2017年10月21日土曜日

日本的現場主義の落とし穴? 現場の視座を高めよう

以前、キャメル・山本さんに日本企業のグローバル化というテーマで話を聞いたことがある。

山本さんが日本的と評したのは、「現場」主義であり、はじめに人ありき、企業特有のスキル、そしてすり合せがその特徴だ。

この日本的が大きな岐路に立っているように思える。

最近、ニュースを賑わしている神戸製鋼がそれだ。

現場を信じ、現場に任せ、現場がイニシアティブをとって仕事を進めた結果だとしたら、山本さんの指摘が裏目に出てしまったケースと言えるのかもしれない。

現場をうまく回すことが会社にとっては利益を最大化する手段であったのに、うまく回すことで事業の基盤である社会からの信頼を損ねてしまう。

良いか悪いかで言えば、悪いのだけど、悪いことが正されずに続いてしまうところに日本的の課題があるのだろう。

では、グローバル的では常に規範的で問題が生じないかと言えばそんなことは全くないのでガバナンスの実現は企業経営における共通の課題ととらえた方が良い。

しかしながら、現場判断が負に働くのはやはり日本的の特徴だ。

日本的であるが故に社会から信頼を得て、日本的であったが故に社会から信用を失おうとしている。

他山の石以て玉を攻むべし。

日本的にとって、現場が現場としてこれからも活躍するためには、現場の成長が最重要課題である。


日本的




2017年10月20日金曜日

「場の力」はどう学びを変えるのだろうか

昨晩のカフェゼミはこれまで僕が参加した場合と雰囲気が違った。

何が違うのかといえば、集う場所と集う人であっただろう。

集ったのは「DNPプラザ」という、天井も高く広々とした綺麗な場所で、いつもより多めの人が集まったがそれでもかなり余裕があった。

設備で言えば、舞台があることが大きな違いだったかもしれない。

やはり壇上からの発信は、受け手に自然と聴く状況を作り出す。

他方、話し手と聞き手が同じ高さに居ると、話し手をよく見ようとすることで聞き手側には主体的に聴く姿勢が芽生えてくる。

聴きやすいのはありがたいけど、見易さへの配慮は相手の無意識の努力を損ねるのかもしれない。

また、人数以上に広いスペースは、小さなコロニーを生み出し小集団化していたようにも感じられた。

参加者全員を動かすことに長岡先生もちょっと苦労されたのではないかな。

集う人で言えば、今回のカフェゼミが丸善雄松堂さんのバックアップを受けた「知と学びの講座」の一環という位置づけだったせいか、オブザーバー風に見える人も居た。

これはいつもと違う。

また、学生に比べて社会人が目立った(気がした)のもいつもと違うと感じた原因かもしれない。

要するに、僕にとっては、仕事関連のセミナーに行くと見かける風景にやや近かったのだ。


では、こういった場の印象の違いが学びにどう影響を与えたのだろうか。

対話を行なったゼミ3年生、中国の大学に留学している学外生、そして今回のカフェゼミを企画したゼミ4年生の話を聞くにそれぞれに確かな学び(気づきとモヤモヤ)が起きていることがわかった。

結局、場の目的と学びがしっかりデザインされ、良質な投げかけと問いかけがあり、主たる参加者が自分事として向き合う限り、雰囲気はたいした問題でないようだ。

逆にいつもと雰囲気の違う場所は、学びの本質に向き合う機会を与えてくれる、そういう事なのだろう。


ステキな椅子

2017年10月19日木曜日

「エシカルはファッション」と「エシカルとファッション」 カフェゼミ@DNPプラザより

今晩は法政大学長岡ゼミのカフェゼミに参加した。

長岡先生、ゼミ生のみなさん、そして参加した社会人のみなさん、いつもありがとうございます。

さて、カフェゼミにはいつも色々な気づきや刺激があるのだけど、今回のテーマは「私たち世代のWORK SHIFT」で、イトバナシの伊達文香さんが「ソーシャルをビジネスにする」とはどう言うことなのか、ご自身の体験をもとに話を聞かせて頂いた。

冒頭で「エシカルファッション」の話が出たが、僕は以前にも「エシカルファッション」に関する講演を聞いたことがある。

エシカルファッションでおしゃれ、クリエイティブなライフスタイルを?

その時は、ソーシャルなテーマを軽く扱っている印象を受けた。

「エシカルファッション」って結局はトレンドワードなのかもしれない、とも考えたものだ。

一方、伊達さんの話は、途上国の職人が持つ素晴らしい刺繍の技術を世界に広めたい、職人の働くコミュニティの底上げをしたいと言うミッションと、お客様の人生の一部になれるような服作りと言うミッションを、社会を変えるシナリオと自分のシナリオを描きながら果たしていこうとしている。

そこには、何を誰にどう届けるのか具体的で、エシカルに内在される「ソーシャルであること」もこだわりを発信するためではなく、自分たちの行動原則としている姿からは軽さは微塵も感じられなかった。

だから、長岡先生の鋭いツッコミにも全く動揺することなく応えられるのだろう。


「ソーシャルをビジネスにする」と言う際に「ビジネス」も多様だから、軽いからダメで具体的なものはOKなのではない。

ファションにおいても、トレンドを重視するビジネススタイルがあれば、ソーシャルを意識したビジネススタイルもある。

このビジネススタイルの違いによって「エシカル」はいかようにも用いられるのだろう。

そして、「ソーシャル」自体、「エシカル」同様、ときにトレンドワードとして用いられているということを気づかせてくれたのが今日のカフェゼミだった。


グラレコ と あっちにルイ





勝手に納得と沸き立つ疑問 どっちがお得か

以前、会社が浅草にあった時、「どうして浅草に会社があるのですか?」という質問をたまに受けた。

会社の事業がおもちゃ問屋であれば、そのような質問は出ないのだろうけど、仕事内容と観光地、浅草というロケーションのミスマッチが問いを起こしたのだろう。

一方、会社が京橋に移ってからは、そのような質問を受けることはなくなった。

逆に、『あ、そうなんだ』的に納得感を持つ人も少なくない。

つまり、仕事内容は浅草的よりも京橋的なのだろう。

僕としては、「浅草」と言った時の相手の反応を観るのが好きだったのだけど、仕事をする上で京橋はこの上なく快適である。

もう浅草に戻りたくはない。

ところで、「学び」という観点に立った時、「そうだよね」という納得よりも「どうして?」という疑問の方が有益だ。

仕事の目的としては、浅草の方が叶っているのかもしれないね。

かつて一緒に仕事をした某有名企業を定年退職した方は、僕が「浅草」と言った時、嫌な顔をして、後から「格好良くないから言わない方がいい」とアドバイスをくれたことがあったけど、やはりその方とは仕事の中で大切にする価値観が異なっていた。

「学び」よりも「品格」を重んじる、そういう方には「納得感」の方が優先されるのだろう。

会社の場所を聞いて相手がどう感じているのかチェックして見るのも面白いよね。



浅草 懐かしい


2017年10月17日火曜日

知識発見と気づき どちらも大事なこと

僕たちは、新しい知識を発見することに忙しい。

最近は何でもデータとして集まるようになったのでデータから宝を探し出すことが大流行りだよね。

そしてデータから何かを作り出せるという、まるで錬金術のような空想を描く人も増えてしまった。

でもデータから探しだせるのはどこまでいってもデータだ。

欲しい宝があるのなら、宝たるデータを作らなくてはならない。

今、機械学習(巷ではAI、人工知能と呼ばれることが多いけど)で一番問題なのはどんなデータを学習させるかであって、機械が錬金術でないことは明らかだよね。

さて、何れにしてもビックデータと宝探しから日々、新しい知識が発見されている。

知識は、誰もがその利益を享受することができるものだ。

その一方で人によって活かせたり、活かせなかったりするものもある。

例えば与えられた知識や、自らの行動を通して得られた経験においても気づきのある人とそうでない人がいる。

なぜならば、気づきには、前提、タイミング、文脈が必要、とてもパーソナルで、しかも偶有性が高いからだ。


知識が皆の行動を導くものだとしたら、気づきはその人のみの行動を変えるチャンスだ。

そして、僕たちには知識も気づきも両方必要なんだよね。


みんなのもの、ぼくのもの






僕の中の孤立集落の活性化について考える

忘れてしまっているようなことをたまに思い出す。

今回思い出したのは、大学生の時のアルバイト経験だ。

詳しい経緯、時期はよく覚えていないのだけど、僕が大学生だったある時期、渋谷東急プラザのスポーツ用品売り場でシューズ類の販売をしたことがあった。

不思議なのは売った記憶が全くないのに、売り場に立っている記憶がなんとなくある。

この記憶に意味があるかと言えば何もない。

唯一、売り場の店員さんに仕事と関係ない話で声を掛けてもらったことが思い出なのだけど、売り場は暇でモチベーションも上がらなかったなぁ。


僕がこの記憶を呼び起こす引き金になったのは、先日、渋谷を訪れた時、東急プラザが跡形も無くなっていたのを見たことかもしれない。

おそらく僕の脳みそのシナプス結合の中で、シューズ販売アルバイトの記憶は孤立集落みたいにネットワークから切り離された部分でひっそりと生きているのだろう。

最近は、犬の写真ばかりになってしまい、あまり日々の写真が撮れていないけど、写真で日常を撮り溜めてパラパラ漫画のように再生すると、本流から切り離された記憶が鮮やかに蘇る。

そこでFBやインスタを考えて見ると今まで以上に日常が撮り溜められていることに気がつく。

それらが記憶を呼び起こす装置であると考えると脳内孤立集落の活性化が進みそうだ。

これからなんだか面白いことになりそうな気がするね。


これも撮り溜め

2017年10月15日日曜日

僕たちの物語り、あなたは「あれ?」という音を聴きましたか?

昔々、あるところで僕たちは物語りを描き始めた。
そして、生涯を閉じる時、その物語りは幕を下ろす。


僕たちが暮らす日々はあまりにも現実的過ぎて時に過酷で時に退屈だ。

そんな日々を思い返すときそこに物語が生まれる。

僕たちが描く僕たちの過去は事実じゃない。

その時に感じた欲求も感覚も思考も身体感覚も全て作り直したモノゴトになる。

ナラティブとは創作なのだ。

でも、この物語りは書き方次第で僕たちに新しい道や力を与えてくれる。

そして、物語りは日々、書き換えられていく。

昨日までの悲劇が喜劇に書き換えられた時、僕たちは大きな気づきと大きな学びを得る。

チャップリンは、「人生はクローズアップで見れば悲劇 ロングショットで見れば喜劇」と言ったけど、クローズアップしか見ていない人に気づきも学びもない。

それこそが悲劇だよね。

学習論で言えば、ロングショット=ダブルループ学習、認知科学ではメタ認知ということになるのだろうけど、シングルループ学習、単純な認知でいる限りそれは悲劇だ。

先日インタビューした人は、この転換を「あれ?」という感覚で表現していた。

それまでのちょっとした被害者意識が自分の問題なのだと気づく瞬間が「あれ?」。

この音が鳴った瞬間、僕たちは物語を書き換える。

生かされている存在から生きている存在へ、悲劇の主人公から喜劇の演出家へと自らの立場を変えて物語りを描き始めるのだ。

あなたは自分の人生を生きていますか?

「あれ?」という声を、音を、聞きましたか?


物語りを書き換えろ!

Rewrite your story!