2017年9月21日木曜日

黎明と黄昏 あなたはどっちが好き?

「君の名は」というアニメ映画を観た人はわかると思うけど、僕たちが過ごす毎日には「彼は誰時」と「黄昏時」という2つの情感豊かな場面がある。

「彼は誰時」とは、闇(黄泉)の世界からこの世(現実世界)への狭間でそこにいる人が生き物なのかそれとも冥土の物なのかわからない状態だ。

「黄昏時」は「彼は誰時」であって、この世の人があの世へ向かう狭間なので、生きている人を闇の世界へ送ることだ。

つまり、どちらもとても生きる、死ぬという境界が曖昧なことだよね。

僕にとって「黄昏時」を代表するイメージはエルトン・ジョンの「goodbye yellow brick road」だ。その核心は"goodbye"にある。

一方、「彼は誰時」を代表するイメージはジミー・ヘンドリックスの「Purple Haze」だ。核心は”Purple Haze”、紫のモヤモヤした空気感である。

それは新しいものが生まれる瞬間の不安感とエネルギーだね。


さて、今日、飲みに行った店の女将が好きな色は、黄色と紫だった。

黄色はゴールドに近いと聞いて想ったのが、「黄昏」と「黎明」だ。

それは「この世とあの世」を行ったり来たりするイメージである。


僕たちは無意識に「死生観」の影響を受けている。

新しい命の芽生えと身近な人の死は「死生観」を意識化して向き合うタイミングだと言える

その瞬間に潜む「力」と「不条理」が僕たちの生命の根っこなのかもしれないね。

黄の黄昏

紫の黎明

2017年9月19日火曜日

問題を解決しようとしない症候群に気をつけなはれや!

オープンイノベーションが当たり前の時代になって、問題解決能力とオープンマインドネスの間には密接な関係が生まれている。

誰かの力を借りるには自己開示が必要なのだ。

さて、オープンマインドネスにとって幼少期や思春期における人との関わりは大切なインシデントだ。

自己開示は他者に対する基礎信頼から始まるからだ。

一方、世の中には自己開示せず、問題を解決しようとしない行動傾向もある。

中には秘密結社のごとく、特定の人との間でだけ情報を共有し、明から様に他者を排除する場合もある。


もちろん誰にでも開示したくないこともある。

開示ありきではない。

だけど、非開示ずきの人は往々にして問題の解決を遅らせる。

それでいて、問題があると指摘するのは好きだ。

国際情勢を見てもよくわかる。

秘密主義の国は、大体、問題解決を遅らせその責任を他者に転嫁するものだ。

国とまで言わずに個人においても、自分の気持ちを抑えて言いたいことを言わずに我慢する人は問題を抱えてしまう。

それは、ある意味、問題を解決しようとしない症候群と言えるのだろう。


避けるのだ



2017年9月18日月曜日

あまちゃんが、ひよっこが。 成長するってどういうこと?

休みの朝、ルーティンを終え、ゆったりしながらテレビの連続ドラマ「ひよっこ」を観ている。

連続ドラマで描かれるのは、主役の女性たちが成長していく様子だ。

今、放映されているひよっこでは、茨城から集団就職で東京に出てきた女の子の話だけど、何も知らない無垢な少女というより、大人の世界の苦悩を知った少女が家の苦境を救うために東京に出てくる、大人びた少女のさらなる成長だよね、

連続ドラマの視聴者を考えれば、芯がしっかりとした少女が様々な苦しい出来事を乗り越え充実した人生を送る物語、の方が話がわかりやすく受けが良いのだろう。

以前、放映されていた「あまちゃん」もそうだけど、僕は主人公の生まれた時から老いた時まで人生の全般を描く物語よりも、思春期における結節点をぎゅっと描く物語の方が好きだ。

「このあとこの娘はどういう人生を送るのだろうか」と想像する方が楽しいし、そもそも演者の年齢層と役の年齢がかけ離れているのはいただけない。

さて、人生を彩る経験とは、環境や周囲の状況と身体的条件が相互に干渉しあって意味づけられうものだ。

つまり、人は自ら成長する存在であると同時に周囲によって成長させてもらう存在なのである。

若くて活発に動ける時と、歳をとりあまり機敏に動けなくなった時では、経験の意味づけとそこからの成長の仕方は変わるものだ。

いくらテレビドラマだからだと言って、映像表現であまり強引に成長を描かない方が良いと思う。


成長中



2017年9月17日日曜日

なぜ「カレーと車」なのだろうか

慶應義塾大学SFC加藤教授たちが主催する「カレーキャラバン」(詳細は「つながるカレー」にて)は、カレーを使った場づくりに取り組んでいる。

とてもユニークな取り組みだと思うのだけど、不思議と「カレー」であることへの納得感が高い。

僕もカレーなら場に集いそうな気がするのだ。

加藤先生たちのカレーキャラバンが現地現物、無料であるのに対して、ほぼ日のプロジェクト、水野仁輔さんとほぼ日が運営するジャパニーズカレーのフードトラック、「カレーの車」はメニューがあって有料でカレーを販売している。

この2つのカレープロジェクト、コンセプトもモデルも全く異なる。

カレーキャラバンはフードトラックじゃなく、あくまでも、道具一式と人を場に運ぶ役目だ。

だけど、なんとなく「カレーと車」にテーマがあるように思えてしまう。


自宅やお店など固定の場所でなく、離れた場所で調理を行ったり料理を提供する場合、調理器具類を持ち歩かなくてはならない。

その際には、運搬する手段が必要だ。

だから「車」も必要になる、こんな当たり前の話より、「カレー」という料理とその世界観にあるポータビリティ(可搬性)と人々のカレーへの基礎信頼、「車」という自己世界を持ち運ぶ移動運搬手段が生み出しているのは、「自分たちの世界を外の世界に持ち出す企み」である。

カレーキャラバンとカレーの車、どちらからも強く感じられるこの企み感。

実は僕が惹かれているのはそこかもしれない。



本文とは全く関係ございませんが近所に出来たカレー屋さん



2017年9月16日土曜日

チャンネルを合わせてチャノミを避ける

僕は昭和世代なので「チャンネルは回すもの」だ。

もはやテレビにしてもインターネットにしても回すインターフェースはないのだけど、悲しいかな、チャンネルという言葉がアフォードするのは回すという動作である。

で、「チャンネルを回す」のは、見たい番組、もう少し抽象度を上げると、入手したい情報にアクセスするための行為ということになる。

脳科学で言えば、ニューロンの結合だし、インターネットで言えば特定のアドレスのポートに接続し、承認されることになる。

さて、職場において適性があるとは、チャンネルが合っている状態、すなわち、結合し、相互承認されていることを指している。

職場を構成する上司や同僚たちと、仕事の仕方・価値観・目標など(ポート)を共有して行為行動(仕事)が引き出せていることが適性のある(もしくはマッチングしている)状態なのだ。

要するに仕事をする前に相互にチャンネルを合わせる必要があるのだけど、下手をするとチャンネルを合わせずに就業者や上司や会社が仕事をし、させている。

下手をするとフィードバックと言いながら、チャンネルが合っていないことを指摘しあっているのだ。

チャンネルが合っていない状態での指導や面談はほぼ茶飲み話に等しいのだろう。

この「チャンネルを合わせる」という表現は、数多くの現場経験をお持ちの人事コンサルタントの方から聞いたのだけど、フィット感のあるいい表現だよね。

で、ね。もう一度整理すると、「適性がある」とは「最初からチャンネルが合っている」状態、「適性が低い」とは「相互にチャンネル合わせをする必要がある」状態ということだ。


チャンネル合ってる?

何かにイラつく人は、何事にもイラつくのか?

世の中イラつくことは少なくない。

身近なことでもそうだし、国とか地球レベルでもそうだ。

そういったイラつく感情というのは、それ以外の出来事に対して無意識のうちにイラつきを投影してしまう。

例えば、某国がミサイルを発射した→イラつく→仕事で日頃から我慢していることがある→イラつく→そもそも為すべきことを為さない人がいる→イラつく・・・

といった感じで、「基礎イラつき」によってその人の世界は「イラつく」世界に塗り替えられて行くのだ。

厄介なのは、多くの人に影響が出るのは、最後の方だっていうことだよね。

家に帰って「俺は疲れているんだ!」みたいにイラついても、奥さんはなぜイラつかれるのかわからないから戸惑うし不愉快になる。

もちろん逆の場合もある。

「イラつき」をうまく浄化する術を持たないと、睡眠やイラつき疲れで自然解消するを待つしかないね。

僕の経験からすると、×お酒、△映画鑑賞、◯自律訓練法(呼吸法)といった感じです。

ヨガとか座禅とか呼吸が整うマインドフルなアプローチは精神衛生の良薬だよね。

まあ、日々仕事に向き合う中で、なんだかんだとイラつくことを解決できたら良いな、と思うのです。


イラつく?

2017年9月14日木曜日

ゲシュタルト崩壊を招くのはメモ? メモとノートの違い

今日は記憶と認知について考えていた。

その中で、認知の崩壊現象としてゲシュタルト崩壊を取り上げたのだけど、ちょっと気になっていることがある。

以前発表された研究結果「メモを取っても記憶は定着しない」があるのだけど、ひょっとしたら認知の崩壊現象とメモを取ることは関係があるのではないだろうか。

というのも感嘆するほどひたすらメモを取る人って日を改めたとき、話のポイントがずれるからだ。

メモをとった時の文脈ではなく、改めてメモを見て話を組み立てているように思える。

「いや、あの時の話はそうじゃなかったよね?」

もちろん、シンプルな用件はメモが役に立つ。


メモしなくて忘れてしまったら、それでいい。忘れていいようなことだったのではないかしら(大村はま)

メモが役立たないのは、文脈と要約(要するに)が必要なときだろう。

メモをしなくても大事なことであればその文脈も含めて覚えている。

さて、文脈をあらなた文脈に書き変えていくのがノートや板書だ。

だから、仕事の打ち合わせで行うべきことはメモを取ることでなく、ノートを作成したり板書をすることである。

打ち合わせ中に、文脈と要点と仕事の次のアクションを定める。

時をおけば、それらは熟成し、新たな問題や課題が発見したり、発想を生む苗床となる。

丁寧にメモをとり、後からメモを見、ずれた文脈を創作し、仕事を進めるのは非効率この上ない。


モヤモヤのまま記録しない