重要です。

イタリアのテクノジム社ではバランスボールに乗って仕事をしますが身体を動かすことで自然と、同調するリズムを生み出している可能性があります。また、職場に自然音(ゆらぎ)とクラシックや軽音楽(シンプルなビート)を合わせて流すこともイライラ解消に効果があります。

ドラムもバランスボールも音楽も無い会議室で人か仕事かといった”窒息会議”はやらないほうが良いかもしれません。


多様であっても同調するとそれは心地よいものです

2013年4月29日月曜日

考えを整理して個人的仮説を持ってみる

これまで、数多くの人が生み出すデータ、アンケート結果、ヒアリング等を分析し各種の研究もに触れてきましたが、その核心に、常に3つのテーマが見え隠れしているようです。

今現在それは、活動性、知性、社会性です。
以下、私見かつ整理途上ですが一旦、ドキュメント化してみようと思いました。

活動性は、「静・動」で表される行為の大きさです。以前、バレエの名手が日本の能に接した時に、その動きのダイナミズムに圧倒されたと言っているのをTV番組で見た記憶があります。一見、バレエの激しい動きに対して、能の静かな動きは対照的であるように思えますが、実は、体をコントロールする、という観点からみればどちらも共通した高度な技能が必要なのだそうです。例えは悪いですが、これは、我が家の犬にとって、上手に動くことと、上手に静止することは同じように難しいことであることと似ているのかもしれません。一方で、行為の大きさは、行為の連鎖を生むエネルギーになりますから、「動」をコントロールすれば連鎖を促進し、「静」をコントロールすることは連鎖を止めることになります。

知性は、「本能・理性」で表される思考の再帰的定義の深さです。
再帰的定義が深い場合、ダブルループとも言われますが、自分の存在、行為や自分のおかれた環境を思考のなかに取り込むことで可塑性が高まります。既知の危険を見分ける能力を使って新たな危険を察知する原始的な学習のプロセスから学習のプロセス自体を学習するようになると、飛躍的に深さが増す(要するに知恵深くなる)相転移が起こります。

社会性は、「自分・社会」で表される個人から集団への世界の広がりです。
しかしながらここで一番重要なのは、欲求のスコープが我欲といった小さな目的なのか、大義といった大きな目的なのかだと考えます。密教の教えでは、「もし欲を持っているとするのだとするならば我が身だけの欲望ではなくより多くの人々の幸せのために働く欲に変えなさい」「自分自身の小さな欲ではなく大きな欲を持ちなさい」と説くそうですが、この考え方が示している個人が持つゴールイメージの違いを社会性と考えます。

「この3つのテーマに沿って人は環境を足場として行為を創発する」というのが現在の個人的仮説です。

GW前半最終日、スッキリした頭を絞ってみました。



3つが開く


2013年4月28日日曜日

みどりにひたる


ひかる
あじわう
いろどる
はばたく
さしこむ
おおう
むれなす
やすむ
てらす
つづく

2013年4月27日土曜日

上司の許可が必要です

昨日参加した経営学習研究所のラーニングイベントは、ソフトバンクで取り組みが進んでいる研修内製化を聞き、考えました。

研修の講師を社員から募集したり、探したりして、それを人事部で手厚く育てて4年間で5割を内製化した取り組みは、会社という組織において如何に人を育てるのかという本質課題を投げかけています。

そのひとつが上司(上長)の関わりです。

募集に対して応募する際に、まず、応募書類に上長の承認印が無いとNGだそうです。
これは、社内を巻き込むために必須であるとのこと。本務のある社員がほぼボランティアで研修講師を勤めるうえで現場、特に上長の理解が重要であることを教えてくれます。

以前、とある研修の効果検証を行いました。それは、先端のプロセス技術を学ぶ非常にレベルの高い研修でした。コストも相当な額です。そして研修を経て高度な技術を学んだ後、実際にその技術を現場の仕事に活かせるかは、実は、上司の理解度によるという結果が出たのです。つまり、高度な技術自体を上司が理解していない限り、研修の効果は本人の業務力の向上に留まるということが図らずしもわかってしまったのです。

研修に参加するのも上司次第、研修の成果が活きるかも上司次第です。

仕事は忙しいけど、理解をもって研修の講師に送り出す、研修で学んだ新たな知識や知恵を活かす場所を作ってあげる、これが理想的な上司の関わり方ですね。

ところで、昨日、隣の席に座った某社の課長さんとお話したところ、会社が提供する研修は募集と締め切りが2ヶ月前でとても応募出来ないと話していました。自分の部下に関しては送り出してあげると言っていましたが、研修の意味、意義を感じていな以上、結果は明らかなように感じます。

この研修に参加したら(させたら)どのくらい効果(たとえば業績の向上)があるのか・・・この一見したら、合理性、かつ使命感があるように見える評価や判断、しかし、実際は目標意識の低さからくる自らの学びの回避が、部下のそして組織の学びを失わせているのではないでしょうか。

学びは連鎖だと思います。他者が学ぶ姿勢が自分の学びに与える影響は少なくありません。学校と言う場が学びを加速する仕組みだとしたら、そのメカニズムを理解し、組織において学びを加速する役割と責任が経営含め上司にはあるのだと思います。


自ら本質を学ぶのが上司 いつ学ぶんですか? 今でしょ! やりましょう!


2013年4月26日金曜日

リーダーシップ

会社で若手社員に「リーダー」という役割を与えました。まずはそれを考えたリーダーがさすがだと思います。

さて、私なりのリーダーシップ像ですが、「目的のために本人のベストでありかつ周囲の期待を超えた知恵と行動を提供すること」だと思います。「さすが」というのは、リーダーシップが実現したときに周囲が発する象徴的な言葉ですね。

ここでのポイントは、
1.本人のベストである・・・酒井穣さんが「リーダーシップでいちばん大切なこと」で指摘されている「孤独なリーダー」、「フォロワーのあるなしにかかわらず、リーダーシップは発揮されている」ものであると思います。誰がこう、とか、彼がこうということでなく貫かれる本人のベストがまずとても重要なのです。

2.周囲の期待を超える・・・「働く」場面であれば、常に周囲に誰かが居ます。そしてその周囲の者は常に相対的に他者を評価しています。ただし、その評価は、時には自分が優位的な立場におきたいために有能感をもってみたり、見下したりと、客観的でない、妥当性がないケースがほとんどだと思います。また、期待が顕在化している場合、していない場合もあります。しかしながら、他者の行為は自分の行為に影響しているので、その影響度合いを無意識に、あるいは意識的に評価しているのです。
このとき、自分の行為が他者にポジティブな影響を強く引き起こすと、それは他者にとってみれば「期待を超えた」状態です。もちろん、先ほど指摘したよう、見下しがあったりまた空想的な期待があるとそのハードルはうんと高くなりますが、問題は実際に他者の行為がポジティブになるかどうかです。

3.知恵と行動を提供・・・深く広い思索と具体的な行動が1と2の実態です。

それぞれポジションが違ったとしても、「さすが」と言われる回数が多ければ、リーダーシップが発揮されている状態だと言えるでしょう。

自分自身としては、自分の1、2、3は当然向上させるテーマです。また、他者のリーダーシップに関わる2について、適切な期待を持つようしたいと思います。


高すぎず低すぎず

2013年4月25日木曜日

現場化する経営 新卒採用と女性管理職、育休3年を通して

安倍首相がつぎつぎと打ち出す方針が話題になっています。
新卒の採用開始を3ヶ月遅らせるとか女性の管理職を増やすとか育休3年を義務化するとか諸々あるのですが、これらのテーマは新しいものではなく、もう、何年も前から議論されてきたものです。

今までと何が違うかといえば、今までは、各企業のトップが方針を決め、現場に対して指示を出していたテーマであったものが、今度は首相からより具体的な形でかつある程度の強制力をもって現場に落ちてきていることです。つまり、これまでは現場で決めたことを国が決めようとしているわけで、個人的には大きな違和感を感じる一方、グローバル化に伴う国と国の競争の加速を実感します。国と国の競争においては、首相はプレイヤーであり、現場に在るということなのでしょう。

現場とは「現在進行形」「具体性」「複雑性」「予測不可能性」「即興性」などの、5つのキーワードで彩られる場所(小田 2010)という定義がありますが、それでいけば、前述の安倍首相の方針は「現在進行形」であり「具体性」があります。

一方で、「複雑性」「予測不可能性」「即興性」の観点が抜けています。
つまり、政府というレベルにおいては当然ながら、真の現場の複雑性、予測不可能性、即効性には対応出来るものでありません。下手をしたら、現場への不当な口先介入になってしまいます。大切なことは、方針に対して、真の現場で心から理解・納得が得られていることなのですが、当事者である学生や女性の反応を見るにとてもそうは思えません。

これが私の感じる違和感です。

そして、もう一方の国と国の競争加速。
これは、企業経営がすでに現場化していることを改めて認識させてくれました。中小企業では経営と現場が非常に近いのですが、最近の成長している企業は、上場し事業規模が大きくなっているにも関わらず、経営判断がまさに、前述の現場の定義に則した臨機応変で素早い動きとなっています。「ガチャ」問題で揺れたソーシャルゲームの対応は極めて早く現場対応的でした。そしてその後も結果を出しています。一方で、携帯・据え置きのゲーム機は苦戦が続きます。

カオス化が進むこれからの時代において、現場化できない経営では企業は生き残れないのかもしれません。


現場に光を

2013年4月24日水曜日

まぜたら危険! 結果と説明

有名スポーツ選手でも、スランプに陥ります。スランプに陥るといろいろな原因が取り沙汰されますが、怪我など、明確な理由は別として真偽のほどはわからないことが多いように思います。逆に好調なときにも同様で、好調さの原因の本当はなかなかわからないものです。スランプ・好調という結果とそれぞれの原因を多く集めれば好調を維持出来るのでしょうか?

ある会社の営業部門を分析したことがあります。
そのときは、売上実績、上司の評価、周囲の評価という3つの結果に対してそれぞれ同じ結果を説明するためのデータを使って分析しました。

結果は、

売上は、「攻撃的で細やかで計算高いこと」
上司は、「お客様を大事にし、芯がありさわやかなこと」
周囲は、「誠実で上昇意欲があり自分達のことをわかってくれること」
共通点は、「機転が利き熱いこと」

というものでした。それぞれはわかりやすい結果です。

一方、個人に着目すると、売上が良く、上司からも周囲からも評価されている人がいます。
その人は、分析結果を継ぐと「攻撃的で細やかに計算高く売上をあげ、お客様を大事にし、芯がありさわやか、かつ誠実で上昇志向があり自分達のことをわかってくれ、場面ごとに切り替えが出来る熱い人」ということになります。

こんな人が本当に居るなんてちょっと嘘くさいですね。普段から人を敬い皆から愛される良いお兄さんが怪獣を前にするとスーパーヒーローに変身して、悪をこの世から消し去るまでに叩きのめす、そんな感じです。

そういう人も居るかもしれない、とは思いますが、実際の活躍するビジネスマンの説明としては空想的です。

売上、上司、周囲の評価がもともとズレているので分析結果も違ってきます。そして、結果が違うと説明がかわるのは当然ですが、それらの説明を繋いでも説明力が上がるとは限りません。一方、結果によらず人を見極めるのは実は、極めて難しいので、結果と説明はセットになっています。

世の中にある、いろんな結果と説明を一緒くたにしないほうが良さそうです。


まぜるとアート

2013年4月23日火曜日

上を向いて歩こう 思考とは自分以外を見ること

論理的思考(ロジカルシンキング)、水平的思考(ラテラルシンキング)について整理しようと思ったのですが、その前に、そもそも「思考」とは何なのか考えてみました。

言語の定義においてざっくりと言えば「思いを巡らせる精神的活動」となります。
確かに現象はそうなのですがしっくりこないので、もう少し自分なりに以下のように定義してみました。


「思考とは自分以外を見ること」


このように定義した背景ですが、会社のなかの諸活動を見るに、仕事の質を落とすのが論理的思考の反対にある、非論理的思考ではなく、思考の反対にある思考停止であるように感じるからです。

例えば、会議でじっと黙って下を向く、遅れる、腕を組んで目を閉じる、携帯を触る。

大村はまさんは、生徒が顔を上げて考える教室を目指されたそうですが、確かに、会議で下を向いて資料を見ている人って「考えていますよ」というサインを出しているように思います。(自分もそうです)そしてそのようなサインを出すことは、実は本心では思考していないことの現れです。

会議でじっと黙って下を向く = 実は思考停止でアイドリングストップ状態

同様に
遅れる = 幽体離脱みたいにエクトプラズマが流れ出た思考離脱状態
腕を組んで目を閉じる = 思考放棄で3周くらいの周回遅れ
携帯を触る = 思考蒸発で部屋にはネガティブ湿気が充満

そんな行動傾向のある人に、会議を活性化させようと、意見を求めたり、質問したりしてもあまり出てこないことが多いし、出てくる意見は否定的なものであることは経験多し、です。

これらの共通点はすべて「自分以外を見ていないこと」です。視野が外に向って開いていない、とでもいいましょうか・・・

逆に、「自分以外を見ること」によってほんとうに思考が進むのか今後、確かめていきたいと思います。

プレゼンの際に資料を配らず、プロジェクター投影で強制的に顔を上げさせる方法がありますが、ただ、顔を上げただけでも少し違うように感じるのは気のせいではなさそうです。

PCでの仕事に従事する時よりお客さんの所に出向いた時のほうが思考がシャープです。お客さんのところでは、当たり前ですが、下を向いたり目を閉じたり携帯を触ったりしません。
最近、歩きながら考える、散歩ミーティングなど、歩くことと脳の活性の関係が取り上げられています。視野と脳の活性化には関係がありそうだし、視界をコントロールする瞑想と思考(定義した)にもいくつかの共通点を感じています。

確かめる価値はありそうです。

「上を向いて歩こう」とは、究極の思考活性のメソッドかもしれません。



上を向いてのびる大、のびる中、のびる小

2013年4月22日月曜日

リセットされる知識

行為に特化された知識は行為の出現する状況がかわると失われるそうです。

例えばハイハイをする幼児は、一定の角度以上の勾配が危険であるという知識を転げ落ちる経験により積みますが、どうやら、二足歩行をはじめるとその知識を失い、また、最初からやり直して知識を積むという考察が、実験観察を通して行われています。

これは何も乳幼児に限ったものではないという検証も行われています。

さて、このような仮説は、私たちが、様々な情報をフラットに受け止めインプットしていると考えがちですが、実は、行為とセットして情報をインプットしている可能性を示唆するものです。

例えば、家庭であったり学校であったり職場であったり、場所が変わると行為も変わります。家でしか行わないこと、職場でしか行わないことを考えてみると、行為にいたる情報の取り込みが違っているような気もします。家では電話に出るが職場では電話に出ないといったケースでは、「電話が鳴っている」ことの意味がそもそも違っているわけですね。

これを「意識的に切り替えている」と考えれば、意識を切り替えましょうとなるし、「行為に特化された知識」であれば、一旦、旧来の知識を捨てて新たに経験で知識を積む必要があります。前者はすぐ出来ること、出来ない場合はやる気が無いかやりたくないこととなり、後者は学習棄却という苦しみを経て初心に立ち返って学び直すまたそれを周囲は支援することになります。

ここで身体性が伴わないとき厄介なことが起こります。
例えば、事故や病気のリハビリで機能を回復しようとする場合、強制的にゼロから学び直すプロセスになるのですが、そうでない日常的な行為の場合、気持ちと裏腹になかなか行為が変わらない、それは、そもそも情報をインプットする際にすでに行為がセットされてしまっているから、と考えられるでしょう。

ピコピコハンマーでじゃんけんをするとき、最初に、こういきたらこうして・・・とシミュレーション&トレーニングをします。「あっちむいてホイ」になったらピコピコハンマーを拾い上げたり、ヘルメットを冠る知識はリセットされています。しかし、ピコピコハンマーでじゃんけんの相手が変わったらどうでしょうか。拾い上げるスピードなどに変化があり、実際は、知識がリセットされているはずです。

「知識」が使い回せるというのは実は自己中心世界的な幻想で、常にリセットし獲得し直されるものであり、場合によってはそれがたまたま以前の「知識」と同じだった、ということなのかもしれません。


「経験豊富」とは積み重ねと引き出しのことではなく、リセットしてきた多さと素早くリセットできることだと考えてみると、自分の力を高める方向が見えてきます。



世界は即時的なもの

2013年4月21日日曜日

徒然なるままに 自信、根拠、経験、そして10年後に向けて

冷たい雨がざんざん降っている日曜日の午後、いくつかの情報を紡ぎながら考えてみます。

「不安に根拠はありますか?」(「Tehu」と呼ばれる天才高校生がいる。)
「根拠の無い自信」に関して、賛否の声があります。バンデューラは「自己効力感」(self-efficacy)として、何かに取り組むときに、結果に対して、また取り組みに関して自分の統制下にあると感じる感覚を定義しましたが、他者から見れば、その感覚に共感できる場合とできない場合があります。

「あいつならきっと出来る」という共感と期待がある
「なにを言っているのやら・・・」という分析と評価がある

「根拠の無い」ものであればそれは後者であり、さらには本人も説明できない、直感的なものであることもあります。最近は、「なぞの万能感」とか「イヤボーン」などが後者をラベリングする言葉です。

さて、直接経験を獲得し資本として機能させる(経験獲得競争社会を生きる!? : 資源化・資本化する直接経験!?)という話に触れ、前述の「Tehu」さんのケースなどは、まさにその通りだなぁと感じた次第です。「Tehu」さんは、本人に根拠が無くても、すでに周囲には共感と期待がある状態ですのでもはや巨大資本状態ですね。


激変! 10年後の働き方、稼ぎ方」というエントリーでは以下の3つの変化を予測しています。
1.ゼネラリストから「連続スペシャリスト」へ
2.孤独な競争から「協力して起こすイノベーション」へ
3.大量消費から「情熱を傾けられる経験」へ

ここにも「経験」が出て来ました。実際に自分で何かを行い、スペシャリストとして連続性をもって自己革新しながら、周囲を巻き込んでイノベーションを起こすことがこれからの働き方、稼ぎ方になるという説に、確からしさを感じます。

自分なりに方向性を再確認することができた雨の日曜日でした。


勿論、全てではない


2013年4月20日土曜日

経験は未来への道標


人に歴史あり。

E.H.エリクソンは人の一生を8段階に分け、段階ごとに獲得されるテーマを設定しました。信頼、自律、積極、勤勉、同一、親密、生殖、統合を段階的に獲得していく(もしくは獲得出来ない)と考えたのです。
これらは、経験とその結果の因果を考える思考フレームになりますが、私は、段階的発達というより自身を取り巻く環境の変化と共進することで経験が蓄積されるのだと考えます。しかしながら、一方的に蓄積されるのでなく、身体性の変化や環境の変化にともなって消失、変容していくもののようです。

(脳の)海馬の配列(記憶)はゴールに向けた未来の道を描く
最近の研究で、目標に向かってナビゲーションする機能が、脳の海馬に備わっていることが証明され始めました。このような脳の機能が証明されると、我々が未来を予測し、行動する際に、脳のどの機能を拡張して応用しているのか推察が生まれます。つまり、記憶を使って未来を予測していると考えられるのです。

愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ−オットー・フォン・ビスマルク
そのなかでも、ビスマルクのこの言葉は、示唆深いです。自分の限られた経験で考えると間違えるので、自分が間違っていることも受け入れて他者の言葉や経験を通じて考えるという姿勢は、未来の可能性を無限に広げるパラダイムシフトです。

ラーニングヒストリー
社史のようにイベントを記録したものでなく、ケーススタディのように実際に組織に起こった様々な象徴的出来事をそのときの背景、意識、判断と合わせて記録しそれを新たな組織構成員が学ぶことをラーニングヒストリーと言います。これは、前述のビスマルクの言葉を、具体的化したメソッドとも言えるでしょう。

要するに因果のごとく経験によって未来が限定されるのではなく、経験を拡張することで未来が広げられるのです。
但し、身体性という拘束条件(10代に戻るとか)から逃れることは出来ません。


過去を学ぶほど未来が広がる

2013年4月19日金曜日

これからの部長(事業部長)像

基本的な営利組織の中の階層は、担当、係、課、部(、事業部)、執行、経営となります。会社という社会的目的のなかで、部は機能的に大きな節目といえるでしょう。部の上位にある執行、経営は、部以下の機能を目的に沿って合理的に機能させる役目になるからです。

さて、組織を有機体として考えるのは間違っていますが、組織活動自体には生命的な動きになります。それは、組織構成員の活動が生命そのものだからです。

例えば、営業部といえば、会社の目的を実現するなかで営業という機能を受け持つユニットですが、営業活動自体は部員が、反応し、考え、動くことで実現できるわけです。

生命は、環境変化に適応し生存するという戦略を内在しています。その戦略に最適化された戦術を常に模索し、今日に至るわけですので、どのようにして生命が実現しているのかその戦略を理解することは非常に重要な示唆となるわけです。

その戦略のひとつが「行為は外部環境と協同して適応的に創発する」というものです。ちょっと難しくなるので、逆説的に言うと中央集権的なコントローラーが行為という生命活動を作り出しているのではない、ということです。

例えば脳を測定すると「体を動かす」とき、「意識」よりも「体」のほうが先に「行動」を初めているそうです。「意識」が中央集権的な存在であるとすれば、「意識」は「行動」の「命令」でなく「追認」であることになります。心臓の拍動にしても、中央からの指令ではないですね。


そこで、「部門の活動とは、部長の命令で発生するものではないという」仮定が生まれます。部長の命令で、部門が動いたように見えても、実は、部員それぞれの行動がまず先にあることが前提になるわけです。

では、部長は要らないのでしょうか?

もう一度、さきほどの戦略を見てみましょう。
「行為は外部環境と協同して適応的に創発する」

部員一人一人にとって、部長はこの外部環境の一つになります。

私の考える部門活動の順番は以下のようになります。

1.部員が動いている 活性
2.部門ミッションに適応して行為を創発する 適性
3.部長の指示を使って新たな適応を創発する 応答性
4.部門全体が指示に沿って動いたように認識される 統一性
5.部長が評価される

評価という観点から見れば、部長のマネジメントとは、まさに、部員の活性、適性、応答性、統一性を上げ、組織における機能を実現する仕事ということになります。

変化の振れ幅が大きくなっている今日において、これからの部長(事業部長)は
(1)求められる変化への適応スピードと水準を理解、学習出来る基本的能力
(2)部員の実態を客観的に把握できるFact Findスキル
(3)部員の刷新ができる決断力
(4)的確な指示がだせるひらめき、直感
(5)統一性を判断し、自己の立場にも固執しない(1)から(4)をまわす自己革新力
の5つの力を持っている必要があります。

人が良く、雰囲気を大事にして構成員の状況は人事任せで慣例や経験を大切にするおまかせ部長やこれまで率先しプレイヤーとして実績がありそこから脱却できない叩き上げ部長は環境変化に適応する妥当性が見当たりません・・・。

部長!組織の拍動が見えますか?

2013年4月18日木曜日

そらにおもう


まう
ならぶ

ひらく
つむ              こわす
 うかぶ
あふれる
きそう
 およぐ
 そびえる



2013年4月17日水曜日

経営者のゆらぎは不快である

競合との競争、新規参入、デフレ・インフレ、少子高齢化、グローバル、円高・円安、国際政治などなど、企業にとって向き合わなくてはならない課題がそれはもういっぱいあります。すべての課題の緊急性と重要性を勘案し、方針を決め、戦略を練り、実施していくわけですが、そのなかでもやっかいなのが経営のゆらぎ(要するにトップのわがまま)です。

トップにとっては、思いついたことや考えたことは全て緊急、かつ重要な事項です。これが、中間管理層に落ちてくると、トップが言う以上、緊急性はあがりますが、一方、重要かそうでないかは中間管理層の観点からは異論があります。場合によっては、重要どころか余計なことだったりします。当然、重要性を上げるための論拠作りが始まり、レスポンスは悪くなる=緊急性にも対応できない ことになります。納得をするためにトップに質問(詰問)することも多くあります。

トップからしてみれば、言ったようにすぐにやらない、くちごたえをするなど、面白く思えない。双方にストレスが溜まる瞬間ですね。

中間であった立場からトップにかわったとき、月並みですが、初めて実感としてわかりました。あーこういうことだったのかぁ・・・と。

これは実感するものです。今日、お話をした執行役員の方も非常にストレスを溜めていらました。わかるなーその感じも・・・。
(ただ今は、その方も、トップになった際には必ず何かを実感する、と思います。)

あらゆる組織で起こっているのであろう、このような出来事は何を意味するのでしょうか。一つは、未来は無限に開いている(正解がない)ことでしょう。そしてもう一つは多くの課題は頭で作られる、ということです。

お腹が空いた(食べないとすぐ死ぬ)とか天敵が近づいてくる(逃げないとすぐ死ぬ)など、生存に関わる課題は共有しやす課題です。ポイントは未来が近いこと、原始的な課題であること、限定されていることです。会社では、「このままでは潰れる」という課題は共有しやすい課題です。一方、未来が不明確であったり、どう社会に役立つのかといった課題はなかなか共有出来ません。思いつきなんてまず、共有できません。共有がなければ共感もありません。共有、共感を生むためには時間、お金などの相応のコストが必要なのです。

人は物事を理解する際、引き当てる経験がないと不安や不快を感じるように出来ています。リスクを回避する古い脳の働きです。同じ苦労をしたもの同士が、課題を共有し共感を覚えやすいのは、過去の経験が重なっているからです。
経営者のゆらぎは中間管理層にとって、まずは、不安や不快であると言って間違いないでしょう。

さて、その不安、不快に対して中間管理層が見せる反応のパターンは、
1.自分が有能であると見られたいために我慢して受け入れる(従属)
2.共有、共感しようと努力する(学習)
3.物申す(武闘)
4.無視する(身勝手)
の4つです。

経営者にとって信頼出来る度は2→3→1の順番で4は信頼できないですね。
今日、お会いした執行役員の方は2。とても信頼のおける方でした。そんな方がいらっしゃるなんて、それだけで間違いなくすばらしい会社です。

あっ、ちなみに経営者のゆらぎを止めることは不可能です。
脳はもともとデフォルトモードネットワークといって常に活発に動き、ゆらいでいるものですから・・・


ゆらいでいるのがデフォルトです

2013年4月16日火曜日

ソシつく 組織をつくってみよう

ある目的のために組織を作りもしくは変革し機能させることを組織開発と言います。
経営目的を達成しようと人材の能力を引き上げることを人材開発と言いますが、「開発」という言葉がなぜか良く使われます。

「開発」ってどういう意味なのか、ネットで調べてみました。

開発(Wikipedia)
(かいほつ)もともとは仏教用語で、仏性を開き発(ほっ)せしめること。
(かいはつ、英: development)上記の仏教用語からの転用で、自然や知識を利用してより人間に有用なものを生み出す行為。


仏教由来なんですね。

ちなみに仏性(ぶっしょう)が発揮できるようになると成仏だそうです。
どうやら、組織も人材も究極の目的に向って深堀りされるようです。


さて、「サカつく」というサッカーチームを作ってみるゲームがありますが、組織をつくる「ソシつく」はどうすれば良いのでしょうか。

まずは、組織が機能して実現する目的があります。実は、組織は、その目的によってかなりの部分が定まってしまいます。統治、軍事、営利、ボランティア、教育などなど、それぞれの目的を果たすうえで自然と組織の形態が出来上がり集合知が生まれるようになります。それら、原始的な組織がさらに細分化、専門家、差別化を進めるうえで変化するプロセスを、逆に意図をもってゴールから考えて実施しようとするのが組織デザインの考えかたです。

原始的な組織は、当然、組織構成員にとって、目的、形態、機能・役割の親和性が高い状態ですが、新たな組織を作るときは、至る所にギャップがあります。

それはそうですよね、逆算なのだから。
「デザインとは夢を実現するためのプロセス」ですから、夢と現実のギャップがデザインには必ず存在するのです。

昔、プログラムが本当に設計通りに機能するかは、実際にプログラムを動かさないとわからない、という話を聞いたことがあります。組織も実際に作った後でないとデザインしたように機能しているのかわかりません。

とはいえ、原始的な組織が持つ合理性を超えて組織をデザインするととてもちぐはぐなことになります。例えば、組織構成員の自律性が低い(指示待ち)のに、フラットな組織や、ネットワーク型の組織を作っても上手くいきません。その場合は、指示、命令系統が明確な組織が有効です。


そんなことをまとめると以下のようなキューブになりました。





仕事の状況、構成員の動き、スキルレベル、この3軸で組織のもつ合理的組織形態を説明するモデルです。(組織形態については様々な分類があります)


「激しく変化する経営環境の中で、さまざまな変化にしなやか、したたかで自らの未来を創る、拓く組織を作りたい」


そんな想いを込めた「ソシつく」とは、人材と組織の本質を開き発せしめる試練を自らに課すことです。



月まで行こう

2013年4月15日月曜日

固定的知能観から成長的知能観への転換とは

固定的知能観(entity theory of  intelligence)と成長的知能観(incremental theory of  intelligence)という対立概念があります。

どのような対立かというと、

知能は実体的なもの ⇔ 賢さは獲得できるものだ 

という、知能の捉え方の相違です。前者では、例え新しい知識は獲得できたとしても、頭の良さ(知能)そのものは変わらない、賢さは生来きまっているものであるという立場をとるので、賢さが他者への優位性の根源となり、賢い人物だと思われたい潜在的な欲求、動機を内在しています。

賢く見せること、失敗しないことに、良い成績を取ることにエネルギーが注がれ、成績が落ちると無力感に陥る傾向を持ちます。

組織においてこのような知能観を持った社員は、良い評価を得るために仕事をするので、評価の定まらない、もしくは評価が落ちる可能性がある仕事を避けます。また、評価が下がった場合に、絶望的な見通しを持ってネガティブな空気を発信するので、昨今のような、経営環境が激しく変化する状況において、マインド上の荷物になります。

このような知能観を持った人物には、以下の2つの代表的なパターンがあります。
1.高学歴、優秀で大学を卒業した者
2.逆に学歴などにコンプレックスのある者

いずれにしもて困るのは、ポジティブフィードバックの効果が低く、自分の仕事や能力に対するプライドは高いものの、新しい取り組みや踏み込んだ他者の支援などは「やらない」「できない」「関係ない」と簡単に言ってしまうことです。

マネジャーは、「信頼関係が出来ていない」とか「自分のマネジメントに問題があるのでは」とたいそう悩むのですが、固定的知能観の人は、従業員満足度調査を実施すると満足度が低く出る傾向が確認出来ていますからどこまでが本人の特性でどこからがマネジメントの問題か、見極めることが大切になってきます。

さて、固定的知能観の人を成長的知能観に転換させることは出来るのでしょうか。

これまので経験ではかなり困難です。

しかしなかがら、「複雑系 COMPLEXITY」M・ミッチェル・ワードロップ著の一節が参考になると思います。

その一節とは、ロスアラモス研究所のポストドック、クリス・ラングストンが28歳の時にハング・グライダーで大事故に逢い、酷い状態であったとき、大学病院と、そこでの物理療法やスポーツ医学のプログラムを通じて到達した考え方です。

「とにかく努力を続けろ、進歩しろ、というわけだ。そこでぼくが気がついたのは、枠を超えなければいけない、つまり、今の自分を受け入れてそこから出発するように自分の精神を変えていかなければいけない。いまの自分を悪く思うのではなく、進歩するのは良いことだと思うようにしなければいけないということだ。それでぼくは、みんなからのけものにされて変に思われていると感じながら、それをありのままに受け入れて生きようと決心したわけだ。」(P.368より抜粋)


ラングストンの事例を参考にすると、マネジャーは、プログラムを作成し、医者や療法士のごとく粘り強く、「努力」、「進歩」を言い続ける必要があるようです。

実は、従業員に「ホウレンソウ」を禁止し「常に考える」ことを求め続ける未来工業はまさに、このアプローチを実践する企業だと思います。


成長しよう!



2013年4月14日日曜日

石橋と略杓

隅田川には多くの橋が架かり、人々の生活を支えています。様々なデザインや構造は、見た目も楽しませてくれます。

鉄の時代になる前は、橋は木か石で作られたものでした。
石で作られる橋は、文化や権力の象徴にもなり、単に、こっちとむこうを繋ぐ経路である機能性を越えた意味を持っています。

例えば「石橋を叩いて渡る」ということわざがあるように、石の橋には、木造に比べてその頑丈さが安心感として認知されています。

さて、「略杓」というのは丸太の橋のことです。石橋に比べると、見劣りするものの、橋というその真の意味においてはかわることがない、意味を変えているのは、橋を見る人間のほうであるということを禅宗では説くようです。

とある企業でヒアリングを行った際に、会議の際に一番重要視しているのは論理性、合理性であるという話がありました。発言者には、会議に参加している全ての人が、合意するだけの論拠をしっかり整えていることが求められているそうです。この場合の発言者は、立場がメンバーや初級・中級管理職、会議のオーナーや発言に対して意見を言うのは役員、上級管理職でしたので、会議とは「上司が理解、納得できる発言を部下が行う場」という定義になります。

他者性という観点からすれば、部下にとって、これはとても大切なことです。自分と異なる他者がありそれによって自分を知る(考える)経験の場になるからです。

では、上司はどうでしょうか。「上司が理解、納得できる発言を部下が行う場」における上司の「経験」とは、何なのでしょう。場合によっては、上司は「石橋」を讃え、「略杓」を見下してしまっているのではないでしょうか。

重量に対する強度や安全性など、機能面を評価すれば、「石橋」が「略杓」よりも上です。より、価値の高いものを評価するのは当たり前です。上司にとって「評価」は大切な仕事です。そして、恐らくもっと重要なことは、会議を上司が経験の場とすること、部下という他者を通して自分を知る(考える)場にすることだと思います。


橋は贔屓したり見下したりしない


2013年4月13日土曜日

KITTEに行ったら

3月21日に開業し、多くの来場で話題になっている東京丸の内のKITTE。東京駅至近ということもあり、地下から入れば雨の日でも快適にアクセス出来ます。開業から3週間あまり経ちましたがまだ込み合っていて、興味、関心のある人が多いようです。特に11時の開店とともに食べるところはどこも一杯になり待ちの行列が出来ていました。


地下からのアクセスもいい感じ


桜の次は何になるのかな


屋上庭園からの東京駅、いい眺めです

さて、KITTEを楽しんだら、その後も色々な楽しめる場所が周辺にはたくさんありますが、そのなかでも天気の良い日のオススメのコースは、大手門から入る皇居東御苑です。


お堀で白鳥が優雅に出迎える


終わりの桜が渾身の花吹雪


都心に雑木林の空気が漂う


しずかにきらめくながれを見る


群れるジャガ一面に咲き


タケノコ自然にスクスクのびる


ひろいひろいあおいそらにしろい雲のぞうさん

2013年4月12日金曜日

グーグルのオキシゲン・エイトに考えるマネジャーの仕事


先日、グーグルのオキシゲン・エイトを取り上げました。データ解析により表出された、マネジャーが改善すべき8つの重要行動です。
そもそも、取り組みのきっかけとなった問いかけは以下だそうです。

Why do people leave their employer?
(何故、雇用者から去っていくのか?)

離職を防ぐことがプロジェクトの出発点です。

いろいろな会社の離職のケースを分析すると、大きくは2つに分けられます。ひとつは、周囲からも認められた優秀者が辞めてしまうケース。もうひとつは、会社に合わずに辞めていくケースです。求人倍率の高低、会社の業績など様々な外的要因と離職者個人の内的要因が組み合わさって離職が表面化しますから一概に論じることは出来ませんが、経験者の離職は、経営的には損失として受け止められています(本当にそうなのか、最近は懐疑的です)。

この2つのケース、内的要因との関係性は測定されていて、可能性を測ることができます。ですので、外的要因のひとつとして、適切なマネジメントが実施されれば離職を減らせます。

例えばシリコンバレーでは、雇用対策として、すでに食堂が無料とか、ジムがあるとか、通勤に配慮しているとか様々な福利厚生が手厚くなっています。

しかしながら、昨今のように、経営環境の変化が激しい=外的要因が大きくかわる状況下で、マネジャー要因への期待がさらに大きくなっていることを図らずもグーグルの取り組みから読み取れます。


また、マネジャーの仕事は、もちろん、メンバーの離職を防ぐことだけではありません。メンバーの力を引き出す行為が同時に、離職も防ぐのである、ということをオキシゲン・エイトは語っています。(力を引き出す行為の8つのツボということですね)

マネジャーの仕事には、業績推進、業務管理のほかに、メンバーの業務支援(指導)、内省支援(評価、フィードバック)、精神支援(メンター)といった支援を行って、「一人前にする」仕事があります。特に、日本での新卒学生などポテンシャルで採用する場合は、現場のマネジャーに「一人前にする」、が待っています。

「一人前にする」には、「力をつける」と「力を引き出す」行為がありますが、その違いは「ティーチング」と「コーチング」の違いに近いかもしれません。
実際には、メンバーの「内発する力を引き出すことで力をつけていく」のだと考えれば、スキルだけ与えてもメンバーは一人前に成長しないことがわかります。離職の確率が高まったことで、「内発する力を丁寧に一生懸命引き出すことで力をつけさせる」状況になったわけです。


要するに、どこの企業でもマネジャーの仕事に対する期待が更に上がっていることは間違いないようです。



期待も上がる、陽も上がる









2013年4月11日木曜日

歩きスマホ規制条例? 利他性とは何ぞや


スマホに夢中になって突進してくる人。今朝も居ました。闘牛みたいなものです。
コラムニストの小田嶋隆さんは以前、ある雑誌で「歩きスマホ規制条例」を提案したそうです。でもたまに自分もやっているので条例になる前に気をつけようと思います。

先程、丸の内のビルのエレベーターで乗り合わせた女性は、エレベーター内で携帯で話をし続けました。最近、増えた気がします。地下鉄の電車内で携帯が通じるようになったので、おそらく電車内通話もこれから増えることと思います。

ちょっと前までは、タバコでした。最近では条例も広がり、メインストリートで歩きタバコをする人を見かけることは減った気がします。昔、タバコをすっていたときは自分もやっていました。

「人間の行為の基盤に利他性」(茂木健一郎氏ブログより)があります。

自分の利益よりも他人の利益を優先する行為です。

先日、非常に悲しいニュースがありました。
豪雪に巻き込まれる中、自分の命と引き換えに、我が子の命を守った父親の話です。
利他性を説明するとき、このような、親が子供に対してとる行為を例示することが多いようです。自分の欲求を充足するより、子供の欲求の充足を優先するわかりやすいケースです。

以下、個人的な見解です。

人は優位な生存戦略として、「適応」「分離」「社会化」を備えていますが、「利他性」は「社会化」のなかで代表的な戦術です。

戦術には実行のバリエーションがありますから「他人の利益を優先しない行為」も当然、有りです。歩きスマホで周りを気にしないのは、その人の戦術です。
規制条例は、この戦術を封印する作戦ですね。歩きスマホを許せません。
ただ、戦術を封印する作戦は、全てではありませんが、ある一面では、「他人の利益を優先しない行為」です。ですので、声高に、規制を叫ぶ人は規制されようとしている側と大して違わないように感じることがあります。


マザー・テレサはこう言ったそうです。


”最後に振り返ると、あなたにもわかるはず。
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

 あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。”



先程、トイレの紙(ハンドペーパー)を使い切った人が補充していないのを見て、周囲に愚痴ったのは私です。
ほんとうは、わたしとわたしの内なる神(紙)との間のことだったのです。


ほんとうは他の人の間のことではない

2013年4月10日水曜日

「経験という牢屋」の看守と囚人もしくは上司と部下

話題になっている東京造形大学学長の諏訪敦彦さんの2013年度入学式式辞ですが、牢屋であれば看守と囚人がいるでしょう、と、そこで思い出したのが「スタンフォード監獄実験」です。

これは、特殊な役割を与えた心理実験で、役割に沿って行動が「演じる」から「染まる」に強化されることが確認されました。

基本的な人権が尊重され、複雑化する社会において、監獄実験ほど極端な現象は観察されないのかもしれませんが、人類が「社会性」という生存戦略を持つ中で、「役割」の持つ意味は重要です。「役割」という外部環境を利用する行為的適応によって「社会性」を知覚し表象しているからだと考えます。

例えば、職場における上司という役割。目的に対して、部下に指示を出す役割です。部下は上司の指示に従う役割です。この場合の「職場」=「経験」でしょうか、「職場」=「牢屋」(汗)でしょうか。
「職場という牢屋」のほうが「経験という職場」よりもわかりやすいです。
「監獄という牢屋」では、看守は囚人に規律を守らせる役割で、囚人は規律に従う役割です。

「職場」でも「監獄」でもこの役割通りになっていれば「社会性」が機能します。
実際には、それが上手く行かずに役割双方にストレスが溜まり、いろいろな事・事件が発生します。「監獄」はそもそも「社会性」に問題がある人が入る場所ですので、「社会性」が維持されるのは困難です。前述の実験では実験自体が破綻しました。まさに「監獄」は「牢屋」です・・・

「職場」をスピンアウトする人にとっては、「職場」は「牢屋」みたいに感じているかもしれません。逆に「職場という舞台」という「社会性」での役割に情熱を燃やしている人もたくさん居ます。
諏訪さんの「経験という牢屋」という表現にどう反応するかは、人それぞれであり、それ故に良い問題提起になっているのだと思います。良設定問題ではありませんから、看守であっても囚人であっても「牢屋」なのか「舞台」なのかは本人のみぞ知る、というこで締めようと思います。


ほんとに牢屋がある

2013年4月9日火曜日

「文章」を分析してみよう

身の回りにあるテキストデータを分析してみます。テキストマイニングという方法です。

今回分析するのは太宰治「走れメロス」の以下の一節です。

メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。


単語で一番多いのは「メロス」で10回、次は「~する」で8回、次は「市」で5回となります。

これを言葉の塊(クラスター)として分析すると一番下、「メロス」基点に塊が生まれていることがわかります。


激怒したメロスを芯にして、妹や旅先などでの様々な出来ごとが層を成している様子が見てとれ、まるでバラの花びらのように描き出される情景の厚さが見えてきます。素晴らしい!

さて、プログラムによって勝手に整理分類させてみましょう。
自己組織化マップと呼ばれる方法です。


見えてきたのは、メロスの身の上話を中心に、決意、妹、友人、旅程、特性、街の描写、街での行動が繰り広げられている様子です。これは、話を理解するプロセスに近いかもしれません。

メロスは激怒し王を除くと決意した。(なぜかというと・・・)父母女房が無く、妹のため、友人のいる街へ出向き邪悪な雰囲気を感じ尋ね歩いた。・・・ というふうに地図に沿って展開すると簡単に骨子が理解できます。

「セリヌンティウス」が「竹馬の友」とか「石工」の近くに無いのは、「セリヌンティウスである。」という、文が独立していることによるもので、文章としての味わいをこの分析では理解できていないことの顕れでもあります。


分析結果は新しい視点と知識と与えてくれますが、上の図をみても分かるように、オリジナルに備わるクオリアアフォーダンスは喪失されてしまいます。人でも物でもそれを「知る」ためには、まずはオリジナルに触れることが重要です。
そして、新たなアウトプットから新たなクオリアやアフォーダンスを得る人が真のアナリストであり、実は分析とは、知を創発する、とてもアーティスティックな行為なのです。