2013年12月31日火曜日

毎年恒例と脳のおきまり

年末を迎えるにあたり、この時期、様々な事を毎年行っていることに気づきます。例えば、紅白歌合戦、年越し蕎麦、初詣、おせち料理、年賀状など、形は少しずつ変えながらもほぼ同じことを続けています。

これらの行動は、伝統であり風習として、親から子へ継承されます。しかしながら、その継承は100%でなく、一部が必ず変質していきます。仮に統計学上、有意水準とされる5%が正しく継承されなかったとすると10年経てば、およそ60%しか伝統が保存されないことになります。

2004年の年末年始を思い起こしてみたときの継承率はどうでしょうか。

脳科学の知見では、80%以上はおきまりの行動(「脳には妙なクセがある」池谷裕二 P251) だそうですから、「正月とは」といった抽象度の高いレベルでは大きな変化は感じられないかもしれません。

一方で、より具体的な行動においては、様々な変化がおきていると思います。それらは、ライフイベントや加齢における変容の影響を強く受けています。それゆえになかなか内的な行動の変化ととらえられません。

こう考えると、変化の実態を本質的に認知、把握することは難しいことがわかります。

私は、3年前から、年賀状をインターネット上で作りそもまま送ってくれるサービスを利用するようになりました。これは、明らかな行動の変化で、表面的には、ネット上にサービスが準備されたことによって起きた変化です。

では、内面的には何か変化したのでしょうか。

一つは、元旦に年賀状を届ける慣習の履行です。それまでは遅れることもよくありましたが、きっちりと送れるようになりました。
もう一つは、一枚づつ相手を想い字を書き添える行動の消滅です。

実は、この変化は年賀状が「弱い繋がり」へと変わったことを意味しています。そして、それは自分にとっては大きな変化です。社会的関係をOne to One型からネットワーク型にリデザインしたのです。

慣習は脳のおきまりによって維持されるように見えますが、伝統が守られる背景は、もう少し複雑そうです。


準備万端

2013年12月30日月曜日

共鳴と転送

言葉が通じなくても意志を通じることはできます。こうした疎通は、相手の表情や仕草によってその心情を推測することで成立していると思われます。

しかしながら仕事など高度な疎通は、心情の推測では成立しません。そこには、思考や感情など、複雑な情報を的確に相手に転送しなければなりません。

このような転送において重要なのは転送の手順です。その代表的のものが言語です。

日本人にとってグローバル化の大きな障壁と考えられているのが英語に代表される言語力ですが、グローバル世界において多くの言語が存在するのは何故でしょうか。

そもそも、言語とは複雑な情報を疎通するための高度な手段であるはずですが、言語によって疎通が阻害される現状をどう理解すれば良いのでしょうか。

例えば、日本国内においても世代や地域によって会話の意味が通じないことがよくあります。転送失敗です。

では、疎通出来ない、ということは、何かに役立っているのでしょうか。

薩隅方言は暗号に使われたこともありますが、情報の漏洩を防ぐ目的で作られたという通説もあるようです。ネットワークで情報を秘匿するためには、暗号化が一般的に行われますから、疎通出来ないことは「伝えない」ことに役立っているのは間違いないでしょう。

もう少し考えてみると、選択的に疎通をコントロールする機能が言語にはありそうです。

つまり、言語の壁によって内と外を作り出すことで、内を安定させる効果です。
反対に、高度な疎通は状況を不安定化させるとも言えるのかもしれません。

言語に選択的疎通の目的があるとすると、言語にはどこかしら習得し難さが内在しているはずですが、実際はどうなのでしょうか。


言葉の壁

2013年12月29日日曜日

マイナー(反メジャー)な性向の訳

自分には、よく言えば反骨精神、言い方を変えれば天の邪鬼なところがあります。

例えば、昔から何かを選ぶ時に反主流な選択をしていました。

以下、その一例ですが、
経済学部に居ながら、産業社会学のゼミを選択したこと
パソコンでPC9801全盛期にNECでなくEPSONだったこと
VHSでなくβマックスを買ったこと
今、ソニーのデジタル一眼カメラを使っていること
などなどです。

このような性向が身についた背景は、一つ違いの兄の存在があると思います。ほぼ同時期に、しかしながら若干、遅れて選択するが故に、メジャーを選択する兄、マイナーを選択する弟という構図になっていました。例えば、弟にとって兄と同じものを身に纏うことはあまり嬉しくないことです。それは、兄弟における生存競争の一環なのかもしれません。

ただ、このような発達段階での環境による影響だけでなく、生来の要因もきっとあるのでだと思います。

しかしながら、このような性向を実は結構気に入っています。メジャーでない選択肢の中には差別化の知恵が詰まっていると感じるからです。

もちろん、メジャーな選択には安心感があります。EPSONのNEC互換機しかり、βマックスしかり、マイナーを選択すると転け易いの実感もあります。

一方でマイナーなものの中にはイノベーションが潜んでいる事も事実です。FreeBSDやLinuxなどはその良い例です。MS-DOSやMacOS、Windowsが主流だったとき、まったく未完成なFreeBSDやLinuxには可能性という魅力が満ちていたことを記憶しています。

”未完成ゆえに持つ可能性という魅力”

それは、マイナーを選好する性向の源泉であるように思います。


自然と目が向くのです

2013年12月28日土曜日

現場を良くするデザインとは?

クライアント企業の経営トップにインタビューを行うと、現状と課題と目標が明確になります。特に、組織風土の改善がテーマになったとき、どのようなデザインが必要なのでしょうか。

成果志向であれば、いかに目標を達成するか、というデザインが必要になります。それは、機能性と効果性の高い施策を意味します。

ビジョン志向であれば、ビジョンの浸透とビジョンを体現する行動の自律的創発をデザインする必要があります。

成果志向においては、目標実現にむけて手順が具体的になっている必要があります。一方で目標達成を阻害する要因は排除する対象です。適材適所の実現と不適応者への施策が中心です。たとえば、降格人事。組織の目標に向かってマネジメントが出来ないマネジャーが主にその対象となります。マネジメントは組織風土を決定づける大きな要因の一つだからです。

一方、ビジョン志向においては、コミュニケーション、対話、内省、実践の連鎖を通じ、経験から学ぶプロセスが大切になります。また、組織内の人の学びの速度は一様でなく、自律的に創発する行動も多様ですから、プロセス自体の偶有性が高く、適応力が求められます。マネジャーにはファシリテートと自ら学ぶ姿勢が必要です。

成果志向とビジョン志向を統合することは可能なのでしょうか。

目標を実現するためには論理的に現状を構造化し、その構造の中から課題を見つけて改善するための具体的な手立て策定しますので、その施策のなかにビジョン志向的なプロセスを組み込むことは可能です。但し、ビジョン志向的なプロセスは課題を改善出来ない可能性がかなりあることを理解しておく必要がありますし、目標を達成出来なかった場合はプロセスの問題です。

ビジョン志向のプロセスにおいて、成果志向的プロセスを組み入れいることも可能です。それは、プロセスに一定のリズムを生む効果がありますが、そのリズムが慣性軌道となってしまうと学を失い、プロセスにとって逆効果となります。

それらを考えると、どうやら2つの志向性を統合することには注意が必要です。

ところが、多くの組織では、ミッション達成と育成という名目でごく当たり前にこの2つが並走しています。それは、今を生きることと未来を想うことの再帰性によるものでしょう。

現場を良くするデザインのキーワードは「再帰性」であり、要はマネジメントのデザインであると考えます。


マネジャーは二頭を操る

2013年12月27日金曜日

ホスピタリズムと精神的空虚の議論を通じて

本を通じて「ホスピタリズム」という現象を知りました。それは、ごく初期の発達段階における精神的空虚が引き起こす衝撃的なものです。

ホスピタリズムは別名、「施設病」と呼ばれ、親から話され孤児院や養護院などの施設で育った子供に、精神発達、身体発達の遅れとさらには生存率の低下が確認できる現象です。

精神科医ルネ・スピッツが研究し、1945年に「ホスピタリズム」という論文を発表しています。論文の要旨が動画で公開されています。

スピッツは、一般的な家庭の子供、犯罪で刑務所に出産前に収監され母子更生施設で暮らす子供、そして戦争などで親がいなく孤児院でくらす子供と3つのグループを調査したところ、孤児院で暮らす子供は調査対象の3分の1が2歳までに死亡していること、生存した子供にも発達障害が多く認めらることを明らかにしたのです。

現在、どのような議論がなされているのか分かりませんが2つの点で印象に残りました。

ひとつは厳しい現実から知る母子関係の大切さです。

人間は生まれると最初に母親と社会的関係を持ちます。そして、その関係を通じて社会性が芽生えます。乳児にとってそのごく初期の社会性の芽生えが、母親との関係の欠損による精神的空虚で阻害され、その後の社会性の発達に大きな影響を与えることは想像に難くないのですが、生存自体に影響を与えることまでは思いが及びませんでした。

もうひとつは数字で示すことの意味です。

明確なグルーピングと定量的な実証研究の結果として、数字で示される事実は「気づき」を越えて解決されなければならない問題を提起します。数字は自ら文脈を作り出すのでなく、文脈を強化する重要な役割です。「生存が難し」というより「3分の1が生存できない」と伝えられたほうが事を重大に受け止めます。ひとつの認知バイアスでもあるのですが、文脈は、数字を使って事実を的確に伝えることが大切です。


そして、「ホスピタリズム」を知ることで改めて気づいたのは、精神的空虚が、身体にとってもかなり影響を与えること(おそらく成人にとっても)と、提示された問題を解決する際に、「孤児院の子供を救う」という目前の状況改善と「孤児を生む戦争を無くす」というそもそもの根本課題の解決と両面を考えなくてはいけないことでした。


社会性と身体

2013年12月26日木曜日

リーダーの行動とその影響

組織の中で毅然とした態度でルールを守らせたり、信念を貫くことはリーダーにとって大切なパフォーマンスです。優柔不断な態度は、リーダーとして評価されにくいものです。

一方、社会的な関係が大きくなるほど利害関係者が多く複雑になり、リーダーには利害調整の役割が期待されます。そこではリーダーは偏った立場をとるのでなく、状況に応じた的確な判断と行動が必要となります。

リーダーは組織によい影響を与える存在ですが、実態はそうとは限りません。

この年末にリーダーをめぐる2つの大きな出来事がありました。

都知事の辞職と首相の靖国神社参拝です。

都知事は公正さを説明し切れず辞職、首相は自らの信念を貫き海外で波紋を広げています。いずれにおいても、複雑化する摩擦社会とリーダーの困難さを象徴しているように思います。

改めて考えるに
・広く受け入れられるビジョン、信念と内向きのビジョン、世界を閉じる信念
・謙虚さ(独立自尊)の性向と仮想的有能感(他者軽視)の性向
・適応不全と過剰適応という社会性のバグ
など、実はパーソナルなものが立場や社会の仕組みによって増幅し、大災害に至る複雑系の中に私たちが居ることを知るのです。


くしゃみをしても月は当面、落ちないはず?

2013年12月25日水曜日

いつもと違う結果 それは面白いのか変なのか

データを扱う仕事をしていると、いち早くデータ間の差に目が向くようになります。そして、ちょっとした違いからとんでもない違いまで、さまざまな違いを通してデータが語る真実に近づいていくのですが、熟達すると瞬時にデータの差には目が届くようになります。

さて、事実から紡がれる文脈には、データサイエンスにおける考察と、データソース(データの元となった活動)に関する考察が交差します。ですから、データが語る真実に聞き耳を立てるということは、データの差に気がつくということとは質が異なっています。

例えば、データの差はレコードの溝のようなものと考えると分かり易いかもしれません。

手で触れば溝の凸凹はわかりますが、音は聞こえてきません。データが語る真実とは、溝に触れた針先の振動を増幅することで、そこに隠されている音楽が姿を見せるようなものです。

また、データの語る真実は、音楽に、リズムと旋律があるようにデータサイエンスとしての土台と、データソースのゆらぎとが統合されたものと捉えられます。

つまり、リズムの悪い音楽が聞くに耐えないように、また、旋律の無い音楽が単調でつまらないのと似ていると思うのです。

ところで楽曲でアップテンポな曲やバラードなど、リズム、旋律ともに変化があると聴き手の世界が広がるように、データが語る真実においても、本来はノイズかもしれない結果に刺激を受けてしまうことがあります。

しかし、名演奏にまぐれが無いように、データが語る真実に関しても偶然は無いことを忘れてはなりません。下手な演奏者が奏でる奇妙な結果を面白がってはいけないのです。それは、何かが「変」なのです。


名演奏には拍手がつきもの



2013年12月24日火曜日

10392枚のスライドショー

2012年の12月24日から、2013年12月23日の間、撮った写真と動画は全部で10392枚ありました。

写真はiPhotoというソフトで管理しているのですが、全画面表示にして、一年分、1万枚あまりをペラペラ捲ったところ、全部で15分ほどでしょうか、考えていたより時間が掛かかりしました。

クリスマス間際に近所であった火事から始まって、初日の出、初詣、皇居の一般参賀などイベントと花や草木の彩りに感じる季節、陽射しや服装から温もりや暑さ、そして雨の冷たさや湿気などの肌感覚、複数カットによる動画のような動きから蘇る大地の強さが蘇ります。

これから次の一年はどんなスライドショーになるのか楽しみです。


Merry Christmas !

2013年12月23日月曜日

ムヒカ大統領のスピーチに想うこと

Facebookを通じて、様々な情報がシェアされます。シェアする文脈はそれぞれありますが、シェアされた人が描くストーリーは異なる文脈の創発です。

そんな中、ムカヒ大統領のスピーチがシェアされました。


”世界で最も貧乏な大統領」と言われているムヒカ大統領(ウルグアイ)が、2012年の地球サミットで語った衝撃のスピーチ”

主旨としては、経済的発展が人類にとって何を意味するのか、それに人類は向き合っているのだろうかという大きな問いかけです。

世界の向いている方向がこのままでいいのでしょうか。

正解のない問いかけです。

思い起こせば、「世界」に気づき、異文化を知った時から、繁栄と貧困の狭間で答えに惑っているように感じます。

で、

「おまえは、どうしたいんだ?」

今日のあまちゃん総集編でも、小泉今日子さんが問いかけていました。

その言葉が頭の中で響き続けます。

天皇陛下の傘寿、そして明日はクリスマスイブ。夜は更けます。


熱烈なアタックを受けて・・・

2013年12月22日日曜日

自燃組織、不燃組織

名経営者、稲盛和夫氏は、人材を評して、「可燃、不燃、自燃」の三種類に分けました。

多くの組織を見ていて、組織にもこの分類は通用しそうだと感じています。

まず、わかり易いところで不燃組織。

縦割りとか派閥といった言葉が聞かれる組織は多くの場合、不燃です。このような組織の属すると、本気と勇気を併せ持った若手でも「忙しくて手が回らない」「何をやっても無駄」「自部門の目標にしか興味がない」といった、ビジョン喪失症候群に感染してしまいます。

次に可燃組織。

この組織には、このままではいけないという、漠然とした課題感が共有されています。そして、課題を顕在化するために様々な情報を積極的に集めていますし、また、社内で課題を議論しあう交流があります。ただ、各人が自らビジョンを掲げることはなく、組織トップや社が決定したビジョンに強く依存します。


最後に、自燃組織。

課題と方針が明確で、新たなゆらぎがおこると連鎖してアクションが拡大します。ひとりひとりに内燃するビジョンがあるので、初期の課題と方針が加速度的にレベルアップしていきます。

このような組織の体質は変革することが出来ます。一番、分かり易いのは社会に不適合となった場合、つまり、組織に存続の危機が訪れると、不燃組織は崩壊します。可燃組織は火が着きます。自燃組織は、自立的に組織の姿を変えます。

一方、既得権益的に社会に君臨している場合、組織の体質を変革することは難しいようです。例えば、どんなにトップが変革を叫んでも、現場の論理は「不燃の論理」であれば何も変わらないでしょう。ただ、現場を不燃にしている犯人は「マネジャー」であることが多いようにも感じます。

そんなゆがみは、よく、新卒採用と育成の場面で見られます。

どんな人材を採用しているのか、その後、どう活躍し育っているのか、この一連のストーリーを見ると組織はどの分類に属し、そしてどの方向に向いて行くのかが良くわかります。

基本的に組織は、その特性を強化する方向に向かいますから、自分がどうなりたいのかというキャリアビジョンと自分が属する組織の分類がミスマッチだと悲劇です。

また、日本社会のおかれた環境と状況は、既得権益がガラパゴスと揶揄され、そこに安住していた大企業が無惨に破綻していることも忘れてはならない大きな現実でしょう。


見るほどに実感

2013年12月21日土曜日

裏をかくゲームメーカー

山本七平氏は「人望の研究」のなかで人望とは「中庸」であることを取り上げています。

「中庸」とは九徳を体現することによって実現する状態と理解しています。

要するに、常識的な人格なのですが、寛容さ、義しさ、剛さなどの徳目を体現している、ハイパー常識人であるようです。

さて、サッカーでゲームを組み立てるプレイヤーのことをゲームメーカーと言いますが、仕事においても仕事を組み立てる役割があります。特に、事業を組み立てる役割に該当するのが経営者ですから

経営者 = ゲームメーカー です。

では、一方で

経営者 = 中庸 でしょうか?

ゲームメーカーは、相手の動きを読み、裏をかいてゲームを優位に進め勝つことを目指します。そして「勝てば官軍」がまかり通ってしまいます。時にこれが、コンプライアンス違反や不法行為の内部告発につながりとんでもない事件に発展したります。

「上を責め下を責め、中か己れを恕す」というご都合主義だけでなく、本音と建前を使い分ける面従腹背、合理的価値至上主義、哲学的二元論によるあるべき論などは厳に戒めなくてはならないのですが、非中庸経営者が「中庸」の大切さに気づくのは「自らの人望」に目が向いた時なのでしょう。

最近、禅を経営に活かそうという動きが高まっているように思います。禅の形式は理解していませんが、「無心」に代表されるような観念と「中庸」という状態には、通じるものがあるように思います。

今後、考えていきたいテーマです。


光射す

2013年12月20日金曜日

ストーリーを疑え 人や組織は劇的にかわるのか?

よく、人や組織に関する書籍や研修どで「劇的にかわる」と記載しているものを見かけます。私は、このような記載があると、まず、興味が無くなります。というのも懐疑心が強いのか、どうも「劇的にやせる」など、その手の表現には、興味を持つより、まず拒絶する傾向があるのです。

一方で、本当に「劇的にかわる」のか、というと時間軸の概念を取り入れれば実感があります。つまり、

”本気で粘り強く取り組めば人や組織はかわる”

と信じて止みません。事実、自分が所属する会社では、人も組織もすごくかわりました。

まあ、「劇的」かどうか、は程度の評価なので人によって意見が分かれるところだと思いますが、ビフォアアンドアフターのように、はっと気づくくらい明確な変化はあります。

でもそれは、昨日と今日という時間単位ではなく、やはり、3ヵ月、1年、3年といった単位での変化です。

一方で、目がキラキラ、職場が明るく、などは肌感覚でわかります。目が死んでいる、雰囲気が暗いなど逆の印象も同様にありますから、「かわる」というのは、ポジティブな変化だけでなく、ネガティブな変化も包含していますから、「かわった」と評価を受けてもすぐに喜んではいけません。

さて、人や組織がかわる実感があるのに、素直に頷けないのは何故か、考えてみます。

広告で使われる「劇的にかわる」という表現には

1.ポジティブな変化
2.即効性
3.容易さ

の3つのメッセージが隠れています。どうも、そのメッセージが怪しいと考えているようです。

実は面白い実験があって、サルの協力(強制的ですけど・・・)を得て、脳波を測定しながら画面に(1)、(2)、(3)と3つのシーンを見せるのですが、最初のシーン(1)だけ異なり(2)と(3)は同一の3つのシナリオを見せると(3)のシーンを見たときの脳波がシナリオごとにかわる、つまり、脳が文脈(ストーリー)を区分していることを科学的に捉えることが出来たそうです。

つまり、私たちは、何気に見ているシーンに関しても、その背景にある文脈を脳が感じてしまっているのです。

日頃、人や組織(ダイエットも!)に関して、すぐにポジティブな変化を起こしたい、起こさなくてはならないと感じたり、考えたりしている人にとって「劇的にかわる」という宣伝文言は、前述した3つの文脈で理解され易いでしょう。

「ハウツー」ビジネスの多くはこのような文脈を活用していますが、たまに失敗が露見します。

TVで森久美子さんが取り組んだ○○ダイエットに関して、ご自身のブログで陰の努力があったことを明かされていましたが、それは「即効性」「容易さ」を否定する内容でした。

やらせが問題になった「ほこ×たて」では、映像の順番を入れ替えて文脈を作り変えました。ただ、TVでは、「編集」によって背景のメッセージを明確にする、演出することは一般的です。

一橋大学の楠木教授は「戦略ストーリー」として「順列」の重要性を語られています。

認知心理学では「スキーマ」と呼ばれる「過去の経験や外界についての構造化された知識」(wikipedia)によって認知が変わることを明らかにしていますが、人は、自分の外的足場(経験や知識や道具や情報)を使って行為を創発する存在ですから、外界において構造を操作することで行為を促すことが可能です。

例えば、調理時間を測る時、キッチンタイマーを使いますが、それによって正確に時間を数えるという、人間にとってあまり得意でない脳の負担を減らします。同様にレシピを使うことで、知識と記憶を外部化して、料理というより高度で複雑な行為を創発しています。

このように外的足場は、より複雑な行為を創発することを可能としますが、そこには、人間と外的足場の相互性があります。つまり、外的足場が人に行為を創発させるわけではなく、人が外的足場を使って行為を創発するのです。

「かわる」ということは「今までにない新たな行為を創発する」ことですから、基本、脳は大きなエネルギーを使う=不快に感じる ことです。一方、楽しく感じること=快楽回路が活性化している は増強のプロセスです。

要は、以下のような文言になれば私は頷けるのだと思う次第です。

「この本ともの凄く不快な状態を乗り越えるあなた(達)であれば劇的にかわる」
「この研修とかなりしんどい状態を耐え続けるあなた(達)であれば劇的にかわる」

売れないでしょうね・・・

ストーリー&不快さが「かわる」こと

2013年12月19日木曜日

昔、外部派遣研修から会社に戻って感じたことを思い出した

中原先生のブログ「海外勤務から帰ってきた人が「離職」する理由とは何か?」を読んでふと思い出した昔のことです。

http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/12/post_2150.html

ブログでは、海外派遣帰任者はその年内に12%、さらに13%で25%は離職するという論文内のデータを紹介されていました。予備軍を含めたらもっと居て、中原先生もご実感があるようです。

環境の変化によって人は様々な行動を創発しますが、「仕事」という枠組みの内側においてもそれは抗えないことのようです。

さて、自分には海外派遣の経験はありませんが、新卒で入行(銀行では入社のことを入行と言っていた記憶があります)して4年経ったとき外部研修に派遣されました。その研修は、完全に銀行の業務から離れて3ヶ月間、泊まり込みで他社(主に金融機関が多かったです)の方と生産管理、マーケティングなど諸々のテーマを受講し、その後、実際の企業にお邪魔して企業診断を行う、座学と実践がデザインされた大掛かりなものでした。(その時、一緒に学んだ仲間は30年近く経った今でも、たまに集まって懇親を深められる貴重な存在です。)

研修への派遣から銀行に戻ったときに感じた異質性は今でもはっきりと覚えています。それは、派遣前には何も感じていなかった日常が派遣という非日常経験によって変化したことを意味します。

それは、まるで幽体離脱したような感じでした。
「ここに居る自分は、何故、これをやっていて、明日もこれをやっていて、そしておそらく1年後も、5年後もこれに類することをやっているのだろうか?」
とふわふわしながらなが眺めているような感覚、とでも言いましょうか。

結局、時を経ず、離職しましたが今になって見れば、その理由は後づけだったように思えます。要は、異質性によって離職という行動が創発され、そして問われればもっともらしい理由を見つけて話していたのでしょう。

その後、もう一度転職して今に至りますが、2度目の離職の際はそのような幽体離脱はありませんでした。もっと自分の将来や周囲との関わりを考えて道を選んだ、ある意味、覚悟をもって行動した記憶があります。

今在る自分を振り返れば、周囲の人にたくさんの迷惑を掛けたにもかかわらず、多くの人のご厚意と寛容さの中で非常にたくさんのことを学ばせてもらったことに気づきます。

ありがたいことです。

そんなことを思い出し、気づかせてくれた中原先生のブログでした。

追記
幽体離脱であろうと覚悟であろうと思い切って環境を変えてみることの価値と、環境を変えないことの価値。この2つを比較しても仕方ないと思います。なぜなら、どのような環境であっても、価値が問われるのは環境でなく本人だからです。


 この角度、古美門ヘアー(七三わけ)

2013年12月18日水曜日

構造理解と応用にみる「スキル」の熟達と「センス」の壁

ここ数日、WEBページの準備を進めていて、気づく事があります。それは、構造を理解し、制作するプロセスでの学びです。

WEBページを作成するにあたって、理解しなくてはいけないことがたくさんあります。例えば、素材に使う画像の作成、修正などにおいては、画像に関する基礎理解と画像を処理するソフトウエアの使用方法です。

そして、WEBページのドキュメントファイルとなるHTMLファイルに関しては更なる知識が必要です。

それらの知識の多くは構造化されていて、
「これをこうすると、こうなるのか」
「こうするには、こういう決まりがあるのか」
と発見も多いのですが、
「どうすれば、そうなるのだろう」
となかなかやりたいようさせてくれません。

良いも悪いもなくて、それらの構造は、覚えなくてはならないのです。そして、それらの構造を理解したうえではじめて物作りに取りかかれるので、構造を覚えることは最初に直面する壁です。

ただ、構造に関する情報は丸覚えしなくても、検索によって到達出来るので、記憶力は高くなくても問題ありません。

逆に大きな問題となるのは、根本的な構造の理解不足です。具体的な方法はインターネット上で入手できるのですが、根本的な構造が理解出来ていないと検索が出来ないのです。

どう検索すると探している結果が出て来そうなのか、また、山のような検索結果のうち、目的とする情報はどれなのかが特定できないと「やりたいけどできない」ことになります。

ここ数日はそれを繰り返すことで、どうやら「やりたいこと」ができるようになってきました。

さて、「やりたいけどできない」ことってWEBページに限らずいろいろとあります。検索しても、人に聞いてもなかなか目的とする情報に到達できません。

さて困った。どうしよう。

どうやらそれは、「やりたいこと」を取り巻く基本的な構造を理解出来ていないことに起因するようです。つまり、最初の壁を越えていないのでしょう。

WEBページ制作のように「スキル」寄りのものは、その壁が顕在化していてわかりやすいのですが、「センス」と評される、壁が潜在的で再現性の低いものへのアプローチは困難です。

要するに「ユニークでクールなWEBページを作るのは難しい」ということです。


「センス」の壁に気づこう!とにかくやろう!

2013年12月17日火曜日

若者が経験者に勝つ方法

複雑化、難問化する仕事の現場。大学生と社会のギャップが広がり、さらには入社してからもロールモデル(真似ればよい先輩、上司)が無く、若者は自ら仕事の達成を学び取っていかなければならない状況です。そして、その余波は就職活動においてもすでに顕在化してます。

そのような状況において若者が経験者に勝つことが出来るのでしょうか。
もちろん、答えは”YES”です。

そこで仕事をしていて残念な人(経験者)を2パターン、取り上げてみたいと思います。

まずは、「とりあえず」人間
例えば、システムの開発依頼に関して、数回会っての説明と、提案参加の意思を確認したうえで仕様書を出したのに提案期限間近になって辞退する人です。「とりあえず」聞いておいて、条件が合わなければ辞退すればいいというスタンスの人とは、先々、真剣に仕事が出来ません。

一見、合理的な判断があるように見えるのですが、実は、効力感の不足(「効力予期」「結果予期」のいづれも足りない)によるところが大きいのだと思います。つまり、検討する前にすでに結論が出ているのです。
ですから、そういう人の第一印象は「あ、きっと辞退するだろうな」というもので、辞退が予想外のことではないことに後から気づきます。
逆に、実績が多くなくてもとにかく提案を作ってくれる人とはいつか、いっしょに仕事をしてみたいですね。

つぎに、「おれさま」人間
自分は何でも知っている、すべてわかっている、という傲慢な人は、局面が困難になると他人のせいにして逃げ出すことが多いように感じます。商談やコラボレーションの話をしていて結構萎えるのがこの手の人です。

「いいと思うよ」「いいんじゃない?」とまずは上から目線。

「では、いつごろからはじめましょうか?」というこちらからの問いかけに、

「いま手掛けているのが片付いてから、そうね、1年後くらいかな?」(今でしょ!)
  とか
「他の部門にかけあってみますよ」(逃げた…)
  とか
「儲からない事やるのは○○」(儲け方を考えるのが商売だろ)
  とか
「いや、世の中そういうものでしょう」(思考停止を正当化)

みないな発言があります。
実は、挑戦するのが怖い(結果責任を負う恐怖と能力不足を露見する恐怖)のだろう、と踏んでいます。

この2つのパターンは、発注側、受注側、コラボ、いずれの立場で現れます。

このように言い方は様々ですが、要は仕事の中で簡単に「出来ない」と言ってしまっている訳です。また、印象ですがそのような人が一層、増えているように思います。それは、若手ではなく、その道の経験者です。

そのような人が必ず上手く行かないかと言えば、ビジネスとは不思議なもので既得権益が横行しますし、運もある「複雑系」でから、因果で考えてはいけません。

また、そもそも他者を好き嫌いしていは自身に学びがありませんから、あくまでも「残念な印象を受ける人」と限定した話です。

さて、実社会で「残念な印象を受ける」経験者はたくさんいて仕事の現場は穴だらけです。ですから、これから社会に出る若者はその逆を行けばすぐにでも経験者に勝てると思います。だって、本人は気づいていませんが、すでに相手は逃げ出しているのですから。

最後になりますが、勝つ方法は、

「最初から本気」と「自分ごとの勇気」

です。


「最初から本気」と「自分ごとの勇気」 これはいい事例!

2013年12月16日月曜日

「実り」について考え綴る

ネットワーク上の人との結びつきを可視化した情報をソーシャルグラフと言いますが、本来、誰かと繋がること、それは実が熟れて落ちるようなものだと考えます。そして、果実を育て効率的に収穫するような事とは異なるように感じます。

今日の考えることは「実り」。

多くを収奪せず、必要なだけを利用し共生する関係には、効率性とは質的な違いこそあれ合理性があります。例えば、漁業でも、効率性を上げる事によって資源を枯渇させるのではなく、保護することの大切さが認識されています。

耕作によって農業は、自然の「実り」以上の収穫を可能としたわけですが、それは、目に見えないところで共生のバランスを崩しているのかもしれません。

こと、仕事に関しても、いかに生産性を上げるか、パフォーマンスを発揮するかが今の世界では注目されますが、これも、前述の文脈に沿えば、無理矢理顔を上げさせるのではなく、自然と顔が上がるようにパフォーマンスが発揮されるべく関わることが望ましいのではないでしょうか。

例えば、不自然な関わりで緊張してしておののいてしまうと刺激自体がノイズとなってより自然な関係性が見えなくなり、何がおきているのかわからなくなってしまいます。

つまり、『実らせよう」とする刺激によって、「実り」具合自体が見えなくなる可能性があると思うのです。

一方、極限まで一杯に弦が引っ張られた弓が”一切”を包摂するように、実は、静かな中にも張りつめた緊張があって「実』は熟していくことに気づくことが出来ます。

指をさして人から何を言われようとも顧みず、たとえその道が見えないときがあっても前方にまっすぐ伸びている道に向かって打ち込むことが「実る」ことの本質かも知れません。


静かに実り冬の柿




2013年12月15日日曜日

考え、書き綴ってみる

一日が暮れ、今日を振り返り、「学ぶ」ということ考えて書き綴りました。


「学ぶ」とは、何でしょうか。
出発点は、抽象的な問いかけです。

「学ぶ」とは行為であり、その目的があるはずです。

学ぶ事が目的でなく、例えば、奥義を究めるために学ぶということは、永遠の学びを意味するのだと思います。そこにある真の到達点は、実は到達不可能なものでしょう。

ところで、その道を歩む者は、師弟の関係であっても、師とは学ぶ人としての先輩なのだと思います。「背中を見て育つ」と言いますが、その技能はもちろんですが、学び続ける姿勢を学ぶという、メタ学習にその本質がありそうです。

さて、永遠の学びのなかで描かれるヴィジョンとは、人が作り出すものでなく、天啓によってもたらされるものあり、そのような存在が神であったり仏であったりするのかも知れないと考えてみます。つまり、優れた者をさらに学びへ導く存在が神や仏なのだという考え方です。

例えば、鳥居や門の中央すじには立たたず、上に導く存在に対する敬意を表す行為は、自分よりも高位な次元があることの認識であるとすれば、現状に甘んじず、見下さない謙虚さであるとも捉えられるでしょう。

さらには、世界は多様であり、様々なヴィジョンが存在します。そのような個別の価値の次元性をあやなす世界と、一方では、抽象化され一元化される世界があります。

しかし、学業、仕事、家庭などなど個別のテーマ毎に学びのヴィジョンが存在しますから、「要するに学ぶとは」といった抽象化、一元化には気をつけなければなりません。

そこで、誰しも自分の好きな分野には意見を持つように、好きな分野での「学ぶこと」は進みますからそれらを通じて学ぶ文脈を構築することが大切だと気づきます。

そして、時分でなく誠に学ぶためには、「学ぶことを学ぶ」、抽象と具体の文脈が構築されること、すなわち学ぶツボを掴むという課題があるのだと思います。

学ぶツボを掴まないと学ぶことは出来ないのでしょうか?
そんなことはありません。

要するに「学ぶ」という問いかけをすべて消し去ったとしてもそこには学びが生じるものなのでしょう。

「学ぶ」とは考えるものでなく、在るものである、というのが今日の締めくくりです。


頭もハートも空っぽやねん

2013年12月14日土曜日

公共性と商業利用のせめぎ合い? 所有と占有を区別する

年賀状の季節ですが、会社で作成する年賀状に建築物を使うときは許諾が必要になります。例えばスカイツリー。年賀状にスカイツリーの写った景色の写真を使う時、個人利用は問題ありませんが、法人が使う場合は許諾が必要です。そして、その手のものは、なかなか許諾されません。

景色という皆が自然と共有している視覚情報であっても、その中に、他者の利用を阻害する私的所有の論理が横行する。このような他者に利用させない権利が「所有」であると理解するべきではありません。「所有」とは五感すべてで受け取ってその人が持っている感覚、その人の中に成立している世界であって、「使わせないこと」とは「占有」です。

例えば、来年行われるサッカーのワールドカップブラジル大会。どうやらFIFAに協賛していない企業は「がんばれ日本」と応援してはいけないようです。言葉を占有するなんて文明の破壊行為だと思うのですが、高額な協賛金を払って宣伝効果を出そうとしている企業に比べて、お金を払っていないのにただ乗りする行為は認められないというビジネスルールの前には手も足も出ません。

そういえば、最近増えている「恋するフォーチュンクッキー」のダンスにも著作権が認められるといった記事が流れていましたがこれも、身体を動かすという生き物の当たり前が「占有」されることを意味します。特定秘密保護法も国の安全保障に関する情報の「占有」です。公共の美術館から盗難にあった著名な絵画は、こっそりと収集家が私蔵するケースが多いそうですが、「占有」という行為は身分の貴賎に関係ないことがよくわかります。

子どもの頃、おもちゃを他の子に触らせない(触らせたくない)時って大概、意地悪な感情があった気がしますし、「占有」の事例を探していくとなんだか息苦しくなります。

確かに、どこかの国の遊園地みたいな事例があると、「占有」の論理が一層、正しく思えますが、私は、少なくとも「子どもじみた占有」からは開放されたいと願います。建物の写真などはそのひとつです。


ちゃんと許諾を取るのが大人ですけどね

2013年12月13日金曜日

服装と自己統制

youtubeで話題になっている動画があるとのことで見たのが、ホームレスの男性を整髪とスーツを着せることで身なりを整え、その結果、その男性が自分の人生をコントロールし始めた、というものです。NPOが寄付を募るために作成し公開しているもののようです。



また、youtube上で似たような動画が他にもあることも確認できました。どうやら、視聴者の賛同を得るうえで「見た目(髪型、服装)が変わる」ことは大きな効果があるようです。

ところで、12月1日より就職活動が解禁されましたが、早速「リクルートスーツ」なる服装で学生たちが動き始めました。そこで、企業側の募集要項にドレスコード(指定された服装の基準)があるのか検索してみましたが、夏場には「カジュアルで」といった会社が数社引っかかっただけでした。

しかし、「会社訪問 服装」で検索すると結構いろいろ出てきます。「どんな服装で行けば良いのかわからない」学生が多いのでしょう。中には人事担当者が丁寧にも以下のような書き込みを行っているケースがありました。


一般的に、学生の方が会社訪問をするときの服装は、清潔感があり、目立ちすぎない服装が良い思います。

~中略~

・スーツは濃紺か黒のシングルスーツ。
・無地のホワイトシャツ。

~中略~

NGなのは、
・スーツは個人的にはグレーはあまりおすすめしません。割と目立ちます。
・カラーシャツ、柄が入っているシャツ。

~中略~

・etc

なんだか堅苦しいですが、学生のみなさんは中身で勝負です。
履歴書やエントリーシートなどの応募書類、筆記試験、面接での受け答えで個性を出しましょう。自分らしさを出しましょう。

弊社は社内で仕事をするときは私服OKなんです。
会社説明会や面接の服装に決まりはないのですが、スーツで参加いただいています。

スーツを着るのは堅苦しくて嫌なものだと思いますが、就職活動のときの制服だと思いましょう。”



正直、私はこの掲載に大きな疑問を持ちました。言っていることが支離滅裂です。事細かに記述をし「決まりはないが、スーツで」と指定していたり、「自分らしさ」とか「就職活動のときの制服」とか、もう、よくわかりません。

ただ、会社訪問や面接をする際にどんな服装をすれば良いのかわからないという学生に対してはとても的確で親切な対応なのだとも思います。


実は、前述のホームレスの変身動画を見たときに頭を過ぎったのが「リクルートスーツ」です。つまり、行き場がなくて自分の人生を統制出来ていない人の身なりを整えることでその人が自分の人生に前向きに取り組むというストーリーと、自分が何をしたいのか、そもそもどう働きたいのかもよくわからない学生にリクルートスーツを着せて訪問、面接に誘導するストーリーに類似点を感じてしまうのです。

一方で、社会人においてですが、デスクで企画書を作成するときと、クライアント企業の社長と面談する時で服装が異なることがあります。もちろん、まったく一緒の人もいますが、それは、「場に合わせる」「演出する」「自らを貫く」など自分をコントロールした結果の話です。

逆に、自分をコントロールできない社会人は、他者に不快感を与えたり困惑するような服装をしても平気ですが、それは他者の気持ちを理解出来ていません。アーティストや学者のように固有の才能で勝負する人はそれでも良いのですがビジネスにおいては、他者と関わり相手を動かすことが勝負です。その勝負の場に意図も無く部屋着で望むのはいかにも滑稽です。

つまり、「ホームレスの変身」「就活のリクルートスーツ」「ビジネスパーソンの服装」全てに共通するのが「服装と自己統制」だと思うのです。

リクルートスーツでも、主体性を発揮して、自己統制の結果としてスーツを着るのであれば良いのですが、「就職活動のときの制服」とか「仕事だけど楽だからサンダル」というのではあまりにも自己統制感が無くて悲しくなります。



スーツを格好よく着たいな

2013年12月12日木曜日

「よい学生」に「なる」こと

昨日は、採用母集団の質についてベイズ統計の考えを用いて書いてみました。これは、採用活動を行う企業の論理です。母集団と一括りにされてしまう学生たちには面白くないと思うので、企業側の立場だけで「質」を語るのでなく、学生の立場を考えてみようと思います。

かつで、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(第二の性)と述べました。これは、性別と自己認識の違いです。

この考え方を使って考えると、
「大学に入学したものが大学生なのではない、大学生になるのだ」
ということだと思います。

これは、属性としての「大学生」と、大学生活を通じて形成される人格の違いです。

もちろん、自分は大学や教育に関してまったくの素人ですから、それらに言及するものではないのですが、会社で新卒採用を行う立場において、属性と人格のギャップに驚くことが多いです。

そして、良い大学生と感じさせてくれる人たちは、大学生としての人格が備わっている気がします。
その人格とは以下のようなものです。

1)異質性
 かつては自分も学生だったわけですが、昔と比べてはもちろん、現在の学生と比べても異質な印象があります。未熟とは違います。

2)上質性
 自分の知らない”良いもの”を知っています。それは、新しいものであったり、地域性のあるものであったり、発想であったり、行動であったりと、非常に多様です。

3)途上性
 抽象的な表現ですが、何処からか来て、いまは彷徨っていても何処かへ行く印象をうけます。

4)内省性
 吸収、思索、表現、行動の連続が自然に体現されます。

人格が備わっていない場合は、その反対ですから、「ありきたりだったり未熟、ずっとそこに居てそのままかもしれない」といった印象をうけます。それは、採用活動という仕事において良いアウトプットを行うためのインプットではないことを意味しています。

今日のテーマは昨日に続き「質」なので、自分が捉えている人格とは、「質感」であり「クオリア的なもの」です。

一方、以前、大学生研究フォーラム2013で京都大学の溝上先生が成長しない確率の高い大学生にみられる力や態度の弱さを報告されていました。

主体的に学ぶ力(教室外学習、主体的に課題に取り組む態度)
豊かな対人関係や活動性
高い将来の意識を持つ

とても具体的な示唆です。

この考察を鑑みるに、仕事という社会的契約無しに「異質かつ優れた」コト、モノ、ヒトにどんどん接して学び取りながら未来に向けて歩む態度によって「質」が醸成され、「大学生になる」のかもしれません。


異質、上質、途上、内省
他に無いけど手触りよく、いきいきと内から溢れる





2013年12月11日水曜日

ベイズな確率で採用母集団を考える

一人を採用するのに、何人の母集団を作ればよいのか。本当に会いたい人材であれば、その一人に会えればよいということを言う人も居ますが、それは乱暴な考え方です。

ロート製薬では、ネットからのエントリー受付を行わず採用を行っているそうですが、それによって母集団3万人が800人に減ったとのことです。それでも30人の内定に対しては、質も量も十分であると評価しているようです。

さて、ネットからエントリーする学生は、その会社に対して強い動機を持っていますから当然、質の良い学生ということになります。動機の薄い3万人よりも、動機の濃い800人からのほうが一人に対して投下できる時間が増えますから充実した採用活動になるのも納得です。

そこで、採用母集団のことを統計的に考えてみます。
そのためには、いくつかの仮定が必要です。(検証された仮定であれば言うことはありません)

まず、応募者の中で入社後に活躍する人材に出会う確率を1%としてみます。統計的には5%でも良さそうですが、最初は少し厳しめに。

そして、実際に入社した社員が思ったとおりに活躍する確率を95%とします。

すると、採用活動で入社後の活躍を見抜ける確率は

0.01 x 0.95 = 0.0095

採用活動で入社後の活躍を見誤る確率は

0.99 x 0.05 = 0.0495

実際に採用した人材が活躍する確率は

0.0095 / (0.0095 +0.0495) = 16.1 %

となります。実際はこんなに低くは無いかもしれません。
では、出会う確率を10%とするとどうでしょう。

0.1 x 0.95 = 0.095
0.9 x 0.05 = 0.045
0.095 / (0.095 +0.045) = 67.9 %

大分増えました。
さらに、出会う確率を30%とすると89%、50%とすると95%になります。

これは「ベイズ確率」という考え方を使っています。今までとどう違うかというと、これまでの「確率」と広く認識されている考え方では、(出会う確率×採用人数)が母集団となりますから、とにかく大きな母集団を作ったほうが良い事になります。ところが、「ベイズ確率」からは、「大きさ」でなく「質」が大切であることがわかります。

「数ではなく質」

厳選採用と言われる昨今ですが、採用活動の質的変革は進んでいるのでしょうか。


そーっとね

2013年12月10日火曜日

寒くなって気づくことがあるようです

子曰、歳寒、然後知松栢之後彫也 「論語」より

夏の暑さが遠い昔のように感じる今日この頃の寒さです。紅葉も盛りを超えて落ち葉が青空に舞います。

このように、冬になると多くの木が、葉を落とす冬支度をするなかで、生き生きとした緑を纏う「松栢」の様を人に例えたのが文頭の一節です。「松」はわかり易いですが、「栢」は「かしわ」ですので落葉樹です。しかし、「松栢」と言ったときの「栢」はヒノキなどの常緑樹のことを指していますからいづれも冬でも緑なのです。

さて、どのような人が例えられたのか、というと春夏秋のような良い環境ではない、厳しい環境のもとでいきいきとしている人を例えています。

意訳すると
「人も危難のときにはじめて真価が分かる」
ということだそうです。

確かに、物事が順調に進んでいるときは、その人の力なのか、環境や運が良かったからなのかわかりにくい面があります。それに対して、苦境に陥ったとき、また、その苦境を乗り越えたときは、その人が何を考え、どう行動したのかが良くわかります。

例えば、NASAやJAXAで行われている宇宙飛行士の選抜テストでは、「一日で子供が喜ぶおもちゃを作る」という課題を出し、ほぼ出来上がってきて、あと1時間で終了という段階で「こんなおもちゃじゃ子供は喜ばない!」とダメだしをするそうです。課題に関する記憶はちょっと曖昧なのですが、「ちゃぶ台返し」をすることで、ピンチに陥った状況からどう、立て直すかを見て、その人の力を測っていると言われています。
これまでの仕事経験を通じても、確かに、ピンチのときに見せる行動が人に対する信頼を形成していることが思い起こされました。

一方、ピンチになりそうだな、と思ったらさっさと離れていく人ほど信頼のおけない人はいないでしょう。もちろん、自分の過去も内省の対象です。

『歳寒、然後知松栢之後彫也』

年の瀬の寒い日には、必ず思い出してみようと思います。


冬に真価を学ぶ

2013年12月9日月曜日

さまざまなアウトプットから見えてくるもの

人は、行為によって環境を変えます。土地を耕せば畑になります。種を撒けば花が咲きます。

ところで、このような大きな自然環境の連鎖のなかでの行為に比べ、ナレッジワークにおける行為は他者に影響を与えます。とくに、アウトプットと呼ばれる成果物や実績などは、他者のインプットになるのでとても重要です。ゆえに、仕事においては、まずアウトプットすることが重要視されるのです。逆にアウトプットしないということは、他者にインプットを提供しないことであり、ギブ&テイクならぬ、テイク&テイクで場を枯渇させる行為ということになります。極論すると貢献と収奪の違いです。

アウトプットをもう少し拡大して捉えると、コミュニケーション、プレゼンテーション、ファシリテーションなどなど形の無いものも範疇に入ると思いますが、ナレッジワークにおいては、質の良いアウトプット=他者にとって質の良いインプット、であることが少なくありません。そして、質の良いインプットは次の質の良いアウトプットを生んでグッドスパイラルを形成しますから、アウトプットの質が良いか悪いかは、受け取った人にとって良いインプットになっているかが一つの判断基準となるでしょう。

例えば、分析結果。良い分析とは、結果を受け取った人が結果を通じて考え気づき行動を起こすことになればそれは良い分析であったことがわかります。どんなに高度な分析であっても、気づきと行動を創発しない限り、良い分析とは言えません。分析者にとって悩ましい現実です。

もう少し身近なところ、採用面接では、質問に対する良い回答とは、質問者にとって良いインプットとなる回答です。ピンとこない、ぱっとしない、聞き飽きた印象を与えてしまうのであれば、それは良い回答とは言えないでしょう。つまり、質問者にとってモヤモヤするような回答では、実際の仕事においてあまり良い予感が持てません。もちろん、応募者が良いアウトプットを出せるような質問や課題を質問者がちゃんと提示出来ていることが前提の話です。

もっと身近なところでは時間管理。期日、納期を守れないということは直接、他者の時間を収奪するわかりやすいテイク&テイクの行為です。

と、まあ、人がさまざまに意識、無意識にアウトプットしたり、逆にアウトプットしなかったりすることで見えてくるのは、連鎖する仕事におけるその人の真の価値なのかもしれません。


見る、考える、対話する、撮る、共有する



2013年12月8日日曜日

共感がおこる共通点の質的構造に関する考察

犬を飼っている人にとって、犬の話は、場が盛り上がり共感を生む絶好のコミュニケーションネタです。

「うちの犬は○○という犬種で・・・」
「もう10歳なもんで・・・」
「癒されるよね・・・」

犬を飼っていない人が「可愛いですか?」などと聞こうものなら飼っている人達は可愛さの大合唱をはじめます。

ところで最近、以下のような会話がありました。

「14歳で亡くなり、ペットロスでずっとだめだったんですよ」
「うちのは13歳」「あ、うちも13歳」

そんなとき、
「うちにも変なのがずっといるんですけど」
と、飼っていない人が発言すると
「え?変なのって?」とすかさず質問。
すると
「イグアナですよ。もう18歳なんですよ」

「・・・」「へぇ・・・」

そこからはなかなか会話は深まりません。
そりゃそうですよね。

ただ、この話を振り返ってみると、二つのことに気づきます。

一つは、記号のこと。話のなかで違っているのは「犬」と「イグアナ」の部分だけです。
「高齢である」、「ペットである」、「長く飼っている」ことに違いはありません。
四つある記号のうち、一つが違っているだけで共感が生まれないのはなぜでしょうか。
それは、コミュニケーションによって交換してるのは記号でなく、記号を媒介として五感(+第六感)による感覚の交換が行われているからでしょう。具体的には、コミュニケーションを通じて見た目はもちろん、重さ、手触り、匂い、声、そして絆が交換されるので、それらを想起できない「イグアナ」に対しては共感が生まれ難いのです。

もう一つは、共感するネタを使って社会的関係性の組み替えを常に行っていることです。共感することでそれまで、あまり親密感が無かった人と仲良くなれます。このような組み替えは頻繁に起こっており、中には恣意的、誘導的に行われることもあります。企業イベントなどはその一例です。

最近、AKBの「恋するフォーチュンクッキー」PVの企業版が話題になっていますが、そこには一つは踊りを通じて得られる感覚の交換があり、一つは組織内関係の再構築という二つの質的構造が隠されているのだと思います。


紅葉を見た人は交換です

2013年12月7日土曜日

正義と他責の違いを考える

今週を振り返ると、いくつか同じ種類の問題に出会った気がします。

それは、「筋の通らない出来事」にどう向き合うのかという問題です。不快感を持ったり、攻撃的な感情になります。しかし、すこし冷静になって見ると「筋が通らない」というのは私の考えであることにも気づきます。

起こりうる出来事、と考えればすべて、身の回りの出来事は起こりうる事です。統計学では、その起こりうる可能性を「確率」として表現します。最近、注目が集まっている「ベイズ確率」では、背景の確からしさも勘案したうえで、より現実的な確率を求めようとするなど、起こりうる可能性の研究は進んでいますが、宣伝でも言っているように、「可能性はゼロではない」のです。

そのなかで、起きたことを「正しい、正しくない」「好き、嫌い」「摂理、道理」などと判断しているのは「人」です。「人」の判断には「心理学的、倫理的、宗教的」3つの立場があります。「正しい、正しくない」は倫理的立場であって、「契約」とはその立場をより明確に、強化するものでしょう。

要するに、契約関係の存在が出来事に対して「正しい、正しくない」との判断を生んでいるように思うのです。

この契約というのは、仕事であれば、「業務契約書」ですが、雇用契約、地域社会、国民と国家、などなど明文化されいるものいないもの様々であって、「個人」にとっては外的なものです。ゆえにどのような外的な基準に照らし合わせるかで「正義」になったり「他責」になったりするのでしょう。

掟や慣習が通用しないことは「起きうること」です。倫理感に生じるコンフリクトから正義を振りかざすのも他者を責めるのも根は同じように考えます。ですから、出来事に囚われて情動に支配される必要はありません。そして、そういう他者とは契約を結んではいけないことは明確です。


2013年12月6日金曜日

「さがしもの」は何ですか。 それは、ふるさと?

長岡先生、加藤先生主催の自画持参::: Bring Your Ownの今日のテーマは「さがしもの」でした。

ある年代は、「さがしもの」と言った瞬間に「は何ですか」と頭の中でツッコミを入れていることと思います。さらに、「見つけにくいものですか」と思わず唄ってしまう人も居るでしょう。BYOのダイアローグでも歌の話が出ていました。

あるひとつの言葉が多くの人(といっても年代は限られますが)の心にフレーズや感情を同時に呼び起こすのはなぜでしょう。不思議な出来事に感じます。例えば、夏の暑い日に「あつい」という言葉が口を突くとき、心の中では10回以上、「あつい・あつい・あつい・・・」と無意識に語っていると言われますが、ひょっとすると、ある世代の人は探し物をしているとき無意識に何度も唄っているのかもしれません。それを想像すると何だか滑稽で楽しいです。

先日行ったクラシックのコンサートではロシアのエルミタージュ美術館オーケストラがアンコールに際して日本の歌「ふるさと」を演奏しました。それは、突然の素敵なプレゼントだったのですが、自分を含め多くの人が不意に涙を流していました。

普段、ほとんど忘れてしまっているように思っているけど、実は無意識にリフレインしていることが実はとても多いように思います。なぜなら反応がとても早いからです。それは、意識を集中して思考を巡らせていては無理なスピードです。

感性や感受性と呼ばれる適応的反応には、プロアクティブで潜在的かつ無意識な脳の活動がきっと関わっているに違いありません。(根拠はありませんが・・・)


ツリーを見たらジングルベル♪ジングルベル♪鈴が鳴る

2013年12月5日木曜日

人を理解する奥深さと感動

ワークショップにファシリテーターとして参加することは、チームのメンバー一人一人に向き合う経験です。仕事場面における持続的関係性と異なり、ワークショップでは一期一会(に近い)の関係性なので、短時間で人を理解することになります。ある意味、出会い頭の中でワークするようなものですから出来るだけ早く「人」の理解が必要となる一方、理解が進むと関わり方が見えてきます。

あるワークショップで関わったグループの方たちは、皆さん印象深かったのですが、そのなかでもワークのキーとなった方は以下のような特徴を備えていました。

1.親分気質がある
2.マイペースである

行動傾向として、周囲の人を引っ張るオーラを持っており、他の人に合わせて行動するのではなく、自分の視点やリズムで動きます。一方、周囲の人は自然とその人の様子を窺い、その人に合わせる感じの動きになっていきます。

この時、気になるのが、ワークショップの目的沿ってチームが動いているか、チームの中から健全な葛藤が失われ、迎合、手抜きが発生していないか、の2点です。目的から離れることも「学習」ですから否定する対象ではありませんが、あまりにもチームの動きが目的から離れていれば介入によって修正を掛けなければいけません。しかし、チームのオピニオンとなっている人が独自の路線に行かれている場合、介入と修正には困難が予想されます。

もちろんファシリテータとしての関与ですから自らオピニオンを形成することはなく、「流れに任せる」、「ゴールを提示する」、「ルールを活用して言動を制する」などの選択肢から最適と思われるアプローチを試す事になります。

人の理解で捉えると、実は、前述の特徴を持っている人は、かなり慎重な面と自分の経験から物事を推し測る性向があるので方針変更に抵抗感があるのです。逆に自分が経験をすると抵抗感が無くなり謙虚になります。そこで、ファシリテーションでは本人の流れを尊重しながら目的に向かう経験を増やすよう関与してみたところ自らゴールに向かって走ってくれました。

その活躍振りは、チームに対して、マネジメント、リーダシップ、モチベート、メンタリングを発揮するし貢献する見事なリーダーシップでした。

もちろん、いつもこのように上手く行く訳ではありませんが、その期待以上の行動は深い感動とファシリテートした私にとって大きな「学び」となりました。


人の理解は感動を生みます

2013年12月4日水曜日

「できる」ことを知っているという脳の機能

「効力感」や「有能感」は人の性格を理解するする上で重要な視点です。「感」ですからできるだろう、できそう、といった予測です。心理学者バンデューラは行動の先行要因の予期機能を「結果予期」と「効力予期」と整理しました。

「結果予期」というのは「こうすればそうなる」という因果律であり、合理的な関係性が成立します。「歩けば目的地に到着する」など、誰にとっても同じ結果に至ることであり、ロジカルです。通常は、一つの目的に対して複数の「結果予期」が複雑に入り組んでいるため、真の結果は複雑系(予測不能)です。

一方、「効力予期」はメタ認知と深く関係していると考えています。メタ認知とは「知っていることを知っていること」です。例えば、今日の予定を思い出す前提は、今日の予定を知っていることです。知らなければ思い出せません。「効力予期」とは、そのメタ認知の機能を、「できる、できない」という判別に転用しているのではないか、というのが今日の思考のテーマです。

「今日の予定が思い出せない」というケースは、予定を知っている自分というメタ認知と思い出せない自分というメタ認知の合わせ技の中で、知っているのだから思い出せるという効力感と、思い出せない無力感との自己矛盾の状態です。そのような自己矛盾に対して、効力感が勝れば、思い出せると信じて努力することになりますし、無力感が勝れば歳だから仕方ないとあきらめることになります。

この、「知っていることを知っている」というのも、実は、事実の認識ではなく、認知により脳が思い込んでいるらしいことがSRシステムにより解りつつあります。(「拡張する脳」藤井直敬著)

これは、「効力感」や「無力感」が認知の操作により変化する可能性を示唆していますが、自分の脳の機能を自分で操作する、この再帰性もメタ認知である、というやっかいな問題でもあります。

さて、どうしたものか・・・


メタな写像がマイワールドを創る

2013年12月3日火曜日

秘すれば花なり

「一花咲かせる」「置かれた場所で咲きなさい」などなど人の活躍を花に例える言葉はたくさんありますが、咲くとはどういうことを指すのでしょうか。咲いたと感じるのは本人でしょうか、周囲でしょうか。

さるほどに、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立、これ、花なり  風姿花伝(世阿弥著)より

能の世界では、「花」をこのように説いています。
野に咲く本物の花に自然と心が動くように、また思いがけない花束で笑顔が溢れるように、人の心に驚きと喜びを与えることを「花が咲いた」とするのであれば、それは、良い意味で予想を裏切る出来事なのでしょう。

秘すれば花なり

花咲くための影の努力は見せないほうが良いようです。


誰かの心を動かしている?







2013年12月2日月曜日

君と貴方と私のOJT

この2週間、OJTをテーマとしたイベントに続けて参加しました。

一つは、今日参加したMALL経営学習研究所の博報堂さんのOJT。
一つは、自社開催の勉強会で登壇して頂いたデンソーさんのOJT。

流石、クリエイティビティのしっかりした博報堂さんのOJTは、コンセプト、プロセス、ツール、ヒストリーとどれをとってもストーリーのしっかりした事例でした。近々、出版もされるとのことですが、このような事例が広まるとOJTもデザインするものとして広く理解されることと思います。

一方、デンソーさんのOJTは、まさに現場において、仕事に向き合う人間観をとことん問いつめるという現場の格闘でした。言うなれば、後楽園ホールのボクシングリンクが、実は血しぶきで彩られているのと同じような臨場感です。苦悩と格闘のなかでしかOJTは語れないという真実は、日々の困難に対する大きな励ましでもあります。

もちろん、博報堂さんのOJTでもトレーナーの方のプレゼンでは臨場感がありましたが、物を作る現場と、インサイトに主軸をおく現場のOJTは、とても同じOJTとは思えませんでした。つまり、OJTという言葉とOJTの実態には山と登山と同じような違いがあるのでしょう。

流石、中原先生は、「フィット感」と「共通言語」という素晴らしいラップアップをされていました。まさに、各社各様の「フィット感」と「共通言語」を実感したのですが、そこにはもちろん「他社」だけでなく「自社」のテーマがあります。

育成と活用という「自分ごと」の中で、我が社の登山を考えると、見えている山にどう登るのかという現実があります。その道は平坦ではなく、また、砂利だったり、泥濘んでいたり、アイスバーンだったりと時々刻々、路面状況も変化してきます。

OJTとは語るものではなく、実践するものである、しかし、デザインの対象である、ということを改めて気づく夜になりました。


The Long and Winding  Road
デザインし前進する

2013年12月1日日曜日

みんな咲いてゐる

何が何やらみんな咲いてゐる 山頭火

何を言われずとも
花も、そして人もいろんな場所で、いろいろな形でみんな咲いてゐるようです。


温室の中でも


小学校の傍でも


リフレクションを浴びても


高層道路の上でも


人が作ったものでも


花園のなかでも


絶滅危惧種でも


紅葉のなかでも

2013年11月30日土曜日

運動神経とフォームの関係性

足の速さは、生まれつきのタレントです。ウサイン・ボルトが昔は「足が遅かった」などと言う事はありません。

このように、運動神経が先天的なものである一方、後天的に運動能力を高めることが可能です。それは、トレーニングによって筋力をつけたり、筋力を効率的に運動に変える方法を身につけることです。

例えば、サッカー日本代表の本田選手は足の遅さを走るフォームを矯正することでカバーしたそうです。そして普段、私は試合を観ていて本田選手の足が遅いと感じる事はありません。

「科学的な矯正と鍛錬によって人並みの能力を獲得することができる」

この事実は人に勇気を与えます。
しかし、気をつけなくてはいけないのは、「人並み」であって、「ずば抜けた能力」ではありません。先天的なギフトを得ている人が「科学的な矯正と鍛錬」を行った場合に肩を並べる事はできないでしょう。

これは、「科学的な矯正と鍛錬」に偏った科学万能主義、精神主義に対する警鐘を意味します。

また、運動能力に限らず、学習能力、仕事能力、経営能力、対人能力など、行為において課題を遂行する場面に共通する「事実」です。

思考には限界がありません。ゴルフの練習しているとき、頭の中では、「右手はこうして」「頭はこの位置で」などなど、身体の部分を中央集権的にコントロールしているつもりになっていますが、本人が意識しているほど身体の動きは変わっていません。疲れて筋力が落ちたり、集中が切れて雑になったりしたことに、身体は勝手に柔軟に対応しているのです。ですから、「科学的な理論」と「地道な鍛錬」を身につけながらも、「自分の身体性」を信じて過剰に「意識」に依存しないことが肝要だと思います。

ところで、人並み、人以上という向上心が無く、諦め(自己否定)や自己限定、見下し、怠け癖があると、どんなに「先天的なギフト」があったとしても「身体性」は発揮できません。このような、意欲、謙虚さなど、気質と捉えられる要因も「自分に向き合う能力」と考えたほうが良いかもしれません。


ギフトを活かす

2013年11月29日金曜日

ゴングショーとナインボックス 〜 A Story of a camphor tree and a goat (楠と山羊の物語り)〜

ある企業のフォーラムで、楠木建一橋大学教授と八木洋介株式会社LIXILグループ執行役副社長の話を昼を挟んで聞きました。

楠木先生の話は、「戦略ストーリーを創るセンス」というテーマ、八木執行役副社長の話は「日本企業のグローバル化と人事の課題」というテーマでした。

話はそれぞれに詳細まで非常に示唆深く面白かったのですが、2つの話を違いと一致が特に興味深かったです。


話の中で出てきたキーワードを用いると、

「ゴングショー」対「9BOX」

です。
どちらも次期経営リーダー育成に関わるメソッドです。

「ゴングショー」は、自発的な事業提案により経営センスのある人材を浮かび上がらせるイベントで、定義困難な「経営センス」を見抜くために行います。

一方、「9BOX」はそもそもGEの仕組みですが、パフォマンスとバリューの2軸を高中低分割し組み合わせてマトリクス化するものです。そして、その「高・高」のボックスに入る人材をどんどんストレッチ登用して経営人材に育てて行きます。

この2つ、「次期経営人材育成」という大きな目的は同じなのですが、アプローチがまったく異なります。「ゴングショー」は、ショーというだけあって可能性の匂いを嗅ぎ分ける場のようですが、「9BOX」は、例えば、果物の選別機のように機能的に振るい分ける仕組みです。

もちろん、この下手な例えはそれぞれの実態を正確に反映したもではありませんが、違いを感じる真因は、脳の中の「意味を感じる場所」と「自分や状況を客観視する場所」の違いであるように考えています。

もう少しわかり易くと整理すると、「物語り好きの日本人」、「客観データ好きの欧米人」と比較される「真理と科学」の「認知における選好の違い」が、次期経営人材の発掘と育成で「ゴングショー」対「9BOX」となってあらわれているのかもしれません。

八木執行役員は「グローバル化において一番の課題は、日本企業のグローバル化である」と述べていましたが、ポイントが日本人的選好だとすると、そもそも解決可能なのでしょうか?

もちろんそこには光明が見出せます。

エピジェネティクス(社会的環境がもたらす生物学的反応)は変化する」という研究結果は、環境によって人が変わることを科学的に示唆していますから、八木執行役副社長の取り組み、GEというグローバル企業に近い環境をLIXILに構築することは「日本企業をグローバル化する」課題をいづれ解決するであろうことを予見させます。


ところで、個人的には、いずれのアプローチであっても浮かび上がる人材は実は一緒なのではないか、という疑問が浮かんでいます。
それを確かめる方法はないものでしょうか。


行き先はいっしょです


2013年11月28日木曜日

「伝える」と「伝わる」の違いに気づく式

むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに
書くこと

作家の井上ひさしさんの文学観です。

実際に文章を書いてみると、非常に高度なことであることが良くわかりました。一方、このような視点で批評することは簡単です。

「なんだか難しくてよくわからないんだよね・・・」
「もう少し、上手く言えないの?」
「話はわかるけど面白くないなぁ」
「で、何が言いたいの?」

こんな感じです。
では、どうすれば良いのか考えて見ます。

まずは、「伝える」という視点から、達人の知恵を考えます。

池上彰さんは「わかりやすく<伝える>技術」(講談社現代新書)という本のなかで、
1.聞き手に「地図」を
2.内容の「見える化」
3.話の「柱と枝」作り
と、3つのポイントを明示しています。

次にPREP法というプレゼンテーションにおけるノウハウです。
P point:話のポイント
R reason:その理由
E example:納得を促す引用
P point:ダメ押し

他にSDS法というのもありますが、話の理解促進を図るには構成が大切であることは間違いないでしょう。

しかし、構成だけで深さや愉しさや真面目さが伝わるのでしょうか。

本を読んだり、人の話を聞くうえで、私なりのキーワードを上げてみると、要点、実感、共感、発見、情熱、疑問、反論、類推、以上7つが思い浮かびました。このうち、「むずかしいことをやさしく」伝える知恵は、主に「要点」に関わっています。

一方、他の6つのキーワードは「伝わる」ものと「気づく」ものです。

深さや愉しさや真面目さはまさに「伝わる」ものであり、それによって「気づく」ことが真のゴールではないでしょうか。

目的や論点、および論拠の明確さだけでなく、日頃の研鑽や言動、姿勢、思考の深さ、他尊、敬意、感謝、関わりなどから「伝わる」その人の内面が「深さや愉しさや真面目さ」となって読み手や聞き手の内面に良質な問いを呼び起こすのでしょう。

以上の話を式にすると

「伝える」構成+「伝わる」内面=受け手の内面でうまれる「問いかけ」
if(良い「問いかけ」)
 {「気づき」}
elseif(愚問)
 {「思考停止」}

となりました。


内面が伝わる

2013年11月27日水曜日

トイレの神様に教わる6つのコト

トイレの話です。

会社のトイレはフロアにひとつ。同じフロアの会社ももちろん、来客も社員も同じトイレを使います。ごく普通のオフィスのトイレです。

トイレの手洗い場には、ペーパーが備えてあって手を洗った後に自由に使えるようになっています。ペーパーにはケースがあって詰め替えて使うのですが、使い切ってそのままということがよくありました。

当時は社長という立場でしたから、それを見てどのように社員に伝えようかと考えたのですが、ふと、実験をしてみたくなりました。というのも、この手のことは躾と捉えると、習慣になるまでやらせる忍耐が必要になります。また、「他者を変えるには、自分が変わらなくてならない」ことのわかりやすい実験もしてみたかったので、誰にも何も言わずに自分で無くなりそうだったら補充してストックも置くようにしてみました。

トイレというのは多くの人は行き交うパブリックスペースです。誰かが何かをしていると意外に見ているひとが多い場所でもあります。案の定、そのようにして、何度か他の人に補充しているシーンを目撃されているうちに、自分が補充をしなくても誰かが補充をしてくれるようになってきました。留めに、このエピソードを(実験の件は抜きに)口コミしてみたところ、今では、自分が補充することはほぼ皆無です。

ただ、利用者全員がそのような変化をしたとは思えません。調査していませんが、フリーライダーや無関心の人は多いようです。(印象としては、役職が高いほうが無関心で変化し難いように感じます)

一方、最近、目についているのが個室のロールペーパー。使い切った芯がそのままであったり、新しいペーパーの包装を外したのが丸めて置いてあるなどの状況が散見されます。同じように実験で、苦言も言わずに黙々と補充、整理しているのですが、個室ではその行いを誰も見ていません。そのような状態でも行為が伝染するのか、現在観察中です。

同じようなことは仕事場面でも多くあります。以下にトイレの神様から教わった事を列挙すると、
1.「実は人目につく」という場所では、自らの行為の変化が他者の行為の変化を促す(良くも悪くも)
2.一方、そのような場合でも結局変化しないフリーライダーも多い
3.しかし、少しの者が変化するだけでその場の良い環境は維持される
4.人目につきにくい奥深い場所での自らの変化が他者に伝わるかはまだ謎である

1に関しては、執務室のように常に多くの人が居る場所では困難さを感じています。一人のちょっとした行為ではその他の大勢の行為によって掻き消されてしまうからでしょう。集団化による「無視」ですね。その場合いっしょに変化してくれる「仲間」が居ると状況が大きく変わりますから、真の「仲間」とは「話しが合う人」「役立つ人」ではなく、「一緒に変化する人」だとつくづく実感します。ですので、トイレの神様に教わったことをもう2つ追加します。

5.一緒に自ら変化するのが真の仲間だ
6.目に見えない仲間が必ず居る!


実は人目につく、そんな場所で自ら変わること

2013年11月26日火曜日

ミッション 「x」を最大化セヨ

「研修の効果、成長の状況を測定セヨ」という問題が与えられた時、真の問題はどこにあるのでしょうか。効果の上がるメソッドやアプローチ、プロセスを確立することでしょうか、それとも、成果のレベルを高めることでしょうか。

ゲーミフィケーションの考え方を用いれば「x」を最大化するということが目的になります。例えば、スーパーマリオでは、ゲーム画面の右端に到達すること、数値で表現すれば、x座標を最大化することだそうです。

メソッド・アプローチ・プロセスが座標軸であるとすれば、最強のメソッド・アプローチ・プロセスを見つけることが「x」の最大化です。これは、育成という観点では大きな成果です。最大効果を発揮する育成方法は、様々な場面でもその効果が期待出来るからです。

一方で、成果のレベルが座標軸であれば、事業にとって直接的に大きな貢献を意味します。投資対効果、もしくは費用対効果という観点では、要するに「いくら儲かったのか」がわかることが大切です。

シミュレーション訓練を例に考えてみます。

仮想現実(VR)の技術を使って、飛行訓練や航海訓練を積む事により、実地訓練を行うよりも高い学習効果を得る事が出来るそうです。その場合、飛行や航行の安全、ひいては人命の安全が実現します。この場合、VRという技術が方法における「x」です。そして人命の安全確保がもうひとつの「x」です。

それらを考えると習熟のための方法の最大化と成果の最大化の両立した場所が「x」を最大化する場所であることがわかります。

どうやら、より大きな領域に強い影響を与える方法と身近で具体的な成果の両立が「真の問題」のようです。


月に向かって・・・

2013年11月25日月曜日

パフォーマンスに向けた他人の変え方

組織を運営していると、パフォーマンスを高めさせるために「あいつはどうしたら変わるのだろうか」と思うことが多く有ります。違う角度から語ると「あいつはなぜ変わらないのだろうか」と思索することが多くなります。

一方で、「ほめ言葉のシャワー」で有名な菊池省三先生や「奇跡の教室」のエチ先生など、教育において大きな成長を促している実践者が多くいらっしゃいます。もちろん、職場でも他者を成長させる実践者は多く存在することと思いますが、実践者のアプローチには何らかの共通性や本質性が隠されているように思えてなりません。

さて、菊池省三先生は、以前の講演で同じ学校のとなりの学級の先生に関して少し言及されていました。とても真面目に貢献心強く学級に向き合っていらっしゃったにも関わらず、卒業前の生徒の感想文には、クラスが辛く、早く卒業したいという記述があったそうです。一方で、菊池先生の生徒は、自信と希望が伺える内容だったそうです。

このエピソードにはとても深い示唆があると考えています。

まずは、「変わるケースと変わらないケースがある」ということ。これは、関わる者にとっての希望と絶望が同居していることを意味します。

次に、「生徒に響くものと響かないものがある」ということ。これは、楽器が共鳴して音を鳴らすようなものでしょう。自らの波長と相手の持っている波長が合うと響き、合わないと響かないということであり、自らが鳴れば必ず響くという絶対性ではなくて、響きあう相互性が大切であることがわかります。

また、社会人になると、響いていないのに表面的に響いたような偽装もあるので実感として困難さが増しているのではないか?とも思えます。

経験として、「本心では共感していないよな・・・」との印象がある場合、後々、その人物が変わったと感じることはまずありません。

結局、他人を変えるには、自分自身を変える、および自分の関わり方を変えれば良いのですが、「相互性」という深い謎がそこには横たわっています。



バッタ、バッタ とはいきませぬ

2013年11月24日日曜日

想定内の予想外

仕事において予想外の出来事が起きます。それは、混乱と葛藤と軋轢を生み出して、乗り切れる人がハイパフォーマーとなる一方で、乗り切れない人は能力不足の烙印を押されてしまいます。

外で食事をした時のことです。会席料理だったので、コースを選ぶと出てくる料理は自動的に決まります。そして予想外の出来事がおきたのはカウンターに座り料理を美味しく食べている時でした。

新しく来店したお客さんのオーダーを仲居さんが板場の料理人達に手順通り伝えます。
「すみれ2名様、うち1名様、魚貝NGです」
この瞬間、黙々と休まず手際良く、自分の持ち場を動かしていた料理人たちの動きが一斉に止まりました。

「すみれ」というのは会席料理のコース名です。
そのコースは、刺身、焼き魚といった魚中心のコースでした。
料理人の動きを止めたのは、魚中心のコースでありながら魚貝NGという伝達に戸惑ったことであろうことは想像に難く有りません。

その後、料理人たちはさっと集まると少し話し合いをして持ち場に戻りました。具体的にどのような対応をしたのかはわかりませんが、仲居さんが私からオーダーを取ったときの会話を思い起こすと、次のような一節がありました。

「アレルギーなどで食べられない食材はありませんか?」

これは、料理を提供するうえで、とても大切かつ丁寧な対応です。仲居さんもしっかりと教育を受けているのでしょう。質問はとても自然でした。

この仲居さんの問いに対して「魚貝類が駄目なんです」とお客さんが応えることに違和感はありません。つまり、想定内の応答です。一方で、料理人たちの反応は、それが予想外であったことを窺わせます。

要するに「予想外なのだけど、じつは想定内の出来事」です。


仕事を振り返ると予想外の出来事の多くは想定されるものであったことに気づかされます。それは、「まさか起こらないだろう」とか「恐らくあり得ないだろう」といった自分にとって都合のよい思い込みから起きているように思います。福島での原発事故も本質はそれらと同じであるように思います。

起こりうる全ての可能性に対して対応を決めておく事は現実的でありません。茂木健一郎さんは「世界は予測出来ないことがたくさんあり、脳はうまい形でルールを変えて不確実性に向き合っている」と指摘されましたが、即時に対応が必要なことの場合は、可能な限り予測と対応を行う必要があります。社会性が求められる複雑な場面においては経験の数が予測と対応を強化しますが、想定可能なことは「まさか」「おそらく」「多分」「きっと」といった先入観を捨てたほうが良さそうです。


予想外だけど想定内でしょ?

2013年11月23日土曜日

タソガレノザギン

あなたは誰ですか?

「誰そ彼」と問う人で溢れる銀座の街角に立ち

時の消失点を見つめる

もうすぐここにも師走が訪れる


黄昏

2013年11月22日金曜日

要するに効力感と社会性なのだ

十人十色、ヒトソレゾレ、世の中には誰一人として同じ”ヒト”はいません。”ヒト”とは唯一無二の存在です。ところが、”ヒト”に接するとき、私たちは頭の中にある過去の人材データベースを駆使して、「こんな人だろう」という類推を行います。

ですから、”ヒト”をタイプ分けして理解することは比較的易しいことです。

ところが、タイプ分けをすると違和感も多く感じてしまいます。ひとつは、タイプ分けすることによってそぎ落とされてしまうディテールのほうが、その”ヒト”らしさであったりするからです。

また、もうひとつの問題は「社会性」です。

社会性とは、他の人の存在により行動が変わることですから、”ヒト”は他者を客観的に見ているときと、関わったときでは行動が変わります。そもそも人間は極めて社会性が高い生き物ですから、一度、型に当てはめてしまっても、他の人の存在によって型が変わることは容易にあるわけです。

とはいえ、私たちが何気に嗅ぎ分けているタイプ分けにも何らかの本質があります。例えば、リクルート出身の方には同じ「匂い」を感じます。それは、「周囲に合わせる」というよりも「自分を貫く」といった印象でしょうか。言葉にしてしまうとちょっとニュアンスが違ってしまう気もするのですが、新規事業に取り組まれている方で元気、シンプル、行動、自分といったインデックスが付きそうな方は、リクルート出身者である確率がかなり高いと思います。

ところでタイプ分けを合理的に行うツールは数多くありますが、面白いのはそれらのツールは開発された組織や地域(国)、時代などの背景に強く影響を受けていることです。ですから、ツールは目的に沿って特徴を理解して選択しないと、せっかくタイプが表出されても使えないものになってしまいます。

さて、様々なデータを総合的に解析すると「効力感」と「社会性」の縮約されました。
この2つの要素をさらに高中低と3分割すると、3×3で9個の組み合わせが出来ます。そこで、この9セルに名前をつけてみました。(下図参照)
当たり前ですが、それぞれのセルに良い、悪いはありません。あくまでもデータを操作して見えた”ヒト”の一面です。

効力感-「外界の事柄に対し、自分が何らかの働きかけをすることが可能であるという感覚」(Wikipediaより)の高中低、社会性-「外界の影響受けて行動が変わりやすい傾向」の高中低を自己評価、他者評価をして、自分や他者のセルを決めたとき、下記の9セルは自分や他者の理解に役立っているでしょうか?

それぞれの特徴もちょっと書いてみると

サポート:他者の動きをさらによくするために動くが時にはおせっかいでもある
フォロー:他者の動きを察して適度に関わってくれるが先手を打つことはない
ドリフト:状況に乗るのが上手いが出来ることしかやろうとしない
デザイン:課題をもって解決に動くが解決の可能性を過大に見積もることがある
バランス:中庸で誰とも連携が上手いが、裏で醒めているところがあり冷静冷ややか
フロート:作業を終わらせるのが得意だが新しいことには手をつけない
ファイト:事に熱く向きあって行動するが誰と衝突しても平気
マイペース:自分のリズム、間合いで事を進められるが周囲に気兼ねしない
ミスト:ゆらぎない自分の世界を持っているがそこから踏み出さない

となりました。如何でしょうか。

ちなにみ「能力」という観点は入っていませんのでパフォーマンスは予測できません。



社会性は「そもそも高い」なかでの高低です


2013年11月21日木曜日

キャリアの棚卸しという私有意識

スガシカオさんの歌、Progressに以下のような一節があります。

”ぼくが歩いてきた日々と道のりを
ほんとはジブンっていうらしい”

「キャリア」を考える際には、これまでの仕事や自分らしさを振り返ること。私のなかでの「キャリアの棚卸し」とはそんなイメージです。

そういえば自分事ですが、いろいろな経験を積む事が出来ました。全てを棚卸ししようとするとこれまでの蓄積と同じ時間が掛かってしまいますから大分端折った棚卸しであり、おそらく、クリティカルな出来事中心にストーリー化されるのだと思います。それは、絵コンテであったり、写真集であったり、記述であったりするでしょう。

ところで、そのコンテンツ=”ジブン”なのでしょうか?

私たちは直接取得した経験の他に、代理経験などによっても経験を蓄積します。それらの連鎖を考えると、どうも”ジブン”の範囲があやしくなってきます。極論を言えば、”ジブン”は世界の一部で有るが故に、世界とは切り離せないもの、世界=”ジブン”とも言えるのではないでしょうか。

「世界は俺の物だ!」みたいな誇大妄想ではなく、環境と連鎖することで初めてそこに”ジブン”が出現するはずです。であれば、切り取ったコンテンツ=”ジブン”と認知することはとても限定的で特殊な、他者に関わらせない”ジブン”です。

かつて「世界でたったひとつの花」という歌がありましたが、これも同じコンテクストです。世界から切り取った”ジブン”とは私的所有の実態なのです。

ワークショップのファシリテートや組織運営を行うと、思い通りに動かないメンバーに困ったり苛立ったりしますが、そんな”ジブン”を俯瞰すると自らの私有意識に気づきます。もう少し言い方をかえるとそれは支配欲求なのでしょう。また、支配欲求とは異なりますが写真も私有意識の象徴です。

私にとって「キャリア」も「ファシリテート」も「マネジメント」も「写真」も私有という、切り取った”ジブン”に気づくサインであるようです。


切り取った”ジブン”

2013年11月20日水曜日

組み合わせという偶有性

ワークショップでたまたま一緒になった、仕事でプロジェクトにアサインされた、上司として部下を持つことになったなどなど、他人といっしょに何かすることは日常的です。

「他人と一緒に行うこと」には共通するものがあります。

それは”モクテキ”です。

「集まる」ということは何がしかの”モクテキ”がそこにあるのですが、集まっている人の真の”モクテキ”が同じかというとそうではありません。嫌々集っている人も居れば、個人的な”モクテキ”のために集まる人もいます。会社では事業”モクテキ”のために集まっているはずですが、マネジャーは、”モクテキ”を共有するのにいつも多くの時間を掛け、そして苦労しています。

一方、”モクテキ”を果たすために集まった人たちは次第に役割を決めはじめます。つまりみんなの”モクテキ”をそれぞれの”モクテキ”に分割するのです。それぞれの”モクテキ”が個人レベルまで分解されると個人に問われるのはその”モクテキ”を果たすのに最適であるかどうかです。そして、多くの場合、おそらく最適であろう人に”モクテキ”が託されるのですが、気がつくと大きな”モクテキ”に遅々として向かっていないことに気がついたり、思った以上に”モクテキ”に向かっていたり、そして新たな”モクテキ”が生まれたりといろいろな場面に遭遇することになります。

他人と一緒に行うことによって生まれる組み合わせとその結果に潜む偶有性は気づきや学びの宝庫です。


組み合わせはアート

2013年11月19日火曜日

考える力

目の前に問題や課題があったときに、その真因や解決策などを思索します。このように「複雑な記述や出来事、事象などを理解、整理すること」が仕事において求められる「考える力」です。

例えば、「文章を読んで意見を表出する」場合、まず文章を理解し、つぎにその理解と自分の知見を照らし合わせて類似点、相違点を明確にしそれらに対する立場を形成するプロセスが必要になります。これらの一連を通して「考える力」と表現しますが、もちろん、これは「考える力」の1パターンでしかありません。

「考える力」とは、このように行動に至る前の様々な知覚、認知、操作、出力の組み合わせなのですが、他者が期待する「考える力」とは、どのようなアウトプットを出せるかを意味しています。

例えば、エントリーシートの作成で良く問題になる「コピペ(コピー&ペースト)」。
「出来のよいお手本をそのまま使う」「手間を省くために同じ文章を使い回す」ことは、その人なりに考えがあってのことでしょうが、ほとんどの人がそれによって「考える力」が高いとは評価しません。オリジナリティの希薄なアウトプットは、他者に「考えた」印象を与えないのです。

また、文章や他者の理解だけでも「考える力」とは言えないでしょう。「それで君はどう思うの?」と聞かれてしまったら、それはアウトプットが期待に届いていない証です。

オリジナリティは足りているか、考えないことを習慣にしていないか、「どう思うの?」と聞き返されていないか、常に自分自身のアウトプットをモニタリングすることが肝要です。


実が熟して落ちるように考える