2017年5月28日日曜日

「高くても良いもの」はなぜ売れなくなったのか

ずっと前に、百貨店はより良いものを求める顧客に応えるために品揃えをしていると聞いたことがある。

「他にはどんな商品があるの?』
「もっと良いもの無いの?」

と顧客から質問が出た時に、

「こちらの商品は少しお値段は高くなりますが・・・」

と応じるのが百貨店だ、と言うことだね。

最も、質問もしていないのに高い商品を勧められると、僕は何だか店員の焦りを感じてしまう。


さて、かつてあった、価格が高くでも少しでも良いもの購入する消費行動は、現在では勢いが無いように思える。

逆に、価格を比較して安く購入する消費行動が強まったことは間違い無いだろう。

景気低迷や可処分所得の伸び悩みが背景にあるのだろうけど、価格や品質に関する情報が入手し易くなったことも大きく影響しているのだと思う。

今、NHKの朝の連続ドラマでは昭和30年代、茨城から集団就職で東京に出てきた女性の話を放送している。

その女性は、レストランで「いつかはメニューで最も高いビーフシチューを食べたい」と想い続け、一番安いメニューから毎月食べていくのだけど、今時、そんなウブな消費者はいないだろう。

現在は誰もが情報過多の耳年増なのだ。

経験から学ぶのでなく、情報を評価して正解(得する消費)を探す、そんな時代の店頭販売はどうあると良いのか。

僕はやはり経験から学ぶことの愉しさ、素晴らしさに気づいてもらうことだと思う。

となると、販売員に必要なのはセールススキルではなく、ファシリテーションスキルだし、店頭は売り場からワークショップに変わる必要があるのかもしれない。

売ることと売り続けることがゴールではなく、売ることをきっかけとして気づきを与え続けることがゴールになるのだね。


紀伊國屋 文左衛門の碑


2017年5月27日土曜日

#0107 THE BEATLES ? 50年目のサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

銀座6丁目の再開発にともなう複合商業施設、GINZA SIXに#0107 PLAZAと言う店がある。

店頭には、クーガーと言う短波が聴ける古いラジオやソニーの時間がパタパタ変わる時計、タイプライター、アップルのMacintosh SEなど、1970年代から80年代にかけての製品がディスプレイとして展示されていた。

 #0107 は「おとな」と読ませたいようで、輸入生活雑貨を扱うPLAZAが年齢高めのターゲットに向けて打ち出した新店舗らしい。

昔、それほど関心は無くても見慣れた製品を見ると懐かしさや安心感が沸き起こるよね。

ただ、おとな=懐古的、の図式はいささかステレオタイプな気がする。

若者でレトロなアンティークに興味を持つ人も数多く居るわけだし、僕としてはもう少し工夫が欲しかった。

さて、ビートルズのサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドと言うLPが発売50周年を迎えて、記念の限定版が発売された。

かつての若者、今のいい大人にとって、とても気になる販売だね。

しかし、よく考えてみれば50年前の熱さも空気も今は無いわけで、記録や記憶ではあっても、目新しさは感じられない。

スマホ、クラウド全盛の今日に、#0107 PLAZAで展示されていた短波も聴ける高性能ラジオ、クーガーを売ることと何が違うのだろうか。

ファンの心理は別として、いい歳をした大人の僕としては、多少、理解が難しくても若いミュージシャンから何かを学び、応援したくあるのだ。


”今”、に目を向ける


2017年5月26日金曜日

僕の中に「ぼうぼう燃える職人魂」はあるか

仕事観についての問いかけがある。

○課題解決には、期間・費用・要員のそれぞれについて制限があるものであり、限られた条件の中での成果こそ本当のものである
○働きがいとは成就させることであり、結果そのものは必ずしも求めない(結果さえ良ければよしではない)
○すべての課題とは、自分の能力における挑戦課題であると考え、自分自身の能力に対する努力を惜しまない

○与えられた作業やプロジェクトに対し、全力をぶつけてこれに当る 

もし、これらの問いにビビッときたら、それは心の中の職人魂が疼いている証拠だ。


先日、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で数寄屋大工の匠、升田志郎さんを取り上げていた。

そこで知ったのが、江戸時代に書かれた大工の技術書に棟梁の模範として記された「五意達者」だ。

「五意」とは

設計図を読み解き的確に墨付けができる技術、①式尺、墨がね
金勘定と緻密な計算力、②算合
削りや加工のあらゆる、③手仕事
デザイン性の優れた内装を自ら作り上げる力、④絵用 ⑤彫物

で、「一人前の棟梁はこれら全てに熟達するために昼夜不怠で努力をしなければならない」と書いてあるらしい。

さらに、升田さんは師匠、中村外二さんから「建物は作って半分」「後の面倒で半分(育てて半分)」と教えを受けたそうである。

様々な条件や困難の中で自らの手を使い素晴らしい建物を作り、建てた後も手入れを行って完成させていく姿は、まさに大工という職人が目指す到達点なのだ。

僕は商人に家に生まれ育ったので、職人の一途さに比べずっと臨機応変だと思う。

昼夜不怠で五意に熟達するより、時流(トレンド)を読んで儲けを出そうとする指向があり、無意識に商売においては敵味方や強者弱者を嗅ぎ分けている。

やはり商人気質が強いのだろう。

一方、番組に感銘を受ける自分を知るに、職人に対しての憧れがあることは間違いないので、多少職人の血が流れているのかもしれない。(実家がかつて製造卸を営んでいたので職人の部分もあったのだろう)


ぷかぷか



2017年5月25日木曜日

業務の達人と料理の鉄人の共通点?

先日、WOWOWで観た映画の解説が印象に残っている。

それは、料理人を扱う映画の限界、についてだ。

味の評価はどうしても主観的でスポーツのようなわかりやすい結果が無い。
そして、最後に皆で料理を作る価値に目覚めるという陳腐なゴールになりがちだと言うのだ。

ひょっとしたら映画を観る人の好みが反映されているのかもしれないけど、確かに、これまで僕が観た料理人をテーマにした洋画の多くは、才能→低評価→孤独→衝突→葛藤→気づき→協調(めでたし、めでたし)というパターンだ。

陳腐と言うかどうかは別としてお決まりの展開なのかもしれない。

さて、職場において、営業部門のように数値で結果が出る仕事に対して、スタッフ部門のように数値評価が出来ない仕事がある。

それらの仕事は目標設定やその成果の評価がやはり難しく、姿勢・態度など、どうしても主観的な評価の比重が高くなってしまうし、評価に差が生じ難い。

そしてそのような仕事で求められるのもやはり「協調」だ。

料理も、数値評価が出来ない仕事も工夫や創造性が求められるのだから、誰かの主観に左右され結局協調だよね、といったお決まりでない良いシナリオが欲しいところだ。


良いお味



2017年5月24日水曜日

サービスからおもてなしへの転換点は戦略性


最近、あまり盛り上がる話を聞かない東京五輪だけど、招致に成功したときは滝川クリステルさんがプレゼンした際に用いた「おもてなし」が注目された。

「おもてなし」については以前ブログでも取り上げたけど、僕は「したく」「しつらえ」「しかけ」と3要素と主客一体での関係性で説明するのが好きだ。

わかりやすく言い換えれば「もてなす際の料理などの準備をしっかりとして、季節感ある趣向を凝らした飾り付けを行い、意外性のある演出で客の心を強く惹きつけることであり、その際、主人と客人の関係性は対等にある」となるだろう。

主人が上でも無ければ下でも無いし、客人が下でも無ければ上でも無い、というのは単に友達的であるということだけではなく、向き合って対等に闘うライバルの要素もあるのだろう。

さて、「おもてなし」は「サービス」と何が違うのかという疑問が湧くけど、僕は勝負の駆け引きじゃないかと思う。

相手に役立ちたい、喜ばせたいという動機に立脚しながらも明確な成果、成長指向があると感じるからだ。

だから、僕は「おもてなし」を過剰サービスの話ではなくあらゆる客の心を掴み果実を得るための戦略であると理解したい。


料理、箸置き、お品書き




2017年5月23日火曜日

他人に架ける橋 Bridge over troubled one.

僕が大好きな曲にサイモンとガーファンクルの”Bridge over troubled water”(邦題「明日に架ける橋」)がある。

サビの歌詞はこうだ。

Like a bridge over troubled water
I will lay me down

君が辛い時は僕が必ず支えるよ、と言ったニュアンスだろうか。


さて、個性を考えた時、自分と他人の間には必ず溝がある。

この溝は埋めることができないのかもしれない。なぜなら、僕たちの脳の中にあるシナプスも他のシナプスとの間にも隙間があるからだ。

一方で、脳も社会も、シナプスもしくは人が単独で存在することは無い。

他と繋がって初めて持続的な存在となるのだ。

では、どうやって折り合いをつけるのかといえば、溝に橋を架けることでネットワークを構成している。

要するに、溝は埋めるものでなく溝を越えるために相互に橋架けが必要なのである。


困難な水?

社会を窒息させるダメダメ攻撃

音楽教室レッスンで楽曲を使うと著作権料が徴収される。

著作権管理団体の JASRACが打ち出したこの方針が波紋を呼んでいる。

僕はこのような行き過ぎた権利の主張が結果として社会を窒息させる行為になっているのではないかと思う。

例えば、裏道で行われる一時停止違反の取り締まりもそうなのだけど、ちょっとしたやり過ぎの影響ってその後のことを考えると結構深刻だろう。

丁度、小さい子供の行動に親が過干渉するとその後のパーソナリティに影響が出るように、人の行動をじわじわ変えて行くので、あとで気づいたらすっかり寂れてしまったということにならないと良いのだけどね。

音楽教室がレッスンごとに著作権料を払うとなると、レッスン料が高くなり、音楽を学ぶ敷居が高くなる。

学びは音楽だけじゃないから、音楽から遠ざかる人も出てくるでしょう。

交通違反だって、取り締まりが厳しくなれば、必要な時しか車を使わないようになる。

大都市では公共交通機関が発達していて車無しでも不自由しないからね。

確かに主張、規制する権利はあるのだけど、権利者は「できる」と「やる」の間にどんな世界を実現したいと考えているのだろうか。

是非、聞いてみたいことである。


境目の世界